見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
「ヘイレルゥゥゥゥゥゥッ!!」
「……ん?」
迷宮都市オラリオ。
天を衝く白亜の巨塔──バベルの麓に構えられた、ダンジョン統括機関ギルド本部。
その受付窓口からやや離れた掲示板の前で、一人の少年がふと顔を上げた。
陽光を浴びて淡く照り返す、白銀の長髪。
肩口を流れるその髪は、磨き上げられた銀糸のように繊細でありながら、どこか作り物めいた神秘さを宿している。
覗く双眸は鮮烈な紅。
宝玉に喩えるならば、それは血を溶かし込んだ紅玉だろう。
静かに伏せられているだけで人を惹きつけるのに、ひとたび感情を映せば烈火にも見える、印象の強い瞳だった。
顔立ちは驚くほど整っている。
一見すれば少女と見紛うほどに中性的で、輪郭も滑らかだ。
だが、森の民たるエルフに見られるような、冷え冷えとした完成無欠の美とはまた違う。
彼の容貌には、均整の取れた美しさの中へ、微かな柔らかさと危うさが差し込んでいた。
人を遠ざける美ではなく、むしろ思わず手を伸ばしたくなるような、奇妙な親しみがある。
華奢にも映る体躯は、冒険者用の革鎧に包まれて。
黒の内衣も不思議なほど馴染んでおり、その姿は駆け出しの若い冒険者にしては妙に落ち着いて見える。
まるで、その年齢や経歴にそぐわぬ静謐さだけを、そこへ置いてきたかのようだった。
昼下がり。
多くの冒険者たちがすでに地下迷宮へ潜っている時間である。
ギルド本部そのものは依然として人の出入りが絶えず、受付では職員の声が飛び交い、換金所の方角では魔石の査定を待つ者たちが列をなし、時折、神々の甲高い笑い声すら混じる。
喧騒と秩序とが同居する空間の只中にあって、しかし少年だけは、壁一面に貼り出された依頼書へ何とはなしに視線を滑らせ、所在なげに時間を持て余していた。
少年の名は、ヘイレル。
もっとも、その名だけだ。
彼が覚えているのは、自分の呼び名だけだった。
過去も、故郷も、家族も、剣を取った理由さえも。
何一つ思い出せない。
半月ほど前、彼は記憶を失ったままこの迷宮都市にいた。
持ち物もなく、行く当てもなく、ただ生きているという事実だけを抱えて立ち尽くしていた彼を拾い上げたのが、一人の少年だった。
その声には聞き覚えがある。
だからこそ、ヘイレルは顔を上げた瞬間に、呼び声の主が誰なのかを察していた。
(……今日も無事だったか)
心のうちに、安堵にも似た吐息が落ちる。
ベル・クラネル。
まだ十四歳。迷宮都市オラリオにおいて、その年齢そのものは珍しくもない。
だが、ことダンジョンに挑む冒険者として見れば、彼の纏う空気はあまりにも無垢で、あまりにも眩しい。
死と隣り合わせの地下迷宮に身を投じるには、その白さは少しばかり鮮やかすぎた。
ヘイレルは手にしていた依頼書を掲示板へ戻し、静かに振り返る。
「ヘイレルゥゥゥゥゥゥゥッ!!!」
次の瞬間、少年の視界に飛び込んできたのは──
「……!?」
全身をどす黒い鮮血で染め上げた、見慣れた
「……なんだ、それは」
思わず呆然と呟く。
しかし、返答する暇も惜しいとばかりに、ベルは涙と歓喜を滲ませた顔で両腕を広げ、一直線に駆け寄って、叫んだ。
「ダンジョンに出会いを求めるのは──間違ってなかったんだぁぁぁぁぁッ!!!」
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
「ベル君。君ねぇ……返り血を浴びたなら、せめてシャワーくらい浴びてきなさいよ……」
「す、すいません……」
