2026年、夏の穏やかな休日。
イトーヨーカドー 曳舟店近くの駐車場。
中嶋剣はヤマハ・V-MAXにカーゴバッグを括りつけ、日用品の買い物を終えてエンジンをかけようとしたその時、iPhone16が振動した。
画面に表示された名前を見て、中嶋は少し意外そうな顔をした。
「もしもし」
《あの……お休みの日に申し訳ありません》
穏やかで上品な声。
ドロテアだった。
中嶋はヘルメットを片手に持ち、軽く笑った。
「ドロテアか。イギリスでエボⅠのパーツを調達しに行ったってリュシーから聞いたぞ」《少々、ご相談がありまして……今ってお時間の方は如何でしょうか?》
中嶋は迷わず答えた。
「ああ、構わないぞ。俺も相談があるよ……いいかな?……にしても、珍しいな。ドロテアから相談なんて」
《勿論ですわ。えっと……》
中嶋はV-MAXのシートに腰を下ろしながら提案した。
「良かったら直接会って話すか?」
《いいんですか? そんな拘束するつもりは……》
「ははは、大した用事もないし気にしなくて良いよ。小早川と辻本は通常勤務だ。1時間後で上野広小路のコメダ珈琲はどうだ?」
《それでしたら……お願いしても宜しいでしょうか?》
「OKだ。じゃあ、1時間後な」
1時間後。
上野広小路・コメダ珈琲。
窓際の席で待っていると、クイーンズシルバーのエボⅠを停めたドロテアが、優雅に店内に入ってきた。
今日は少し緊張しているのか、いつもの気品の中にどこかそわそわした様子が見えた。
ドロテアは中嶋の前に座り、丁寧に頭を下げた。
「わざわざお時間を割いて頂き、ありがとうございます」
中嶋はコーヒーを一口飲みながら、気さくに笑った。
「気にするな。まあ、お前と話すのは殆どなかったからな。ははは」
ドロテアは少し視線を落とし、指先でカップの縁をなぞった。
「お気遣い、感謝します。………」
中嶋は彼女の様子を見て、軽く聞いた。
「どうした? そわそわして……落ち着かない様子だが……まさかエボⅠのパーツが純正ではなく中華製だったとショック受けてるのか?ハチロクのパチモン車体の件で自動車界隈は荒れてしまったからな……」
ドロテアは慌てて首を振った。
「え? 落ち着きなく見えますか? 恥ずかしい限りです…あとパーツは純正でしたわよ」
中嶋は安堵したように頷いた。
「ああ……そっか。よかったな」
ドロテアは少し間を置いてから、静かに本題を切り出した。
「……カークランド家として、いつも堂々としていなくてはなりませんのに……その、実は少し緊張しておりまして……ひとりでコメダ珈琲に来ることはあまりないので」
中嶋は軽く笑った。
「じゃあやっぱりスターバックスで飲むのか?」
ドロテアは少し困ったように微笑んだ。
「うーん、そこは偶に行きますわ」
中嶋はコーヒーをもう一口飲んでから聞いた。
「そういえばピクシス・マスールのメイド達やリュシーはお留守番か?」
ドロテアは小さく頷いた。
「はい、でも一応リュシーにはあなたと待ち合わせしている事を、書き置きで告げています。ただ……詳細は話しておりません」
中嶋は合点がいった様子で頷いた。
「その相談の内容はリュシー達には話してないのか?」
ドロテアは視線を少し落とした。
「みんなの前で迷い、思い悩む頼りない姿を、あまり見せたくないので……」
中嶋は内心で(それで俺を頼ってくれたのか………なんだか、光栄だな)と思いながら、穏やかに促した。
「で、その相談内容とはなんだ?」
ドロテアは少し迷った後、静かに語り始めた。
「………あなたもご存知の通り、わたくしは、カークランド家……貴族の家で産まれました。そしていずれはわたくしが、家督を継ぐことになります。それ自体は良いのですが……恥ずかしながら今のわたくしには、家名を継ぐ者として、貴族として示すべき実績がないのです」
中嶋は真剣に聞きながら言った。
「実績……か。既にロンドン最強と誇れるピクシス・マスールのリーダーで、一人の走り屋じゃないか。それって実績じゃないのか」
ドロテアは小さく首を振った。
