見るは夢か、絶望か   作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか

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白兎は迷宮で跳ねる

 

 

『──ブォアッ!』

「──っ!」

 

 眼前へ迫る爪を、ベルは大きく身を引いて躱した。

 敵意を剥き出しにした一撃が、白髪の数本を掠めるようにして虚空を裂く。

 湿った風が頬を撫で、遅れて獣臭い息が鼻先をかすめた。

 

 薄青の壁面に覆われたダンジョン第四階層。

 淡い光を帯びる壁は、まるで生き物の内側のように、ぬらりとした鈍い艶を放っている。踏みしめる床は硬く、空気は生温い。肌にまとわりつくその感触は、地上の風とはまるで違っていた。

 ここは迷宮だ。

 命を奪うために、怪物を吐き出し続ける場所。

 その空間に、緑の怪物──ゴブリンの濁った咆哮が響き渡った。

 

『ギィッ! ギギィッ!』

「右ッ、左ッ……斜め!」

 

 ベルが短く声を吐く。

 それは私に向けたものではない。

 自分の身体へ命じるための声だ。

 

 サイドステップ。

 バックステップ。

 わずかな踏み替え。

 

 幅の狭い通路と連結した、規則正しい正方形のフロア。その中央付近で、ベルはゴブリンの攻撃を二度、三度と空振りさせていた。

 逃げている、というには動きが整っている。

 恐怖に背を向けているのではない。

 相手の手足の短さ、踏み込みの浅さ、攻撃の単調さを見切り、届かない距離を保っている。

 

 壁際へ追い込まれれば、選択肢は一気に減る。

 背後を塞がれ、左右を潰され、最後には正面から押し潰される。

 だからこそベルは、常に位置をずらしていた。

 広い場所を広く使う。

 追われているようでいて、実際には追わせている。

 

 悪くない。

 

 短い手足を振り回し、ゴブリンは執拗に迫る。

 だがベルは、伸びてくる腕をかいくぐり、踏み込まれた分だけ下がり、下がった分だけ横へ滑る。

 

 地面を蹴る足。

 膝に残る負荷。

 重心が崩れる寸前の感覚。

 それらを確かめるように、ベルは迷宮の床を踏んでいた。

 まるで、ゴブリンと噛み合うことのない舞踏を踊っているかのように。

 

『ギギィッ……ジャア!』

 

 捕まらない獲物に業を煮やしたのだろう。

 ゴブリンの大きな瞳が、ぎらりと濁った光を帯びる。

 口の端から唾液を散らし、甲高い雄叫びを上げた。

 

 その瞬間。

 

 頭の奥で、警鐘が鳴った。

 

「……」

 

 違う。

 目の前のゴブリンではない。

 私の視線が、斜め上へ向く。

 

 薄青い壁面。

 そこに、影が張り付いていた。

 四肢を広げ、腹を壁へ押しつけるようにして、こちらを見下ろす異形。

 獲物が隙を見せる瞬間を、じっと待っていたのだろう。

 

 ベルも気づいた。

 彼の肩が、ほんのわずかに強張る。

 だが、遅くはない。

 

『──ゲゲェッ!』

 

 巨大な影が、壁から剥がれ落ちるように飛びかかった。

 

「んんっ!」

 

 ベルは咄嗟に身体を捻った。

 頭上を覆うほどの影が、白髪のすぐ傍を通過する。

 爪が空を裂き、床を叩く乾いた音が響いた。

 

 間一髪。

 

 ぶれる視界の中を横切ったのは、四本の足を持つトカゲに似たシルエットだった。

 

 ざらついた茶色の皮膚。

 横に裂けた口。

 そこから覗く、細く湿った舌。

 長い尻尾まで含めれば、その全長は私やベルと同程度はある。

 

 ヤモリ型の怪物、『ダンジョン・リザード』。

 

 第二階層から第四階層に出現する低級モンスターの一匹。

 ゴブリンやコボルトと同格に扱われるとはいえ、壁や天井を自在に這い回る厄介な相手だ。

 正面から来るだけのゴブリンとは違う。

 死角を取る。頭上を使う。こちらの注意が逸れた瞬間に飛びかかる。

 初心者にとっては、単純な強さ以上に面倒な敵だ。

 

 だが。

 

