見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
『──ブォアッ!』
「──っ!」
眼前へ迫る爪を、ベルは大きく身を引いて躱した。
敵意を剥き出しにした一撃が、白髪の数本を掠めるようにして虚空を裂く。
湿った風が頬を撫で、遅れて獣臭い息が鼻先をかすめた。
薄青の壁面に覆われたダンジョン第四階層。
淡い光を帯びる壁は、まるで生き物の内側のように、ぬらりとした鈍い艶を放っている。踏みしめる床は硬く、空気は生温い。肌にまとわりつくその感触は、地上の風とはまるで違っていた。
ここは迷宮だ。
命を奪うために、怪物を吐き出し続ける場所。
その空間に、緑の怪物──ゴブリンの濁った咆哮が響き渡った。
『ギィッ! ギギィッ!』
「右ッ、左ッ……斜め!」
ベルが短く声を吐く。
それは私に向けたものではない。
自分の身体へ命じるための声だ。
サイドステップ。
バックステップ。
わずかな踏み替え。
幅の狭い通路と連結した、規則正しい正方形のフロア。その中央付近で、ベルはゴブリンの攻撃を二度、三度と空振りさせていた。
逃げている、というには動きが整っている。
恐怖に背を向けているのではない。
相手の手足の短さ、踏み込みの浅さ、攻撃の単調さを見切り、届かない距離を保っている。
壁際へ追い込まれれば、選択肢は一気に減る。
背後を塞がれ、左右を潰され、最後には正面から押し潰される。
だからこそベルは、常に位置をずらしていた。
広い場所を広く使う。
追われているようでいて、実際には追わせている。
悪くない。
短い手足を振り回し、ゴブリンは執拗に迫る。
だがベルは、伸びてくる腕をかいくぐり、踏み込まれた分だけ下がり、下がった分だけ横へ滑る。
地面を蹴る足。
膝に残る負荷。
重心が崩れる寸前の感覚。
それらを確かめるように、ベルは迷宮の床を踏んでいた。
まるで、ゴブリンと噛み合うことのない舞踏を踊っているかのように。
『ギギィッ……ジャア!』
捕まらない獲物に業を煮やしたのだろう。
ゴブリンの大きな瞳が、ぎらりと濁った光を帯びる。
口の端から唾液を散らし、甲高い雄叫びを上げた。
その瞬間。
頭の奥で、警鐘が鳴った。
「……」
違う。
目の前のゴブリンではない。
私の視線が、斜め上へ向く。
薄青い壁面。
そこに、影が張り付いていた。
四肢を広げ、腹を壁へ押しつけるようにして、こちらを見下ろす異形。
獲物が隙を見せる瞬間を、じっと待っていたのだろう。
ベルも気づいた。
彼の肩が、ほんのわずかに強張る。
だが、遅くはない。
『──ゲゲェッ!』
巨大な影が、壁から剥がれ落ちるように飛びかかった。
「んんっ!」
ベルは咄嗟に身体を捻った。
頭上を覆うほどの影が、白髪のすぐ傍を通過する。
爪が空を裂き、床を叩く乾いた音が響いた。
間一髪。
ぶれる視界の中を横切ったのは、四本の足を持つトカゲに似たシルエットだった。
ざらついた茶色の皮膚。
横に裂けた口。
そこから覗く、細く湿った舌。
長い尻尾まで含めれば、その全長は私やベルと同程度はある。
ヤモリ型の怪物、『ダンジョン・リザード』。
第二階層から第四階層に出現する低級モンスターの一匹。
ゴブリンやコボルトと同格に扱われるとはいえ、壁や天井を自在に這い回る厄介な相手だ。
正面から来るだけのゴブリンとは違う。
死角を取る。頭上を使う。こちらの注意が逸れた瞬間に飛びかかる。
初心者にとっては、単純な強さ以上に面倒な敵だ。
だが。
「──ふッ!」
ベルの呼吸が変わった。
待っていたのだ。
