見るは夢か、絶望か   作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか

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喰らう者、逸れる境界

 

 

 白亜の広間の喧騒が、背後で遠ざかっていく。

 

 人工の空。整然と並ぶ柱列。人の気配。

 磨き上げられた石床に反響していた足音さえ、階段を一段下るごとに薄れ、やがて遠い世界の残響のように聞こえなくなっていった。

 

 ──切り離されていく。

 

 地上の世界から。

 人の領域から。

 白亜の清浄から。

 

 そして、代わりに戻ってくる。

 迷宮の匂いが。

 

 湿り気を帯びた空気が、肺の奥にまとわりつく。

 生温い温度が肌を撫で、衣服の内側へじわりと染み込んでくる。

 薄青い壁の奥では、名も知れぬ何かが蠢いているような気配がした。

 

 ここは、地上とは違う。

 

 人が住むために整えられた場所ではない。

 人を迎えるために作られた場所でもない。

 怪物を吐き出し、血を吸い、死を積み重ねるための場所。

 

 それなのに。

 

 ──こちらこそが、お前の領域だ。

 

 迷宮そのものが、そう囁いているような気がした。

 

「……」

 

 私は第四階層へ足を踏み入れる。

 

 躊躇はなかった。あるはずもない。

 ベルは単独で第六階層へ到達し、生還した。

 ならば、私も同等でなければならない。

 

 隣に立つというのなら。

 背中を見送るだけの存在で終わりたくないのなら。

 最低限、そこに届いていなければ話にならない。

 守る側を気取りながら、いつか守られる側に回る。

 そんな未来だけは、許容できなかった。

 

 足音が、迷宮の通路に落ちる。

 

 硬い床。薄青い壁。

 どこまでも続いているように思える通路。

 

 静かだった。

 先ほどまで、あの少年の気配が隣にあったことが嘘のようだ。

 

 言葉もない。視線もない。

 呼吸を共有する相手もいない。

 

 独り。

 その事実が、やけに鮮明に意識へ浮かび上がる。

 

 孤独。

 だが、それは不快ではなかった。

 

(……ちょうどいい)

 

 短く息を吐く。

 むしろ、この方がいい。

 

 余計なものが削ぎ落ちる。

 迷いが沈む。

 思考が単純になる。

 

 残るのは、ただ一つ。

 

 ──狩る。

 ──喰らう。

 ──取り込む。

 

 それだけだ。

 それだけでいい。

 

『ギィッ!』

『ガアアッッ!』

 

 通路の奥で、気配が弾けた。

 現れたのは、ゴブリンとコボルト。

 

 濁った瞳。

 唾液を垂らす口。

 血肉を求めて軋む四肢。

 こちらを認識した瞬間、二体は躊躇なく飛びかかってきた。

 

 単純だ。

 

 理性はない。思考もない。

 あるのは、餓えだけ。

 

 だからこそ、速い。

 だからこそ、迷いがない。

 

 だが──

 

「弱い」

 

 踏み込む。

 視界が、やけに澄んでいた。

 

 ゴブリンの肩の揺れ。

 踏み込みの角度。

 腕の振り抜きの癖。

 重心がどちらへ流れているのか。

 すべてが、手に取るように分かる。

 

 遅い。あまりにも。

 長剣を抜く必要すらなかった。

 

 拳を叩き込む。

 

 骨を砕く感触が、拳の奥へ伝わった。

 柔らかいものが潰れる、湿った音。

 ゴブリンの頭部が、内側から歪む。

 濁った瞳が見開かれ、声にならない息が漏れた。

 

 そのまま崩れる。

 床へ叩きつけられた身体は、ぴくりとも動かない。

 

 間を置かず、次。

 コボルト。

 

 牙を剥き、横合いから飛びかかってくる。

 軌道は単純。だからこそ、読みやすい。

 

 半歩ずらす。

 躱す。

 踏み込む。

 

 手刀を振り抜いた。

 狙いは眼窩。

 抵抗は、ほとんどなかった。

 

 指先が沈み込む。柔らかい感触。

 その奥にある、硬いもの。さらに奥へ。

 

 抉る。

 

『カッ……ハッ……!?』

 

