名探偵コナン:星の維持者(プレザーバー)と明日への事件録 作:凜々
信州の秋は、鋭く澄んだ空気を運んでくる。
楠木紬は、パッチワークのように色づいた長野の山々を眺めながら、手元の古い資料に目を落としていた。一年前、都内での爆弾事件でマシュが無事に保護されてから、カルデアの周囲には穏やかな時間が流れている。紬自身も大学を卒業し、今はフリーの歴史研究家として、各地の祭事や伝承を紐解く日々を送っていた。
「お父さん、見て。あそこの馬場が、明日の神事の舞台になる場所よ」
「ふむ、長野の流鏑馬か。……亮介、君の目から見てどうだい?」
誠の問いに、隣を歩く周亮介(周瑜)が羽扇を揺らした。
「東洋の弓馬の術、その様式美には興味があります。……ですが誠、あそこの馬小屋に、歴史の整合性を根底から覆すような『何か』がいませんか?」
亮介が指差した先――村の小さな馬小屋には、明らかに周囲の農耕馬とは一線を画す、燃えるような赤毛の巨躯が収まっていた。
「……フンッ! 案ずるな若き軍師よ。拙者はこの村の誉れ高き射手、甲斐という男の魂に共鳴し、一時的にこの地を駆ける契約を交わしたに過ぎぬ!」
いななきと共に脳内に響く尊大な声。どう見てもサーヴァントそのものである赤兎馬が、悠然と藁を食んでいた。
「……見なかったことにしましょう、サンソン」
「ええ。フランスの騎士道にも、あのような……人面馬の類はおりませんでしたから」
困惑する亮介と、冷静に現実を拒絶するサンソンの横で、紬だけが「赤兎馬さん、よろしくお願いしますね」と微笑んでいた。
その夜。宿で休息を取っていた一行は、村の静寂を切り裂く「パン!」という乾いた音を耳にした。
「……銃声?」
誠と亮介が窓の外を見据える。
一行が村の外れ、険しい崖が続く山道へ駆けつけると、崖から突き落とされた瞬間だった。
「周瑜! 犯人の捕縛を。数が多すぎる、手抜かりなく!」
「御意。亮介の名の通り、火を以て制しましょう」
亮介が闇へと消えるのと同時に、茂みからもう一人の大男が現れた。
「……カカカ! 我が庭で騒がしい不届き者がおるな。周の軍師殿、加勢しようぞ」
豪胆に笑うその男は、この地に現界していた武田晴信(信玄)。二人の名将が並び立った瞬間、犯人たちの運命は「蹂躙」へと書き換えられた。
「紬は警察と救急へ連絡を。その後は離れていろ、いいな!」
誠の厳命を受け、紬は即座にスマートフォンを取り出した。
崖下では、馬と共に転落した甲斐巡査が、意識を失いかけていた。本来の歴史では、彼はここで誰にも気づかれず、数日間の放置の末に「餓死」という無念の最期を遂げるはずだった。だが――。
「……死なせはしない。私の技術は、命を繋ぐためにある」
サンソンが崖を滑り降り、即座に応急処置を開始する。誠が空間を「固定」し、甲斐を圧迫していた愛馬の自重を逃がす。救急車が到着したとき、甲斐は苦しみながらも、誠の手を握って「……助け、て……くれて……」と、はっきりと意思を伝えた。
現場に長野県警のパトカーが到着した。指揮を執るのは大和勘助、そして、鋭い眼光を持つ警部・諸伏高明。
指示通り、離れた場所で毅然と待機していた紬のもとへ、一人の男が歩み寄ってきた。
振り返った紬の瞳に、月光を纏った高明の姿が映る。
二人の視線が交差した瞬間、喧騒が遠のき、世界には二人だけが取り残されたような静寂が訪れた。
「……通報者の楠木さんですね。迅速かつ的確な通報、感謝します」
高明の声は、古い管楽器のように深く、澄んだ響きを持っていた。
「彼――甲斐巡査と愛馬は、実に『幸運』だった。……貴女のような賢明な方が、この時刻(とき)に、この場所に居合わせたという奇跡。それこそが、今日この地で起きた最大の僥倖であると、私は確信していますよ」
それは、単なる事務的な謝辞ではなかった。相手の知性と、その奥にある魂の気高さを一瞥で見抜いた男による、剥き出しの賞賛。
紬は、胸の奥が熱くなるのを感じた。英霊たちの強烈な光に当てられて育った彼女が、初めて一人の「人間」の知性に、抗いようもなく惹きつけられていた。
「……いえ。私は、あるべき形に歴史を繋ぎたかっただけですから」
紬が控えめに答えると、高明は驚いたように一瞬目を見開き、そして美しく、満足げに微笑んだ。