ダンジョン・リザードは、四肢の吸盤で壁や天井を縦横無尽に移動する。
手の届かない場所に居座られれば、短刀一本のベルでは攻め手が限られる。
だからこそ、地面に降りた瞬間を狙うしかない。
不意打ちに備え、反撃を我慢し、ゴブリンの攻撃を避け続ける。
苛立ちも、焦りも、恐怖も、全部腹の底へ押し込めて。
その鬱屈を、今この一瞬に爆発させる。
ベルは弾丸になった。
「──やぁあああッ!」
『グゲェッ!?』
背を向けていたダンジョン・リザードが、危機を察したように身を跳ねさせる。
泡を食ったように四肢を動かし、壁へ逃げようとする。
だが、遅い。
ベルの方が速かった。
逆手に握った短刀。
大きく踏み切る足。
低く沈めた身体。
白い影が、床すれすれを駆ける。
次の瞬間、ベルは地面へ飛び込むように跳躍し、ダンジョン・リザードの背へ短刀を突き立てた。
白刃が鱗を割る。
硬い抵抗。
それを押し破る感触。
そして──。
カキンッ、と。
金属を打ったような音が、薄青いフロアに響いた。
魔石を傷つけたか。
串刺しにされたダンジョン・リザードは、びくりと大きく震えた。
四肢が突っ張り、尻尾が床を叩く。
だが、それも一瞬。
力を失った身体は、糸の切れた操り人形のように、ばたりと床へ伏した。
灰に還りはしない。
魔石が完全に砕けたわけではないのだろう。
だが、動かない。
仕留めた。
『ギィッ!』
ゴブリンの声。
敵は、まだ残っている。
ベルは短刀を引き抜いた。
血とも体液ともつかないものが刃先から滴り、迷宮の床へ落ちる。
だが、それを気にする暇はない。
振り返ったベルの目が、ゴブリンを捉える。
そして、次の瞬間。
彼は大胆な行動に出た。
「──ッ!」
背負っていた背嚢──バックパックの肩ベルトを、片腕から引き抜く。
ゴブリンを見据えたまま。
短刀を手放すことなく。
荷物の重みを肩から外し、遠心力を乗せる。
そして。
投げた。
「──!?」
不出来な砲弾と化した荷物の塊が、空を突き進む。
目を見開くゴブリン。
だが、反応は間に合わない。
ドロップアイテムと魔石の欠片が詰まったバックパックは、重量だけなら立派な鈍器だ。
そこに、ベルの『力』のアビリティ補正が乗る。
直撃。
『ヒゲッ!?』
重く鈍い衝突音が響いた。
ゴブリンの小柄な身体が、弾かれるように後方へ飛ぶ。
バックパックを抱きとめるような格好のまま、床を転がった。
一回。
二回。
三回。
勢いが止まった時、ゴブリンは痙攣するように指先を震わせた。
『……グゥ』
濁った声が漏れる。
そして、がくりと首が折れた。
沈黙。
ベルはすぐには動かなかった。
短刀を構えたまま、倒れたゴブリンを見つめている。
油断していない。
最後まで確認している。
しばらくして、ようやく戦闘の終了を認めたのだろう。
ベルは肩から力を抜き、深く息を吐いた。
「……よし」
短刀を下げる。
構えを解く。
その横顔には、疲労と同時に、確かな充足が浮かんでいた。
「戦い方が様になって来たな」
私が声をかけると、ベルはぱっとこちらを向いた。
「うん……!」
その表情は、年相応に明るかった。
先ほどまで命のやり取りをしていた者とは思えないほど、素直な喜びが顔に出ている。
だが、それでいい。
戦いの恐怖だけを覚えるより、勝てたという実感を持つ方がいい。
ただし、それが慢心へ変わらない範囲で。
ベルはその場で軽く屈伸した。
膝を曲げ、伸ばし、足首を確かめる。
動きに不自然さはない。
怪我をしていた足は、すでに本来の動きを取り戻しているようだった。
