見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
太陽は、すでに空の高みにあった。
正午にはまだ届かない。けれど、迷宮都市オラリオの大通りは、早くも一日の熱気に満ちていた。
石畳を踏み鳴らす冒険者たちの足音。露店の店主が張り上げる呼び声。武具屋の軒先で剣を試し振りする金属音。荷馬車の車輪が軋み、どこかの屋台からは焼けた肉と香辛料の匂いが流れてくる。
平穏とは程遠い。
だが、この喧騒こそがオラリオの日常だった。
人は進む。
笑う。怒る。食う。働く。戦いに行く。
昨夜誰かが傷つこうが、今朝誰かが涙を流そうが、都市は止まらない。迷宮都市は今日も、当たり前のように命を呑み込み、当たり前のように命を吐き出している。
その雑踏の中を、私はベルと並んで歩いていた。
ヘスティアが慌ただしく出かけていった後、続くように部屋を出た私たちは、それぞれ冒険者用の装備へ身を包んでいた。向かう先は、言うまでもない。
ダンジョン。
ただし、今日の目的は探索ではない。
少なくとも、私の中ではそう決めていた。
「無理はしない……無理はしない……無理はしない……」
隣を歩くベルが、小さく呟いている。
まるで呪文だ。
何度も、何度も、己の内側へ刻みつけるように繰り返している。
おそらく、出がけに見た主神の顔が頭から離れないのだろう。
怒っていた。
泣きそうだった。
それでも最後には、置いていかないで、と願った。
あの声は、容易に忘れられるものではない。
ベル・クラネルという少年は、誰かに真っ直ぐ向けられる好意や心配に弱い。怒鳴られるより、責められるより、優しくされる方がずっと堪える。今の彼の横顔には、その余韻が色濃く残っていた。
「唱えれば守れる約束なのか、それは」
「ち、違うよ。ただ確認してるだけ」
「前科持ちの言葉は軽いな」
「うぐっ……」
ベルが胸を押さえる。
少しだけ肩を落としたその姿は、一昨夜六階層まで単独で突き進んだ冒険者には見えなかった。けれど、だからこそ私は目を逸らせない。
彼は強くなろうとしている。
アイズ・ヴァレンシュタインへ追いつきたいという願い。
ただ憧れるだけではなく、届きたいと望んだ意思。
それは美しい。
眩しいほどに。
だが同時に、危うい。
強くなりたいという願いは、時に人を前へ進ませる。
だが、同じだけ人を壊す。
焦り。劣等感。無茶。無謀。
自分の足元を見失えば、憧れは容易く毒へ変わる。
だから今日は、無理をさせない。
冒険もさせない。
少なくとも、本格的な探索はさせない。
今は背伸びをする時ではない。
積み上げる時だ。
足運び。間合い。剣の振り。魔物の癖。疲労した時の判断。退くべき時の見極め。
華々しさなど要らない。
生き残るための地味な礎を、ひとつずつ叩き込む。
そう考えたところで、胸の奥がわずかに軋んだ。
人の心配をしている場合か、と。
ベート・ローガの蹴撃は、今も身体の奥に残っている。呼吸を深くすれば肋が鈍く痛み、肩を回せば筋肉が引きつる。外傷は目立たなくとも、身体はまだ戦闘の余波を抱えていた。
完治には、もう少しかかる。
だが、立ち止まる気はなかった。
ベルはこれから信じがたい速度で成長していく。
彼の背に宿る『スキル』は、常識を踏み越える。
ならば私は、どうする。
置いていかれないために、足掻くしかない。
ベル・クラネルの隣に立つ存在でありたい。
そう思った。
守るためだけではない。
導くためだけでもない。
あの少年が前へ進む時、背中を見送るだけの存在にはなりたくなかった。
……もっとも。
ベルに無理はさせない。
だが、私自身は多少の無理をしなければ、そのうち隣どころか背中すら見えなくなる。
そう考えてしまうのは、仕方のないことだろう。
「ヘイレル?」
「なんだ」
「今、すごく難しい顔してたけど……身体、やっぱり痛む?」