「歴史、ですか。……温故知新。過去を紐解く者が、今この瞬間の命をも救ったわけだ。ふむ……『君子、危うきに近寄らず』と言いますが、君子自らが危うきを救うとは、恐れ入った」
高明は手帳を仕舞い、優雅に一礼した。
「楠木紬さん。貴女という存在に、信濃の夜風も驚いていることでしょう。……いずれまた、ゆっくりとお話を伺いたいものです。私という男に、その資格があるならば」
去っていく高明の背中を、紬はずっと見つめていた。
闇の中から戻ってきた亮介が、どこか面白くなさそうに、けれど納得したように羽扇を叩く。
「……おやおや、お父さんに内緒で、なかなかに油断のならぬ『知』と見つめ合っていましたね。……私の知る三国にも、あのような男はいませんでしたよ、紬」
ーーーーーーーー
長野での事件から数週間後。横浜の楠木家には、端正な筆致で記された一通の手紙が届いていた。
差出人は、長野県警の諸伏高明。
紬が自室のデスクで封を切ると、そこには事務的な報告を装いつつも、深い教養を感じさせる流麗な文章が綴られていた。
『先日は、信濃の歴史に新たな一ページを……それも、惨劇ではなく救済という形での記述を助けていただき、改めて感謝いたします。
さて、楠木紬さん。歴史研究家である貴女の知見を、是非お借りしたい事案があり、筆を執りました。
現在、私が担当している未解決事件の現場付近から、少々特殊な意匠の古い貨幣が発見されまして。地元の学芸員も首を傾げる代物なのですが、あの日、貴女の瞳に宿っていた「真実を射抜く光」を思い出し、真っ先に貴女の顔が浮かんだ次第です』
「……真っ先に、だなんて」
紬は手紙を胸に抱き、ふっと頬を緩めた。
普通の捜査官なら、専門の鑑定機関に回すはずだ。それをあえて自分に問うてくる。それは彼なりの、再会のための「口実」であることに、紬は気づかないほど鈍感ではなかった。
「おや。お嬢様、顔が赤いですよ。信州の賢者殿から、また難題を押し付けられましたか?」
背後から声をかけてきたのは、ティーセットを持った周亮介だった。彼は紬の手元にある手紙の署名を見るなり、羽扇で口元を隠して目を細める。
「亮介さん。諸伏さんが、事件で見つかった古銭のルーツを教えてほしいって。これ、もしかしたら……」
「ふむ。三国時代の意匠に近い、と? ……やれやれ。あの男、歴史の断片を餌に、見事に貴女という『知』を釣り上げようとしている。なかなかに策士ですね、あの孔明殿は」
亮介は「お父さんには秘密にしておきましょう」と悪戯っぽく笑い、紬の傍らに紅茶を置いた。
紬はさっそく、手紙に同封されていた写真を見つめ、文献の山に手を伸ばす。
「返信、書かなくちゃ。……彼の期待に、ちゃんと応えたいから」
窓の外には、横浜の夜景が広がっている。
遠く離れた信州の地で、同じ月を見上げているであろう「賢者」を思い、紬はペンを走らせ始めた。
それは歴史研究家としての職務であり――同時に、一人の女性として芽生えた、名もなき感情の序章でもあった。
紬と高明恋人になる瞬間を・・・・・
信州の雪が舞い始めた夕暮れ、千曲川を望む高台の公園で、二人の距離はかつてないほど近づいていました。
これまで「古銭の鑑定」や「未解決事件の歴史的背景」という知的な盾を介して交わしてきた言葉が、ふと途切れます。静寂を埋めるように、諸伏高明が紬の瞳を真っ直ぐに見つめ、その低い声を夜風に乗せました。
「『鳳凰、高きに飛ばざれば、その志を知らず』……。紬さん、貴女という深淵に触れるたび、私は己の論理が揺らぐのを感じる。これはもはや、知的好奇心などという言葉で片付けられるものではないようだ」
高明が、迷いのない所作で紬の凍えた手を包み込みます。紬は、その掌の熱さに鼓動を跳ねさせながら、彼を見上げました。
「……私も、同じです。諸伏さんの言葉の先に、いつも私の知らない『正解』がある気がして。それを、もっと近くで見ていたいんです」
「よかろう。……ならば、この先の頁(ページ)は、共に綴ることにしましょう」
知性の共鳴が、確かな体温を伴う情愛へと変わった瞬間。
雪の結晶が二人の肩に落ちる中、信州の孔明は、最愛の「賢者」をそっとその腕に引き寄せたのでした。