しおしお、とでも擬音をつけたくなるほど分かりやすく肩を落とし、白髪の少年──ベル・クラネルは項垂れた。
場所は、ギルド本部のロビーに設けられた小さな応接室。
白を基調とした簡素な部屋だが、卓上に置かれた茶器はよく手入れされており、壁際の飾り棚にも埃一つない。
職員用の部屋らしく、華美ではない代わりに端正な印象があった。
丸机を挟み、向かい合うように椅子が三つ。
そのうちの一つに私は腰掛け、対面では、つい先ほどまで全身をどす黒い血で染め上げていたベルが、まるで叱られた子どものように背を丸めている。
その隣でため息を零したのは、ギルドの窓口職員──エイナ・チュールだ。
薄茶の髪を肩口で揺らし、整った面立ちに呆れを浮かべるその姿は、叱っている最中ですら妙に絵になる。
柔和な双眸も、今ばかりは細められていた。
「生臭い格好のまま街中を突っ切ってくるなんて……私、ちょっとキミの神経を疑っちゃうなぁ」
「でも、その、早く聞いてもらいたくて……」
「聞いてもらいたいことがあるからって、血まみれのまま飛び込んできていい理由にはならないよ?」
「うっ……」
ベルが言葉に詰まる。
まあ、当然だろう。
つい先ほど、ロビーの向こうから全力でこちらへ駆け込んできたベルの姿は、端的に言って異様だった。
白髪は血で束になり、革鎧の上からでも分かるほど衣服は濡れ、しかもその表情だけが妙に晴れやかだったのだ。
悲鳴を上げる職員がいなかっただけでも幸運と言える。
「ほら、ヘイレル君もそうだそうだって顔してるよ?」
「……ああ」
「へ、ヘイレルまで!?」
「むしろ私がしていないとでも思ったのか。遠目からでも『何かに勝った直後の狂戦士』にしか見えなかったぞ、ベル」
「そんな言い方ある!?」
半ば涙目になって抗議してくるが、誇張ではない。
あの様子で『ダンジョンに出会いを求めるのは間違ってなかったんだぁぁぁ!』と叫ばれれば、事情を知らない者はまず距離を取る。
もっとも。
私は視線を少しだけ逸らし、卓上の紅茶から立ち昇る湯気を眺めた。
……無事でよかった、と。
最初に思ったのは、それだった。
ベルと出会って、まだ半月ほど。
記憶もなく、名以外の何一つ持たなかった私に、行き場と居場所を与えてくれたのはこの少年と、その主神だった。
だからだろうか。
自分でも不思議なくらい、私はベルの帰還に安堵していた。
「それで?」
エイナが改めて居住まいを正し、ベルに向き直る。
「アイズ・ヴァレンシュタイン氏のことを知りたい、だったっけ? どうしてまた?」
「え、えっと……その……」
ベルの目が露骨に泳ぐ。
耳の先がじわじわと赤くなっていくのが分かった。
私は小さく息を吐いた。
実に分かりやすい。
「私も気になるな。相手が相手だ。【ロキ・ファミリア】とは、今の私たちに何の接点もなかったはずだが」
「う、うぅ……話せば長くなるんだけど……」
「じゃあ長くても話して。省略したら、あとでこっちが困るから」
エイナがにっこりと笑う。
声音は柔らかいのに、有無を言わせない迫力がある。ベルが背筋をぴんと伸ばした。
そして彼は、今日起きたことをぽつぽつと語り始めた。
いつもは安全圏である二階層までで切り上げていること。
だが今日は少しだけ気が大きくなって、もう少し先へ進んでみたこと。
三階層、四階層と下り、ついには五階層へ足を踏み入れたこと。
そこまでは、若い冒険者が一度はやる無茶だ。
背伸びをしたかったのだろう。少しでも強くなりたかったのか、それとも、もっと別の──。
「で、その……入ってすぐ、だったんだ」
ベルの喉がこくりと動く。
先ほどまで浮かれていた声音から、一転して硬さが混じった。
「いきなり、いたんだ。ミノタウロスが」