ベルがこちらを覗き込む。
赤い瞳には、純粋な心配が浮かんでいた。
自分の方が散々無茶をしたくせに、人の怪我には敏感なのだから始末が悪い。
「問題ない」
「それ、問題ある時の言い方だよね?」
「気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないよ……」
「なら、お前も問題ないのか」
「えっ?」
「身体だ。六階層まで夜通し潜ったのだろう」
ベルは気まずそうに視線を逸らした。
「……ちょっと、痛い」
「ちょっとで済むわけがない」
「はい……」
しゅん、と肩が落ちる。
まるで叱られた子犬だ。
私は息を吐いた。
「今日は無茶はさせない」
「うん」
「新しい階層にも行かせない」
「うん」
「勝手に突っ走ったら、主神に報告する」
「それだけはやめて!?」
ベルの顔色が変わった。
なるほど。
ヘスティアの涙は、十分な抑止力になっているらしい。
「なら従え」
「……はい」
そうして歩くうち、私たちは大通りから少し外れた一角へ辿り着いた。
昼間の陽光に照らされたその建物は、夜に見た時とは印象が違っていた。
酒場『豊饒の女主人』。
夜であれば冒険者たちの笑い声と酒の匂いで満ちる場所。
だが今は、扉に『Closed』の札が掛けられている。
昼の光を浴びた外観は、意外なほど穏やかだった。木造の壁には長く使われてきた艶があり、窓辺には小さな花まで飾られている。昨夜の喧騒を知らなければ、ここが荒くれ者どもの集う酒場だとは思わないかもしれない。
ベルが扉の前で足を止めた。
「……ちょっと気まずいなぁ」
白い髪を掻きながら、情けなく笑う。
無理もない。
食事の途中で飛び出し、代金も払わず、シルの心配を置き去りにした。
理由があったとはいえ、誠実なベルにとっては重い負い目なのだろう。
「気にすることなどないだろう」
「ヘイレルはそうかもしれないけど、僕はかなり気まずいよ」
「謝りに来たのだろう」
「うん」
「なら逃げる理由はない」
ベルは一瞬だけ黙った。
そして、小さく息を吸う。
「……そうだね」
その表情にはまだ緊張が残っていた。
だが、逃げる気はないらしい。
ベルは意を決したように扉へ手を伸ばした。
カラン、カラン。
乾いた鐘の音が、準備中の店内へ響いた。
「申し訳ありません、お客様。当店はまだ準備中でして──」
「まだミャーたちのお店はやってニャいのニャ!」
店内で最初に反応したのは、二人の少女だった。
一人はエルフ。
長い耳。整った顔立ち。淡く流れるような薄緑色の髪。
制服をきっちりと着こなし、姿勢にも声にも隙がない。
静謐。
その言葉がよく似合う少女だった。
もう一人はキャットピープル。
こちらは対照的に、跳ねるような声と表情をしている。猫耳がぴんと動き、尻尾が不満げに揺れていた。くるくる変わる顔立ちは愛嬌に満ち、黙っていれば美少女、口を開けば騒動の気配がする。
どちらもシルと同じ制服を着ている。
だが、纏う空気はまるで違った。
冷えた刃のようなエルフ。
陽だまりで爪を研ぐ猫のような獣人。
「…………」
そしてベルは、エルフの少女を見た瞬間、分かりやすく硬直した。
そういえば、ベルはエルフ好きだったか。
「あ、あの、すいません。僕はお客じゃなくて……その、シル……シル・フローヴァさんはいらっしゃいますか? あと、女将さんも……」
ベルの声は少し上擦っていた。
エルフの少女がわずかに目を細める。
キャットピープルの少女は、数秒だけ首を傾げ──次の瞬間、大きく目を見開いた。
「ああぁっ! あん時の食い逃げニャ!」
「ひっ」
「シルに貢がせるだけ貢がせといて、役に立たニャくなったらポイしていった、あのクソ白髪野郎──」
「──貴方は黙っていてください」
「ぶニャっ!?」
速かった。
あまりに速すぎて、何が起きたのか一瞬遅れて理解した。
