名探偵コナン:星の維持者(プレザーバー)と明日への事件録 作:凜々
名古屋を中心とした中部地方において、『カルデア・グループ』の名はもはや一企業の枠を超え、一つの社会基盤となっていた。その頂点に立つ者たちにとって、経済の掌握など既に終わった仕事に過ぎない。今の彼らにとっての最優先事項は、ただ一つ。
一人の少女、紬の未来である。
「――聖白大学。……それが、君の希望か」
カルデア・タワー最上階。楠木誠は、娘が提出した優秀作品賞のメダルと、厚みのある大学パンフレットを交互に見て、重い溜息をついた。
「はい、パパ。私の自由論文、ここの史学科の教授が講評で褒めてくれたの。ここは日本で唯一、神話時代の法典の写本を収蔵しているから」
高校二年生の終わりを迎えようとしている紬の瞳には、かつての英雄たちが歩んだ軌跡を学問として解明しようとする、強い意志が宿っていた。
「……神奈川か。名古屋から通うのは、物理的に不可能だな」
「一人暮らしなどもってのほかだ」
誠の言葉に、隣で腕を組んでいた守(エミヤ)が即座に追撃する。
「自炊を怠れば栄養バランスは一週間で崩壊する。防犯結界の定期メンテナンスも私なしで行えるとは思えん。……よし、彰。兼ねてより保留にしていた『関東進出計画』を今すぐ実行しろ。横浜に支部を設立し、紬の通学路の全てを監視下に――」
「ちょっと待ちなさい、あんたたち!」
執務室の扉を勢いよく開けて入ってきたのは、エプロン姿の門田幸恵(ブーディカ)だった。彼女は腰に手を当て、並み居る英霊たちを鋭い眼光で射抜く。
「もうすぐ大学生になる娘に対して、過保護が過ぎるわよ! 何が監視下よ。そんなんじゃあの子、大学で友達もできないわ」
「……だが、幸恵。外の世界は雑種どもの悪意に満ちている。王の庭を出るというなら相応の備えを――」
「彰さんも黙って! オープンキャンパスに黒塗りの高級車を並べて行くなんて、そんなのただの嫌がらせよ! パパと、あと付いていってももう一人。それ以上は私が許しませんからね!」
名古屋の聖母の一喝により、結局、護衛は最小限に絞られることとなった。
数日後。横浜の潮風が吹く『聖白大学』のキャンパス。
誠は黒のジャケットにチノパンという落ち着いた装いで、娘の数歩後ろを歩いていた。同行を許されたのは、最も「目立たない(と本人は主張する)」守のみ。二人は極力オーラを消し、どこにでもいる「少し保護者同伴なだけの受験生」を装っていた。
「わあ……図書館、すごい。本物の写本が展示されてる……」
紬が目を輝かせながら史学科の展示ブースに向かっていた、その時だった。
「――そこの彼女、危ない!」
鋭い声と同時に、横から疾風のような勢いで誰かが飛び出してきた。
紬の目の前を、大学の設営作業中だったのか、積み上げられていたパネルが強風にあおられて崩れ落ちる。
衝突する寸前、紬の腕を強く引いて自分の体の方へ引き寄せたのは、凛とした空気を纏う一人の少女だった。
「大丈夫? 怪我はない?」
紬を抱き止めたまま、その少女が問いかける。長い髪をなびかせ、大人顔負けの鋭くも美しい眼差し。紬は驚きで目を丸くしながらも、コクコクと頷いた。
「あ、ありがとうございます……助かりました」
「いいえ。……君、そのパンフレット。史学科志望?」
「はい。あなたは……」
「私は萩原千速。法学部を志望してる。……君の論文、廊下に掲示されてたのを見たよ。面白かった。あんな視点で神話を語れる人間が同期にいたら、退屈しなさそうだって思ってね」
千速はそう言って、悪戯っぽく、けれど誠実な笑みを浮かべた。
その光景を数メートル後ろで見ていた誠は、咄嗟に飛び出そうとした足を止めた。
「……どうやら、杞憂だったようだな」
隣で守が、静かに告げる。
「あの子はもう、自分の力で新しい絆を引き寄せる強さを持っている。……認めざるを得ないな。彼女の旅立ちは、正しい」
誠は、娘と千速が連絡先を交換し、楽しげに話し始める様子を眩しそうに見つめていた。
名古屋という完璧な聖域を離れ、運命の渦巻くこの横浜で、娘は新しい物語を書き始めようとしている。そして自分もまた、この街に事務所の看板を掲げることになるだろう。
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後に神奈川県警の「風の女神」と呼ばれる少女と、カルデアの令嬢。
二人の運命的な出会いは、潮風に乗って、より速く、より複雑に回り始めたのである。