部屋の空気が、少しだけ張り詰める。
私もエイナも、言葉を挟まなかった。
ベルは第五階層の空気を思い出すように、膝の上で手を握る。
「最初、何がいるのか分からなかったんだ。足音だけが響いてて、でもゴブリンとかコボルトみたいな感じじゃなくて……重くて、鈍くて、床そのものが鳴るみたいな音で……」
恐怖を反芻するように、ベルは目を伏せる。
「それで、曲がり角から出てきた時、見えたんだ。大きな体と、牛みたいな頭と……強烈に光る赤い目が……」
「……っ」
エイナが息を呑んだ。
それも無理はない。
ミノタウロス。通常なら十五階層以深で確認される、Lv.2級に分類される怪物だ。
駆け出しの冒険者が遭遇すれば、まず助からない。
ましてや、第五階層で、など。
「私もベルも未だLv.1だ」
静かに言うと、ベルが小さく頷く。
「うん。だから……勝てるとか、そういうの、全然思えなかった。見た瞬間に、あ、死ぬ、って思った」
その一言には、飾り気がなかった。
ただ、純粋な実感だけが滲んでいた。
生き物は、死を目の前にすると不思議なほど正直になる。
逃げられない、覆せない、圧倒的な格上を前にした時、理屈より先に本能が結論を出す。
その宣告が、ベルの身体を突き動かしたのだろう。
「それで、走ったんだ。必死で。後ろなんて振り向けなかった。息が切れて、足がもつれて、それでも追いかけてきて……」
そこで言葉が詰まり、ベルは唇を引き結ぶ。
しばしの沈黙のあと、ようやく次の言葉が落ちた。
「……追い詰められた」
脳裏に、光景が浮かぶ。
薄暗い石造りの迷宮。湿った空気。行き止まり。逃げ場のない空間。
そこに迫る巨躯。
ベルが生きてここにいる事実が、逆にその異常さを際立たせていた。
「そしたら」
ベルの顔が、見る間に熱を帯びていく。
恐怖を語っていたはずなのに、今度は別の意味で声音が揺れた。
「助けてくれたんだ」
その瞬間、何を言わんとしているのか理解した。
理解したが、それでも私は敢えて口にはしなかった。
ベルは両手をぎゅっと握りしめる。
「金色の髪で、すごく綺麗で、でもそれ以上に凄くて……気づいたら、ミノタウロスが、もう倒れてて……」
「アイズ・ヴァレンシュタイン氏、か」
エイナの確認に、ベルは勢いよく頷いた。
「う、うん……! あの人が、僕を……」
そこから先は、どうにも聞いているこちらがむず痒くなるような話だった。
差し伸べられた手。
心配そうに覗き込んでくる、金色の瞳。
血と土埃にまみれた自分とは対照的な、美しく清冽な立ち姿。
凛とした空気を纏いながら、どこか不器用そうな優しさを見せた彼女に、ベルは一瞬で撃ち抜かれたらしい。
「それで、えっと……お礼を言おうと思ったんだけど……」
「思ったんだけど?」
「……顔を見たら、頭が真っ白になって……」
「うん」
「手を取られたら、もっと真っ白になって……」
「うん?」
「気づいたら、全速力で逃げてた」
「…………」
沈黙。
私は目を閉じた。
エイナはこめかみに指を当てた。
ベルは、しゅん、と縮こまる。
数拍置いてから、エイナが額を押さえたまま呻いた。
「……ベル君」
「は、はいっ」
「どうしてキミは私の言いつけを守らないの!?」
びしり、と空気が震えた。
「ただでさえソロで潜ってるんだから、不用意に深層へ行っちゃダメ! 危険だって、何度も言ったよね!? 冒険なんかしちゃいけないって、いつも口酸っぱく言ってるでしょう!?」
「は、はいぃっ!」
『冒険者は冒険しちゃいけない』。
エイナの口癖だ。
言葉面だけ見れば矛盾している。だがその真意は極めて真っ当だった。
危険を侮るな。
帰れる見込みのない行動を取るな。