 コボルトの身体が跳ねた。

 

 痙攣。

 四肢がばたつく。

 爪が床を掻き、乾いた音を立てる。

 

 だが、それも一瞬。

 力を失った肉体は、糸を切られた人形のように崩れ落ちた。

 

 沈黙。

 そして、静寂。

 

「……」

 

 以前なら、もう一手必要だった。

 

 間合いを測り、武器を使い、確実に仕留める。

 それが当たり前だった。

 

 だが、今は違う。

 

 躊躇がない。無駄がない。

 そして──力がある。

 

 明確に。

 分かるほどに。

 今までとは、何かが違う。

 

 倒れたコボルトの胸元へ手を差し込む。

 

 温い肉。

 砕けた骨。

 ぬめる血。

 

 その奥にある硬質な感触を掴む。

 

 引き抜く。

 

 魔石。

 

 淡く光る結晶が、掌の中でかすかに脈動しているように見えた。

 

 生命の核。

 迷宮が吐き出す力の源。

 怪物の内に宿り、冒険者たちの糧となるもの。

 

「……」

 

 躊躇はなかった。

 それを口へ運ぶ。

 

 歯を立てる。

 砕ける。

 

 ざらり、とした異物感が口内に広がった。

 砂を噛むような感触。

 苦味。わずかな甘味。

 舌に残る、説明し難い違和感。

 

 そして。

 

 ──熱。

 

「……ッ」

 

 喉を通過した瞬間、内側から焼かれるような感覚が走った。

 

 胸が軋む。

 腹が熱を帯びる。

 血が巡る。

 

 いや──違う。

 

 『流れる』というより、『暴れる』に近い。

 

 四肢へ。

 指先へ。

 骨の奥へ。

 強引に押し広げられていく。

 

 ドクン、と。

 心臓の音が、やけに大きい。

 

 耳の奥で響く。

 全身が、それに同調する。

 

「……はっ……」

 

 息が漏れる。

 だが、それは苦痛ではなかった。

 むしろ、満たされる感覚に近い。

 

 空虚だった何かが埋まっていくような。

 欠けていたものが、正しい場所へ嵌め込まれていくような。

 身体が、これを知っていたかのような。

 

 ──だが。

 

(……足りない)

 

 足りない。圧倒的に。

 この程度では、まるで足りない。

 

 もっと。

 もっとだ。

 

 喉の奥が乾く。

 胃の底が、空虚を訴える。

 身体の奥が、飢えている。

 

 それは食欲ではない。

 もっと直接的で、もっと根源的なもの。

 

 ──『力』への渇望。

 

 気付けば、私は走っていた。

 

 通路を抜ける。

 曲がる。

 飛び越える。

 

 視界が、やけに鮮明だった。

 

 壁の凹凸。

 床のひび割れ。

 空気の揺らぎ。

 遠くで蠢くものの微かな気配。

 

 すべてが、事細やかに見て取れる。

 まるで迷宮の方が、獲物の居場所を教えているようだった。

 

『ギィッ!?』

 

 新たな怪物。

 

 ダンジョン・リザード。

 そして、フロッグ・シューター。

 

 ヤモリ型の怪物が壁面を這い、蛙型の怪物が膨れた喉を震わせる。

 

 だが、遅い。

 反応するよりも早く、私は間合いへ入っていた。

 

 ダンジョン・リザードの首を掴む。

 持ち上げる。骨が軋む音。

 そのまま、壁へ叩きつけた。

 

『──ギッッ……!?』

 

 鱗が割れた。

 肉が潰れた。

 壁面に濁った体液が散る。

 

 直後。

 

『グゴォッ!』

 

 フロッグ・シューターが異変に気づき、舌を放った。

 

 鋭く伸びる一閃。

 私は半歩で避ける。

 

 舌が背後の壁面を穿った。

 石が弾ける。

 

 だが、その舌が戻るより早く、私はそれを掴んでいた。

 

「……来い」

 

 引く。

 蛙の身体が宙に浮く。

 引き寄せられる勢いに逆らえず、フロッグ・シューターがこちらへ飛び込んでくる。

 

 その顔面へ、拳を合わせた。

 