「──ふッ!」

 

 ベルの呼吸が変わった。

 

 待っていたのだ。

 ダンジョン・リザードは、四肢の吸盤で壁や天井を縦横無尽に移動する。

 手の届かない場所に居座られれば、短刀一本のベルでは攻め手が限られる。

 だからこそ、地面に降りた瞬間を狙うしかない。

 

 不意打ちに備え、反撃を我慢し、ゴブリンの攻撃を避け続ける。

 苛立ちも、焦りも、恐怖も、全部腹の底へ押し込めて。

 その鬱屈を、今この一瞬に爆発させる。

 ベルは弾丸になった。

 

「──やぁあああッ!」

『グゲェッ!?』

 

 背を向けていたダンジョン・リザードが、危機を察したように身を跳ねさせる。

 泡を食ったように四肢を動かし、壁へ逃げようとする。

 

 だが、遅い。

 ベルの方が速かった。

 

 逆手に握った短刀。

 大きく踏み切る足。

 低く沈めた身体。

 

 白い影が、床すれすれを駆ける。

 次の瞬間、ベルは地面へ飛び込むように跳躍し、ダンジョン・リザードの背へ短刀を突き立てた。

 白刃が鱗を割る。

 

 硬い抵抗。

 それを押し破る感触。

 そして──。

 

 カキンッ、と。

 金属を打ったような音が、薄青いフロアに響いた。

 

 魔石を傷つけたか。

 串刺しにされたダンジョン・リザードは、びくりと大きく震えた。

 四肢が突っ張り、尻尾が床を叩く。

 だが、それも一瞬。

 力を失った身体は、糸の切れた操り人形のように、ばたりと床へ伏した。

 灰に還りはしない。

 魔石が完全に砕けたわけではないのだろう。

 だが、動かない。

 

 仕留めた。

 

『ギィッ!』

 

 ゴブリンの声。

 敵は、まだ残っている。

 ベルは短刀を引き抜いた。

 

 血とも体液ともつかないものが刃先から滴り、迷宮の床へ落ちる。

 だが、それを気にする暇はない。

 振り返ったベルの目が、ゴブリンを捉える。

 

 そして、次の瞬間。

 彼は大胆な行動に出た。

 

「──ッ!」

 

 背負っていた背嚢──バックパックの肩ベルトを、片腕から引き抜く。

 

 ゴブリンを見据えたまま。

 短刀を手放すことなく。

 荷物の重みを肩から外し、遠心力を乗せる。

 

 そして。

 

 投げた。

 

「──!?」

 

 不出来な砲弾と化した荷物の塊が、空を突き進む。

 目を見開くゴブリン。

 だが、反応は間に合わない。

 

 ドロップアイテムと魔石の欠片が詰まったバックパックは、重量だけなら立派な鈍器だ。

 そこに、ベルの『力』のアビリティ補正が乗る。

 

 直撃。

 

『ヒゲッ!?』

 

 重く鈍い衝突音が響いた。

 

 ゴブリンの小柄な身体が、弾かれるように後方へ飛ぶ。

 バックパックを抱きとめるような格好のまま、床を転がった。

 

 一回。

 二回。

 三回。

 

 勢いが止まった時、ゴブリンは痙攣するように指先を震わせた。

 

『……グゥ』

 

 濁った声が漏れる。

 そして、がくりと首が折れた。

 

 沈黙。

 

 ベルはすぐには動かなかった。

 短刀を構えたまま、倒れたゴブリンを見つめている。

 油断していない。

 最後まで確認している。

 しばらくして、ようやく戦闘の終了を認めたのだろう。

 ベルは肩から力を抜き、深く息を吐いた。

 

「……よし」

 

 短刀を下げる。

 構えを解く。

 その横顔には、疲労と同時に、確かな充足が浮かんでいた。

 

「戦い方が様になって来たな」

 

 私が声をかけると、ベルはぱっとこちらを向いた。

 

「うん……!」

 

 その表情は、年相応に明るかった。

 先ほどまで命のやり取りをしていた者とは思えないほど、素直な喜びが顔に出ている。

 だが、それでいい。

 

 戦いの恐怖だけを覚えるより、勝てたという実感を持つ方がいい。

 ただし、それが慢心へ変わらない範囲で。

 