少なくとも、今の戦闘を見る限りでは、完治と言って差し支えない。
そのことに、胸の奥が少しだけ緩む。
自分でも気づかぬうちに、安堵していたらしい。
「……強く、なってるよね?」
ベルがぽつりと尋ねた。
先ほどまでの明るさとは違う。
そこには、どこか縋るような響きがあった。
認めてほしいのだろう。
自分が前へ進めていると。
あの背中に、少しでも近づけていると。
「間違いなくな」
私は迷わず答えた。
現在位置はダンジョン第四階層。
周囲に新たなモンスターの気配はない。
壁の奥から響くような微かな唸りも、床を擦る足音も、今は遠い。
安全を確認しながら、私は先ほどの戦いを改めて振り返る。
二対一。
初心者にとっては、十分に厄介な状況だった。
正面から迫るゴブリン。
頭上から隙を狙うダンジョン・リザード。
片方に意識を奪われれば、もう片方に喰われる。
だがベルは崩れなかった。
ゴブリンの攻撃を避けながら、ダンジョン・リザードの奇襲を警戒していた。
攻め時を待ち、焦らず、地面に降りた瞬間を狙って仕留めた。
その後のゴブリンへの対応も悪くない。
武器だけに固執せず、手持ちの荷物を使った。
咄嗟の判断としては十分だ。
体の反応もいい。
怪我の状態を気にしながら動く余裕もある。
つまり、それだけベルの冒険者としての能力が上がっているということだ。
【ステイタス】の変化。
ヘスティアが言っていた通り、ベルはこの短い間に大きく成長している。
本人がどこまで自覚しているかは分からない。
だが、傍から見れば明らかだった。
飛躍している。
それも、普通ではあり得ない速度で。
「……」
近づけているのだろうか。
ベルは、そう不安に思っているのだろう。
あの金色の髪を持つ剣士。
アイズ・ヴァレンシュタインに。
彼女の背中は遠い。
あまりにも遠い。
憧れるには眩しすぎる。
追いかけるには高すぎる。
普通なら、手を伸ばすことすら躊躇う相手だ。
だが、ベルは違う。
身のほどを弁えない高望みだとしても。
周囲から無謀だと笑われる願いだとしても。
それでも彼は、静かに想いを燃やしている。
追いつきたい。
隣に立ちたい。
あの背中に、届きたい。
その願いが、ベル・クラネルという少年を前へ押し出している。
「……気に病む必要もないな」
思わず、声が漏れた。
「えっ? なんて言ったの?」
ベルが首を傾げる。
聞こえなかったらしい。
いや、聞こえなくてよかったのかもしれない。
「何でもない」
私は首を振った。
「えぇ……? 今、何か言ったよね?」
「気のせいだ」
「ヘイレルって、都合が悪い時だいたいそれ言うよね……」
ベルが訝しげにこちらを見る。
私は答えなかった。
気に病む必要はない。
それは、ベルに向けた言葉だった。
同時に。
自分へ向けた言葉でもある。
ベルは強くなる。
これからも、信じがたい速度で。
ならば私はどうする。
守るだけでいいのか。
導くだけで満足できるのか。
否。
それでは、いつか隣に立てなくなる。
あの少年が前へ進むたび、私は背中を見るだけになる。
それだけは嫌だった。
だが、その焦燥を今ここで口にするわけにはいかない。
ベルはベルの道を進めばいい。
私は私のやり方で足掻けばいい。
「…………」
薄青い壁が、静かに光を返している。
迷宮の奥から、遠く、何かが蠢く気配がした。
私は短く息を吐く。
そして、倒した二体の怪物へ視線を向けた。
「魔石を回収するぞ」
「あ、うん!」
ベルは慌てて頷き、バックパックを拾いに駆け寄った。
その背中は、先ほどより少しだけ頼もしく見えた。
けれど同時に。