『────ゲッッ!?』

 

 貫くのではない。

 

 潰す。

 爆ぜる。

 

 紫色の血液と肉片が、周囲へ飛び散った。

 

 終わりだ。

 いや。

 

「……まだ」

 

 終わっていない。

 足りない。

 

 魔石を抜く。

 喰らう。

 熱が増す。

 

 視界がさらに澄む。

 耳鳴りのように、微かな音が聞こえる。

 

 ──心臓の音だ。

 ドクン、ドクン、と。

 鼓動が、やけに大きい。

 

(……いい)

 

 悪くない。

 

 身体が軽い。

 痛みが消えている。

 あれほど気になっていた古傷も、今は何も訴えてこない。

 むしろ、動けと言っているようだった。

 

 もっと動け。

 もっと狩れ。

 もっと喰らえ。

 

『ゲェッ!』

 

 上。

 新たなダンジョン・リザード。

 飛びかかってくる。

 

「遅い」

 

 避けない。

 踏み込む。

 真正面から、拳を叩き込む。

 

 鱗が割れる。骨が砕ける。

 そのまま、地面へ叩き落とす。

 

 剣すら抜かない。

 必要ない。

 

「……」

 

 息が荒い。

 だが、疲労はない。

 

 むしろ。

 

 もっと動ける。

 もっと狩れる。

 もっと喰らえる。

 

(……これは)

 

 思考が、わずかに遅れる。

 違和感? 

 いや、違う。

 理解が追いついていないだけだ。

 

 これは成長だ。

 力を得ている。強くなっている。

 それだけのこと。

 

(……そうだ)

 

 そうでなければならない。

 そうでなければ──意味がない。

 

 ベルに置いていかれる。

 それだけは、許容できなかった。

 

 あの少年は速い。

 

 真っ直ぐで、眩しくて、危なっかしい。

 だが、それでも前へ進む。

 

 昨日できなかったことを、今日には掴んでいる。

 今日届かなかった場所へ、明日には手を伸ばしている。

 

 ならば私は。

 私だけが、同じ場所に立ち止まっているわけにはいかない。

 

 守るため。

 並ぶため。

 

 いや。

 

 ──本当にそれだけか? 

 

「…………!」

 

 その時だった。

 

 微かな気配。

 皮膚の表面を針で撫でられたような、薄い殺気。

 咄嗟に顔を逸らす。

 

 次の瞬間。

 黒い刃が、私の頭髪を数本刈り取っていった。

 

『…………』

 

 影がいた。

 全身が闇を固めたように黒い、人型のモンスター。

 

 『ウォーシャドウ』。

 

 駆け出し冒険者にとって、遭遇そのものが死へ直結しかねない存在。

 その危険性から、『新米殺し』の異名を持つ怪物。

 

 身の丈は人間と大差ない。

 

 だからこそ厄介だ。

 

 薄暗い迷宮の中では、同業者の影と見誤ることすらある。

 油断した瞬間、異様に長い腕から伸びる刃のような指先が、喉を裂く。

 上層前半に現れるモンスターの中では、明らかに格が違う。

 まともに受ければ、致命傷になり得る。

 

 だが。

 

「……いい」

 

 周囲で、気配が増えていく。

 

 ゴブリン。

 コボルト。

 ダンジョン・リザード。

 

 先ほどまでの騒ぎを聞きつけたのだろう。

 幾つもの怪物の気配が、こちらへ集まり始めていた。

 

 囲まれつつある。

 普通なら、撤退を考える場面だ。

 だが私は、動かなかった。

 

 むしろ。

 

 胸の奥の熱が、さらに強く脈打つ。

 

 これでいい。これでこそだ。

 これでこそ、私の力になる。

 

 ウォーシャドウの黒い指先が、ゆらりと揺れた。

 獲物を見定めるように。

 新たな死を運ぶように。

 

 私は拳を握る。

 骨が鳴る。喉の奥が乾く。腹の底が疼く。

 

 逃げろという理性は、確かにどこかにあった。

 だが、その声はあまりにも小さかった。

 

 それよりも強く、熱が囁く。

 

 狩れ。

 砕け。

 喰らえ。

 