「いえ、多分違います……数あるエピソードのひとつ……としては、悪くないのですが……」
中嶋は腕を組み、軽く頷いた。
「成る程な…それでどのようにその実績を造ればいいか、悩んでいると?」
ドロテアは少し頰を赤らめながら頷いた。
「はい……そこであなたの意見を聞かせて欲しいのです」
中嶋は少し考えてから、にやりと笑った。
「そうだな……少し走らないか?」
ドロテアは紫色の瞳を少し見開いた。
「え…走り、ですか?」
中嶋はカップを置き、立ち上がりながら言った。
「正直俺も言われたところで、『じゃあ、これにするか』って案は浮かばない。考えすぎると視野が狭くなる。ブルース・リーの名言あるだろ、『考えるな。感じろ』だ。気分転換で一度頭をリセットするんだよ」
ドロテアは少し考えてから、静かに微笑んだ。
「…………なるほど、それで『走り』」
中嶋は頷いた。
「そういう事だ。じゃあ、早速店を出ようか」
ドロテアは優雅に立ち上がり、静かに答えた。
「はい」
二人はコメダ珈琲を出て、アクアシティお台場に向かうことにした。
夕陽が差し込む上野の街をクイーンズシルバーのエボⅠとヤマハ・V-MAXが並んで走り始めた。
アクアシティお台場。
中嶋とドロテアは、コメダ珈琲からそのままバイクとエボⅠで移動し、お台場の大型複合施設に到着した。
ドロテアは施設のエントランスを見上げ、黄金色の瞳を少し大きく見開いた。
「ここは……ショッピングモール、ですか?」
中嶋はV-MAXのエンジンを切り、ヘルメットを外しながら笑った。
「アクアシティお台場、来たことあるのか?」
ドロテアは少し恥ずかしそうに首を横に振った。
「実はあまり……日常の買い物は殆どリュシーに任せているので」
中嶋は苦笑いを浮かべた。
「はは、そうだよな」
二人が施設内に入ると、ドロテアの視線が一つのショップに釘付けになった。
「あ!」
中嶋が振り返ると、ドロテアは可愛らしいワンピースやブラウスが並ぶ店先で目を輝かせていた。
「此方のお店のお洋服、とても素敵です! 見て下さい、どれも可愛い……!」
中嶋は看板を確認して答えた。
「AZUL BY MOUSSYというファッションブランドの店だな。(いつになく燥いでるな……)」
ドロテアは珍しく頰を少し赤らめながら、はしゃいだ声で言った。
「ふふっ、見ているだけで心が浮き立ちます。ところであなたは―――」
中嶋は首を傾げた。
「ん?」
ドロテアは少し照れくさそうに聞いた。
「こういうところによく来るんですか?」
中嶋は肩をすくめた。
「いや、あまり来ないかな。ブランドの服は興味ないから」
ドロテアは嬉しそうに微笑んだ。
「では、わたくしと似ていますね。近い目線で物事を見れて嬉しいです」
中嶋は軽く頷いた。
「そうだな」
ドロテアは店内の服をもう一度眺め、ふふっと笑った。
「ふふっ、こういった服は普段着ることがないので、どうも『着た自分』というのが想像出来ません」
中嶋は素直に言った。
「きっと似合うと思うぞ」
ドロテアは少し頰を赤らめ、照れながら答えた。
「そうでしょうか? ふふ、殿方に言われると、少し照れてしまいますね」
中嶋は頭を軽く掻いた。
「そうか?」
ドロテアは悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ、美幸さんにこういうカジュアルな服装とか着たらとても似合いそうですわね」
中嶋は慌てて手を振った。
「何で小早川が出てくるんだ?」
ドロテアはくすくすと笑った。
「あなた、美幸さんの事が好きなんでしょう? 言葉で言わなくとも顔が分かりますよ」
中嶋は動揺を隠せなかった。
「え?! いや俺は……」
ドロテアは優雅に手を振り、次の店へ促した。
「ふふ、そういう不器用なところが中嶋さんの良いところかもしれませんわね。次へ行きましょう」
中嶋は苦笑いしながらついていった。
「お、おう……」
その後、二人は施設内の東京ジョイポリスへと移動した。