命を賭けるのではなく、命を繋ぐために戦え。
駆け出しの身である私たちにとって、それは金言であるはずだった。
──もっとも。
「…………」
私は、少しだけ違う考えを持っている。
死線を越えてこそ、人は変わる。
限界を踏み越えてこそ、生物は殻を破る。
何故そんなふうに思うのか、自分でも分からない。
記憶のない私には、根拠と呼べるものは何一つない。
けれど、妙にそれだけは、心の底で揺るがなかった。
もっと激しい戦場を知っている気がする。
もっと濃密な死と隣り合わせだった気がする。
剣戟の残響。
焼け落ちる空。
白と黒の羽。
血に濡れた玉座。
断片にすらならない、曖昧な残滓。
それでも、胸の奥に燻る感覚だけは消えない。
……とはいえ、今回ばかりはエイナの正しさを認めざるを得ない。
五階層でミノタウロスと遭遇するなど、本来なら想定外だ。
ダンジョンは理不尽の塊であり、常識は時に容易く覆る。
だからこそ、安全を説く彼女の言葉もまた、絶対に軽んじてはならない。
「はぁ……」
ひとしきり叱ったあと、エイナは肩を落とした。
「キミ、ダンジョンに変な夢を見てるんじゃないの? 今日だってそれが原因だったりするんでしょう?」
「あ、あはは……」
乾いた笑い。
分かりやすすぎる反応だ。
「間違いではないな」
私が横からそう言うと、ベルがぎょっとして振り向いた。
「へ、ヘイレルゥ……!」
「ベル君〜……?」
「は、はひぃ……!」
完全に追い詰められている。
とはいえ、私はベルの動機を愚かだとは思わない。
ベルが冒険者を目指した理由。
それは、英雄譚のような運命の出会いに憧れたからだ。
迷宮の奥で助けた少女と結ばれる騎士。
窮地で現れた麗しき乙女。
そんな物語じみた邂逅に胸を高鳴らせ、いつか自分もと夢見ることの、何が悪い。
不純だと笑う者もいるだろう。
だが人は、何かを求めなければ前に進めない。
理想でもいい。
欲望でもいい。
誰かにとっては取るに足らない願いであっても、その者自身を前へ押し出すのなら、それは十分に尊い。
そういう意味では、ベルは誰よりも真っ直ぐだ。
「あの、それで……ヴァレンシュタインさんのことを……」
叱責の流れを変えようとするように、ベルが恐る恐る話題を戻した。
エイナはじとりとした視線を向けたが、やがて諦めたように息を吐く。
「……ギルドとして、冒険者の情報を漏らすのはご法度なんだけど」
そう前置きしながらも、声は完全には冷たくなりきらない。
この女性は、結局のところ世話焼きなのだ。
「教えられるのは、公然となってることくらいだよ?」
「そ、それでも!」
「……はぁ、本名はアイズ・ヴァレンシュタイン。【ロキ・ファミリア】の中核を担う女剣士。剣の腕前は都市でも屈指。単独でLv.5相当のモンスター群を殲滅したこともある、文句なしの一流冒険者」
そこでエイナは少しだけ言葉を区切り、続ける。
「通り名は【剣姫】。それをもじって【
相変わらず、凄まじい経歴だ。
ベルは初めて聞いたような顔をしていたが、オラリオに来て半月にも満たない私ですら、その名くらいは知っている。
神々の間でも話題にされるほどの人物であり、酒場でも、市場でも、ギルドでも、ふとした雑談の中にその名は混じる。
剣姫。
迷宮都市に輝く黄金の到達者。
ベルが心を奪われたのも、無理はない。
「えっと、それで……その、冒険者としてのことじゃなくて……」
「趣味や好きな食べ物を知りたい、か?」
私が代わりに言うと、ベルが勢いよくこちらを向いた。
「そ、そう! さすがヘイレル!」
実に分かりやすい。
顔に書いてあるようなものだ。
エイナはぱちぱちと二、三度瞬きをした後、くすりと笑った。