少しだけ、遠くも見えた。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
それから私たちは、倒したダンジョン・リザードとゴブリンから魔石の欠片を回収し、地上への帰路につくことにした。
まだ潜ろうと思えば潜れる。体力にも、多少の余裕はある。
だが、帰り道での戦闘を考慮すれば、そろそろ頃合いだった。
今日だけで、地上と迷宮を何度も往復している。
荷物が溜まるたびに換金し、また潜る。
地味で、効率を考えれば最善とは言いがたい。
だが今の私たちには、それが一番安全だった。
第四階層から第三階層へ。
第三階層から第二階層へ。
そして、第一階層へ。
記憶にある道筋を辿りながら、都合三つの階段を上っていく。
迷宮の空気は、上へ戻るほどにわずかに軽くなる。
それでも、肌にまとわりつく生温さは完全には消えない。
壁面の淡い光も、遠くから響く怪物の声も、ここがまだダンジョンの内側であることを嫌でも思い出させた。
途中で遭遇したコボルトやゴブリンは、さほど脅威にはならなかった。
ベルが前へ出る。
短刀を振る。
私は横から動きを見て、必要な時だけ声をかける。
戦闘の一つひとつが、訓練になっていた。
以前なら、ベルの動きには危うさがあった。
勢いに任せて踏み込み、避けられれば体勢を崩す。
敵を倒した安堵で周囲への意識が薄れる。
自分が傷つくことより、前へ進むことを優先してしまう。
だが、今は違う。
足を止めない。視線を切らない。
倒した後も、すぐに次を警戒する。
まだ未熟だ。粗も多い。
それでも、確かに形になり始めていた。
私はそれを喜ばしく思う一方で、胸の奥に沈む別の感情を無視できずにいた。
速すぎる。
ベル・クラネルの成長は、あまりにも速い。
「外はもう夕方かなぁ」
ぽつりとベルが呟く。
私も、頭上にあるはずの空を思い浮かべた。
今頃、オラリオの街並みは夕日に染まり始めているだろうか。
石畳は赤く照り、露店の影は長く伸び、地上の空気には食事時の匂いが混じり始めているのかもしれない。
迷宮にいると、時間の感覚が曖昧になる。
ここには空がない。雲もない。太陽の傾きも、風の匂いもない。
あるのは、怪物の気配と、己の呼吸だけだ。
第一階層の残り半分ほどまで進んだ頃、周囲に他の冒険者の姿が目立ち始めた。
ダンジョンの出入り口は一つ。
帰還する者、これから潜る者、荷物を運ぶサポーター。
さまざまな者たちが、自然とこの道に集まってくる。
すれ違う冒険者たちの装備は、私たちとは比べものにならなかった。
分厚い鎧を着込んだドワーフ。
細身の剣を腰に差したエルフ。
全身を革装備で固めた獣人。
大盾を背負う大柄な男。
使い込まれた武器。
手入れの行き届いた防具。
傷の数だけ重みを増した装備品。
それらを見たベルの喉が、うぐ、と小さく鳴った。
「やっぱり周りの人は凄いなぁ……武器とか防具とか、見ててかっこいいし」
「羨ましいのか?」
「そりゃもちろん! ……はぁ、僕もかっこいい武器を持って戦いたいなぁ」
ベルはそう冗談めかして笑った。
だが、その声には少しだけ本音が滲んでいて。
羨望。
憧れ。
そして、自分の未熟さを突きつけられた時の、わずかな気後れ。
無理もない。
私たちの装備は、どう見ても貧相だ。
ギルドで支給される駆け出し冒険者のそれ。
そしてベルの短刀も、防具も、そろそろ限界が近い。
今日一日戦い続けたことで、傷みはさらに進んでいるだろう。
私自身の装備も似たようなものだ。
無茶な戦い方をする分、消耗も激しい。
「…………」