 ベルはその場で軽く屈伸した。

 膝を曲げ、伸ばし、足首を確かめる。

 動きに不自然さはない。

 怪我をしていた足は、すでに本来の動きを取り戻しているようだった。

 少なくとも、今の戦闘を見る限りでは、完治と言って差し支えない。

 

 そのことに、胸の奥が少しだけ緩む。

 自分でも気づかぬうちに、安堵していたらしい。

 

「……強く、なってるよね?」

 

 ベルがぽつりと尋ねた。

 先ほどまでの明るさとは違う。

 そこには、どこか縋るような響きがあった。

 

 認めてほしいのだろう。

 自分が前へ進めていると。

 あの背中に、少しでも近づけていると。

 

「間違いなくな」

 

 私は迷わず答えた。

 

 現在位置はダンジョン第四階層。

 周囲に新たなモンスターの気配はない。

 壁の奥から響くような微かな唸りも、床を擦る足音も、今は遠い。

 安全を確認しながら、私は先ほどの戦いを改めて振り返る。

 

 二対一。

 

 初心者にとっては、十分に厄介な状況だった。

 正面から迫るゴブリン。

 頭上から隙を狙うダンジョン・リザード。

 片方に意識を奪われれば、もう片方に喰われる。

 

 だがベルは崩れなかった。

 

 ゴブリンの攻撃を避けながら、ダンジョン・リザードの奇襲を警戒していた。

 攻め時を待ち、焦らず、地面に降りた瞬間を狙って仕留めた。

 その後のゴブリンへの対応も悪くない。

 武器だけに固執せず、手持ちの荷物を使った。

 咄嗟の判断としては十分だ。

 体の反応もいい。

 怪我の状態を気にしながら動く余裕もある。

 つまり、それだけベルの冒険者としての能力が上がっているということだ。

 

【ステイタス】の変化。

 

 ヘスティアが言っていた通り、ベルはこの短い間に大きく成長している。

 本人がどこまで自覚しているかは分からない。

 だが、傍から見れば明らかだった。

 飛躍している。

 それも、普通ではあり得ない速度で。

 

「……」

 

 近づけているのだろうか。

 ベルは、そう不安に思っているのだろう。

 あの金色の髪を持つ剣士。

 アイズ・ヴァレンシュタインに。

 

 彼女の背中は遠い。

 あまりにも遠い。

 

 憧れるには眩しすぎる。

 追いかけるには高すぎる。

 普通なら、手を伸ばすことすら躊躇う相手だ。

 

 だが、ベルは違う。

 

 身のほどを弁えない高望みだとしても。

 周囲から無謀だと笑われる願いだとしても。

 それでも彼は、静かに想いを燃やしている。

 

 追いつきたい。

 隣に立ちたい。

 あの背中に、届きたい。

 

 その願いが、ベル・クラネルという少年を前へ押し出している。

 

「……気に病む必要もないな」

 

 思わず、声が漏れた。

 

「えっ? なんて言ったの?」

 

 ベルが首を傾げる。

 聞こえなかったらしい。

 いや、聞こえなくてよかったのかもしれない。

 

「何でもない」

 

 私は首を振った。

 

「えぇ……? 今、何か言ったよね?」

「気のせいだ」

「ヘイレルって、都合が悪い時だいたいそれ言うよね……」

 

 ベルが訝しげにこちらを見る。

 私は答えなかった。

 

 気に病む必要はない。

 それは、ベルに向けた言葉だった。

 

 同時に。

 

 自分へ向けた言葉でもある。

 

 ベルは強くなる。

 これからも、信じがたい速度で。

 ならば私はどうする。

 

 守るだけでいいのか。

 導くだけで満足できるのか。

 

 否。

 

 それでは、いつか隣に立てなくなる。

 あの少年が前へ進むたび、私は背中を見るだけになる。

 

 それだけは嫌だった。

 

 だが、その焦燥を今ここで口にするわけにはいかない。

 

 ベルはベルの道を進めばいい。

 私は私のやり方で足掻けばいい。

 

「…………」

 

 薄青い壁が、静かに光を返している。

 迷宮の奥から、遠く、何かが蠢く気配がした。

 

 私は短く息を吐く。

 そして、倒した二体の怪物へ視線を向けた。

 