「なぁに? ベル君もヴァレンシュタイン氏のこと、好きになっちゃったの?」
「いや、その……うぅ……」
視線が泳ぎ、頬が赤くなり、最後には観念したように小さく答える。
「……はい」
その声は、驚くほど素直だった。
私は横目でベルを見た。
恋か。
その言葉の輪郭が、胸のどこかで微かに引っかかる。
だが、それがどういう温度を伴うものなのか、私にはまだよく分からない。
記憶を失った私にとって、誰かに焦がれるという感情は、まだ遠いものだった。
ただ一つ分かるのは、ベルの中に今、とても強い火が灯っているということだけ。
「あはは。まあ、しょうがないのかな。同性の私でも彼女には思わず見惚れちゃうし」
エイナはそう言って紅茶に口をつける。
その仕草すら妙に優美だった。
恐らく本人に自覚はないのだろうが、彼女もまた充分に人目を引く。
柔らかな線で縁取られた瞳、整った鼻筋、すらりとした首筋。
流麗さで名高いエルフの血を引いていることを、嫌でも感じさせる美貌だ。
「ヘイレル君は、どうなの?」
不意に問われ、私は少しだけ考え、
「私は、彼女の強さに興味があるな」
それが今の偽らざる本音だった。
アイズ・ヴァレンシュタインという人物そのものより、彼女が到達している領域。そこに至る過程。磨き上げられた剣。積み重ねた死線。
そちらの方が気になる。
エイナは苦笑した。
「あはは、相変わらずブレないね、君も」
「ヘイレルはそういうところあるよね……」
「何だそれは」
「何て言えばいいんだろう……こう、変なところで達観してるというか……」
「褒めていないな?」
「うん、半分くらいは」
「半分は褒めているのか」
そんな軽口を挟みながらも、部屋の空気はどこか穏やかだった。
つい先ほどまで血まみれで飛び込んできたベルが、今はこうして頬を染めながら恋の相談をしている。その落差が少し可笑しい。
だが、こういう時間は嫌いではない。
温かい紅茶の香り。
窓の向こうから差し込む昼下がりの光。
職員が忙しなく行き交う廊下の足音。
それらに囲まれていると、自分が本当にここにいてもいいのだと、少しだけ思えるから。
やがてエイナは肩を竦める。
「付き合ってる人はいないって話くらいなら聞いたことあるけど……趣味とか、そういうところまでは流石に知らないなぁ」
「ほ、本当!?」
ベルの顔がぱっと輝く。
「……いや、そこに食いつくの?」
「あ」
どうやら自分でも分かっていなかったらしい。
慌てて口を押さえるベルに、エイナはとうとう呆れ顔になった。
「ダメダメ、これ以上は完全に業務外! 恋愛相談は受け付けてません!」
「そ、そこをなんとか!」
「だーめ」
ぴしゃり、と言い切られる。
「ほら、もう用がないなら帰った帰った。ベル君は今日は特に反省! ヘイレル君も、この子がまた変な無茶しないように見ててね?」
「努力はしよう」
「そこは即答してよ!?」
ベルの悲鳴じみた声を背に、私は椅子から立ち上がった。
さて。
血まみれで飛び込んできた少年の大騒動も、ひとまずはここまでか。
ベルの抗議を半ば聞き流すようにして、私たちは応接室をあとにした。
扉を開けると、ギルド本部の大広間が目の前に広がる。
白大理石で構築された広壮なホールは、何度見ても神殿じみた荘厳さを漂わせていた。高い天井には淡い光を落とす魔石灯が吊られ、壁際には神々や英雄を模した石像が、まるで来訪者を無言で見下ろすかのように並んでいる。
昼下がりという時間帯ゆえか、混雑は少ない。
多くの冒険者たちはすでに地下迷宮へ潜っているのだろう。広い空間に響くのは、受付の方角から流れてくる事務的な声と、遠くで交わされる靴音ばかりだった。