ドロテアは明るい照明と騒がしいBGM、色とりどりのアーケードゲームに圧倒されながら言った。
「ここは……とても賑やかですね……! こんなにも色々な種類の機械が……全部ゲーム機なのですか?」
中嶋は周囲を見回しながら説明した。
「ああ、ここにあるモンは全部アーケードゲームだ。イニDに湾岸ミッドナイトに……ダンスダンスレボリューションという音ゲーもあるぞ。クレーンゲームも―――ここに来るのは初めてか?」
ドロテアは素直に頷いた。
「はい、リュシーからは教育によくないと止められておりまして」
中嶋は笑った。
「古典的な教育だなぁ……息抜きぐらいはいいだろ? ということはボドゲーばかりか?」
ドロテアは少し頰を赤らめた。
「はい、カードやチェスのようなボードゲームは嗜みますよ。ただこう言った機械仕掛けのものは、殆ど触ったことはありません」
中嶋は軽く肩をすくめた。
「辻本はよくここに来るけどなぁ……パンチングマシンで何回か機械壊れたことあったからな…当然、測定不能だ」
ドロテアは目を丸くした。
「測定不能になる程機械が壊れるなんて話は聞いたことありません……」
中嶋は苦笑いを浮かべた。
「彼奴のマネは絶対にするなよ? ――それじゃ早速、何か試しにプレイしてみようか」
ドロテアは少し緊張しながらも、楽しげに頷いた。
「はい……!」
二人が最初に挑戦したのはパンチングマシーンだった。
中嶋が軽く説明した。
「これはパンチングマシーンだな……パッドを思い切って殴って、その強さを競うんだ」
ドロテアは少し不安げにグローブをはめた。
「な、殴るんですか……?」
中嶋は励ますように言った。
「とりあえずやってみよう―――」
その時、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「お、中嶋ー! こんなところで何してるの?」
中嶋はびっくりして振り返った。
「辻本!? 何でここに……」
夏実は元気よく近づいてきた。
「何でって…あたし、非番だからよ。美幸は通常勤務だけど」
中嶋はため息をついた。
「そうか……珍しいな、お前一人だけ非番だなんて」
夏実はパンチングマシーンを見て目を輝かせた。
「パンチングマシーンだ! 中嶋くんもやりたい?」
中嶋は慌てて言った。
「ま、まぁな…あははははは!」
夏実はニヤニヤしながら言った。
「ほらほら、やらないならあたしが先にやるよ?」
中嶋は即座に止めた。
「お前が先にやると壊れるだろ!」
ドロテアが優雅に一歩前に出た。
「ではわたくしが先攻に」
夏実は興奮気味に叫んだ。
「遂に来た! ドロテア・カークランドの『スクリューパンチ』! 行けーーーっ!」
ドロテアは軽く息を整え、グローブを構えた。
「では、いきます!!……えいっ!!」
ボゴォッ!
ドロテアは小さくガッツポーズをした。
「えっと…123キロ?」
夏実は目を丸くした。
「おお! 意外とやるわね! 流石、ランエボ使いの走り屋お嬢様」
ドロテアは少し照れくさそうに笑った。
「えへへ……鍛えてますので……」
中嶋は感心しながら言った。
「女性の平均が50~75キロくらいだから、かなり好成績だぞ」
ドロテアは中嶋に視線を向け、楽しげに言った。
「ふふ、あなたもやってみませんか? どちらがより数値を出せるか、勝負してみたいです」
中嶋は拳を軽く握った。
「よおし、俺も挑戦するぞー!(意外と負けず嫌いなのかもな、ドロテアは。辻本に少し似てる……これは白バイ警官として…男として、負けられないな)」
中嶋は思い切りパンチを叩き込んだ。
ドゴォッ!
ドロテアは目を輝かせた。
「す、すごい! 250キロ! 倍以上だなんて……! 中嶋さんってやっぱり殿方なんですね……」
中嶋は少し照れながら笑った。
「あはは、いいところ見せられてよかったよ」
夏実は拳を鳴らしながら前に出た。
「次はあたしの番ね~」
中嶋は慌てて言った。
「おい、壊すなよ?」
夏実は大きく息を吸い込んだ。
「いくわよ――――うぅおぉぉぉぉりゃぁぁああああああああああっ!」
ドゴォォォッ!!