 口の端が、わずかに吊り上がっていることに。

 

 ──その時の私は、まだ気づいていなかった。

 

 

 

 

 

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 夜が明け、朝が来た。

 薄い光が、崩れかけた教会の隙間から差し込んでいる。

 砕けたステンドグラスの残骸を透過した光は、どこか色を失い、くすんだ白として床へ落ちていた。

 古びた石壁。罅の入った床。人が住むにはあまりにも寂れた礼拝堂。

 その下に隠された小さな地下室で、私たちはいつも通りの朝を迎えていた。

 

 ──ヘスティアが出かけてから、三日目の朝。

 

 主神は、まだ帰ってこない。

 普段なら、起き抜けから騒がしい声が響いているはずだった。

 ベルに抱きつき、朝食の匂いに目を輝かせ、何かと私たちへ言葉を投げかけてくる小さな神。

 その姿がないだけで、この狭いホームはずいぶん広く感じられた。

 

 がらん、としている。

 家具の数が変わったわけではない。

 置かれた食器も、寝具も、生活の痕跡も昨日までと同じだ。

 それでも、空気だけがどこか薄い。

 

「……神様、今日も帰ってこないのかな」

 

 朝食のパンを手にしたまま、ベルがぽつりと呟いた。

 その声は小さい。そして、寂しさを隠しきれてはいなかった。

 ベルにとって、ヘスティアは主神であり、家族であり、帰る場所そのものなのだろう。

 この少年は強くなっている。昨日もそうだった。

 けれど、強くなることと寂しさを感じなくなることは別の話だ。

 

「前も言ったと思うが、主神は何日か留守にすると言っていただろう」

「うん。それは分かってるんだけど……」

 

 ベルは少しだけ困ったように笑う。

 その笑みを横目で見ながら、私は残っていた食事を口に運んだ。

 柔らかなパン。薄いスープ。

 特別なものではない。

 だが、昨夜口にした魔石の味と比べれば、あまりにも穏やかだった。

 

 ざらついた異物感。

 喉を焼く熱。

 身体の奥で暴れる鼓動。

 

 それらを思い出した瞬間、胸の奥が微かに疼いた。

 

「…………」

 

 私は何事もなかったように、容器へ口をつける。

 湯気の立つスープは温かい。

 だが、それは昨夜の熱とはまるで違う。

 

 人の食事。

 人の朝。

 人の生活。

 

 その中に自分が座っていることに、ほんの僅かな違和感を覚えた。

 

「…………」

 

 ……いや。

 違和感などではない。

 ただ、少し疲れているだけだ。

 そう片づけ、私は椅子から立ち上がった。

 

「準備をするぞ」

「あ、うん!」

 

 ベルも慌てて食事を終え、席を立つ。

 

 ヘスティアがいようといまいと、やるべきことは変わらない。

 私たちは冒険者だ。

 ダンジョンへ潜り、怪物を倒し、魔石を持ち帰る。

 そうして得た金で、今日を生き、明日に備える。

 むしろ、ヘスティアが帰ってきた時にベルが胸を張れるようにしておくべきだ。

 

 『──神様、こんなにお金が貯まりました!』

 

 そんなふうに報告できれば、あの小さな神はきっと、目に涙を浮かべるほど喜ぶだろう。

 そう想像したのか、ベルの表情にも少しだけ明るさが戻っていた。

 

 私は姿見の前に立つ。

 そこには、白銀の髪を持つ少年が映っていた。

 紅い瞳。整った顔立ち。冒険者用の革鎧。

 一見すれば、昨日と何も変わらない。

 

 だが。

 

 私は鏡の中の自分を見つめる。

 昨夜、あれだけ魔石を喰らった。

 狩り、砕き、呑み込み、力へ変えた。

 ならば何かが変わっていてもおかしくない。

 だが、見た目には何も分からない。

 身体にも、痛みはない。

 むしろ、軽い。異様なほどに。

 

「……」

 

 気合いを入れろ。

 私は鏡の中の自分に、無言でそう命じた。

 

 ポーションを差し込んだレッグホルスターを脚に装着する。

 長剣を腰へ差す。

 防具の留め具を一つずつ確認し、最後にバックパックを背負う。

 準備は整った。

 

