見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
朝の光は、まだ柔らかく。
窓枠の隙間から差し込む淡い陽光が、細い筋となって室内へ流れ込み、古びた床板を斜めに照らしている。夜の冷気はなお部屋の隅へ残り、空気にはひやりとした静けさが沈んでいた。深く息を吸えば、乾いた木材の匂いと、古い布に染みついた生活の香りが肺へ落ちていく。
質素な部屋だった。
壁板には無数の小さな擦り傷。梁には長年積もった煤の色。机は狭く、椅子は二脚。隅に並ぶ簡素な寝台の片方には、まだ乱れた毛布が投げ出されたままになっている。
豊かではない。
だが、寒々しくもなかった。
ここには確かに、誰かが日々を生き、笑い、疲れ、眠ってきた温度がある。飾り気はなくとも、人の暮らしが積み重なった部屋。
私は壁へ背を預け、腕を組んだまま、その光景を眺めていた。
部屋の中央。
寝台へうつ伏せになったベル・クラネルが、上半身を裸にして背を向けている。
白い肌。まだ少年らしい細い肩。骨ばった背中には未熟さが残る。だがその輪郭には、以前にはなかった変化があった。肩甲骨の周囲に薄く浮き始めた筋肉。腰の芯に宿った安定。迷宮で何度も駆け、跳び、斬り、倒れ、それでも立ち上がってきた証が、少しずつ身体を冒険者のものへ変え始めている。
脆いままではない。
弱いままでもない。
この少年は、確かに前へ進んでいた。
その背へ跨るように座っているのは、主神ヘスティア。
小柄な身体を器用に乗せ、針先へ滲ませた神血を用いて、ベルの背中へ【神聖文字】を刻んでいく。
神々の言葉。
人の目には意味を持たぬ文様にしか見えないそれは、恩恵を受けた者の力と成長を記す神秘の記録だ。経験、熟練、資質、可能性──人が己でも掴みきれぬ内面を、神だけが読み取れる形で綴ったもの。
冒険者にとっては履歴書であり、戦歴であり、未来図でもある。
針先が肌を滑る微かな音だけが、静かな部屋に響いていた。
穏やかな朝だった。
昨日までの騒ぎが嘘のように。
一昨日の夜、私はベート・ローガとの戦いで倒れた。ベルは自身の無力さに焼かれるように迷宮へ潜り、主神は一晩中その行方を探し回った。
帰ってきたベルを見つけた時の、ヘスティアの顔を私は忘れられない。
泣きそうで。
怒っていて。
安堵していて。
同時に三つの感情を浮かべる者など、そうはいない。
あれほど誰かの無事に心を乱せる神も、私は知らない。
その後、限界まで疲れ切ったベルは丸一日眠り続け、ようやく迎えた今朝。
その始まりとしての【ステイタス】更新。
いつも通りであるはずだった。
「……っ?」
最初に違和感を覚えたのは、主神の手が止まった時だった。
ぴたり、と。
それまで一定の調子で動いていた指先が、見えぬ壁へ触れたように静止する。
ヘスティアはベルの背中を見下ろしたまま、呼吸すら忘れたように固まっていた。
「神様?」
ベルが少しだけ首を捻る。
肩越しに見上げるその顔は、いつも通り無垢だった。自分の背で何が起きているのか、まるで分かっていない。
「……っ! な、なんでもないよ!」
弾かれたように主神が笑顔を作る。
だが、隠しきれていなかった。
声はわずかに裏返り、頬も引きつっている。作り笑いというものは、案外分かりやすい。
私は眉を寄せた。
ヘスティアの視線が、ちらりとこちらへ向く。
その瞳が、言葉なく訴えていた。
──早すぎる、と。
それだけで十分だった。
ベルの成長速度。
またしても、常軌を逸しているのだ。
私は静かに息を吐いた。
熟練度というものは、本来、積み重ねだ。
剣を振るう。走る。躱す。受ける。傷つく。生き延びる。
その一つ一つが糧となり、数字として蓄積される。地味で、地道で、決して劇的ではない歩みだ。
多くの冒険者は最初こそ伸びる。
白紙の時期は、学ぶこと全てが成長に直結するからだ。
だが基礎を覚えれば、やがて誰しも壁へ突き当たる。
剣技の壁。体力の壁。精神の壁。
そして最も厚いのが、才能の壁だ。
そこから先は、一歩進むだけで長い時間を要する。何ヶ月、何年とかけ、それでも届かぬ者もいる。
都市オラリオの冒険者の半数以上が、
第三級冒険者とも呼ばれる、中堅への入口。
それは努力だけでは届かぬ者にとって、遥かな境界線でもある。
だが、ベルは違う。
壁を壁と認識していないかのように、駆け上がっていく。
