2026年、夏の朝。
墨東署交通課の駐車場で、トゥデイの傷を修理していた美幸と夏実の前に、メイド走り屋チームが再び集まっていた。
ハリエットがピレネーブラックのエボⅢに寄りかかり、黄金色の瞳を細めて小さく微笑んだ。
「ふふ……昨夜の首都高の件、楽しかったですね。でも、そろそろ私たちのことをちゃんと知りたいと思いませんか? 特に……ピクシス・マスールの結成秘話」
リュシーが水色ショートヘアを掻き上げ、赤い瞳でドロテアをチラリと見た。
「お嬢、話してもいいんですか?」
ドロテアはクイーンズシルバーのエボⅠに優雅に腰を預け、扇子を軽く広げながら静かに頷いた。
「ええ、いいわ。墨東署の婦警さんたちには……隠すことなどありませんもの」
美幸は眼鏡を押し上げ、興味深そうに聞き入った。
夏実は工具を置いて、腕を組んでニヤリと笑う。
「へえ、聞かせてくれない。メイド軍団の結成秘話って、なんかドラマチックそうね」
ドロテアは遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「すべては、数年前……イギリスの名門カークランド侯爵家に遡ります。私は一人娘として生まれ、幼い頃から『上に立つ人間としての責務』を叩き込まれて育った。本物の貴族として、誰からも尊敬され、誰をも導ける存在にならなければならない……それが私の運命だと思っていた。そんなある日、川で溺れかけた私を助けてくれたのが、リュシーだった。孤児で路上生活を送っていたリュシーは、施設を飛び出して野犬のように生きていた子。彼女は私を助けたその日から、わたくしのメイドとなった。『お嬢様は私の命の恩人じゃない。お前が私の妹みたいなもんだ』……そう言って、忠義と姉妹のような愛情を注いでくれたの」
リュシーは照れくさそうに鼻を鳴らした。
「ったく……今さら昔話かよ」
ドロテアはくすりと笑い、続きを語る。
「その後、私の周りに自然と集まってきたのが、ハリエット、ケイト、ミリアムだった。ハリエット・ミルズは下級貴族の家に生まれ、両親が多忙で一人ぼっちだった子。ある事件をきっかけに私を『崇拝』するようになり、メイド見習いになったわ。毒舌だけど、根は真面目で情が深い……今では欠かせない存在。ケイト・フルニエは中級貴族の生まれ。特殊な家庭環境で育ち、運動神経だけは抜群。気弱そうに見えて、怒らせたら一番怖い子よ。ある事件で私に憧れ、メイド見習いに。ミリアム・ヘイワードは下級貴族で、実家は貴族の体面を保つのがやっとの貧乏貴族。勉強はからっきしだけど、自信だけは誰にも負けない。ある事件から私を尊敬し、メイド見習いになったの。漫画好きで、いつも明るくチームを和ませてくれる」
ハリエットが三つ編みを弄びながら、くすくす笑った。
「最初はバラバラでした。私なんて人見知りで毒舌ばかり。ケイは泣き虫で、ミリィは勉強が苦手で……リュシー様なんて『お嬢様以外興味ねえ』って感じだったんですよ」
ミリアムがモナコレッドのエボⅤの横で照れ笑い。
「ボク、ドロテア様に会って初めて『自分も誰かの役に立ちたい』って思ったんだよね」
ドロテアの瞳が優しく細まる。
「ある日……わたくしたちが貴族の子女として集められた特別な養成プログラムで、大規模な模擬戦があったの。他のチームは平民出身の才能ある子たちや、成金貴族のチームが強かった。私たち貴族チームは『統率が取れすぎて柔軟性がない』と酷評され、散々な結果だった。そのとき、私は決めたの。『ただの貴族の集まりではなく、家族のような絆で結ばれたチームにしよう』と。名前は私が付けた。ピクシス・マスール——ラテン語で『私の星たち』という意味。ピクシスは星座を指す小さな箱。マスールは『私の姉妹』や『私の愛する者たち』というニュアンス。リュシーを筆頭に、ハリエット、ケイト、ミリアム……みんなを『私の大切な星』として、守り、導き、共に輝く存在にしたかったの。それ以来、私たちはただのチームではなく、運命共同体になった。貴族の家柄という共通点はあったけれど、それ以上に『ドロテアを中心に家族になろう』という想いが、ピクシス・マスールを強くしたわ」