その中で、ベルだけがあからさまに不服そうな顔をしている。
「ヘイレルとエイナさんのいけず……」
拗ねたように唇を尖らせるベルへ、エイナはすぐさま眉を寄せた。
「あのねぇ……キミは冒険者になったんだから、もっと気にしなきゃいけないことが沢山あるんだよ?」
「うっ……」
今度の一言は、先ほどのような冗談混じりの叱責ではなかった。
柔らかい声音の内に、現実を見ろという重みがあった。
ベルはそれを理解しているのだろう。すぐには言い返せず、気まずそうに視線を泳がせる。
当然だ。
私たちの立場は、決して浮ついた夢を追ってばかりいられるものではない。
駆け出しの冒険者。
それは聞こえこそ悪くないが、実態はきわめて脆弱な生存者だ。
今日を生き延び、明日の糧を得るためにダンジョンへ潜る。
怪物を倒し、魔石を持ち帰り、それを換金してようやく生活が回る。
装備の補修、食料、薬品、そして神の生活費。
少し歯車が狂えば、たちまち首が回らなくなる。
庇護してくれる大きな【ファミリア】に所属しているわけでもない。
私たちは、ただ生きるために潜る側の人間だ。
だからこそ、ベルが剣姫に心を奪われ、恋に胸を焦がしているのは、どこか危うく見えた。
……もっとも。
私は横目でベルを見る。
その横顔は、先ほどアイズの名を口にした時と同じように、まだ僅かに熱を帯びている。
まるで、胸の内で灯った火が、簡単には消えてくれないとでもいうように。
人は何かを追わなければ、前へ進めない。
そう考える私からすれば、その火を頭ごなしに否定することはできなかった。
「キミはもう、神ロキ以外の神様から【恩恵】を授かったんでしょう?」
エイナが、歩調を緩めずに言う。
「【ロキ・ファミリア】で幹部まで務めるヴァレンシュタイン氏に近づくのは……正直、簡単じゃないと思う」
「……はい」
あからさまに肩を落とすベル。
その返事は、叱られたからではなく、理解してしまったからこそ重かった。
【ファミリア】とは、単なる集まりではない。
それは神と眷族を核とする、強固な共同体だ。
所属する神が違えば、関係性も、階層も、時に世界さえ違う。
とりわけ【ロキ・ファミリア】のような大派閥ともなれば、その内部に食い込むこと自体がひとつの障壁になる。
いくら憧れようと、いくら焦がれようと、届かないものはある。
エイナはそれを、できるだけ言葉を選びながら伝えていた。
「……想いを諦めろなんて言いたくないけど」
彼女は少しだけ視線を伏せた。
「でも、現実だけはちゃんと見ておかないと。じゃないと、ベル君のためにならないから」
少なくとも今は、恋より先にやるべきことがある。
冒険者として、生き残るだけの力をつけろ。
そう告げているのだ。
ベルは何も言わない。
ただ、俯いたまま、小さく拳を握っていた。
その沈黙の意味は分からない。
落胆か、悔しさか、それとも決意か。
けれど、この少年はただ打ちひしがれて終わるだけの性格ではない。私はそんな気がしていた。
「……換金はしていくの?」
空気を変えるように、エイナが事務的な口調へ戻る。
「そう、ですね。一応、ミノタウロスに出くわすまではモンスターを倒していたので……」
「じゃあ換金所まで行こうか。私も付いていくよ」
そうして、私たちは大広間の奥にある換金窓口へ向かった。
ギルド本部内の換金所は、受付の一角に併設されている。
簡素な石造りのカウンターに仕切りが設けられ、その内側で職員が魔石やドロップアイテムの査定を行っていた。
今この時間は利用者も少なく、列もほとんどできていない。
ベルが懐から革袋を取り出す。
中には今日の戦果──ゴブリンやコボルトから得た小さな魔石の欠片が収められていた。