エルフの少女の手が閃き、キャットピープルの少女の頭部へ正確無比な一撃を叩き込んでいた。
悲鳴を上げた獣人少女は、そのまま床に沈みかける。
「…………」
私は目を細めた。
……見えなかった。
いや、完全に見えなかったわけではない。
だが、初動を捉え損ねた。
この女、ただの給仕ではない。
「失礼しました」
エルフの少女は何事もなかったように一礼した。
「すぐにシルとミア母さんを呼んでまいります」
「は、はい……」
ベルが冷や汗を浮かべながら頷く。
エルフの少女は倒れたキャットピープルの襟首を掴み、ずるずると店の奥へ引きずっていった。獣人少女の耳がぴくぴくと揺れているが、抵抗する気配はない。
その背中を見送りながら、私は内心で警戒を一段引き上げた。
歩き方。
重心。
気配の消し方。
力の抜き方。
素人ではない。
元冒険者か。
それも、単なる駆け出しではない。
この酒場は、一体何なのだろうか。
ただの酒場にしては、従業員の質が異様だ。
店主も含め、戦い慣れた気配が濃すぎる。
元冒険者の寄り合いか。
それとも、何らかのファミリアに近い組織なのか。
真実は分からない。
だが少なくとも、ここを侮るべきではない。
「……ヘイレル?」
「なんだ」
「今、すごく怖い顔してたよ」
「気のせいだ」
「今日は気のせいが多いね……」
ベルが苦笑する。
しかしそれ以上話すこともなく、私たちは店内を見回した。
以前訪れた夜とは、空気がまるで違う。
酒と肉と冒険者の熱気に満ちていた夜の酒場。
その姿は鳴りを潜め、今は静かな喫茶店のようだった。
椅子は整然と並べられ、テーブルには白いクロスが掛けられている。窓から差す昼の光が木目を柔らかく照らし、磨かれた床に淡い影を落としていた。
昼は街人や休息中の冒険者を相手にし、夜は迷宮帰りの者たちを迎える。
客層に応じて店の顔を変えているのだろう。
よく考えられている。
そんなことを思っていた時だった。
「ベルさんっ!?」
階段を駆け下りる音がした。
ほどなく、店の奥からシルが現れる。
銀色の髪が柔らかく揺れ、薄灰色の瞳がベルを捉えた。
驚き。
安堵。
そして、ほんの少しの痛み。
その全てが、彼女の表情に浮かんでいた。
ベルはその顔を見た瞬間、明らかに緊張した。
きっと、改めて自分のしたことを思い出したのだろう。
食事の途中で飛び出した。
金も払わなかった。
追いかけてきたであろう彼女に会うこともなかった。
何より、心配をかけた。
ベルは一歩前へ出る。
それから、深く腰を折った。
「一昨日は、本当にすいませんでした」
声には、逃げも誤魔化しもなかった。
「お金も払わずに、勝手に飛び出して……シルさんにも、皆さんにも迷惑をかけました」
シルは、すぐには答えなかった。
責めることもできたはずだ。
どうして戻ってこなかったのかと問うことも。
どれだけ心配したと思っているのかと怒ることも。
けれど、彼女はそうしなかった。
「……いいんです」
静かな声だった。
「こうして戻ってきてくれましたから。それだけで、私は嬉しいです」
ベルの肩が、かすかに震えた。
ああ。
これは効くだろうな、と思った。
怒鳴られるより、責められるより、優しさの方が胸に刺さる時がある。
特にベルのような人間には。
ベルは慌てて目元を拭った。
まるで、目に埃でも入ったのだと言わんばかりに。
「こ、これ、払えなかった分です。もし足りないなら、ちゃんと色を付けて返します」
ベルは用意していた金を差し出す。
だが、シルは困ったように微笑み、首を横へ振った。
「これは、受け取れません」
「……え?」
「ベルさんが出て行かれた後、ヘイレルさんがベルさんの分まで支払ってくださったんです」
「ええっ!? そ、そうなの、ヘイレル!?」
ベルが勢いよくこちらを振り返った。
「どうだったか」
「いや、絶対払ってるよね!? 今の反応、払ってる人の反応だよね!?」