夏実は目を輝かせて拳を握った。
「すごい……! メイドなのに、みんな貴族の子女で、しかも家族みたいな絆ね! なんか熱いわね!」
美幸は眼鏡の奥で静かに微笑んだ。
「だから昨夜、あんなに統率の取れた動きだったのね。バックファイアの連発とカウンターステアの連携……ただの走り屋じゃできないわ」
リュシーが赤い瞳を細めて、ドロテアの肩に軽く手を置いた。
「お嬢……今でも、あの頃の決意は変わってねえよ」
ドロテアは扇子を閉じ、優しく頷いた。
「ええ。ピクシス・マスールは、私の誇り。そして……今は墨東署の婦警さんたちとも、運命で繋がったみたいね」
駐車場に、朝の陽射しが差し込む中、六人の視線が自然とトゥデイに集まった。
夏実は豪快に笑い、トゥデイのボンネットをバシンと叩いた。
「よし! 結成秘話話してくれてありがとう! これでますます仲間って感じになってきたわ! 次は榛名山で、ピクシス・マスール vs 墨東署婦警コンビのフルスロットルリベンジマッチよ!」
美幸は眼鏡を押し上げ、静かに、しかし力強く言った。
「ええ……傷ついたこの子も、みんなで守ってくれたおかげでまた走れるわ。ありがとう、ピクシス・マスール」
トゥデイの傷を修理していた美幸と夏実の周りに、ピクシス・マスールのメイド走り屋チームが集まり、ドロテアの結成秘話を聞き終えたばかりの穏やかな空気が流れていた。そこへ、白髪交じりの中嶋剣がコーヒーの紙コップを片手に、のんびりとした足取りで近づいてきた。
「お、何やら盛り上がってるようだな」
少し遅れて、二階堂頼子が眼鏡を光らせながら小走りにやってきた。
「私も話に参加したい! メイドさんたちの秘密の話、絶対面白いやつでしょ!?」
美幸は眼鏡の奥で柔らかく微笑み、手を軽く振った。
「中嶋君に頼子……ふふ、いいわよ。こっちに来て」
夏実は工具を置いて、豪快に両手を広げた。
「おお、やっぱり持つべきモノは同僚だよねえ! みんな揃ったらますます賑やかじゃん!」
頼子は照れくさそうに頭を掻きながら、笑う。
「えへへ……」
夏実はふと頼子の姿を見て、首を傾げた。
「あれ? 頼子ってクルマ何乗ってたっけ? 確か何か乗ってたよな?」
頼子は眼鏡をくいっと押し上げ、明るく答えた。
「え? ミニカだけど」
その瞬間、リュシーが水色ショートヘアをピクッと反応させ、赤い瞳を大きく見開いた。「ミニカダンガンか!? 5バルブターボプラス4WDの隠れ名車!」
頼子は目をぱちくりさせて首を振った。
「え? いや、普通のミニカだけど……ATの」
リュシーは一瞬、固まった。
「は?」
ハリエットが黄金色の瞳を細め、三つ編みを指でくるくると巻きながら、呆れたように繰り返した。
「オートマ……?」
ケイトが紫色の髪を揺らしてくすくす笑い、ミリアムはモナコレッドのエボⅤに寄りかかりながら目を丸くした。
ドロテアは扇子を広げて優雅に微笑みつつも、どこか楽しげに状況を眺めている。
リュシーは黒い手袋をはめた手を腰に当て、信じられないといった顔で頼子を凝視した。「待て待て……お前、墨東署の婦警で、メガネっ子で、射撃の腕はトップクラスだって聞いたぞ? それなのに愛車が……普通のATミニカ? 5速マニュアルの5バルブターボのあの伝説のミニカじゃなくて?」
頼子は両手をぶんぶん振って慌てた。
「え、えっと……昔、教習所でMT練習してクラッチ焼き切っちゃってから、ATで十分だって思っちゃって……。通勤は近いし、買い物も楽だし……」
夏実は豪快に大笑いしながら、頼子の肩をバシンと叩いた(頼子は少しよろけた)。
「はははっ! 頼子らしいわ! 相変わらず現実的ね!」
美幸は眼鏡を押し上げ、くすりと笑った。
「頼子……あなた、昔から『実用第一』だったものね。射撃は上手いのに、クルマはいつも『壊さないように』って慎重だったわ」
リュシーはまだ納得がいかない様子で、赤い瞳を細めた。
「いや、でも……ミニカでATって……どういう心境だよ……。警察にいるのに、ATミニカとか……ショックがデカすぎる……」
