2026年、夏の穏やかな午後。
イオン東雲店。
久々の休暇を利用して買い物を終えた夏実は、大きな紙袋を両手に提げて満足げに息を吐いた。
「久々の休暇で買い物終わったー!」
美幸は自分の袋を軽く持ち直しながら、微笑んだ。
「これで予定してた買い物は大体終わったわね。夏実、歩き疲れたしソファーで休憩を……」
その時、近くのベンチから重い溜息が聞こえてきた。
「はぁ……」
夏実はピクッと耳を動かし、目を細めた。
「今のは、リュシー……だよね?」
美幸も視線を向け、静かに言った。
「何か悩んでいる様子だけど……」
夏実は興味津々で近づきながら、からかうように言った。
「珍しいわね~。あのリュシーが悩むだなんて。いつも『テメェらなんかアウト・オブ・眼中!頼まれたってバトルはしねえよ!』みたいな態度を取ってるのに」
美幸は苦笑いを浮かべた。
「夏実、頭文字Dの見過ぎよ」
リュシーはベンチに深く腰を下ろしたまま、ぼんやりと床を見つめていた。
水色のショートヘアが少し乱れ、赤い瞳にいつもの鋭さがなかった。
夏実が声をかけた。
「リュシー?」
リュシーはゆっくり顔を上げ、虚ろな目で二人を見た。
「あぁ……?」
夏実はびっくりして後ずさった。
「うわぁあっ! びっくりした……」
美幸は心配そうに近づいた。
「どうしたの? そんな暗い顔して」
リュシーは小さく息を吐き、視線を逸らした。
「美幸と夏実か……。別に。何でもないよ」
夏実は腕を組み、じっとリュシーの顔を覗き込んだ。
「何でもないようには見えないけど……あれ? ドロテアさんと一緒じゃないの? 珍しいわねぇ」
リュシーは少し声を低くして呟いた。
「お嬢か……」
夏実はさらに身を乗り出した。
「え? もしかして……ストライク男にエボⅡのタイヤをパンクさせられたとか?」
リュシーは弱々しく頷いた。
「……うん、まあ……」
夏実は拳を握りしめた。
「あの野郎……!」
美幸は穏やかに、しかし真剣に聞いた。
「本当にどうしたの?」
リュシーはしばらく迷った後、諦めたように肩を落とした。
「……お嬢は、今、日本にはいない。ロンドンにある実家に帰ってる」
美幸は少し驚いた様子で聞き返した。
「え? 実家に?」
リュシーはさらに視線を落とした。
「…………」
夏実はすぐに提案した。
「と、とりあえず詳しい話を聞かせてくれない? コメダ珈琲で。ね?」
リュシーはもう一度深い溜息をつき、ゆっくり立ち上がった。
「……ふぅ。まあ、たまにはあんたとお茶するのも気晴らしにいいかもな……」
コメダ珈琲店
窓際の席に座った三人は、ホットコーヒーとシロノワールが運ばれてくるのを待った。
美幸はストレートに切り出した。
「さて、と……単刀直入に聞くけど、ドロテアさんと喧嘩したの?」
リュシーは目を丸くした。
「え? あたしが? お嬢と?」
美幸は静かに微笑んだ。
「やっぱりか……」
リュシーはカップを両手で包み込みながら、ゆっくりと話し始めた。
「いや、そうじゃないんだ。あんた達は知ってるだろうがお嬢はイギリスの貴族の生まれだろう? しかもただの貴族じゃない。名門カークランド侯爵家の一人娘だ」
美幸は頷いた。
「そうだったわね……」
リュシーは視線を落としたまま続けた。
「あたしらのところでは女子でも家督を継ぐことが出来るから、お嬢はこのままいけば次期当主ってことになる」
夏実は目を輝かせた。
「次期当主……」
リュシーは苦い笑みを浮かべた。
「で、そんな次期当主である立場のお嬢には貴族として、走り屋の一人としてやるべき仕事や手続きが山のようにあるんだよ」
夏実は感心したように言った。
「ほえー、貴族って、あたし達が思ってた以上に忙しいんだ。てっきり社交パーティーに呼ばれて貴公子と踊って食ってるかと思ったわ」
美幸は軽くため息をついた。
「夏実、イギリスの貴族制度はとっくに廃れてて今は普通の人間と同じ立場よ」
リュシーはカップを握る手に力を込めた。
