名探偵コナン:星の維持者(プレザーバー)と明日への事件録   作:凜々

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第10話:生存の火花、あるいは日常の防壁

11月7日。その日は、秋の終わりを告げるような乾いた風が吹き抜ける、何の変哲もないはずの一日だった。

 

警視庁警備部機動隊、爆発物処理班に所属する萩原研二は、都内の高層マンション「浅井ビル」の20階にいた。目の前にあるのは、複雑に配線が絡み合った大規模な爆弾。本来なら防護服に身を包み、慎重に慎重を重ねるべき場面だが、彼は既に解体作業を一段落させ、窮屈な防護服を脱ぎ捨てていた。

 

「ふぅ……。あとはタイマーを止めるだけか」

 

萩原は、いつものように余裕を崩さない。階下では親友の松田陣平が痺れを切らして無線で怒鳴っているが、それすらも彼にとっては日常のBGMのようなものだった。一度は止まったタイマー。静寂が戻った室内で、萩原が煙草を一口吸おうとした、その時だった。

 

カチャリ、と背後のドアが開く音がした。

 

機動隊員が様子を見に来たのかと振り返った萩原は、その光景に言葉を失った。

 そこに立っていたのは、隊員ではない。短い藤色の髪を揺らし、大きな眼鏡の奥にどこか神秘的な、それでいてひどく心細げな瞳を宿した、十歳ほどの少女だった。

 

「……え、嘘だろ? なんで、こんなところに子供が……!」

 

萩原の絶叫に近い問いかけに、少女――マシュ・キリエライトは、不安そうに周囲を見渡した。彼女の記憶は、少し前まで通っていた公園で途切れている。

 

「……知らない男の人に、薬を嗅がされて。気づいたら、あそこのお部屋にいました。鍵が開いていたので、外に出たら……ここでした」

 

マシュの声は幼いながらも、どこか凛とした響きがあった。だが、その内容は衝撃的だった。

 この爆弾騒ぎで避難が進むビルの中で、別の凶悪な「誘拐事件」が同時進行していたのだ。萩原の背筋に冷たいものが走る。

 

「おい、冗談じゃねえぞ! 二十階に誘拐被害者の子供だ! 救助を優先する!」

 

萩原が無線に叫ぶと、現場のリーダーから即座に指示が飛んだ。「萩原、その子を連れてすぐに降りろ! 解体は後回しだ!」

 

「了解。――お嬢ちゃん、ごめんな。怖い思いさせたな」

 

萩原は優しくマシュの手を握った。防護服を脱いでいたことが、今は幸いした。機敏に動ける彼は、マシュを抱きかかえるようにして階段を駆け降りる。マシュは萩原の胸の中で、彼の鼓動を感じていた。

 

(この温かさ……いつか、どこかで……)

 

マシュの脳裏に、かつて「先輩」と呼んでいた誰かの、あるいは盾を掲げて誰かを守っていた自分自身の、遠い前世の記憶がうっすらと木霊する。今はもう、あの巨大な盾も、理を曲げる力も持たない普通の少女。けれど、自分を守ろうとするこの男の腕の熱さは、魂が覚えているものと同じだった。

 

十九階、十五階、十階……。

 足が悲鳴を上げるような勢いで降りていく中、マシュは萩原の首に回した手に力を込めた。

 

「お兄さん……」

「大丈夫だ。俺が必ず、下まで連れてってやるよ」

 

萩原は笑った。だが、その直後だった。

 犯人が逃走の末、焦燥に駆られて起爆スイッチを押したのだ。

 

――ドォォォォォン!!

 

衝撃波がビルを揺らした。爆発したのは二十階。ほんの数分前まで、萩原がいた場所だ。

 もし、マシュが部屋を抜け出して現れなければ。もし、彼女に話を聞くために解体を中断していなければ。萩原研二という男は、あの部屋で煙草を吹かしながら、一瞬で炎に包まれていたはずだった。

 

「っ……!!」

 

階段室にも瓦礫が降り注ぎ、爆風が二人を襲う。萩原は咄嗟にマシュを壁際に押し込み、自分の体で彼女を完全に覆い隠した。

 防護服を脱いでいた。本来なら致命傷になってもおかしくない。だが、奇跡が起きた。爆風の指向性が、ほんの数センチ、彼らを逸れたのだ。まるで、マシュの周りに目に見えない透明な盾でも展開されていたかのように。

 

数分後。

 埃に塗れながらも、萩原とマシュは一階のロビーへと辿り着いた。外では松田陣平が、半狂乱で突入しようとするのを隊員たちに押さえつけられていた。

 

「ハギ!! 研二!!」

「……おーおー、陣平ちゃん、そんなに泣くなよ」

 

萩原は、ふらつきながらもマシュを地面に下ろした。

 周囲には、通報を受けて駆けつけていた「カルデア」のメンバーたちの姿があった。楠木誠が、そして焦燥の表情を浮かべた燕誠也がマシュを見つける。

 

「マシュ! 無事か!」

「誠也さん……お父さん……」

 

マシュは駆け寄ってきた誠の胸に飛び込んだ。燕誠也は犯人を追い詰めていたが、爆発の混乱に乗じて逃げられたことを悔しそうに拳を握った。だが、今はマシュが無事であることが何よりだった。

 

萩原は、自分の無傷の腕を見つめ、それからマシュの背中を静かに見つめた。

 防護服を着ていなかった。もし一人だったら、今頃自分は瓦礫の山の下だった。

 

「……なぁ、お嬢ちゃん」

 

呼びかけられて、マシュが振り向く。

 萩原は、膝をついてマシュと視線を合わせると、照れくさそうに頭を掻いた。

 

「ありがとな。お嬢ちゃんが現れてくれなきゃ、俺、今頃お星様になってたところだ。……命の恩人さんだね」

 

マシュは少し驚いたように瞬きをした。それから、どこか遠い時代から受け継がれたような、慈愛に満ちた笑みを浮かべる。

 

「いいえ。……私を助けてくれたのは、お兄さんです。……ありがとうございました」

 

その言葉は、警察官としての萩原研二に、これまでにない誇りと、「生きていたい」という強い執着を植え付けた。

 

離れた場所で、誠が萩原に軽く会釈をする。

「娘を助けていただき、感謝します。……警視庁の萩原さん、でしたね。この御礼は、いずれ必ず」

 

この日、一つの「確定した死」が消滅した。

 前世の記憶をうっすらと宿した少女の出現。それが、名探偵コナンの運命の歯車を、大きく、そして優しく書き換えた瞬間だった。

 

夕闇が迫る都心。

 萩原研二は、親友の松田に殴られ、説教されながらも、ずっと不思議な感覚に包まれていた。あの少女に触れた時、一瞬だけ見えた真っ白な盾。

 

「……運が良かったんだな、俺」

「バカ野郎。次は絶対、防護服脱ぐんじゃねえぞ」

 

二人の若き警察官の後ろ姿を見送りながら、マシュは誠の手を握りしめた。

「お父さん。あのお兄さんの風、とても温かかったです」

「ああ。……あの方は、生きるべき人だったんだよ、マシュ」

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