ハリエットがくすくす笑いながら、毒舌を交えてフォローした。
「まあ、頼子さんは『隠れ名車』じゃなくて『隠れ実用車』ってことですね。ふふ、面白いですね」
中嶋はコーヒーを一口飲んで、苦笑いを浮かべた。
「……お前ら、相変わらず賑やかだな。俺の白バイと頼子のミニカで、今日の取り締まりは大人しめになりそうだ」
夏実は拳を握りしめ、ニヤリと笑った。
「まあいいじゃん! 頼子のATミニカも、きっと可愛く走るわよ! みんなで榛名山行くとき、後ろからついて来なさいよ!」
頼子は眼鏡の奥で目を輝かせ、照れながら頷いた。
「えへへ……じゃあ、頑張ってついていくね!」
駐車場に、笑い声とエンジンの低い唸りが混じり合う、いつもの墨東署らしい朝の光景が広がっていた。
美幸はトゥデイの傷ついたボディをもう一度撫でながら、静かに微笑んだ。
「ふふ……今日も平和ではなさそうね」
中嶋がコーヒーの紙コップを片手に、のんびりとした口調で「オレは基本的にはバイクしか乗らないからな……」と漏らした直後、夏実が目を輝かせて食いついた。
「えー! 中嶋、まだあの頃のバイク乗り体質変わってないの!? 確か昔、大きなアメリカンバイクに乗ってたよね! ハーレーとか?」
美幸も眼鏡の奥で興味深そうに中嶋を見つめ、静かに続けた。
「中嶋君、昔から『四輪はトゥデイに任せて、オレは二輪で後ろを固める』って言ってたわよね。定年が近いのに、まだバイク派なの?」
中嶋は白髪交じりの頭を軽く掻きながら、照れくさそうに笑った。
「まあな。車よりバイクのほうが肌で風を感じられて好きなんだよ。昔からそうだっただろ? お前らがトゥデイでフルスロットルで飛ばしてる横を、オレはバイクで並走してたじゃないか。……今でも、週末はよく峠を流してるぞ。膝を擦りながらな」
その言葉に、リュシーが赤い瞳をキラリと光らせて身を乗り出した。
「へえ……バイク派か。どんなの乗ってんの? もしハーレーなら、ストライク男の黒龍号とどっちが速いんだ? あたしはラビットスクーターだ。街乗りするだけならラビットで充分だしな」
ハリエットが三つ編みを指で弄びながら、くすくす笑って付け加えた。
「ドロテア様はシルバービジョンです」
リュシーはすぐに反応し、呆れたように肩をすくめた。
「……お嬢は生粋の三菱ファンだからな。エボばっかり集めてるくせに、自分はシルバービジョンって……まあ、優雅に乗るにはちょうどいいかもな」
中嶋はみんなの視線が自分に集中したのを感じ、苦笑いを浮かべながらゆっくりと語り始めた。
「ハーレーは乗ったことねえよ。ストライク男のあの派手なアメリカンとは違うな。オレの愛車は……昔から一貫してスポーツバイクだ。勤務では白バイとしてカワサキのZX-9Rに乗ってる。こいつは安定感があって、墨東の街中から高速までバランスがいい。昔はZXR750もよく乗ってた。父親仕込みのテクで、峠を攻めるときは特に頼りになる相棒だったよ。プライベートでは……ヤマハのV-MAXがメインだな。あの独特のV4エンジンの鼓動と、トルクの太さがたまらねえ。低速から一気に加速する感じが、まるで獣みたいで好きなんだ。昔、夏実と美幸がトゥデイで暴走してる横を、このV-MAXで並走して、足ブレーキのフォローに入ったこともあったろ?」
夏実は目を輝かせて拳を握った。
「あったあった! あの頃の中嶋、かっこよかったわよ! V-MAXのエンジン音が低く響いてきて、『白き鷹』が来たー!って感じだったもんな!」
美幸は眼鏡を押し上げ、懐かしそうに微笑んだ。
「ええ……中嶋君のV-MAX、迫力あったわ。ZXR750の頃も、父親から教わったというバイクテクニックが本当に素晴らしかった。定年が近い今でも、膝を擦りながら峠を走ってるなんて……相変わらずね」
リュシーが腕を組み、赤い瞳で興味津々に聞いた。
「V-MAXか……パワー重視のマッスルバイクだな。ストライク男のハーレーと勝負したら、どっちが勝つと思う?」
中嶋は小さく笑って肩をすくめた。