「魔石を回収するぞ」

「あ、うん!」

 

 ベルは慌てて頷き、バックパックを拾いに駆け寄った。

 その背中は、先ほどより少しだけ頼もしく見えた。

 

 けれど同時に。

 

 少しだけ、遠くも見えた。

 

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 

 それから私たちは、倒したダンジョン・リザードとゴブリンから魔石の欠片を回収し、地上への帰路につくことにした。

 

 まだ潜ろうと思えば潜れる。体力にも、多少の余裕はある。

 だが、帰り道での戦闘を考慮すれば、そろそろ頃合いだった。

 今日だけで、地上と迷宮を何度も往復している。

 荷物が溜まるたびに換金し、また潜る。

 地味で、効率を考えれば最善とは言いがたい。

 だが今の私たちには、それが一番安全だった。

 

 第四階層から第三階層へ。

 第三階層から第二階層へ。

 そして、第一階層へ。

 記憶にある道筋を辿りながら、都合三つの階段を上っていく。

 

 迷宮の空気は、上へ戻るほどにわずかに軽くなる。

 それでも、肌にまとわりつく生温さは完全には消えない。

 壁面の淡い光も、遠くから響く怪物の声も、ここがまだダンジョンの内側であることを嫌でも思い出させた。

 

 途中で遭遇したコボルトやゴブリンは、さほど脅威にはならなかった。

 

 ベルが前へ出る。

 短刀を振る。

 私は横から動きを見て、必要な時だけ声をかける。

 

 戦闘の一つひとつが、訓練になっていた。

 

 以前なら、ベルの動きには危うさがあった。

 勢いに任せて踏み込み、避けられれば体勢を崩す。

 敵を倒した安堵で周囲への意識が薄れる。

 自分が傷つくことより、前へ進むことを優先してしまう。

 

 だが、今は違う。

 

 足を止めない。視線を切らない。

 倒した後も、すぐに次を警戒する。

 まだ未熟だ。粗も多い。

 それでも、確かに形になり始めていた。

 私はそれを喜ばしく思う一方で、胸の奥に沈む別の感情を無視できずにいた。

 

 速すぎる。

 ベル・クラネルの成長は、あまりにも速い。

 

「外はもう夕方かなぁ」

 

 ぽつりとベルが呟く。

 

 私も、頭上にあるはずの空を思い浮かべた。

 今頃、オラリオの街並みは夕日に染まり始めているだろうか。

 石畳は赤く照り、露店の影は長く伸び、地上の空気には食事時の匂いが混じり始めているのかもしれない。

 

 迷宮にいると、時間の感覚が曖昧になる。

 ここには空がない。雲もない。太陽の傾きも、風の匂いもない。

 あるのは、怪物の気配と、己の呼吸だけだ。

 

 第一階層の残り半分ほどまで進んだ頃、周囲に他の冒険者の姿が目立ち始めた。

 ダンジョンの出入り口は一つ。

 帰還する者、これから潜る者、荷物を運ぶサポーター。

 さまざまな者たちが、自然とこの道に集まってくる。

 すれ違う冒険者たちの装備は、私たちとは比べものにならなかった。

 

 分厚い鎧を着込んだドワーフ。

 細身の剣を腰に差したエルフ。

 全身を革装備で固めた獣人。

 大盾を背負う大柄な男。

 

 使い込まれた武器。

 手入れの行き届いた防具。

 傷の数だけ重みを増した装備品。

 

 それらを見たベルの喉が、うぐ、と小さく鳴った。

 

「やっぱり周りの人は凄いなぁ……武器とか防具とか、見ててかっこいいし」

「羨ましいのか?」

「そりゃもちろん! ……はぁ、僕もかっこいい武器を持って戦いたいなぁ」

 

 ベルはそう冗談めかして笑った。

 だが、その声には少しだけ本音が滲んでいて。

 

 羨望。

 憧れ。

 そして、自分の未熟さを突きつけられた時の、わずかな気後れ。

 

 無理もない。

 

 私たちの装備は、どう見ても貧相だ。

 ギルドで支給される駆け出し冒険者のそれ。

 そしてベルの短刀も、防具も、そろそろ限界が近い。

 今日一日戦い続けたことで、傷みはさらに進んでいるだろう。

 私自身の装備も似たようなものだ。

 無茶な戦い方をする分、消耗も激しい。

 

