見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
迷宮都市オラリオ。
世界でただ一つ、地下に広がる大迷宮【ダンジョン】を抱え込んだ都市。
いや、抱え込んだという表現は正しくないかもしれない。
この街そのものが、巨大な迷宮の蓋として築かれている。
地の底へ続く奈落。
そこから溢れ出る怪物。
それを討ち、魔石を得て、富へ変える者たち。
欲望と希望、恐怖と熱狂。
ありとあらゆる感情を燃料にして、この都市は呼吸していた。
私はそんな街の大通りを歩いている。
つい先ほどまで血塗れの姿で歓声を上げながら駆けていったベルを追って、石畳を踏みしめる。
左右には露店が並び、香辛料の匂い、焼いた肉の匂い、酒の匂いが入り混じる。
商人たちの呼び声が飛び交い、荷車の軋む音が響き、誰かの怒鳴り声と笑い声が絶え間なく混ざり合っていた。
すれ違う者の姿も様々だ。
屈強なドワーフが巨大な槌を担ぎ、耳の長いエルフが涼しい顔で人波を抜けていく。
小柄なパルゥムの商人が人の足の間を器用に駆け抜け、獣人の女戦士が鎧を鳴らして仲間へ怒声を飛ばしていた。
この街には、人間だけが生きているわけではない。
種族も、文化も、価値観も異なる者たちが、同じ迷宮を前に肩を並べている。
その雑多さは、時に騒々しく、時に醜く、だが妙に美しかった。
(……不思議な街だ)
記憶を失っている私には、比較対象となる故郷も過去もない。
だからこの街が特別なのか、それとも世界そのものがこうなのか、判断はつかない。
それでも思う。
ここには、生きている者の熱がある。
それだけは確かだった。
私はベルの背を追いながら、喧騒の中心から少しずつ外れていく。
大通りを抜け、露店街を離れ、細い脇道へ入る。
そこからさらに裏路地へ。
石壁が迫るように立ち並び、陽光は細く切り取られて地面へ落ちる。
表通りに満ちていた騒がしさは、角を曲がるごとに薄れていった。
一度、二度、三度。
慣れた足取りで曲がるうち、背後のざわめきは完全に遠ざかる。
代わりに訪れたのは、ひどく静かな空気だった。
行き止まり。
その先に、一軒の建物が建っている。
「…………」
私は足を止め、見上げた。
教会だった。
二階建ての石造り。
かつては荘厳だったのだろう。だが今となっては、見る影もない。
外壁には大きな亀裂が走り、石材はところどころ崩れ落ち、窓枠にはガラス一枚残っていない。
風雨と歳月に晒され続けたその姿は、威厳というより、忘却の象徴に見えた。
正面玄関の上には、女神の石像がある。
顔の半分は崩れ、片腕も失われていた。
それでもなお、その口元には微笑みが残っている。
誰かに祈られるために作られた像。
誰かを救うために掲げられた象徴。
それが今は、誰にも顧みられず、裏路地の奥で静かに朽ちている。
胸の奥に、妙な感覚が過ぎった。
哀れみとも、虚しさとも違う。
ただ、言葉にしがたい寂しさだった。
(……だが)
私は小さく息を吐く。
この廃教会は、他人にとって見捨てられた建物でも。
私にとっては違う。
ここは、帰る場所だ。
扉のない玄関をくぐり、中へ入る。
礼拝堂だったであろう空間は、外観に劣らず無残だった。
床のタイルは割れ、隙間から雑草が伸びている。
長椅子は朽ち、祭壇へ続く通路には瓦礫が積もっていた。
頭上を見れば、天井の大半が崩れ落ちている。
ぽっかりと開いた大穴から、昼の光が斜めに差し込んでいた。
その光だけが、かろうじて原形を留めた祭壇を照らしている。
まるで、神が去った場所に、太陽だけが残ったようだった。