「記憶にない」
「なんでそこで誤魔化すの!?」
「だが、謝意を伝えることは間違いではない。相手へ誠意を示すことは大切だ」
「……それは、確かに」
ベルは一度納得しかける。
だが、すぐに何かへ気づいたように顔を引きつらせた。
「もしかして、それって……」
「貸しが一つ増えたということだな」
「やっぱり!?」
「安心しろ。一つずつでいい」
「ちなみに、今いくつあるの?」
「数えるのをやめた」
「怖いんだけど!?」
「いつか私を助けてくれればいい」
「ヘイレルを助けられることなんて、これっぽっちもないんだけど!?」
シルがくすくすと笑った。
「本当に、仲がよろしいんですね」
「い、いや、これはそういうのじゃ……!」
「そうか?」
「ヘイレルも否定してよ!」
ベルの顔が赤くなる。
シルはしばらく微笑ましそうに私たちを眺めていたが、やがて何かを思いついたように両手を打った。
「少し待っていてください」
そう言って、彼女は厨房の方へ消える。
ややあって戻ってきた時、その腕には大きめのバスケットが抱えられていた。
「ダンジョンへ行かれるんですよね?」
「えっ? あ、はい」
「よろしければ、持っていってください」
ベルが目を丸くする。
「でも、そんな……」
「今日はうちのシェフが作った賄い料理です。味は保証します」
そこでシルは、少しだけ視線を逸らした。
「その……私が少し手を加えたものも、入っていますけど」
「えっと……でも、どうしてそこまで?」
「差し上げたくなったから、では駄目ですか?」
シルは小首を傾げた。
その仕草には、どこか照れが混じっていた。
押しつけがましくはない。
けれど、無事でいてほしいという願いが滲んでいる。
鈍いベルでも、それくらいは伝わったらしい。
彼は少しだけ目を伏せ、それから両手でバスケットを受け取った。
「……ありがとうございます。大事に食べます」
「はい。ちゃんと食べて、ちゃんと帰ってきてくださいね」
「はい」
二人の間に、妙な沈黙が落ちる。
ベルの頬が赤い。
シルの頬も、少し赤い。
私は視線を逸らした。
「坊主が来てるって?」
その時だった。
ぬう、と。
カウンター奥の扉から、巨大な影が現れた。
ミア・グランド。
『豊饒の女主人』の女将と呼ばれるその人物は、相変わらず凄まじい存在感を放っていた。
ドワーフと聞いているが、縦にも横にも規格外に大きい。太い腕は丸太のようで、眼光は獲物を見据える猛獣に近い。笑っていても、そこにある圧は消えない。
ベルが反射的に一歩下がる。
「ああ、なるほど。金を返しに来たのかい。感心じゃないか」
「ど、どうも……」
「シル、アンタはもう引っ込んでな。仕事をほっぽり出して来たんだろう?」
「あ、はい。分かりました」
シルは名残惜しそうに一度ベルを見てから、丁寧に頭を下げ、奥へ戻っていった。
その背を見送ったミアは、豪快な笑みを浮かべる。
そして、太い指でベルの胸をどん、と突いた。
「このまま帰ってこなかったら、こっちからけじめをつけに行ってやるところだったよ」
「ひっ」
「あと一日遅れてたら、久しぶりにアタシの得物が轟き叫んでたかもしれないねぇ」
「す、すいませんでした!」
ベルの背筋が板のように伸びる。
……代金は私が払ったのだが。
そう思わなくもない。
だが、これは金だけの話ではないのだろう。
迷惑をかけたこと。
心配をかけたこと。
戻ってきて、頭を下げること。
それが、けじめというものなのだ。
店の奥から、声が漏れてきた。
『シル、あれを渡したら貴方の昼食がなくなってしまいますが……』
『あ、うん。お昼くらいなら我慢できるよ?』
『ニャんで我慢してまであいつに渡すニャ? 冒険者ニャら昼飯くらい買えるはずニャ』
『いや、それは……』
『おーおー、不躾なこと聞くもんじゃニャいぜ、お二人ニャン。つまりあの少年はシルにとっての……これニャ?』