「ストライク男のハーレーは派手で直線が強いだろうが、峠じゃオレのV-MAXかZXR750のほうが有利だと思うぜ。まあ、勝負する気はねえけどな。定年まであと少し……もう無茶は控えめにしとかないと、美幸に怒られる」
美幸が頰を少し赤らめながら、眼鏡の奥で優しく言った。
「中嶋君……無理はしないでね。でも、たまには一緒に走りましょう。トゥデイの後ろを、あなたのバイクで固めてくれると、心強いわ」
リュシーが赤い瞳をキラキラさせ、ハリエットが興味深そうに三つ編みを弄びながら、中嶋のバイク話を聞き終えた頃——夏実がトゥデイのボンネットに腰をかけ、ニヤリと笑った。
「そういえば中嶋、昔の白バイ追跡エピソード、久々に聞きたいわ!『墨東の白き鷹』が本領発揮したやつ!」
美幸も眼鏡を軽く押し上げ、懐かしそうに微笑んだ。
「ええ……特に、あの『レッドファントム』事件とか、009事件のときの中嶋君の活躍、忘れられないわ」
中嶋は紙コップを軽く回しながら、苦笑いを浮かべた。
「またその話か……まあ、定年が近いし、たまにはいいか」
彼は遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「一番印象に残ってるのは、19年前の『レッドファントム追撃』だな。墨東署管内で連日、赤いスポーツカーが猛スピードで暴走する事件が続いてた。目撃情報は山ほどあるのに、捕まえられない。辻本と小早川がトゥデイで追いかけても、いつもギリギリで逃げられる。署内では『レッドファントム』ってあだ名がついて、住民からも苦情が殺到してたよ。ある夜、俺は白バイ(ZX-9R)で単独パトロール中だった。首都高の入り口付近で、またあの赤い影を見つけた。
アクセル全開。夜の首都高を、赤いテールランプが鬼のように遠ざかっていく。トゥデイが後ろからサイレンを鳴らして追ってくるのがミラーに映った。辻本が『中嶋、右から回り込んで!』って無線で叫んで、小早川が冷静にラインを読んで並走してくる。俺は父親仕込みのテクで、イン側に一気に切り込んだ。膝を擦りながら、V-MAXの低速トルクを活かしてコーナーを攻める。
レッドファントムは必死に逃げようとするが、俺の白バイが横にピタリと付いて、進路を少しずつ狭めていく。辻本がトゥデイのドアを開けて『足ブレーキ』の構えを取った瞬間、俺は前へ出てブロック。
小早川の的確な運転でトゥデイが横に滑り込み、辻本の怪力で相手のドアをガッと掴んで減速させた。結局、あの赤い車はサービスエリアの手前で綺麗に停止。運転手はただの走り屋じゃなく、違反を繰り返して借金まみれになったヤツだったよ。辻本は相手を引きずり出して『逮捕しちゃうぞ、フルスロットルで!』って叫んで、小早川が『中嶋君、ナイスアシスト』って微笑んだ。あの瞬間が……一番気持ちよかったな」
夏実は豪快に大笑いしながら、中嶋の肩をバシンと叩いた。
「ははっ! あのときの中嶋、かっこよかったわよ! 白き鷹が本気出した瞬間、相手の顔が真っ青になってたもんね!」
美幸は頰を少し赤らめながら、静かに頷いた。
「ええ……中嶋君のバイクテクニックがなかったら、あの事件はもっと長引いてたわ。トゥデイの後ろを固めてくれる存在がいるって、心強いのよ」
リュシーが腕を組み、赤い瞳で感心したように言った。
「へえ……白バイで首都高を攻めるのか。ラビットじゃ絶対無理だな。あたしも一度、中嶋のZX-9Rの後ろに乗ってみてえよ」
ハリエットがくすくす笑いながら、こう言った。
「ドロテア様のシルバービジョンと並走したら、絵になりそうですわね」
中嶋は照れくさそうにコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「まあ……定年まであと少しだから、無茶は控えるよ。でも、もしまた大物が現れたら……オレの白バイも、トゥデイの横を全力で走るさ」
夏実は拳を握りしめ、ニヤリと笑った。
「よし! 決まりね! 今度、榛名山で『白き鷹』復活の追跡訓練よ! ピクシス・マスールもエボで参加しろよ!」