「……あ」
そこで、ベルが何かを思い出したようにこちらを振り向く。
「ヘイレルの分もあるからね」
「私の分?」
「うん。今日は途中までとはいえ、いつも助けてもらってるのは僕の方だし」
「それを言うなら、今日、私は何もしていない。持ち帰った魔石は全てベルのものだ」
私は淡々と返す。
事実だった。
今日はベルが一人で潜り、私が同行していたわけではない。ならば収穫は彼のものだ。そこに異論はない。
だがベルは納得しなかった。
「それを言ったら、普段ずっとヘイレルに助けてもらってるのは僕の方だよ。それに──」
そこまで言ってから、ベルは少しだけ得意げに笑った。
「早くヘイレルの【スキル】がちゃんと使えるようになってほしいしね!」
「…………」
その言葉に、私はわずかに口を噤んだ。
ベルが差し出してきたのは、いくつかの魔石片。
薄く紫紺色の光を秘めた、それ自体が怪物の生命活動の残滓でもある結晶。
私はしばしそれを見下ろし、やがて受け取った。
「私は慣れちゃったけど、やっぱり不思議だよね」
エイナが興味深そうに目を細める。
「
「絶対これ、神様たちが言う『レアスキル』ってやつですよね! いいなぁ……僕も早くそういうの欲しいなぁ!」
呑気に目を輝かせるベル。
その横で、私は魔石片を指先で弄んだ。
硬質。冷たい。
それなのに、掌の内でじわりと脈打っているようにも感じる。
奇妙な感覚だった。
初めてこれを口にした時、私は自分でも正気を疑った。
怪物の核を、砕いて、飲み込む。まともな神経なら嫌悪して当然の行為だ。事実、最初の一度は喉が痺れ、胃が拒絶し、吐き戻しそうになった。
だが、二度、三度と重ねるうちに、身体の奥で何かが馴染んでいくのを感じるようになった。
まるで最初から、そうするようにできていたかのように。
私は魔石を口に運ぶ。
歯を立てると、石とは思えぬ脆さで砕けた。
しゃり、と乾いた音が響く。舌の上に広がるのは、鉱物じみた無機質な味──のはずだった。
しかし、その奥に、ごく微かな熱があった。
咀嚼し、喉へ落とす。
瞬間、腹の底で火種が灯るような感覚が走った。
「…………」
言葉にならないほど僅かな変化。
だが確かに、内側で何かが蠢く。
眠っていたものが、ほんの少しだけまぶたを開くような。
渇いていた何かへ、一滴だけ水が落ちるような。
そんな曖昧で、それでいて不気味な感覚だった。
「……どう?」
ベルが期待に満ちた眼差しで訊いてくる。
「少し、熱が回った。だが、まだ足りないな」
「そっか……」
残念そうではあるが、落胆しているわけではない。
むしろ、次こそは、というような前向きさが表情に残っている。
この少年は、本当に他人のことまで自分のことのように喜ぶ。
私はその性質を、少し眩しく感じていた。
換金はすぐに終わった。
今日の収穫は、ゴブリンやコボルトを中心とした少量の魔石片。
査定額は、すべて合わせて千ヴァリスほど。
決して多くはない。
いや、はっきり言えば少ない。
普段より額が落ちているのは、今日私がベルに同行していなかったことに加え、本来換金に回せたはずの一部を私が食べてしまったからだ。
武器の整備。防具の補修。食料。日用品。
そうした現実的な出費を思えば、私の【スキル】はあまりに燃費が悪い。
魔石を喰らわねば発現しない力。
言い換えれば、金を食ってようやく動く力だ。
不都合極まりない。
今後を考えれば、そう評するほかない。
……こんなことなら、今日は私も一緒に潜るべきだったかもしれない。
そんな思考が過ぎる。
すると、不意に背後からエイナの声がした。
「……ベル君」
「あっ、はい。何ですか?」