そろそろ、本気で買い替えを考えるべきかもしれない。
そう思っていた時、少し先を歩いていたベルが振り返った。
「そういえば、神様、今日も帰ってこないのかな……?」
ヘスティアのことだ。
彼女が友神のパーティーに出かけてから、既に二日が経っている。
本人は何日か留守にすると言っていた。
ならば、過度に心配する必要はない。
ない、はずなのだが。
ベルは心配そうだった。
この少年は、他人のこととなると必要以上に気にかける。
たとえ相手が神であっても、例外ではないらしい。
いや。
単純に、ヘスティアに会えないことが心細いのかもしれない。
家族と呼べる存在。
帰る場所にいるはずの主神。
それが不在であるという事実は、思っている以上にベルの心へ影を落としているのだろう。
「何日か留守にすると言っていただろう」
「うん。それはそうなんだけど……」
「なら、心配しすぎる必要はない」
「そう、だよね」
ベルは頷いた。
だが、その顔から不安は消えない。
私も、気にならないわけではなかった。
今頃、あの主神は何をしているのだろうか。
「あ、着いた」
ベルの声に、意識を前へ戻す。
第一階層の大通路。
『始まりの道』とも呼ばれるその広大な通路を抜けると、地上へ繋がる大穴が姿を現した。
高さはおよそ十メドル。直径も、ほぼ同等。
太い円筒をくり抜いたような空間の内側に、円周に沿って緩やかな階段が設けられている。
銀色の階段は大きな螺旋を描き、上へ、上へと続いていた。
数組の冒険者パーティーが、足音を響かせながら階段を上っていく。
私たちもそれに倣った。
一段。また一段。上るたび、空気が変わる。
迷宮の湿った匂いが薄れ、代わりに人工的で清涼な匂いが鼻腔を満たしていく。
魔物の気配が遠ざかり、人の気配が濃くなる。
そして最後の段をまたいだ瞬間、視界が一気に開けた。
白亜の巨塔──バベル。
その地下一階。
今しがた上ってきた大穴を中心に広がるのは、巨大な円形の空間だった。
広い。
いや、ただ広いという言葉では足りない。
何千人もの冒険者を収容できると言われても、決して誇張には聞こえないほどの広大さだった。
すぐ下にモンスターの巣窟があるなど、露ほども感じさせない。
白と青を基調とした神殿めいた造り。
等間隔に並ぶ太い柱。
周囲に点在する漆黒の石碑。
そこには、冒険者らしき名がいくつも刻まれている。
天井を仰げば、蒼穹が広がっていた。
本物の空ではない。
だが、そう錯覚してしまうほど精緻な絵画だった。
青。
白。
澄み渡る光。
ここが迷宮の蓋であり、怪物たちを地下へ押し留めるための砦であることを、一瞬忘れてしまいそうになる。
ここからは安全地帯。
そう認識したのだろう。
ベルの肩から、ふっと力が抜けた。
張り詰めていた神経が緩み、隠れていた疲労が一気に身体へ戻ってきたようだった。
「……あれ?」
「どうした」
多くの冒険者と、バックパックを背負ったサポーターたちがひしめく中、私たちは後続の邪魔にならないよう壁際へ移動していた。
その途中で、ベルの視線が止まる。
私もそちらを見る。
そこにあったのは、見慣れない光景だった。
巨大なカーゴ。
箱型で、底面に車輪が取り付けられた物資運搬用の収納ボックス。
それが、大穴から少し離れた場所にいくつも置かれている。
確か、あれは遠征に使われるものだ。
深層攻略のため、食糧や予備の装備、ドロップアイテム、大量の道具を格納する。
知識としては知っていた。
だが。
今、目の前にあるものは、単なる物資入れには見えなかった。
──ガタッ。
「いっ!?」
カーゴの一つが、唐突に揺れた。