駐車場に、笑い声とエンジンの低い唸りが響き渡った。
中嶋剣——「墨東の白き鷹」は、58歳でもまだ現役でバイクへの情熱を燃やし続けていた。
昭和のトゥデイと、平成のランエボ、V-MAXの鼓動が響く2026年の朝は、今日も熱く、懐かしく、そして少しだけ甘酸っぱい空気に包まれていた。
翌日
群馬・榛名山の麓にある広々とした駐車場は、すでに熱気を帯び始めていた。
白黒のホンダ・トゥデイがいつものように堂々と停まり、その周りをピクシス・マスールの五台のエボリューションが鮮やかに囲んでいる。
そこへ、頼子が運転する白いスプリンタートレノが、ちょっと控えめなエンジン音を響かせながら滑り込んできた。
頼子は運転席から降りるなり、眼鏡の奥で目を細めて嬉しそうに笑った。
「えへへ~。遂に叶えたよ~。前から乗ってみたかったんだ――――ハチロク!」
夏実はトゥデイのボンネットに腰をかけ、目を丸くした。
「頼子、まさか買っちゃったの?」
頼子は両手をぶんぶん振って慌てて否定した。
「違う違う。レンタカーだよ! 昨日ネットで予約したら、ちょうど空いてたから!」
夏実はトレノに近づき、目を輝かせながらボディを撫でた。
「へえ、ハチロクトレノだぁ……リトラクタブルヘッドライトが魅力あるよね! このポップアップ感、最高!」
中嶋がコーヒーを片手に近づいてきて、首を傾げた。
「ハチロクってAE86か?」
頼子は得意げに胸を張った。
「そうそう! あの豆腐屋の息子が乗ってたハチロクだよ!」
夏実は我慢できなくなって、頼子の肩をガシッと掴んだ。
「ねえねえ! エンジン掛けてよ! 音聴きたい!」
頼子は眼鏡をくいっと押し上げ、にやりと笑った。
「ふっふっふ、特別だよ?」
そう言って運転席に戻り、キーを回した。
……キュルルルル……キュルル……ブォン……ブォン……。
エンジンがかかったが、どこか頼りない、控えめな音が響く。
中嶋が眉を寄せた。
「おい、ハチロクのエンジンの音……こんなにショボかったっけ?」
美幸は眼鏡の奥で表情を曇らせ、静かに近づいた。
「……嫌な予感するわね。頼子、エンジン見せて」
頼子は少し不安そうにボンネットを開けた。
「え? う、うん……」
美幸は中を覗き込み、数秒黙ってから小さくため息をついた。
「――――成る程」
中嶋が慌てて美幸の横に並んだ。
「おい、小早川。成る程って何だよ」
美幸は眼鏡を押し上げ、もう一度ため息をついた。
「……はぁ、やっぱりね」
頼子が目をぱちくりさせた。
「え?」
中嶋が焦れたように聞いた。
「やっぱりって何がなんだ?」
美幸はボンネットの中を指差しながら、淡々と告げた。
「頼子、間違って借りたわね?」
頼子は首を傾げた。
「?」
美幸は静かに、しかしはっきりと言った。
「……これはハチロクじゃないわ」
頼子が凍りついた。
「え?」
中嶋が目を細めた。
「まさか……?」
美幸は小さく頷いた。
「ええ、ハチゴーよ」
夏実が横から顔を突っ込んで叫んだ。
「ハチゴーって……」
中嶋が呆然と呟いた。
「AE85……?」
リュシーが水色ショートヘアを掻き上げ、赤い瞳でトレノを眺めながらため息をついた。「ハチゴートレノか……」
ハリエットが黄金色の瞳を細め、くすくすと笑いながら三つ編みを弄んだ。
「勘違いの天才ですね。まるで武内樹みたいです。ぷぷぷ」
頼子は真っ青になり、眼鏡がずり落ちそうになりながら慌てて両手を振った。
「ええええっ!? レンタカー屋のサイトに『AE86スプリンタートレノ』って書いてあったのに!? どうしてハチゴーなの!?」
美幸は眼鏡をくいっと直し、いつもの冷静な声で説明した。
「よくある手口よ。写真はハチロクのものを使いながら、実際は安いハチゴーを用意してるの。エンジン音が全然違うでしょ? 4A-GEじゃなくて3A-Uだから、こんなにショボい音がするのよ」
夏実は腹を抱えて大笑いした。
「はははっ! 頼子、相変わらずね! ATミニカの次はハチゴートレノかよ! あんた、走り屋の聖地に来てまでハチゴー借りるなんて、天才的すぎるわ!」
頼子は地面にしゃがみ込み、頭を抱えた。
