見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
地下室に満ちていた笑い声が、ようやくひと段落した頃。
神ヘスティアは、得意げな顔で胸を張った。
もっとも、その胸は得意げでなくとも十分すぎるほど主張しているのだが、それを口にすると面倒なので黙っておく。
「さてさて! キミたちの今日の稼ぎはどうだったんだい?」
「いつもよりは少ないですね……」
ベルが頭を掻きながら答える。
ミノタウロスとの遭遇で狩りを切り上げたのだから当然だろう。
今日の収穫は、生きて帰ってきたこと自体に価値がある。
だが、そんな現実的な話を一瞬で吹き飛ばすように、ヘスティアは高らかに宣言した。
「ふっふっふーん! だが、ボクは違う!」
勢いよく背後から何かを引っ張り出す。
紙袋だった。
いや、ただの紙袋ではない。
油染みと香ばしい匂いを放つ、見る者の食欲へ直接訴えかける危険物だ。
「見たまえ!」
袋の口が開かれる。
黄金色に揚がった丸い芋菓子が、これでもかと詰め込まれていた。
「そ、それは……!」
ベルの瞳が輝く。
「露店の売上に多大なる貢献をした功績を称えられ、ジャガ丸くん大量支給だ!」
「おおおっ!」
「今夜はパーティーだ! ベル君、今夜は寝かせないぜ!」
「神様すごい!」
「ふはははは!」
芋菓子ひと袋でここまで盛り上がれる神と少年を眺めながら、私は椅子へ腰を下ろした。
……平和だ。
迷宮都市オラリオ。
怪物と死が隣り合わせの街。
その地下で、主神が芋菓子を戦利品のように掲げ、少年が歓声を上げている。
どこか滑稽で、だが嫌いではない光景だった。
「ヘイレル君、なんだいその目は」
「別に。神というのも案外俗っぽい生き物だと思っただけだ」
「失礼な。ボクは高貴で清廉な女神だよ?」
「ジャガ丸くんで狂喜乱舞している時点で説得力がない」
「うぐっ……」
ヘスティアが胸を押さえてよろめく。
ベルが慌てて支える。
「神様しっかり!」
「見たかいヘイレル君! これが信仰だ!」
「それは甘やかしだ」
「ぐはっ!!」
私は「ヘイレル君がイジメるよ〜」と泣き叫ぶ主神を眺めながら、ふと思う。
神。
この世界において、それは遠い存在ではない。
遥か昔、天界から下界へ降りてきた超越者たち。
老いず、滅びず、人知を超えた力を持ちながら、その力を封じ、人と同じ地平へ降りてきた者たち。
理由は、簡単だったと聞く。
退屈したから。
永遠に満たされた世界。
何一つ欠けることなく、何一つ飢えることなく、何一つ失わぬ世界。
そこに刺激はなかった。
だから神々は、不完全で、無駄だらけで、失敗ばかり繰り返す人間たちへ興味を抱いた。
飢え、争い、恋をし、夢を見て、挫折し、それでも明日へ進もうとする生き物。
神々は、それを面白いと思ったのだ。
実際、目の前の神を見る限り、その話は真実なのだろう。
「いやぁ、それにしても……」
ヘスティアはジャガ丸くんを頬張りながら、急に遠い目をした。
「道行く人はみーんなボクを可愛がってくれるのに、【ファミリア】へ入りたいって子は全然来ないんだよねぇ」
「それは……」
ベルが苦笑する。
「みんな現金だよ! ヘスティアなんて無名だからってさ!」
机をばんばん叩いて抗議する主神。
その言葉には、冗談半分、本音半分が滲んでいた。
【ファミリア】。
神の眷族。
神と契約し、恩恵を授かり、その庇護下で生きる集団。
神の名声は、そのまま看板になる。
強大な神のもとには有能な者が集まり、さらに組織は大きくなる。
資金も、人材も、情報も、装備も集まる。
逆に、無名の神のもとへ人は来ない。
たとえ授かる恩恵そのものに本質的な差がなくとも、人は“勝てそうな場所”を選ぶ。
実に人間らしい話だった。
「でも、神様」
ベルが真面目な顔になる。
「僕は神様のところでよかったです」
「……ベル君」
「僕、どこにも入れてもらえなかったし」
その声には、少しだけ過去の影があった。
田舎から出てきた白髪の少年。
頼れる者もなく、技術も実績もなく、有名な【ファミリア】からは門前払い。中小派閥ですら相手にされなかったと聞いている。
そこへ現れたのが、ヘスティアだった。
勧誘した神。
拾われた少年。
今思えば、あの二人はよく似ている。
行き場がなく、誰かを必要としていた。
「神様が手を引いてくれたから、僕はここにいられます」
ベルはまっすぐに言った。
照れもなく、迷いもなく。
その言葉に、ヘスティアの青い瞳が揺れる。
「……キミってやつは」
「それに!」
ベルは立ち上がる。
「僕たちの【ファミリア】はまだ始まったばかりです! 今は小さくても、これからです!」
拳を握りしめ、熱を帯びた声で続ける。
「最初は苦しいかもしれない。でもここを乗り越えれば、絶対もっと良くなる! 仲間だって増えます!」
「ベル君……!」
感極まったように、ヘスティアが両手で口元を押さえる。
私はその様子を横目に見ながら、小さく息を吐いた。
眩しい。
ベル・クラネルという少年は、時折、どうしようもなく眩しい。
現実を知らぬ甘さとも言える。
根拠のない楽観とも言える。
だが、それを笑い切れない力がある。
信じている者の言葉には、熱が宿る。
「ベルの言う通りだ」
私は静かに口を開いた。
二人の視線がこちらへ向く。
「主神もさっき言っていただろう。大船に乗ったつもりでいろ、と」
「ヘイレル君まで……!」
「それに、私を拾ったことも忘れてもらっては困る」
記憶もなく、身元も知れず、過去すら分からない私を。
ヘスティアは何も問わず、この場所へ置いてくれた。
その恩は決して軽くない。
「貴方がへっぽこ神だとしても」
「それいる!?」
「私たちにとっては主神だ」
「…………!!」
一瞬、静寂が落ちる。
次の瞬間。
「──うわああああん!」
ヘスティアが泣きながら飛びついてきた。
「ちょ、神様!?」
ベルが慌てる。
「キミたちぃ! なんていい子なんだい! ボク、もう感動した!」
「涙と鼻水を服で拭くのはやめてくれ」
「細かいこと言わない!」
小柄な神が私へしがみつき、ベルがそれを引き剥がそうとし、地下室はまたしても騒然となる。
狭く、古く、裕福とは程遠い部屋。
それでも、この場所には笑い声があった。
私は騒ぎの中で、ふと気づく。
ここへ来る前の私は、どこにいたのだろう。
誰といて、何をして、生きていたのか。
何も思い出せない。
だが、少なくとも今は。
この地下室で、神と少年と共に騒がしい夕刻を過ごしている。
それだけは確かな現実だった。
やがて、ひとしきり泣いて満足したのか、ヘスティアは袖で目元を拭い、にやりと笑った。
「よしっ! 感動した!」
嫌な予感がする。
「未来あるキミたちのために──今日は【ステイタス】更新だ!」
ベルの顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!?」
「もちろんさ!」
神は胸を張り、指を突きつけた。
「さあ、次は成長の時間だよ。ボクの子供たち!」
その声に、部屋の空気が少しだけ変わる。
笑いと生活の時間から、冒険者の時間へ。
私は無意識に、自分の背中へ手をやった。
黒き文字列。
神血で刻まれた恩恵の証。
今日という日が、ただの日常で終わらぬ気がしていた。