内側から、何かがぶつかったような音。
そして、もう一度。
ガタン、と。
まるで、中に閉じ込められた何かが、外へ出せと訴えているかのようだった。
ベルが目を剥く。
私は無言でカーゴを見据えた。
木と金属で補強された箱。
隙間から漏れる、かすかな獣臭。
そして──。
『ウウゥ……』
低い唸り声。
ベルの顔が引きつった。
「も、もしかして……モンスターが、閉じ込められてる?」
「そのようだな」
「こんなところにモンスターがいて、いいの……?」
当然の疑問だ。
バベルは、ダンジョンの蓋だと聞いたことがある。
『古代』と呼ばれる時代には、モンスターの地上進出が日常茶飯事だったらしい。
その被害は都市一つで済むようなものではなく、世界規模で地上を荒らしたという。
だから、この巨塔は築かれた。
怪物たちを地上へ出さないために。地下から溢れる災厄を押し留めるために。
今でこそ、神の恩恵を授かった冒険者が自らダンジョンへ潜り、モンスターを狩っている。
怪物が群れをなして地上へ押し寄せるなど、そう簡単には起こらない。
だが、それでもギルドはこのバベルを拠点に、迷宮の監視を怠っていない。
オラリオを管理する者たちにとって、モンスターを地上へ出さないことは絶対の前提だ。
ならば。
この安全地帯にモンスターがいるという状況は、本来あってはならない。
あってはならない、はずなのだ。
だが、私は記憶の端にあった言葉を思い出していた。
エイナが口にしていた催し。
確か──。
「怪物祭」
そう口に出した直後、大穴の階段から新しいカーゴを運んでくる一団が現れた。
象の顔をあしらったエンブレム。
統一された装備。
大小さまざまなカーゴを手際よく運び込む者たち。
【ガネーシャ・ファミリア】。
ベルは情けない顔をして、急速に自信を失っていく。
先ほどまでの戦闘で得た手応えが、目の前の『組織』や『規模』の大きさに飲まれたのかもしれない。
周囲から、ぽつぽつと声が聞こえてきた。
『今年もやるのか、アレ』
『
『あんな催し、飽きずに続けて意味あんのか?』
『パンと見世物であろう……くだらん』
『【ガネーシャ】のところも損な役回りだな。ギルドに押し付けられて、市民に媚を売るような真似を、毎年毎年』
『そりゃあオメェ、何てったって【群衆の主】様だしなぁ、はははっ』
喧騒とまではいかない。
だが、ざわめきの中に、侮りと興味と退屈が混じっている。
冒険者たちにとっては、毎年見る光景なのだろう。
ある者は面倒そうに。
ある者は馬鹿にするように。
ある者は特に興味もなさそうに。
それぞれの反応を見せていた。
「……
ベルが聞き慣れない単語に首を傾げる。
「怪物祭は、ギルドと【ガネーシャ・ファミリア】が共に行う催しだったはずだ」
「えっ、ヘイレル知ってるの?」
「私も知識でしか知らない。何でも、ダンジョン内のモンスターを調教して芸を見せるらしい」
「えっ……ちょ、調教っ!?」
「変な意味ではないぞ」
「そ、それは分かってるよ!」
ベルが慌てて手を振る。
その反応に少しだけ気が抜けた。
だが、私の視線はカーゴから離れない。
中から漏れる唸り声。
揺れる箱。
それを当然のように運ぶ者たち。
そして、それを監督するギルド関係者。
「……安全面に疑問を感じざるを得ないが、これは直接見なければ分からないだろうな」
「そっか……機会があれば行ってみたいね」
ベルはそう言った。
好奇心と不安が半々、といった顔だった。
その時だった。
「あっ……エイナさん?」
ベルの視線が、群衆の向こうで止まる。