「お嬢は中世ヨーロッパのお姫様かよ……まあ、これから忙しくなるお嬢の助けになろうとあたしも色々と準備してたんだが……お嬢自身の口からハッキリ言われちまったんだ。あたしを一緒に連れて行くことは出来ない。こっちで留守番して欲しいってな……」
美幸は静かに頷いた。
「そう、だったのね……」
リュシーは声を少し震わせた。
「今までずっと、お嬢と行動してきた。それなのに、一緒に行くんじゃなくて、留守番して欲しいだなんて……もしかして、あたしじゃお嬢を支えるのは力不足なのかなって……」
夏実は優しくリュシーの手を握った。
「リュシー……」
美幸は穏やかだが力強い声で言った。
「……流石にそれは考えすぎよ。そんなことはないわ」
リュシーは自嘲するように笑った。
「あたしだって分かってる。お嬢はそんなことを思う人じゃない。それなのに……頭では分かってても、心がどうしても納得してくれなくてさ。ははは、あたしらしくないだろ? こんな風に悩んでるなんてさ」
夏実は真剣な顔で言った。
「……」
リュシーはカップを置いて、弱々しく続けた。
「悪いな。こんな情けないところ見せちまって。あんたも呆れただろ? 夏実」
夏実は首を大きく横に振った。
「そんなわけないわよ」
リュシーは少し照れくさそうに笑った。
「はは、気を遣わせちまったかな……いや、こんなんじゃダメだよな。弱音を吐いて落ち込むなんて、お嬢を支えるメイドとして失格だ」
美幸は静かに、しかし温かく言った。
「……自分で失格だなんて言わないで。リュシーさんがしっかりメイドとして務めているのはみんな知ってるわ」
夏実はリュシーの肩を軽く叩いた。
「言いたいことあるならあたし達が聞くよ! それで楽になれるならいくらでも吐いちゃいなさい」
リュシーは二人を見て、ようやく少し肩の力を抜いた。
「あんたら……じゃあ、もう少し話を聞いて貰っていいか?」
夏実は力強く頷いた。
「どんと言いなさい!」
リュシーは小さく笑い、続きを話し始めた。
「あのストライク男って野郎、あたしのエボⅡのタイヤを傷付けてパンクしやがって……駐車禁止の標識はちゃんと見たんだ。それが運悪く停めてた場所が駐禁エリアで……はは、あたしのエボⅡが……」
美幸は静かに頷いた。
「多分、それが原因だと思うわ。あの人、本当に悪い事した人間しか『制裁』しないからね」
リュシーは肩を落とした。
「はぁ……タイヤマネジメント、どんだけ時間かかったと思ってんだ。また買い換えか……」
イオン東雲店近くのコメダ珈琲は、今日も三人の静かな会話で少しだけ温かい空気に包まれていた。
リュシーの心の重荷が、ほんの少しだけ軽くなった午後だった。
コメダ珈琲の落ち着いた店内。
リュシーはコーヒーカップを両手で包み込みながら、ふと視線を上げた。
美幸と夏実が対面に座り、彼女の話をじっと聞いている。
リュシーは少し声を低くして言った。
「ストライク男って、昔からあんな感じだったのか?いつも正義感丸出しで暴走してるイメージしか思い浮かばないが……過去に何か事件とかあったのか?」
美幸は眼鏡を軽く押し上げ、静かに頷いた。
「ええ……ストライク男のことは、私たちも長年見てきたわ。あの人、元々はただの謎のコスプレ男だったんだけど……」
夏実はフォークでシロノワールを突きながら、懐かしそうに笑った。
「最初の頃は本当に意味不明だったよね。野球のユニフォームにマント、マスク。突然現れて、ボールを投げて悪人を倒したり、女性を助けたり……でも、助けた後の破壊が凄くて、毎回被害が拡大するのよ!」
リュシーは赤い瞳を細めた。
「はは……それで『正義の味方』気取りか。あたしが知ってる限りでも、エボⅡのタイヤをパンクさせられたし……他にも何かヤバい事件あったのか?」
美幸はコーヒーを一口飲んでから、静かに語り始めた。