成長ではない。
飛躍だ。
私は無意識に、唇の裏を噛んでいた。
理由なら知っている。
【憧憬一途】。
主神と私だけが知る、ベルの秘められたスキル。
アイズ・ヴァレンシュタインへの純粋な憧れを糧とし、彼女へ並び立ちたいという願いを推進力に変え、異常な速度で成長を促す希少能力。
ヘスティアが今、複雑な顔をしている理由も分かる。
嬉しいのだ。
自らの眷族が強くなることは。
誇らしいのだ。
何者でもなかった少年が、この迷宮都市で羽ばたこうとしていることは。
だが同時に、恐ろしくもある。
急激な力は、急激な破滅を呼ぶことがある。
実力以上の自信。
分不相応な挑戦。
驕り。油断。無謀。
そうして命を落とした者を、この街は幾人も見てきた。
そして何より──
ベルを失いたくないのだ。
主神は過保護だ。
だが、それを笑うことはできない。
彼女は笑えぬほど真剣に、この少年を大切にしている。
「……神様? 本当に大丈夫ですか?」
ベルがもう一度尋ねる。
今度は明らかに不安げだった。
「…………だ、大丈夫だよ、ベルくん」
主神は作業を再開するふりをする。
だが文字を刻む速度はひどく遅い。
迷っているのだ。
この結果を、そのまま伝えるべきか。
隠すべきか。
私は壁から背を離した。
「主神」
「──ひゃっ!?」
情けない声が跳ねる。
「……な、なにかなヘイレル君」
「伝えるべきだ」
短く告げた。
ヘスティアの肩がびくりと揺れる。
「で、でも……もしベル君が浮かれて、無茶をして……」
「ベルは、数字ひとつで天狗になるほど浅くない」
「う……」
「それに、己の力を知らぬまま戦場へ出る方が危うい」
ベルが目を丸くし、私と主神を交互に見る。
「へ、ヘイレル……?」
「聞いていろ」
私は視線を逸らさず、主神へ続けた。
「強さを隠して守るのは、一見優しさに見える」
言葉を切る。
「だがそれは、本人から選ぶ機会を奪うことでもある」
ヘスティアは黙り込む。
小さな拳が、ベルの背の上でぎゅっと握られた。
「ベルは子供ではない。冒険者だ」
「…………」
「貴女の眷族なら、なおさら信じるべきだ」
静寂が落ちた。
窓の外で、小鳥が一羽鳴く。
遠く、どこかの家の扉が開く音がした。朝の街がゆっくり目覚め始めている。
だが、この部屋だけは別の時間が流れていた。
やがて主神は、小さく息を吐く。
観念したように。
あるいは、腹を括ったように。
「……ヘイレル君って、時々すごく年上みたいなこと言うよね」
「気のせいだ」
「絶対ちがう」
そうぼやいてから、彼女はベルの背へ視線を戻した。
その瞳に、もう迷いはなかった。
「ベル君」
「は、はいっ」
「今日は口頭で【ステイタス】の内容を伝えるよ。ちゃんと聞いてね」
ベルの喉が、ごくりと鳴る。
期待と緊張が入り混じった顔だった。
主神は一度だけ、私を見る。
私は何も言わず頷いた。
それだけで十分だった。
そして、ヘスティアは告げる。
少年の想像を遥かに超えた、その飛躍を。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
ベル・クラネル Lv.1
力:H120→G221
耐久:I42→H101
器用:H139→G232
敏捷:G225→F313
魔力:I0
《魔法》
【 】
《スキル》
【】
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
「──え?」
最初に声を漏らしたのは、ベルだった。
寝台へうつ伏せになったまま、少年は勢いよく顔だけを上げる。白髪が揺れ、赤い瞳が丸く見開かれていた。それはまるで信じられないものを見た時の顔で。
ヘスティアは、その視線を真正面から受け止めている。
小さな胸を張り、いつものように威勢よく見せながらも、肩にはまだ僅かな緊張が残っていた。先ほどまで迷い、揺れていた者の気配が、完全には消えていない。
「だ、だからね。今のベル君は、かなりすごい勢いで熟練度が伸びてるんだ。普通じゃ考えられないくらいに」
「ぼ、僕が……?」
「うん。君が」
主神は、一文字ずつ噛みしめるように言った。
「正直、ボクも驚いてる。こんな伸び方、そうそう見られるものじゃない」
ベルの喉が、こくりと鳴る。
嬉しいのだろう。
だが、それ以上に戸惑っていた。
自分が優れているなど、これまで本気で考えたこともない顔だった。