セミロングのブラウンヘアー。
尖った耳。
整った横顔。
ベルの担当官であるハーフエルフのギルド職員、エイナ・チュールだった。
彼女は普段ベルへ向ける穏やかな表情とは違い、今は真剣な顔で別のギルド職員と打ち合わせをしている。
片手には書類。
視線はカーゴと作業員の動きへ向けられ、必要に応じて指示を出しているようだった。
「仕事中、なのかな……」
「だろうな。大方、祭りの準備だろう」
書類を片手に話し込んでいるエイナへ、声をかけるのはためらわれた。
周囲の冒険者の会話。
【ガネーシャ・ファミリア】の姿。
ギルド職員であるエイナたちの関与。
それらを照らし合わせれば、このモンスターの運搬がギルド公認であることは間違いない。
「何をするのか聞いてみたいけど……今度にした方がいいよなぁ」
「話す機会など幾らでもある。今は邪魔すべきではないだろうな」
「それもそうだね」
ベルは少しだけ名残惜しそうにエイナの横顔を見た。
疑問は残っている。消化不良なのだろう。
だが、仕事の邪魔をしてまで尋ねるほどではない。
それに、私たちの身体も汗と迷宮の匂いを吸っていた。
これ以上ここで立ち尽くしていても、邪魔になるだけだ。
ベルはこの階に設置されているシャワー室へ歩を進めようとした。
その直前。
「ベル」
「どうしたの、ヘイレル?」
私は声をかけた。
そして、背負っていた荷物のほとんどをベルへ押し付ける。
「えっ? ……えっ?」
ベルは目を瞬かせた。
何が起きたのか理解できていない顔だった。
「悪いが、魔石の換金を含めて後は頼んでいいか」
「それはいいけど……何かあるの?」
当然の問い。
私は一瞬だけ黙った。
何かあるのか。
ある。
胸の奥に、ずっと燻っているものがある。
今日のベルを見て、改めて思った。
このままでは差が開く。
ベルは伸びる。
これから先も、恐ろしい速度で。
ならば私はどうする。
隣に立ちたいと願うなら、口先だけでは足りない。
導く者を気取るだけでは、いずれ置いていかれる。
力が要る。
今よりも。
さらに。
常より多く、魔石を喰らう。
今日の稼ぎは増えた。
ベルの分も、自分の分も、ファミリアの貯蓄分も。
最低限は、いやそれ以上にある。
ならば、ここから先の力は私自身で稼げばいい。
狩る。喰らう。
殺す。呑み込む。
単純で、野蛮で、実に分かりやすい。
だが私には、それしかない。
「何もない。すぐ戻る」
「えぇ……?」
ベルは腑に落ちない顔でこちらを見つめた。
その目は、不安げだった。
だが、私はそれ以上説明しなかった。
説明すれば、止められる気がした。
止められれば、立ち止まってしまう気がした。
だから背を向ける。
白亜の塔の清涼な空気から、再び迷宮の生温い空気へ。
一歩。
また一歩。
「……ヘイレル!」
背後から声が飛んだ。
振り返る。
ベルがこちらを見ていた。
眉を寄せ、困ったように、それでも真っ直ぐに。
「あんまり無茶しちゃだめだよ!」
「…………」
その言葉に、胸の奥が一瞬だけ詰まった。
無茶。
そうだろう。
私は今から、それをしに行く。
けれど、頷くことも、約束することもできなかった。
「…………悪いな」
それだけを返す。
ベルの顔が、さらに不安そうに歪む。
だが私は、もう振り返らなかった。
白亜の広間の喧騒が背後へ遠ざかる。
人工の空が視界から消える。
銀色の階段を下りるたび、迷宮の匂いが濃くなっていく。
生温い空気。
薄青い壁。
遠くから響く怪物の声。
再び、私はダンジョンの奥へ足を踏み込んだ。
狩るために。
喰らうために。
置いていかれないために。