「一番有名なのは、墨東署周辺で起きた『原付おばさん事件』ね。ストライク男が交通課と捜査課の野球対決に乱入して、原付おばさんの特売品をめちゃくちゃに壊したの。おばさんが激怒してストライク男を原付で追いかけ回して……結局、全部弁償させられて、特攻するおばさんに連れていかれたわ」
夏実は大笑いしながら続けた。
「他にも、切り裂き魔から女性を守って重傷負ったり、幼い女の子を命がけで庇ったり……やる時はやるんだけど、やり過ぎて周りに迷惑かけるパターンが多かったのよね。愛車はハーレーダビッドソンで、時々ビーチバレー男やサンタクロース男に変身するし……正体は今も不明。結婚してる描写はあるけど、素顔は一度も見たことないわ」
リュシーは腕を組み、感心したように頷いた。
「へえ……ただの馬鹿じゃなかったんだな。でも、結局は暴走しすぎて迷惑かけるタイプか。あたしのエボⅡのタイヤも、そんな正義感の犠牲者ってわけか……」
美幸は優しく微笑んだ。
「でも、根は悪い人じゃないのよ。あの人なりの正義を貫いてるだけ。ただ、その正義がちょっと……極端すぎるのよね」
夏実はフォークを振りながら笑った。
「極端すぎて、毎回私たちの出番を奪っていくんだよね!『ホームラン女! いつか決着をつけるぞ!』って叫びながら逃げていくの、定番だし」
リュシーは小さく笑い、コーヒーを一口飲んだ。
「はは……なんか、ちょっとだけ納得した。あいつ、ただの迷惑野郎じゃなくて、自分の正義に真剣すぎる馬鹿なんだな」
美幸は静かに頷いた。
「ええ。だからこそ、時々は味方にもなるのよ。……でも、タイヤは本当に勘弁してほしいわ」
三人は顔を見合わせて、思わず笑った。
コメダ珈琲の柔らかな照明の下、リュシーの心の重荷が少しだけ軽くなったような午後だった。
夏実は最後ににやりと笑って言った。
「次にストライク男が現れたら、一緒にボールで返り討ちにしましょう、リュシー!」
リュシーは赤い瞳を細め、珍しく楽しげに頷いた。
「……ああ、いいな。それも悪くない」
リュシーはコーヒーカップを置くと、少し声を落として続けた。
「昨日、お嬢のエボⅠが原付おばさんに轢かれそうになって、避けたのは良いがガードレールにぶつかってフロントランプが割れちまった……お嬢がイギリスに帰ったのも、エボⅠのパーツ調達だ。あの車種は日本では殆ど見かけられない。お嬢の他に走ってるドライバーは恐らく愛着が湧いたオーナーさんだろう」
夏実はフォークを止めて、感心したように頷いた。
「そっかぁ……日本では純正品がもうないんだよね……」
リュシーはため息をつきながら言った。
「ああ、修理代も旅費含めて莫大だから維持費だって馬鹿にならねえ。それでも持ってる人は経済的に余裕がある人か、元々金持ちだったオーナーさんだ」
夏実は明るく提案した。
「通販で買えばいいじゃないの?」
リュシーは苦笑いを浮かべ、首を横に振った。
「通販? 確かに揃えてるけど、最近中華製のAE86スプリンタートレノのボディ売ってただろ?アメリカの走り屋系YouTuberが買ってたんだけど、そのままの状態じゃパーツが引っ付かないらしい。配線の穴の位置はバラバラ。エンジンルームも狭いし、適当に接合した後がチラホラあったらしい」
夏実は目を丸くした。
「えー! それじゃ意味ないじゃん!本物そっくりなのに、肝心のところが合わないなんて……」
リュシーは肩を落とし、赤い瞳を伏せた。
「だからお嬢も本気で本国に帰って、純正パーツを探してるんだ。エボⅠはもう希少車種だから、簡単に見つかるものじゃない。……あたしも一緒に付いていきたかったのに、『留守番してて』って言われちまってさ」
美幸は静かにコーヒーを一口飲み、優しく言った。
「ドロテアさんも、リュシーさんのことをちゃんと信頼してるからこそ、留守を任せたんじゃないかしら?パーツ探しは一人で動いた方が効率いいって判断したのかもしれないわ」
夏実はフォークでシロノワールを突きながら、励ますように言った。