本部の出口へ向かう途中、エイナが足を止めていた。
彼女は少しだけ言い淀むように視線を揺らし、それから意を決したようにベルを見つめる。
その表情は、先ほどまでのギルド職員としての顔とは少し違っていた。
もっと個人的で、もっと年長者らしい、柔らかな迷いがあった。
「あのね」
エイナは咳払いを一つする。
「女の人って、やっぱり……強くて、頼りがいのある男の人に魅力を感じるから」
「…………」
「その、今すぐどうこうは難しくても……めげずに頑張っていれば、いつか振り向いてくれるかもしれないよ?」
ベルが固まる。
時間が止まったように、完全に動きを失った。
彼の頭の中で今、どれほど都合のいい未来予想図が乱舞しているのか、手に取るように分かる。
「……ヴァレンシュタイン氏も」
エイナはほんのり頬を赤らめながら、最後の一押しを口にした。
「強くなったベル君に、振り向いてくれるかも、ね?」
沈黙。
ベルはその言葉を噛み締めるように、ゆっくりと瞬きをした。
一語一句を逃すまいと、胸の奥で何度も反芻しているのだろう。
やがて。
その顔が、見る間に明るくなっていく。
陰っていた目に光が戻り、肩は起き、口元が綻び、ついには全身から分かりやすいほど活力が溢れ出した。
単純だ。
だが、だからこそ強い。
ほんのひと言で立ち上がれる者は、案外しぶとい。
「エイナさん──!」
勢いよく叫び、ベルが駆け出す。
かと思えば、数歩行ったところでくるりと振り返り、満面の笑みで両手を大きく振った。
「エイナさん、大好きー!!」
「……えうっ!?」
エイナの喉から、妙な声が漏れた。
「ありがとぉー!!」
「ちょ、ちょっと、ベル君!?」
そのままベルは、まるで追い風でも受けたかのような勢いで本部の外へ駆けていく。
落ち込んでいた数分前が嘘のような回復ぶりだった。
私はその背を見送りながら、半ば呆れ、半ば感心していた。
「……ベルは無意識にああいうことをするからな」
ぽつりと漏らすと、隣でエイナが顔を真っ赤にしたままこちらを睨む。
「……もぅ!」
怒っているのか照れているのか分からない声音だ。
いや、恐らく両方だろう。
先ほどまで年長者らしく励ましていたくせに、ああいう真正面からの好意には弱いらしい。
その反応が何だか妙に人間らしくて、私は小さく笑った。
「今日は世話になった、エイナ」
「……それはいいけど、ヘイレル君もちゃんとベル君を見ててよ? あの子、放っておくとすぐ無茶するんだから」
「分かっている」
本当に分かっているのかと問われれば、少し困る。
私自身、無茶を止める側の人間ではない自覚がある。
それでも。
私は、既に本部の外へ飛び出していった白髪の背中を思い浮かべた。
死の恐怖に震え、恋に心を焼かれ、ひとつの言葉でまた前を向く。
あの少年は、危なっかしいほどに真っ直ぐだ。
だから放っておけないのかもしれない。
「では、私も行く」
「うん。気をつけてね」
短く別れを交わし、私は踵を返した。
大理石の床を蹴る足音が、静かなホールに響く。
外では、迷宮都市の喧騒が待っているはずだ。夕刻へ向かう街路、行き交う冒険者たち、そしてホームで待つ神。
そのどこかで、ベルはきっと、先ほどの言葉を胸の中で何度も反芻しているのだろう。
強くて、頼りがいのある男。
自分にはまだ遠い言葉だと分かっていても、きっとあの少年は、その響きに手を伸ばす。
憧れた剣姫へ届く未来を、本気で夢見る。
……悪くない。
私は知らず、口元を緩めていた。
恋に浮かれた白兎を追って、ギルド本部の外へと足を速める。
その背を見失わないように。
そして、いつか本当に──あの少年が、憧れへ届くその日を、少しだけ見てみたいと思いながら。