「行こう、ヘイレル」

「ああ」

 

 誰もいないホームへ向けて、ベルが少し大きめの声で言う。

 

「行ってきます!」

 

 私は一拍遅れて、同じように口にした。

 

「……行ってくる」

 

 返事はない。

 それでも、扉を閉める直前、ベルは少しだけ振り返った。

 その横顔に残る寂しさを見なかったことにして、私たちは地上へ出た。

 

 廃墟じみた教会を後にすると、朝の澄んだ空気が肌を撫でる。

 路地裏はまだ薄暗い。

 石畳には夜の冷気が残り、建物の隙間から差し込む朝日が細い帯となって地面を照らしていた。

 

 人気は少ない。

 遠くから、商人の声と荷車の軋む音が聞こえてくる。

 オラリオの朝が、少しずつ動き出していた。

 

「足も完璧に治ったし、今日こそは五階層から下に行ってもいいよね……?」

 

 隣を走りながら、ベルがこちらを見る。

 

 期待。

 不安。

 それから、わずかな闘志。

 

 昨日の戦いで手応えを掴んだのだろう。

 ゴブリンやコボルトに対する動きは明らかに良くなっていた。

 ダンジョン・リザードへの対応も悪くなかった。

 

「昨日の戦いぶりなら、問題ないだろうな」

「よっし!」

 

 ベルが拳を握る。

 

 単純だ。

 だが、この単純さは悪くない。

 ミノタウロスの件も、第六階層の件も、ベルは無茶をして痛い目を見た。

 死にかけたと言ってもいい。

 それでも、折れていない。

 むしろ、あの経験すら前へ進むための燃料にしている。

 

 今度こそ。

 次こそは。

 そういう思いが、彼の背中を押しているのだろう。

 

 確証はない。

 だが【ステイタス】が大きく更新された今なら、以前のような過ちは犯さないはずだ。

 

 精神状態も悪くない。周囲も見えている。

 慢心よりも、前向きな緊張が勝っている。

 念のため、ギルド本部でエイナの意見を仰ぐべきかもしれない。

 だが、彼女は怪物祭の件で今も慌ただしくしているだろう。

 今日の予定を頭の中で組み立てながら、私たちは路地を抜けていく。

 

「そういえば、ヘイレルは昨日大丈夫だった?」

「何がだ」

「何がだ、じゃないよ! 一人でまたダンジョンに潜ったでしょ? 僕にはあんなに無理するな、無茶するなって言うのに!」

「覚えていないな」

「またそれ!」

 

 ベルが不満そうに声を上げる。

 私は前を向いたまま答えた。

 

「心配せずとも、今日の探索に支障はない」

「ならいいんだけど……」

 

 納得していない声だった。

 当然だろう。

 

 ベルは優しい。

 他人の傷や無茶に気づいてしまう。

 そして、自分のことのように気にする。

 だからこそ、あまり深く聞かせるわけにはいかなかった。

 

 昨夜、自分が何体の怪物を倒したのか。

 いくつの魔石を喰らったのか。

 どこまで奥へ踏み込んだのか。

 

 正確には、私自身も覚えていない部分がある。

 ただ、断片だけが残っている。

 

 黒い影。

 血の匂い。

 砕ける骨。

 喉を滑り落ちる魔石。

 そして、笑っていたような気配。

 

「…………」

「ヘイレル?」

「何でもない」

「本当に?」

「ああ」

 

 嘘ではない。

 今は、何でもない。

 そういうことにしておけばいい。

 

 他愛ない会話を交わしながら、私たちは速度を上げた。

 何度も曲がり角を抜け、細い路地を駆け、西のメインストリートへ向かう。

 その途中、ふと既視感が胸をかすめた。

 

 朝の街。

 準備中の店。

 路地の角にたむろする獣人たち。

 カフェテラスを一人で整える店員。

 

 以前にも見た光景だ。

 だが、商店の二階の窓から大通りを見下ろしていた少女の姿は、今日はなかった。

 

「おーいっ、待つニャそこの白髪頭(しらがあたま)ー!」

 