『違いますっ!!』
厨房が騒がしい。
ベルの顔がさらに赤くなる。
私は一人で納得した。
シルのベルに向ける視線。
心配の仕方。
バスケットを差し出した時の微かな照れ。
なるほど。
そういう感情か。
「シルには改めて礼を言っておきな」
ミアが言った。
「ウチの連中は、アタシも含めて血の気が多いからね。あの子が説得してなかったら、アンタ今頃、湖の底だよ」
「……笑えないです」
「笑わせる気で言ってないよ」
ベルの顔が引きつる。
「シルは飛び出したアンタを追いかけていった。けど、結局会えずに帰ってきたんだろう? 塞ぎ込んで戻ってきたシルを見て、あのエルフのリューが真剣持って出ていきそうになってね。止めるのに骨が折れたよ」
「…………」
ベルの顔から血の気が引いていく。
あのエルフなら、本当にやりかねないのだろう。
「ちなみに」
ミアの視線が、今度はこちらへ向いた。
「こっちの坊主にも礼を言っておくんだね。アンタのために、ロキのところの狼男へ喧嘩をふっかけたんだから」
「…………えぇっ!?」
ベルがこちらを見る。
「記憶にないな」
「またそれ!?」
「別に言う必要もないだろう」
「あるよ! めちゃくちゃあるよ!」
「そうかい」
ミアは面白そうに鼻を鳴らした。
「ま、好きにやんな」
私は黙って肩をすくめる。
ベルはまだ何か言いたげだったが、ミアの声がそれを遮った。
「坊主」
「……はい」
女将の声が、少しだけ低くなる。
冗談めいた威圧ではない。
腹の底へ落ちるような、重い声だった。
「冒険者なんてね、格好つけるだけ無駄な職業さ」
ベルが目を見開く。
「最初のうちは、生きることだけに必死になってりゃいい。背伸びしたところで、碌なことは起きない」
「……」
「強くなりたい。追いつきたい。認められたい。そう思うのは勝手だ。でもね」
ミアは、にっと笑った。
「最後まで二本の足で立ってた奴が、一番偉いのさ。みじめでも、泥だらけでも、泣きべそかいてても、生きて帰ってくりゃ勝ちだ」
ベルの表情が揺れた。
胸の奥に刺さっていた棘が、少しだけ抜けたような顔だった。
「そうすりゃ、帰ってきたそいつにアタシが盛大に飯を食わせてやる。ほら、勝ち組だろ?」
「ミア、お母さん……っ」
「気持ち悪い顔してるんじゃないよ」
ミアは照れ隠しのようにベルの背を叩いた。
どん、と鈍い音が響く。
「ぐぇっ」
「そら、アンタはもう店の準備の邪魔だ。行った行った」
ベルは半ば回転させられるように出口へ向けられた。
だが、その顔にはもう、先ほどまでの陰りはなかった。
ベート・ローガに浴びせられた言葉。
自分の弱さ。
悔しさ。惨めさ。焦り。
それらはまだ消えていない。
けれど今は、ただ心を抉るだけの毒ではなくなっていた。
前へ進むための燃料へ変わりつつある。
「坊主」
扉へ向かおうとしたベルの背に、ミアの声が飛ぶ。
「アタシにここまで言わせたんだ。くたばったら許さないからねえ」
ベルは振り返る。
そして、深く頭を下げた。
「大丈夫です。ありがとうございます!」
「アンタもだよ」
ミアの視線が、私へ向く。
「変に達観してるように見えるけどね。そういう奴ほど、足元をすくわれる。気をつけな」
「参考としよう」
「生意気な坊主だ」
ミアは愉快そうに笑った。
私たちは店の扉へ向かう。
カラン、と鐘が鳴る。
外へ出る直前、ベルは勢いよく振り返った。
「いってきます!」
店の奥から、いくつもの声が返ってくる。
「行ってらっしゃいませ」
「死ぬんじゃニャいぞー!」
「ちゃんと帰ってきな!」
ベルは顔を真っ赤にしたまま、逃げるように大通りへ駆け出した。
その背中は、店に入る前より少しだけ軽い。
私はそれを追いながら、静かに息を吐いた。
まったく。
この都市には、厄介な者ばかりがいる。
けれど──。
不思議と悪くはない、と。
そう思った。