結果は「測定不能」。
機械がガクガクと震え、警告音が鳴り響いた。
夏実は頭を掻いた。
「ありゃまあ、やっちゃったよ…」
中嶋は頭を抱えた。
「お前な……」
ドロテアはくすくすと笑いながら言った。
「ふふふ、まあまあ、いいですこと。修理代はわたくしが補填致しますわ」
中嶋はため息をつきながら次のゲームエリアを指差した。
「次のゲームにいくか? あっちにはイニDや湾岸ミッドナイト。マリオカートもあるぞ!」
ドロテアは目を輝かせて頷いた。
「はい……! よろしくお願いします!」
夏実は拳を握りしめた。
「よっしゃあ! じゃあ、イニDやろうよ! エボⅠは実装されてないけどエボⅢからエボⅩまで実装されてるわよ!」
ドロテアは優雅に微笑んだ。
「では、わたくしはエボⅢでいきますわ」
夏実はニヤリと笑った。
「じゃああたしはエボⅣね。中嶋くんは?」
中嶋は少し悩んでから答えた。
「俺か? 俺は…うーん、どれにしようか。普段クルマは乗らないからな」
夏実は適当に言った。
「そんなの適当に決めときゃいいのよ」
中嶋は軽く笑った。
「そうか?……そんじゃあプリウスに……」
ドロテアは即座に反応した。
「中嶋さん、EVはゴミですわよ?」
中嶋は目を丸くした。
「え?」
夏実は笑いながら言った。
「あー…ドロテアさんは4WD好んでるから論外か」
ドロテアは優雅に微笑んだ。
「やっぱり4WDですわね」
中嶋は肩をすくめた。
「GC8にするか……」
ドロテアは満足げに頷いた。
「インプレッサWRX STi……良い趣味持っていますわね」
夏実はコントローラーを握り、闘志を燃やした。
「よっしゃあ! では勝負だ!」
アクアシティお台場のジョイポリスは三人の笑い声とエンジン音で今日も賑やかに賑わっていた。
アクアシティお台場・東京ジョイポリス。
イニD、湾岸ミッドナイト、マリオカートと、幾つかのゲームを夢中で遊んでいるうちに、あっという間に時間が過ぎていた。
ドロテアはエボⅢで何度も好タイムを出し、夏実は相変わらずの豪快なプレイで周囲を沸かせ、中嶋は珍しく本気を出してGC8を操っていた。
三人がゲームエリアから出てきた頃には、もうすっかりお腹の空く時間になっていた。
夏実は大きく伸びをしながら言った。
「ふうーっ! 楽しかったけど、すっごくお腹すいた!もう昼時だね。どっかで飯にしようよ!」
ドロテアは少し頰を赤らめ、満足げに微笑んだ。
「ええ……とても楽しかったですわ。機械のゲームというのも、思ったより夢中になってしまいますね」
中嶋は時計を確認しながら頷いた。
「そうだな。腹も減ったし、適当に何か食べようか。ここならフードコートもあるし、近くにいい店もあるぞ」
三人は東京ジョイポリスを出て、アクアシティお台場の明るい通路を歩き始めた。
夏実はメニュー看板を眺めながら目を輝かせた。
「海鮮丼とか、ステーキとか……うーん、迷うなあ!ドロテアは何が食べたい?」
ドロテアは少し考え込み、優雅に指を当てた。
「そうですね……せっかくですから、こちらのお台場らしい海の幸が良いかしら。新鮮なお寿司や海鮮丼も魅力的ですわ」
中嶋は笑いながら言った。
「じゃあ、フードコートの上の方にある海鮮専門店はどうだ?結構評判いいらしいぞ」
夏実は即座に賛成した。
「いいね! 決まり!今日はドロテアのおごりでいいよね?」
ドロテアはくすりと笑った。
「ふふ、構いませんわ。今日は皆さんに付き合っていただいたお礼ですもの」
中嶋は苦笑いを浮かべながら言った。
「おいおい、遠慮なく頼むなよ……」
三人は軽やかな足取りでフードコートに向かいながら、今日の出来事を振り返って笑い合っていた。
ドロテアは金色の長い髪を軽く揺らし、珍しくリラックスした表情で言った。
「こうして皆さんと一緒に遊ぶのも、悪くないものですわね……少し、頭の中がすっきりした気がします」
夏実はドロテアの肩を軽く叩いた。