「…………」

 

 そろそろ、本気で買い替えを考えるべきかもしれない。

 そう思っていた時、少し先を歩いていたベルが振り返った。

 

「そういえば、神様、今日も帰ってこないのかな……?」

 

 ヘスティアのことだ。

 彼女が友神のパーティーに出かけてから、既に二日が経っている。

 本人は何日か留守にすると言っていた。

 ならば、過度に心配する必要はない。

 ない、はずなのだが。

 

 ベルは心配そうだった。

 

 この少年は、他人のこととなると必要以上に気にかける。

 たとえ相手が神であっても、例外ではないらしい。

 

 いや。

 

 単純に、ヘスティアに会えないことが心細いのかもしれない。

 

 家族と呼べる存在。

 帰る場所にいるはずの主神。

 それが不在であるという事実は、思っている以上にベルの心へ影を落としているのだろう。

 

「何日か留守にすると言っていただろう」

「うん。それはそうなんだけど……」

「なら、心配しすぎる必要はない」

「そう、だよね」

 

 ベルは頷いた。

 だが、その顔から不安は消えない。

 私も、気にならないわけではなかった。

 今頃、あの主神は何をしているのだろうか。

 

「あ、着いた」

 

 ベルの声に、意識を前へ戻す。

 

 第一階層の大通路。

 『始まりの道』とも呼ばれるその広大な通路を抜けると、地上へ繋がる大穴が姿を現した。

 高さはおよそ十メドル。直径も、ほぼ同等。

 太い円筒をくり抜いたような空間の内側に、円周に沿って緩やかな階段が設けられている。

 銀色の階段は大きな螺旋を描き、上へ、上へと続いていた。

 

 数組の冒険者パーティーが、足音を響かせながら階段を上っていく。

 私たちもそれに倣った。

 一段。また一段。上るたび、空気が変わる。

 迷宮の湿った匂いが薄れ、代わりに人工的で清涼な匂いが鼻腔を満たしていく。

 魔物の気配が遠ざかり、人の気配が濃くなる。

 そして最後の段をまたいだ瞬間、視界が一気に開けた。

 

 白亜の巨塔──バベル。

 その地下一階。

 今しがた上ってきた大穴を中心に広がるのは、巨大な円形の空間だった。

 

 広い。

 

 いや、ただ広いという言葉では足りない。

 何千人もの冒険者を収容できると言われても、決して誇張には聞こえないほどの広大さだった。

 

 すぐ下にモンスターの巣窟があるなど、露ほども感じさせない。

 白と青を基調とした神殿めいた造り。

 等間隔に並ぶ太い柱。

 周囲に点在する漆黒の石碑。

 そこには、冒険者らしき名がいくつも刻まれている。

 

 天井を仰げば、蒼穹が広がっていた。

 本物の空ではない。

 だが、そう錯覚してしまうほど精緻な絵画だった。

 

 青。

 白。

 澄み渡る光。

 

 ここが迷宮の蓋であり、怪物たちを地下へ押し留めるための砦であることを、一瞬忘れてしまいそうになる。

 

 ここからは安全地帯。

 そう認識したのだろう。

 ベルの肩から、ふっと力が抜けた。

 張り詰めていた神経が緩み、隠れていた疲労が一気に身体へ戻ってきたようだった。

 

「……あれ?」

「どうした」

 

 多くの冒険者と、バックパックを背負ったサポーターたちがひしめく中、私たちは後続の邪魔にならないよう壁際へ移動していた。

 その途中で、ベルの視線が止まる。

 私もそちらを見る。

 

 そこにあったのは、見慣れない光景だった。

 巨大なカーゴ。

 箱型で、底面に車輪が取り付けられた物資運搬用の収納ボックス。

 それが、大穴から少し離れた場所にいくつも置かれている。

 

 確か、あれは遠征に使われるものだ。

 深層攻略のため、食糧や予備の装備、ドロップアイテム、大量の道具を格納する。

 知識としては知っていた。

 

 だが。

 今、目の前にあるものは、単なる物資入れには見えなかった。

 

 ──ガタッ。

 

「いっ!?」

 