無理もない。
昨日までのベルは、憧れへ手を伸ばしては届かず、自分の小ささに打ちひしがれていた少年だ。そんな者へ突然、「お前は特別だ」と告げたところで、すぐに受け入れられるはずもない。
「……でも、どうして」
か細い声だった。
「僕、そんなに強くなんて……」
「今この場で、強い弱いの話はしていないよ」
主神が少しだけ真面目な顔になる。
「君には、伸びる力があるって話だ」
ベルは黙る。
胸の内で何かを噛み砕くように、唇を結んでいた。
自信と無縁に生きてきた者ほど、肯定の言葉を受け取るのは難しい。疑い、戸惑い、否定してしまう。ベルもまた、その渦中にいた。
ただし──今語られている内容は、全てではない。
【憧憬一途】。
ベルの急成長の根幹を担うそのスキルの存在は、伏せられていた。
主神と私だけが知る秘密だ。
スキルというものは稀少だが、珍奇ではない。確認されている多くは、名称こそ違えど似た性質を持つ。エルフなら魔法補助、ドワーフなら膂力強化といった具合に、種族ごとの傾向すら存在する。
だが中には、それらの枠へ収まらぬものがある。
唯一性。
希少性。
神々が勝手に『レアスキル』と呼ぶ類のものだ。
そして【憧憬一途】は、間違いなくその領域にある。
こんなものが知られれば、面倒しか起きない。
退屈に飢えた神々は、珍しい玩具を見つけた子供のように群がるだろう。にやつきながら、面白半分に掻き回し、時には既に所属が決まっている者へ堂々と勧誘までかける。
ベルは、嘘が下手だ。
問い詰められれば、余計な疑念まで招く。
だから主神は、この秘密だけは胸の奥へしまい込み、ベルを守ることを選んだ。
「……あ」
沈黙の末、ベルの視線が揺れる。
「ん?」
「い、一応……一昨日は六階層まで行ったんですけど……」
部屋の空気が止まった。
私はゆっくり瞬きをする。
主神は数秒ほど固まり──次の瞬間、顔を真っ赤にした。
「ぶっ……あ、あふぉーッ!!」
雷鳴のような怒声が狭い室内を揺らした。
窓硝子がびり、と震えた気さえした。
「防具も満足に揃ってないのに!? 一人で!? 六階層まで!?」
「ご、ごめんなさいっ!?」
「謝れば済むと思ってるのかい!? 済まないよ!? 済むわけないでしょ!?」
主神は寝台の上でぴょんと立ち上がり、そのままベルの背をぺしぺし叩き始めた。痛みより勢いが勝っている叱責だった。
ベルは半裸のまま頭を抱え、小さくなっている。
「しかも怪我して帰ってきて、丸一日寝込んで! どれだけ心配したと思ってるのさ!」
「ほんとうに、ごめんなさい……!」
「声が小さい!」
「ご、ごめんなさいっ!」
少しだけ面白かった。
だが、私も笑って見ているだけでは済まない。
「ベル」
「ひゃ、ひゃいっ!」
叱られすぎて返事がおかしくなっていた。
「無茶をするなとは言わん」
「え……?」
「冒険者に無茶は付き物だ。だが、無策はただの愚行」
ベルの肩がぴくりと震える。
私は淡々と続けた。
「装備も整っていない。疲労もある。精神も乱れていた。そんな状態で新階層へ近づけば、死んでいた可能性もあった」
「……はい」
「お前が死ねば、悲しむ者がいる」
言った瞬間、主神がこちらを見る。
ベルも、ゆっくりと顔を上げた。
「それを忘れるな」
少年はしばらく黙っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……はい」
先ほどまでとは違う返事だった。
叱られたからではなく、届いたからこその声だった。
主神は怒り疲れたのか、肩で息をしながら寝台へ腰を下ろす。
「……はぁ。ほんとにもう」
乱れた前髪を整えながら、彼女は小さくため息をついた。
そして、ベルを見る。
「でもね」
声音が柔らかく変わる。
「君には才能がある。これは慰めでも、お世辞でもない」
ベルが目を瞬かせた。
主神は真っ直ぐ言葉を重ねる。
「冒険者としての勘。危険の嗅覚。土壇場で折れない心。ちゃんと持ってる」
私は黙って聞いていた。
その評価に異論はない。
ベルは未熟だ。粗削りで、脆く、甘い。
だが、光るものがある。
戦いの中で判断を下す速さ。生き延びるために咄嗟に身体が動く感覚。何より、一度折られてもなお立とうとする意志。
それらは、教えられて身につくものではない。
「ヘイレル君だって、そう思ってるでしょ?」
不意に話を振られた。
ベルが勢いよくこちらを見る。