「たまには息抜き大事だよ!またみんなで来よう!」
中嶋は二人の後ろを歩きながら、静かに微笑んだ。
アクアシティお台場の明るい空間に三人の笑い声が軽やかに響いていった。
昼食を兼ねたこの時間はドロテアにとって、少しだけ心の重荷を軽くしてくれる大切なひとときになりそうだった。
アクアシティお台場・ノイタミナショップ&カフェシアター(4F)
三人が店内に入ると、壁一面に『大食いチャレンジイベント開催中!』という派手なポスターが貼られていた。
ドロテアは紫色の瞳を輝かせて看板を読み上げた。
「『大食いチャレンジイベント開催中』……」
夏実は即座に目を輝かせ、拳を握りしめた。
「おお! 大食いイベント! あたしやりたい!」
中嶋はポスターをじっくり見て、苦笑いを浮かべた。
「ノイタミナショップ……ほお、大食いコラボやってるんだな。しかも吉野家と『冴えない彼女の育てかた』っていうアニメか。でもこれ『30分以内に牛丼10杯を食べられたなら無料』と表示してるから、10杯は流石に厳しい……」
夏実はすでにメニューを指差して店員に詰め寄っていた。
「よし、決まり! ドロテアさんも行くわよ!!」
ドロテアは紫の瞳を細め、優雅に微笑んだ。
「ええ、これにしましょう!!」
中嶋は慌てて二人を止めようとした。
「ちょ、お前ら……大丈夫なのかよ……」
しかし二人の勢いに押され、店員は困惑した顔をしながらも牛丼を用意せざるを得なかった。
「お待たせしました! 牛丼1杯目になります!」
夏実は箸を手に取り、意気揚々と叫んだ。
「おお! これいけるんじゃない?」
店員は汗を拭きながら言った。
「1杯目が終わりましたら、2杯目を用意しますので仰ってください!」
夏実はすでに丼に箸を突き刺していた。
「はーい。じゃ、早速いっただきまーす!」
中嶋は少し離れた席で、期間限定コラボメニューを注文した。
「俺は……時行の隠れ鬼 抹茶ティラミスと玄蕃のほっと抹茶で」
店員が去ると、中嶋はため息をついた。
「(とはいえ、あの2人は、本気で10杯食べるつもりだろうか!?)」
一方、ドロテアは牛丼を前にして、紫の瞳を細め、優雅にスプーンを手に取った。
「これが、牛丼なんですね……何て美味しそう!」
夏実はすでに猛烈な勢いで食べ進めていた。
「ほらほら、早く食べないと時間制限来ちゃうよ~」
ドロテアは慌てて姿勢を正した。
「いけない、感心してる場合ではありませんね。時間制限があるんでした!」
数時間後。
ドロテアはテーブルに突っ伏し、紫の瞳をうるうるさせながら小さく呟いた。
「うぅ、これほど厳しい結果になるとは、思いもよりませんでした……」
夏実は満足げに腹をさすっていた。
「あー、食った食った!」
ドロテアは悔しそうに言った。
「たったの3杯で終わってしまうだなんて……時間さえ、あればまだ頑張れましたのに……」
夏実は店員から受け取った特典を嬉しそうに掲げた。
「10杯完食は楽勝よ。あ、でも無料の褒美にステッカー貰っちゃった」
それは描き下ろし『霞ヶ丘詩羽 屋外対応ステッカー Blooming dress Ver.』だった。
本来なら770円のグッズだ。
中嶋は抹茶ティラミスを食べ終え、呆れたように言った。
「(女の子で3杯は凄いと思うけどな……ただ、食べ方が上品過ぎて丁寧だったな。一口一口をあんな味わうように食べてたら間に合わないだろう……辻本は…予想しなくても分かる。彼奴は全部食い切った)」
ドロテアは優雅に髪を整えながら立ち上がった。
「でも、美味しかったですし、楽しかったです。腹ごなしに少しお散歩致しませんか?」
中嶋は頷いた。
「それじゃあ、海浜公園へ行こう」
お台場海浜公園
夕陽が海面をオレンジ色に染める中、三人はベンチに座って風に吹かれていた。
ドロテアは紫の瞳を細め、穏やかな声で言った。
「ふう……今日はとても楽しかったです。見て、遊んで、食べて……どれもが新鮮でした」