 カーゴの一つが、唐突に揺れた。

 内側から、何かがぶつかったような音。

 

 そして、もう一度。

 ガタン、と。

 まるで、中に閉じ込められた何かが、外へ出せと訴えているかのようだった。

 

 ベルが目を剥く。

 私は無言でカーゴを見据えた。

 木と金属で補強された箱。

 隙間から漏れる、かすかな獣臭。

 そして──。

 

『ウウゥ……』

 

 低い唸り声。

 ベルの顔が引きつった。

 

「も、もしかして……モンスターが、閉じ込められてる?」

「そのようだな」

「こんなところにモンスターがいて、いいの……?」

 

 当然の疑問だ。

 バベルは、ダンジョンの蓋だと聞いたことがある。

 

 『古代』と呼ばれる時代には、モンスターの地上進出が日常茶飯事だったらしい。

 その被害は都市一つで済むようなものではなく、世界規模で地上を荒らしたという。

 だから、この巨塔は築かれた。

 怪物たちを地上へ出さないために。地下から溢れる災厄を押し留めるために。

 

 今でこそ、神の恩恵を授かった冒険者が自らダンジョンへ潜り、モンスターを狩っている。

 怪物が群れをなして地上へ押し寄せるなど、そう簡単には起こらない。

 だが、それでもギルドはこのバベルを拠点に、迷宮の監視を怠っていない。

 オラリオを管理する者たちにとって、モンスターを地上へ出さないことは絶対の前提だ。

 

 ならば。

 この安全地帯にモンスターがいるという状況は、本来あってはならない。

 あってはならない、はずなのだ。

 だが、私は記憶の端にあった言葉を思い出していた。

 エイナが口にしていた催し。

 確か──。

 

「怪物祭」

 

 そう口に出した直後、大穴の階段から新しいカーゴを運んでくる一団が現れた。

 

 象の顔をあしらったエンブレム。

 統一された装備。

 大小さまざまなカーゴを手際よく運び込む者たち。

 

 【ガネーシャ・ファミリア】。

 

 ベルは情けない顔をして、急速に自信を失っていく。

 先ほどまでの戦闘で得た手応えが、目の前の『組織』や『規模』の大きさに飲まれたのかもしれない。

 周囲から、ぽつぽつと声が聞こえてきた。

 

『今年もやるのか、アレ』

怪物祭(モンスターフィリア)ねぇ……』

『あんな催し、飽きずに続けて意味あんのか?』

『パンと見世物であろう……くだらん』

『【ガネーシャ】のところも損な役回りだな。ギルドに押し付けられて、市民に媚を売るような真似を、毎年毎年』

『そりゃあオメェ、何てったって【群衆の主】様だしなぁ、はははっ』

 

 喧騒とまではいかない。

 だが、ざわめきの中に、侮りと興味と退屈が混じっている。

 

 冒険者たちにとっては、毎年見る光景なのだろう。

 ある者は面倒そうに。

 ある者は馬鹿にするように。

 ある者は特に興味もなさそうに。

 

 それぞれの反応を見せていた。

 

「……怪物祭(モンスターフィリア)?」

 

 ベルが聞き慣れない単語に首を傾げる。

 

「怪物祭は、ギルドと【ガネーシャ・ファミリア】が共に行う催しだったはずだ」

「えっ、ヘイレル知ってるの?」

「私も知識でしか知らない。何でも、ダンジョン内のモンスターを調教して芸を見せるらしい」

「えっ……ちょ、調教っ!?」

「変な意味ではないぞ」

「そ、それは分かってるよ!」

 

 ベルが慌てて手を振る。

 その反応に少しだけ気が抜けた。

 だが、私の視線はカーゴから離れない。

 

 中から漏れる唸り声。

 揺れる箱。

 それを当然のように運ぶ者たち。

 そして、それを監督するギルド関係者。

 

「……安全面に疑問を感じざるを得ないが、これは直接見なければ分からないだろうな」

「そっか……機会があれば行ってみたいね」

 

 ベルはそう言った。

 好奇心と不安が半々、といった顔だった。

 その時だった。

 

「あっ……エイナさん?」

 

 ベルの視線が、群衆の向こうで止まる。

 

 セミロングのブラウンヘアー。

 尖った耳。

 整った横顔。

 