 突然、明るい声が朝の通りに響いた。

 

「し、白髪(しらが)!?」

 

 白髪という単語に、ベルがぎょっと肩を跳ねさせて足を止める。

 私も声のした方へ視線を向けた。

 そこにあったのは、酒場『豊饒の女主人』の店先だった。

 

 まだ開店前なのだろう。

 入口周辺では、椅子やテーブルが並べられ、店の者たちが慌ただしく朝の準備をしている。

 その中で、ネコ耳と細い尻尾を持つキャットピープルの少女が、こちらへ向かってぶんぶんと手を振っていた。

 以前、エルフの少女と並んで出てきた店員だ。

 たしか、ベルのことを『クソ白髪野郎(しらがやろう)』などと呼んでいた。

 印象に残らないはずがない。

 ベルは一度周囲を見回してから、自分を指さした。

 

「ぼ、僕ですか?」

 

 キャットピープルの少女は、こくこくと大きく頷く。

 シルにもらったランチのバスケットなら、もう返した。

 他に用件があるとは思えない。

 ベルも同じことを考えているのか、不思議そうな顔のまま店先へ駆け寄った。

 

「おはようございます、ニャ。いきなり呼び止めて悪かったニャ」

「あ、いえ、おはようございます。……えっと、それで何か僕に?」

 

 眼前でぺこりと頭を下げられ、ベルも反射的に頭を下げ返す。

 キャットピープルの少女は、どこか躾けられたような綺麗なお辞儀をしたかと思えば、すぐに顔を上げて用件を切り出した。

 

「ちょっと面倒ニャこと頼みたいニャ。はい、コレ」

「へっ?」

 

 差し出されたのは、小さな財布だった。

 布袋状で、口金のついたがま口財布。

 色は紫。小ぢんまりとしていて、少女が持っていても不思議ではない可愛らしい品だ。

 さり気なく刻まれている見慣れないエンブレムを見る限り、どこかの商業系【ファミリア】が製作したものだろう。

 

「白髪頭はシルのマブダチニャ。だからコレを、あのおっちょこちょいに渡して欲しいニャ」

「え、えっと……?」

 

 ベルが困惑する。

 当然だ。

 説明が足りない。

 この財布をシルに渡すだけなら、自分で渡せばいい。

 それとも、二人の仲を進展させたいという妙な気遣いなのだろうか。

 

「アーニャ。それでは説明不足です。クラネルさんも困っています」

 

 凛とした声が割って入る。

 カフェテラスの準備をしていた方から、エルフの店員が歩み寄ってきた。

 

 薄緑色の髪。整った顔立ち。落ち着いた佇まい。

 以前も見た、リューと呼ばれていた少女だ。

 隣を見ると、ベルが目を輝かせていた。

 

 名前を呼ばれた。覚えてもらっていた。

 そんな感動が顔に出ている。

 ……それでいいのか、ベル・クラネル。

 

「リューはアホニャー。店番サボって祭り見に行ったシルに、忘れていった財布を届けて欲しいニャんて、そんニャこと話さずとも分かることニャ。ニャア、白髪頭?」

「というわけです。言葉足らずで申し訳ありませんでした」

「あ、いえ、よく分かりました。そういうことだったんですね」

 

 得意げなアーニャを綺麗に無視し、リューが丁寧に頭を下げる。

 私とベルはようやく事情を理解した。

 一瞬で蚊帳の外に置かれたアーニャは、ぴんと立てていた尻尾をぐにゃりと垂らす。

 

「ニャ、ニャんでミャーが説明したのにリューがまとめるニャ……」

 

 頬を赤くし、わなわなと震える姿は、怒っているというより拗ねているように見えた。

 

「彼女は気にしないでください」

「気にして欲しいニャ!?」

 

 リューは淡々と続ける。

 

「それで、どうか頼まれてもらえないでしょうか。私やアーニャ、他のスタッフも店の準備で手が離せないのです。これからダンジョンに向かう貴方たちには、申し訳ないのですが……」

「別に構いませんけど……シルさんがお店をさぼっちゃったって、本当なんですか?」

 