「うう……せっかくハチロクに乗って榛名を走る夢が……」
ドロテアが扇子を広げて優雅に微笑んだ。
「ふふ……まあ、いいじゃない。ハチゴーでも十分可愛いですわ」
リュシーが呆れた顔で肩をすくめた。
「可愛いってレベルじゃねえよ……」
美幸はトゥデイの横に立ち、静かに微笑んだ。
「まあ、いいわ。今日はハチゴートレノも一緒に走りましょう。みんなでフルスロットルで榛名を攻めれば、頼子のハチゴーも少しは輝くかもしれないし」
白いスプリンタートレノ(実はAE85)のボンネットを開けたまま、美幸が冷静に「これはハチゴーよ」と宣告した直後、中嶋がコーヒーの紙コップを片手に、ゆっくりと近づいてきて、トレノをじっくりと眺め回した。
「でもさ、よく見つけたな。これオリジナルだろ? 今はハチロク乗りたい人が増えて、ハチゴーをハチロクに改造した車が滅茶苦茶増えてるからな」
頼子は眼鏡をずり落ちそうにしながら、首を傾げた。
「え? オリジナル……?」
中嶋は白髪交じりの頭を軽く掻き、トレノのボディを優しく撫でながら続けた。
「そうだよ。AE85の純正状態で、リトラクタブルヘッドライトがちゃんと残ってるやつは、今じゃかなり貴重なんだ。ハチロクブームで、85のボディに86の4A-Gエンジンや外装パーツを移植した『86化ハチゴー』が流行ってるだろ? ヘッドライトも固定式に変えたり、グリル交換したり……だから純正のハチゴーは逆にレアになってきてるんだよ。お前が借りてきたのは、奇跡的にほとんどノーマルの状態だな。エンジン音がショボいのも、ちゃんと3A-Uのままだからだ。リトラクタブルヘッドライトが綺麗にポップアップするところとか、細かいところまでオリジナルを保ってるのは、相当丁寧に保管されてた車だと思うぞ」
頼子は目をぱちくりさせて、トレノを改めて見つめた。
「ええっ……じゃあ、私が借りたのって……本物のハチゴートレノの、ほぼノーマルってこと?」
夏実は笑いを堪えず言った。
「ぷっ…!あはははっ! 頼子、勘違いの天才がまさかの大当たりじゃないの! ハチロクだと思って借りたら、逆に貴重な純正ハチゴーだったなんて! 運が良すぎるでしょ!」
美幸は眼鏡を押し上げ、どこか感心した様子で頷いた。
「確かに……今はハチゴーのオリジナル状態を残している車は減ってるわね。みんな4A-GEを詰め込んで『偽ハチロク』にするから。リトラクタブルが綺麗に動く純正85は、むしろコレクターズアイテムになりつつあるのかもしれない」
リュシーが赤い瞳でトレノを眺め、腕を組んだ。
「へえ……ショボいエンジン音の正体がそれか。まあ、貴重って言われても、パワーないのは事実だな。峠でエボ軍団に置いていかれるの、目に見えてるぜ」
ハリエットが黄金色の瞳を細めて、くすくす笑った。
「勘違いの天才が、結果的にレア物を引き当てるとは……運も実力のうちですね。ぷぷぷ」
ドロテアは扇子を優雅に広げ、静かに微笑んだ。
「ふふ……ハチゴーも可愛いじゃない。今日はこの子も一緒に走りましょう。みんなで優しくエスコートしてあげて」
頼子は眼鏡を直しながら、照れくさそうに笑った。
「えへへ……じゃあ、私のハチゴートレノ、よろしくお願いします……! パワーはないけど、がんばってついていくね!」
夏実は拳を握りしめ、ニヤリと笑った。
「よし! ハチゴートレノもエボ軍団も、トゥデイも全部揃ったわね! 今日は榛名山で『純正ハチゴー vs フルチューン勢』のフルスロットル勝負よ! 頼子、置いていかれるなよ!」
美幸はトゥデイの運転席に乗り込みながら、静かに微笑んだ。
「ふふ……今日も平和ではなさそうね。でも、ハチゴーも大切に乗ってあげましょう」
駐車場に、エンジンの唸りと笑い声が重なり合った。
貴重な純正AE85スプリンタートレノと、伝説のホンダ・トゥデイ、そして五台のランサーエボリューション。
2026年の榛名山は、今日も熱く、賑やかで、少しだけ間抜けで、最高に楽しい一日になりそうだった。
フルスロットルで、逮捕しちゃうぞ!
(ハチゴートレノも一緒に)