私はその中を迷いなく進む。
初めてここへ来た時は、正直言って唖然としたものだ。
神が住む家だと聞かされて案内され、辿り着いた先がこの廃墟だったのだから。
だが今では、床のひび割れも、瓦礫の位置も、足に馴染んでいる。
祭壇の奥にある小部屋へ入る。
中には、空になった本棚が並んでいた。
信仰書でも収められていたのだろうか。今は埃だけが残っている。
その一番奥。
本棚の裏に隠れるように、地下へ伸びる階段がある。
ベルがこの街で最初に私へ見せた、秘密基地のような顔で教えてくれた場所だ。
『神様の家、すごいでしょ!』
誇らしげにそう言ったベルへ、私は何と返したか覚えていない。
たぶん、曖昧に頷いたのだろう。
だが今なら少し分かる。
彼が誇らしかったのは、建物の立派さではない。
ここが、自分の居場所だったからだ。
私は石段を下りる。
そこまで深くはない。
すぐに、小さな扉が見えてくる。
隙間から、暖かな灯りが漏れていた。
地上の廃墟とは違う、人の暮らしの色だ。
私は自然と、肩の力が抜けるのを感じた。
扉を開ける。
「やぁやぁ、お帰りー。ヘイレル君」
「ヘイレル! おかえり!」
「ああ。ただいま」
そこに広がっていたのは、地下室という響きには似つかわしくない、小さな生活空間だった。
粗末ではある。
広くもない。
だが、机があり、食器があり、寝台があり、湯気の残り香がある。
誰かが笑い、誰かが眠り、誰かが腹を空かせる。
そういう日々の匂いが、確かに満ちていた。
部屋へ入ってすぐの紫色のソファーには、一柱の神が寝転がっていた。
仰向けの姿勢で本を読んでいたその少女は、私を見るなり勢いよく飛び起きる。
小柄な体躯。
黒曜石のように艶やかな髪。両脇で結ばれた髪先には銀の鈴。
丸みを帯びた幼い顔立ちに、透き通るような青い瞳。
年若い少女にしか見えない。
だが、その本質は人ではない。
神ヘスティア
この【ヘスティア・ファミリア】の主神にして、私たちの保護者だ。
「なんだいなんだい? 二人とも今日はいつもより早かったね?」
「ちょっとダンジョンで死にかけちゃって……」
「なぁにーっ!?」
ヘスティアは飛び上がった。
次の瞬間にはベルの前へ回り込み、小さな手で肩や腕や頬をぺたぺたと触り始める。
「怪我は!? 出血は!? 骨は!? ベル君に死なれたらボクかなりショックなんだけど!?」
「だ、大丈夫です神様!」
「本当に!?」
「本当にです!」
そのやり取りに、私は思わず口元を緩めた。
この神は、すぐ大袈裟に騒ぐ。
だが、その心配が本物であることも知っている。
ベルは照れくさそうに笑った。
「神様を路頭に迷わせることはしませんから」
「あっ、言ったなー!? なら大船に乗ったつもりでいていいんだね!?」
「なんか言い方が変です……」
「ヘイレル君もちゃんとベル君を見てておくれよ? キミも存外、無茶を押し通すタイプだけど」
「貴方ほどの女神がそう言うなら間違いない。堕落生活の果てに神ヘファイストスから雷を落とされた主神よ」
「あっ!! それまだベル君には言ってないのにーっ!!」
「えぇっ!?」
ベルが素っ頓狂な声を上げる。
地下室に笑い声が満ちる。
騒がしい。
狭い。
貧しい。
けれど、温かい。
記憶のない私には、家族というものがどんなものか分からない。
それでも。
もし帰る場所という言葉に形があるのなら、きっとこういう場所を指すのだろうと、そんなことを思った。
この廃教会の地下で。
神と、白兎と、正体不明の私が暮らしている。
奇妙で、歪で、けれど不思議と心地よい日々だった。