 ベルが少し意外そうに尋ねた。

 何だかんだで、シルは真面目そうに見える。

 彼女が無断で仕事を放り出す姿は想像しづらいのだろう。

 

「さぼる、という言い方には語弊があります。ここに住まわせてもらっている私たちと、シルとでは環境が違うので」

 

 リューによれば、どうやら正式な休暇扱いらしい。

 住み込みで働いている彼女たちとは違い、シルは毎日この酒場に詰めているわけではない。

 女将であるミアの許可も取っているとのことだった。

 つまり、シルは自宅通いであり、今日は例外的な非番ということか。

 そして、その休みを利用して向かった先が──

 

「……怪物祭(モンスターフィリア)?」

「はい。シルは今日開かれるあの催しを見に行きました」

 

 昨日、バベルで耳にした言葉。

 

 怪物祭。

 モンスターフィリア。

 ダンジョンのモンスターを調教し、見世物にする催し。

 

 ベルには簡単に説明したが、詳しい内容までは知らない。

 当然、彼の興味はそちらへ向いた。

 

「初耳ですか? この都市に身を置く者なら、知らないということはないはずですが」

「実は僕、オラリオに来たのがつい最近で……言葉自体はヘイレルから教えてもらって、モンスターを調教するお祭りっていうぐらいしか知らないんです。良かったら、教えてくれませんか?」

「──ニャら、ミャーが教えてやるのニャ!」

 

 その瞬間、沈んでいたアーニャが勢いよく顔を上げた。

 名誉挽回とばかりに、ずいっと私たちの間へ割って入る。

 

「怪物祭は、年に一回開かれる【ガネーシャ・ファミリア】主催のドでかい催しニャ! 闘技場を一日中まるまる占領して、ダンジョンから引っ張ってきたモンスターを調教するのニャ!」

「あ、それは知ってます」

「ンニャー! 黙って聞くニャ!」

「は、はい……」

 

 ベルが肩を縮こまらせる。

 アーニャは満足げに頷き、尻尾を揺らしながら続けた。

 

「別にモンスターを手懐けること自体は、おかしいことじゃニャい! 白髪頭だって冒険者ニャら一度は経験したことがあるはずニャ。ぶっ倒したモンスターがむくりと起き上がり、仲間になりたそうな眼差しをミャーたちに送ってくる、あの瞬間を……」

「いえ、あの、一度もないんですけど……」

 

 ベルが真顔で返す。

 私もない。

 少なくとも、昨夜倒した怪物たちはそんな眼差しを向けてこなかった。

 向ける前に、沈黙していた。

 

調教(テイム)という技術自体は確立されています」

 

 リューが静かに補足する。

 

「素質に依るところも大きいようですが、モンスターに自分のことを格上だと認識させ、従順にさせる技術です」

「ダンジョンにいるモンスターはタチが悪くて調教を受け付けにくいから、普通は地上のモンスターを手懐けるもんニャんだけどニャー」

 

 アーニャが胸を張る。

 

「でも【ガネーシャ・ファミリア】の構成員は実力が半端じゃニャいから、迷宮育ちのモンスター相手でも成功させてのけるニャ」

 

 【ガネーシャ・ファミリア】。

 

 その名は、私もベルも聞いたことがある。

 現状最強と名高い二大派閥に並び立つほどの大派閥。

 このオラリオに数多存在する【ファミリア】の中でも、実力、規模、知名度のいずれも抜きん出ている。

 昨日バベルで見た運搬作業も、並の組織では到底できないものだった。

 

「つまり、モンスターと格闘して大人しくさせるまでの流れを、見世物にしてるってことですか?」

「そういうことニャ。ぶっちゃけサーカスみたいなもんニャ」

 

 アーニャはそこで、にやりと笑った。

 

「ただし、偉いハードな」

「……やっぱり危ないんですね」

「当たり前ニャ。相手はモンスターだニャ」

 

 祭り。

 見世物。

 調教。

 

 そう聞けば華やかな催しにも思える。

 だが、扱うのは怪物だ。

 人を襲い、喰らい、殺す存在。

 どれほど準備をしていても、危険が消えるわけではない。

 昨日、カーゴの中から漏れていた唸り声を思い出す。

 