「そうだよ! リュシーちゃんが日本に残って、こっちの拠点を守ってるってのも大事だろ?お嬢さんが帰ってきたときに、『ただいま』って言える場所をちゃんと用意しておくのも、メイドの仕事だよ!」
リュシーは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。
「……あんたら、慰め上手いな。まあ、確かに留守番も大事だ。お嬢が帰ってきたときに、エボⅡをピカピカにしておかないとな……」
三人は同時に小さく笑った。
コメダ珈琲の柔らかな照明の下、リュシーの心の澱が少しずつ溶けていくような午後だった。
夏実は最後ににやりと笑って言った。
「なんなら、ストライク男がまた現れたら、今度は一緒にタイヤ守ろう!」
リュシーは赤い瞳を細め、珍しく楽しげに頷いた。
「……ああ、いいな。それも悪くない」
イオン東雲店の近くで三人の会話が今日も穏やかに、しかし温かく続いていった。
コメダ珈琲店から出た三人は、イオン東雲店の立体駐車場に向かって歩いていた。
リュシーは少し照れくさそうに、赤い瞳を逸らしながら言った。
「……色々と愚痴を聞かせちまって、悪かったな」
美幸は優しく微笑み、静かに答えた。
「いや、話してくれて嬉しかったわ」
リュシーは小さく笑い、いつもの毒舌を少しだけ混ぜて返した。
「ふふっ、キザな事言いやがって」
美幸は眼鏡の奥で目を細め、軽く肩をすくめた。
「あら? そう見えるかしら」
リュシーは立ち止まり、二人に向き直った。
水色のショートヘアが夕方の風に軽く揺れた。
「さて、そろそろ戻らないとな。あんまり遅いと、ミリアム達が心配するし。時間取らせちまってすまない。でも、あたしの話に付き合ってくれて、嬉しかったよ。ありがとな」
美幸は穏やかに頷いた。
「ええ、じゃあまた明日ね」
夏実はリュシーの肩を軽く叩き、明るく言った。
「いつでも愚痴吐きに来いよ! あたし達、いつでも聞くからな!」
リュシーは小さく笑って手を振り、駐車場出口に向かって歩き始めた。
その時、夏実はふと思い出したように美幸に声をかけた。
「美幸~、ヨタハチのタイヤ、一応見た方がいいんじゃない?」
美幸は駐車場の奥に停めてある自分の愛車に視線を移し、静かに頷いた。
「そうね。スポーツ800も希少車になってしまったから定期的にメンテしないとね」
三人は立体駐車場のスロープを上り、美幸の青いスポーツ800(ヨタハチ)のところへ向かった。
車体は綺麗に磨かれ、丸いヘッドライトが夕陽を柔らかく反射している。
しかし、左リアタイヤの空気圧が少し低いのが目についた。
美幸はしゃがみ込んでタイヤを軽く叩き、ため息をついた。
「やっぱり……昨日から少し柔らかかったわ。最近、巡回距離が増えたからね。交換時期が近づいてるかも」
夏実は車体の横に立ち、ボンネットを優しく撫でた。
「この子ももう古株だもんね。でも、まだまだ現役で走れるよ! 美幸の相棒だもん」
リュシーは少し離れたところから青いボディを眺め、感心したように言った。
「へえ……スポーツ800か。軽くて可愛い車だな。お前らも、希少車を大事に乗ってるんだな」
美幸は立ち上がり、微笑んだ。
「ええ。この子も、トゥデイと同じくらい大切な相棒よ。明日、ちゃんと点検に出さないと」
夏実はリュシーに笑いかけた。
「リュシーちゃんも、エボⅡのタイヤ、ちゃんと直してね!ストライク男の次なる被害者にならないように!」
リュシーは赤い瞳を細め、軽く笑った。
「ああ、任せとけ。次に会ったら、ちゃんと礼を言ってやるよ……ボールでな」
三人は駐車場で少し笑い合い、それぞれの車に向かった。
青いスポーツ800のエンジンが静かに目覚め、美幸のヨタハチとリュシーのエボⅡが夕陽に染まる立体駐車場を後にした。
2026年の夏の午後、墨東署の面々とピクシス・マスールの日常は小さな心配事と温かい絆の中で静かに、しかし確実に続いていった。
フルスロットルで、そして優しく——明日も、また。