 ベルの担当官であるハーフエルフのギルド職員、エイナ・チュールだった。

 

 彼女は普段ベルへ向ける穏やかな表情とは違い、今は真剣な顔で別のギルド職員と打ち合わせをしている。

 片手には書類。

 視線はカーゴと作業員の動きへ向けられ、必要に応じて指示を出しているようだった。

 

「仕事中、なのかな……」

「だろうな。大方、祭りの準備だろう」

 

 書類を片手に話し込んでいるエイナへ、声をかけるのはためらわれた。

 

 周囲の冒険者の会話。

 【ガネーシャ・ファミリア】の姿。

 ギルド職員であるエイナたちの関与。

 それらを照らし合わせれば、このモンスターの運搬がギルド公認であることは間違いない。

 

「何をするのか聞いてみたいけど……今度にした方がいいよなぁ」

「話す機会など幾らでもある。今は邪魔すべきではないだろうな」

「それもそうだね」

 

 ベルは少しだけ名残惜しそうにエイナの横顔を見た。

 疑問は残っている。消化不良なのだろう。

 だが、仕事の邪魔をしてまで尋ねるほどではない。

 それに、私たちの身体も汗と迷宮の匂いを吸っていた。

 これ以上ここで立ち尽くしていても、邪魔になるだけだ。

 

 ベルはこの階に設置されているシャワー室へ歩を進めようとした。

 その直前。

 

「ベル」

「どうしたの、ヘイレル?」

 

 私は声をかけた。

 そして、背負っていた荷物のほとんどをベルへ押し付ける。

 

「えっ? ……えっ?」

 

 ベルは目を瞬かせた。

 何が起きたのか理解できていない顔だった。

 

「悪いが、魔石の換金を含めて後は頼んでいいか」

「それはいいけど……何かあるの?」

 

 当然の問い。

 私は一瞬だけ黙った。

 

 何かあるのか。

 ある。

 胸の奥に、ずっと燻っているものがある。

 

 今日のベルを見て、改めて思った。

 このままでは差が開く。

 ベルは伸びる。

 これから先も、恐ろしい速度で。

 

 ならば私はどうする。

 

 隣に立ちたいと願うなら、口先だけでは足りない。

 導く者を気取るだけでは、いずれ置いていかれる。

 

 力が要る。

 

 今よりも。

 さらに。

 

 常より多く、魔石を喰らう。

 

 今日の稼ぎは増えた。

 ベルの分も、自分の分も、ファミリアの貯蓄分も。

 最低限は、いやそれ以上にある。

 ならば、ここから先の力は私自身で稼げばいい。

 

 狩る。喰らう。

 殺す。呑み込む。

 

 単純で、野蛮で、実に分かりやすい。

 だが私には、それしかない。

 

「何もない。すぐ戻る」

「えぇ……?」

 

 ベルは腑に落ちない顔でこちらを見つめた。

 その目は、不安げだった。

 だが、私はそれ以上説明しなかった。

 

 説明すれば、止められる気がした。

 止められれば、立ち止まってしまう気がした。

 

 だから背を向ける。

 白亜の塔の清涼な空気から、再び迷宮の生温い空気へ。

 

 一歩。

 また一歩。

 

「……ヘイレル!」

 

 背後から声が飛んだ。

 振り返る。

 ベルがこちらを見ていた。

 眉を寄せ、困ったように、それでも真っ直ぐに。

 

「あんまり無茶しちゃだめだよ!」

「…………」

 

 その言葉に、胸の奥が一瞬だけ詰まった。

 

 無茶。

 

 そうだろう。

 私は今から、それをしに行く。

 けれど、頷くことも、約束することもできなかった。

 

「…………悪いな」

 

 それだけを返す。

 ベルの顔が、さらに不安そうに歪む。

 だが私は、もう振り返らなかった。

 

 白亜の広間の喧騒が背後へ遠ざかる。

 人工の空が視界から消える。

 銀色の階段を下りるたび、迷宮の匂いが濃くなっていく。

 

 生温い空気。

 薄青い壁。

 遠くから響く怪物の声。

 

 再び、私はダンジョンの奥へ足を踏み込んだ。

 

 狩るために。

 喰らうために。

 置いていかれないために。

 

 

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