「……わからん」
「そこで濁すの!?」
「調子に乗らせると面倒だ」
「乗りませんっ!」
「今の勢いは少し怪しいな」
「う……」
耳まで赤くなるベルを見て、主神が吹き出した。
ようやく部屋の空気が和らぐ。
だが、その笑みは長く続かなかった。
ヘスティアはふと俯き、両手を胸元で握る。
小さな指先が、ぎゅっと震えていた。
「……ベル君」
「は、はい?」
「強くなりたいっていう君の気持ちは、止めない」
声が少し掠れていた。
「応援もする。力も貸す。出来ることは何だってする」
そこで言葉が詰まる。
主神は唇を噛み、目元を伏せた。
次に顔を上げた時、その瞳は薄く潤んでいて。
「……だから、お願い」
ベルが息を呑む。
「ボクと、ヘイレル君を……置いていかないで」
部屋から音が消えた。
外の鳥の声も、街の物音も、何もかも遠い。
ただその願いだけが、静かに胸へ落ちてくる。
「悲しませないでおくれ」
神でありながら、あまりにも人間らしい声音だった。
ベルは大きく目を見開いたまま固まっていた。
やがて俯き、拳を握りしめる。
肩が小さく震えている。
何かを堪えるように。
何かを決めるように。
長い沈黙の後、少年は顔を上げた。
「……はい」
その笑顔は、泣きそうで。
それでも確かに前を向いていた。
「無茶は、しません」
一つずつ、確かめるように言う。
「頑張ります。必死にもなります。強くなりたいです」
赤い瞳が揺れずに主神を見つめる。
「でも、神様も……ヘイレルも、置いていきません」
そして、私の方を見る。
「心配も、させません」
私は思わず目を細めた。
眩しい、と感じたのかもしれない。
「……それなら合格かな」
主神が涙を拭いながら笑う。
私は無言で椅子の背に掛けてあった服を取り、ベルへ投げた。
「着ろ。いつまで半裸でいる」
「あ、ありがとう……」
慌てて服を抱える姿に、主神がまた笑う。
三人しかいない狭い部屋。
だが不思議と、満ち足りていた。
その時だった。
「……ん?」
ヘスティアが机の端に積まれた紙束へ目を留める。
請求書。酒場の手伝い募集。食材の値上げ通知。そんな雑多な紙の中に、一枚だけ厚手の封書が混じっていた。
主神はそれを引き抜き、封を切る。
読み進めた次の瞬間。
「げっ」
珍しく、神らしからぬ声が漏れた。
「どうした、主神」
「ど、どうしたもこうしたも……今日だった」
「何がですか?」
主神は頭を抱える。
「
そう叫ぶや否や、彼女は部屋中を駆け回り始めた。
衣装箱を開け、服を引っ張り出し、鏡代わりの金属板を覗き込み、また走る。
「どれ着ればいい!? これ地味!? いや派手!? ああもう時間が!」
先ほどまで涙ぐんでいた人物と同一とは思えない切り替えだった。
ベルが呆然とし、私は額を押さえる。
「神というのは忙しないものだな」
「ヘイレル君、ちょっと失礼だよ!?」
「事実だ」
結局、主神は一番ましな服を鞄へ詰め込み、玄関口で靴を履きながらこちらを振り返った。
「ベル君、今日もダンジョン行くのかい?」
「えっ? あ、はい。そのつもりです」
主神は一瞬だけ真顔になる。
「無茶はしない。引き際を考える。約束、覚えてるね?」
「はい!」
満点の返事だった。
満足そうに頷いた後、彼女の視線が私へ移る。
「……ヘイレル君」
「なんだ」
「できれば、見ててあげて」
小さな声だった。
私は肩をすくめる。
「気が向けばな」
「それ、絶対行くやつだ」
「さあな」
ベルが目を丸くしている。
「ヘイレル、一緒に来てくれるの?」
「誰がそう言った」
「え、でも……」
「たまたま同じ方向へ歩くだけかもしれん」
「それって一緒じゃないか」
主神が吹き出し、次いで嬉しそうに笑った。
「じゃ、行ってくる! もしかしたら何日か留守にするかもしれないけど……二人とも、ちゃんとご飯食べるんだよ!」
勢いよく扉が開き、閉まる。
足音が階段を駆け上っていく。
やがて部屋には静寂が戻った。
ベルが服の襟を整えながら、ちらりとこちらを見る。
「……で、どうするの?」
「何がだ」
「ダンジョン」
私は窓の外へ視線を向けた。
朝日が昇り、迷宮都市オラリオの街並みを黄金に染め始めている。
新しい一日だ。
「そうだな」
口元が、僅かに緩んだ。
「監視くらいはしてやろう」
ベルの顔がぱっと明るくなる。
まるで子犬だ、と私は思って。
少しだけ、笑ってしまった。