中嶋は少し申し訳なさそうに言った。
「結局、実績の作り方に関しては俺から何もいいアイデアがなかったな……」
夏実は首を傾げた。
「何の実績?」
ドロテアは静かに微笑み、紫の瞳に夕陽を映しながら語り始めた。
「ふふふ、こうして街で……お台場で1日を過ごして、大切なことに気づけた気がします」
中嶋が聞いた。
「大切なこと?」
ドロテアは優しく、しかし力強く続けた。
「街で見かけた皆は、凄く平和そうに過ごしていました。仲間や友人達と何でもない1日を分かち合いながら……」
中嶋は静かに頷いた。
「ああ…そうだな」
ドロテアは紫の瞳を細め、穏やかな笑みを浮かべた。
「勿論、個々に内心で抱えたものもあるでしょう。まさしく今のわたくしのように……ですが、その悩む自由すら存在するこの日常を、皆平和に、そして幸せそうに謳歌していたんです」
夏実は素直に感心した。
「そうなの?」
中嶋は優しく言った。
「そうだぞ。辻本、お前だって悩みくらいあるだろ? 人生は謳歌しなきゃな!」
夏実は中嶋をじろりと見た。
「今日の中嶋くんはいつもと違うわね……」
ドロテアは紫の瞳を輝かせ、静かに結論を述べた。
「きっとそれを守ることこそが、曲がりなりにも貴族として生まれた者の務めなんだと思います。
ノブレス・オブリージュ――高貴なる者に伴う義務。
貴族にとって大事なのは、実績という『形』ではなかったんです」
中嶋は静かに頷いた。
「ドロテア……」
夏実は首を傾げた。
「ノブレス・オブリージュって何? 食べ物なの?」
中嶋は呆れたように笑った。
「んなわけないだろ……ドロテア、辻本に説明してくれ」
ドロテアはくすりと笑い、優雅に説明を始めた。
「ノブレス・オブリージュ……それは『高貴なる者に伴う義務』という意味ですわ」
夏実はベンチの上で膝を抱え、首を傾げた。
「高貴なる者に伴う義務……? なんか難しそうな感じね」
ドロテアは穏やかな笑みを浮かべ、優雅に説明を続けた。
「ええ。元々はフランス語で、中世ヨーロッパの貴族社会に由来する考え方です。
貴族とは、ただ特権や富、地位を持つだけの存在ではありません。
その代わりに、社会に対して果たすべき責任と、模範となる振る舞いが求められる……それがノブレス・オブリージュですわ。例えば、裕福で教養があり、影響力を持つ者が、ただ贅沢に暮らすのではなく、弱い立場の人々を助け、社会をより良くするための役割を果たす——―それが貴族の『義務』だと考えるのです。わたくしのような貴族の家に生まれた者は、特にこの考えを重んじなければなりません。
ただ『自分は特別だ』と優越感に浸るのではなく、その特別さに見合った責任を、誠実に果たさなければならない……それがカークランド家に代々受け継がれてきた精神です」
中嶋は腕を組み、静かに聞き入っていた。
「なるほど……特権と責任は表裏一体ってことか」
ドロテアは紫の瞳を夕陽に向け、穏やかに続けた。
「そうですわ。わたくしは今まで、自分がどれだけの責任を背負っているのかを、本当の意味で理解していなかったのかもしれません。ピクシス・マスールとして走り屋として活躍することも大切です。でも、それ以上に……この平和な日常を守ること、皆が笑顔で過ごせる街や社会を支えることこそが本当の『貴族の務め』なのではないかと……今日、皆さんと一緒に過ごして、強く思いました」
夏実は少し感動した顔で言った。
「へえ……なんかカッコいいね、それ。要するに『力ある者は、ちゃんとその力を使って人を助けろ』ってこと?」
ドロテアはくすりと笑った。
「ええ、簡潔に言えばそうですわ。わたくしはまだまだ未熟ですが……これからはもっと、ただ走るだけでなく、皆の笑顔を守るための『実績』を積んでいきたいと思います」
中嶋は静かに頷いた。
「いい考えだ。俺たちも、警察官として同じような責任を感じてるよ。力があるからこそ、守らなきゃいけないものがある……ってな」