 閉じ込められた怪物。

 揺れる箱。

 その奥から漂ってきた、濁った獣臭。

 あの祭りには、どこか奇妙な不穏さがあった。

 

「ミャーたちだって本当は見に行きたいニャ。でも母ちゃんが許してくれねーニャ」

 

 アーニャは不満そうに頬を膨らませる。

 

「シルは土産を買ってくるとか言って、笑顔で敬礼なんかしていったけど……財布を店に忘れていくというこの体たらくニャ。シルはうっかり娘ニャ」

「アーニャ、貴方が言えたことではないと思いますが」

「ニャにをー!?」

 

 ベルが苦笑する。

 私も、ようやく大体の事情を理解した。

 土産の話はともかく、金がなければシルも困るだろう。

 ベルはシルに世話になっている。

 私も、先日この酒場で迷惑をかけた。

 ならば、これくらい引き受けるべきだ。

 

「分かりました。届けます」

 

 ベルが財布を受け取り、しっかりと頷く。

 リューの表情が僅かに柔らいだ。

 

「ありがとうございます。闘技場に繋がる東のメインストリートは、既に混雑しているはずです。まずはそこへ向かってください。人波についていけば、現地には労せず辿り着けるでしょう」

「シルはさっき出かけたばっかだから、今から行けば追いつけるはずニャ」

「はい!」

 

 ベルは元気よく返事をする。

 そして、その背負っていたバックパックを見て、リューが少し考えるように目を細めた。

 

「その荷物は邪魔になるでしょう。よろしければ、こちらで預かります」

「えっ、いいんですか?」

「はい。財布を届けていただくのですから、それくらいは」

「助かります」

 

 私たちはバックパックを預けることにした。

 身軽になった身体は、思った以上に軽い。

 

 腰の長剣。

 脚のポーション。

 必要最低限の装備だけが残る。

 その状態で、私は都市の中心へ目を向けた。

 

 摩天楼バベルが、朝の光を受けて白く輝いている。

 その先、さらに東へ伸びるメインストリート。

 今日は、そこに人が集まっているはずだ。

 

 怪物祭。

 人が怪物を見るために集う祭り。

 怪物を恐れるのではなく、楽しむために作られた場所。

 昨夜、怪物を狩り、喰らった自分がそこへ向かう。

 その事実が、ほんの少しだけ奇妙に思えた。

 

「怪物祭、か……」

「暇があったら見てみたいね」

 

 ベルが呑気にそう言う。

 私は一瞬だけ答えに迷い、やがて短く返した。

 

「ああ……見るだけならな」

「え?」

「何でもない」

「またそれ!」

 

 ベルが不満そうに頬を膨らませる。

 その様子に、アーニャがけらけらと笑った。

 

「白髪頭、変な奴と一緒にいるニャー」

「そ、それは否定できないかも……」

「ベル」

「じょ、冗談だよ!」

 

 リューはそんな私たちを静かに見つめ、最後に軽く頭を下げた。

 

「では、お願いします。どうかお気をつけて」

「はい。行ってきます!」

 

 ベルはシルの財布を大切そうに握りしめる。

 私はその隣に並び、東のメインストリートへ向けて歩き出した。

 

 朝のオラリオは、すでに祭りの気配を孕んでいた。

 遠くから人々のざわめきが聞こえる。

 屋台の準備をする音。

 駆けていく子どもたちの声。

 普段の迷宮都市とは少し違う、浮き立つような空気。

 

 その中を、私たちは進む。

 ダンジョンへ向かうはずだった足取りは、少しだけ逸れていく。

 怪物を見世物にする祭りへ。

 シルの忘れ物を届けるために。

 そして、おそらくは──何かが起こる場所へ。

 

 私は無意識に、昨夜の熱を胸の奥で思い出していた。

 

 まだ、消えていない。

 喰らった魔石の余韻が。

 狩った怪物の残響が。

 身体の奥で、静かに燻っている。

 

 その火種を抱えたまま、私はベルと並んで歩く。

 白兎のように前を向く少年の隣で。

 

 自分が少しずつ、人の境界から逸れていることを──

 まだ、誰にも悟られないようにしながら。

 

 

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