ドロテアは二人を見て、紫の瞳を優しく細めた。
「ふふ……今日は本当に、たくさんのことを学ばせていただきました。中嶋さん、夏実さん……ありがとうございます」
夏実は照れくさそうに頭を掻いた。
「いやいや、こっちこそ楽しかったよ!またみんなで来ようね!」
夕陽が三人を優しく包み込む中、ドロテアの心に静かで確かな決意が灯っていた。
ノブレス・オブリージュ——―――高貴なる者の義務。
それは彼女にとって、これからの道しるべとなる言葉となった。
翌日。
墨東署交通課。
朝の陽射しがミーティングルームの窓から優しく差し込み、いつものように賑やかな空気が流れていた。
花蝶課長はいつもの席に腰を下ろし、コーヒーカップを片手にゆっくりと新聞をめくっていた。
白髪交じりの頭を軽く振り、渋い笑みを浮かべながら独り言のように呟いた。
「今日も平和だな……と言っても長くは続かないけど」
その言葉を聞きつけた夏実が、トゥデイの整備記録を片手に笑いながら近づいてきた。
「課長、またそんなこと言ってる! 今日は特に事件もないし、のんびりいきましょうよ」
美幸は眼鏡を押し上げ、静かに微笑んだ。
「ええ。少なくとも午前中は穏やかそうですわ」
そこへ、中嶋が白バイのヘルメットを抱えて入ってきた。
「課長、おはようございます。……確かに、今日は珍しく静かですね」
花蝶課長は新聞を畳み、皆の顔をゆっくりと見回した。
82歳とは思えない鋭い眼差しが、ふっと柔らかくなった。
「平和なのは嬉しいが……お前たちを見ていると、逆に落ち着かないんだよ。特に辻本、お前が大人しくしていると、逆に何か企んでるんじゃないかと疑ってしまう」
夏実は胸を張って笑った。
「失礼な! あたしだってたまには真面目にしますよ!」
頼子が書類を抱えて部屋に入り、眼鏡を光らせた。
「課長、今日の巡回予定です。……あ、でも午後から少し雲行きが怪しいかも。おつまーる走の参加者リストに、ちょっとヤバそうな名前が混じってるんですよね」
葵が静かに補足した。
「銀河レディース走行会の残党が、まだ諦めていないという情報もあります」
花蝶課長はため息をつきながらも、どこか楽しげに言った。
「ふむ……やはり長くは続かないか。まあ、それが墨東署交通課というものだな」
美幸は静かに微笑みながら言った。
「課長……退職の件、どうなりましたか?」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ張りつめた。
花蝶課長はカップを置き、渋い笑みを浮かべた。
「猪瀬署長が本庁に強く働きかけてくれているらしい。四王天長官の名前も出ていると聞いた。……お前たちのおかげだな」
夏実は拳を握りしめた。
「やった! 課長、ようやくゆっくりできる日が来るかもね!」
花蝶課長は遠い目をして、静かに言った。
「そうだな……孫の顔をゆっくり見るのも悪くない。ただ……お前たちがいなくなったら、この課はどうなるんだろうな、と少し寂しくもある」
中嶋は真剣な顔で言った。
「俺たちがしっかり守ります。課長が築いてきたものを、無駄にはしません」
美幸も静かに、しかし力強く頷いた。
「ええ。私たちが、課長の後を継ぎます」
花蝶課長は皆の顔をじっと見つめ、満足そうに頷いた。
「……頼もしい部下を持ったものだ。まあ、まだ正式に決まったわけじゃないが……その時は、盛大に送別会を頼むぞ」
夏実は豪快に笑った。
「任せてください! あたしが主催しますから、絶対に忘れられない会にしますので期待して待っててください!」
部屋に、いつもの明るい笑い声が戻ってきた。
しかし、花蝶課長は心の中で静かに思っていた。
「(……本当に、長くは続かないな。この平和も)」
墨東署交通課の朝は、今日も穏やかで少しだけ未来への予感を孕んだ特別な一日になりそうだった。