見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
地下室に満ちていた笑い声が、少しずつ落ち着いていく。
ジャガ丸くんの袋は机の上へ置かれ、ベルはまだ興奮の余韻を残した顔で主神を見つめていた。
ヘスティアはそんな私たちを順番に眺め、満足げに腕を組む。
「よしっ!」
ぱん、と小さな手を打つ。
「未来あるキミたちのために──今日は【ステイタス】更新だ!」
その一言で、部屋の空気が変わった。
つい先ほどまでの騒がしい日常が、すっと後ろへ下がる。
代わりに前へ出てくるのは、冒険者としての現実だ。
ダンジョンで得た経験。
死線の中で積み重ねた歩み。
それらが、神の手によって“力”へ変わる時間。
この街で生きる者にとって、それは祝福であり、審判でもあった。
「まずはヘイレル君からだね」
ヘスティアが私を指差す。
「前回は時間がなかったし、今日はちゃんと見てあげよう。ほら、服を脱いで寝台へごろーん」
「分かった」
「じゃあ僕、ご飯の準備してますね!」
ベルが元気よく台所へ向かう。
鼻歌まで聞こえてきそうな足取りだった。
ミノタウロスに追われ、死を間近で見たとは思えない回復力である。
あの少年は、落ち込む時は大きく落ち込むが、立ち直る時もまた早い。
私は部屋の奥へ進む。
粗末な寝台。
壁際の姿見。
小さな棚。
見慣れた空間だ。
革鎧を外し、黒の内衣を脱ぐ。
肌へ地下室の少し冷たい空気が触れた。
姿見へ視線を向ける。
そこに映るのは、白髪の青年。
やや色素の薄い肌。痩せてはいるが、細すぎるわけではない体躯。
そして背中には、びっしりと黒い文字列が刻まれていた。
神聖文字。
人の言葉ではない。
神々だけが扱う秘文字。
私には読めない。
だが、それが私の歩みそのものだということだけは知っている。
何を倒し、何を耐え、何を積み重ねてきたか。
その軌跡が、ここに記されている。
……過去の記憶はないのに、今の積み重ねだけはこうして残るらしい。
奇妙な話だった。
「はいはい、寝た寝たー」
ヘスティアに急かされ、私は寝台へうつ伏せになる。
次の瞬間。
「よっと」
小さな重みが腰のあたりへ乗った。
主神が、私の背へ跨るように座っている。
「そういえばベル君、死にかけたって言ってたけど、一体何があったんだい?」
「それは本人に聞いてくれ」
「なんだよもったいぶっちゃって〜」
ぶつぶつ言いながら、ヘスティアの手が私の背を撫でる。
一度。
二度。
何度も、同じ箇所を往復するように。
まるで文字を読む前に、紙の質感を確かめるような丁寧さだった。
「…………」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
神の手だからなのか。
それとも単純に、無防備な背中へ触れられているからか。
「なんだい、緊張してるのかい?」
「していない」
「耳が少し赤いよ?」
「気のせいだ」
「ふふん」
面白がる声がした。
やがて、ちゃり、と金属音。
私はわずかに首をひねる。
ヘスティアが針を取り出し、自らの指先へ刺していた。
滲んだ血が、白い指先で紅く光る。
神血。
本来なら人の身で触れることすら叶わぬもの。
だが今、この小さな神はそれを惜しげもなく私へ使う。
ぽたり。
背中へ一滴、血が落ちた。
瞬間。
まるで水面へ石を投じたように、皮膚の上へ波紋が広がる。
熱いわけではない。
痛いわけでもない。
だが確かに、私の身体がその雫を受け入れていく感覚があった。
「さて、と」
ヘスティアの指先が動く。
背中に刻まれた文字列をなぞり、塗り替え、付け足し、読み取っていく。
【ステイタス】更新。
神だけに許された業。
人が積み重ねた経験──不可視の歴史を、神が読み解き、能力として昇華する奇跡。
モンスターを倒した経験。
死地を潜り抜けた経験。
己を鍛えた経験。
それらすべてが、力へ変わる。
だから冒険者は迷宮へ潜る。
だからこの街は成り立っている。
「……ふ〜む」
ヘスティアが珍しく真面目な声を出した。
「どうした」
「いや……キミ、本当に妙だなぁと思って」
「何がだ」
「全部だよ」
軽い口調だが、声音には本気の色があった。
「冒険者になってまだ半月。なのに伸び方がおかしい。数値も偏りすぎてるし、何より──」
そこで言葉を切る。
「何より?」
「……いや、後で紙にまとめるよ」
何かを誤魔化された気がした。
だが問い詰める前に、ヘスティアは作業へ戻ってしまう。
やがて、指先が止まった。
「はい、終わり」
腰の重みが離れる。
私は起き上がり、服を身につける。
その間、ヘスティアは机で何かを書き込んでいた。
神聖文字を、下界の共通語へ書き換えているのだ。
私には文字列の意味が読めない。
だから毎回、こうして紙で受け取る。
「ほら、キミの新しい【ステイタス】」
差し出された紙を受け取る。
私は視線を落とした。
ヘイレル Lv.1
力:I89 → I93
耐久:I17
器用:I93 → I96
敏捷:I98 → H101
魔力:G297 → F319
《魔法》
【】
《スキル》
【再臨ノ宴】
・摂取した魔石の量に比例して力の一端を解放する
〔羅刹〕
・『魔影の双連刃』
「おめでとう」
ヘスティアがにやりと笑う。
「本当の意味での【スキル】発現だ」
「…………そうか」
紙を見つめたまま、私は短く答えた。
感情がないわけではない。
ただ、うまく形にならなかった。
半月。
この街へ流れ着き、ベルと出会い、神に拾われ、ダンジョンへ潜り続けた日々。
その結果が、ここにある。
力や敏捷の上昇。
異様に高い魔力。
そして、明確に姿を現した【スキル】。
【再臨ノ宴】。
名だけ見れば祝祭のようだ。
だが内容は異質だった。
魔石を喰らい、力を取り戻す。
人の能力というより、飢えた獣の機構に近い。
「長かったようで短かったな」
私が呟くと、ヘスティアが机を叩いた。
「本当だよ! まだ半月だよ!? 普通おかしいからねコレ!」
「そういうものなのか」
「そういうものだよ!」
神が言うなら、そうなのだろう。
私は再び紙を見る。
力、耐久、器用、敏捷、魔力。
この街の者たちは、それらを磨き、上位の階位へ進む。
やがて【ランクアップ】し、Lv.2、Lv.3へ至る。
一つ上がるだけで、別種の生き物になるとすら聞く。
だからこそ、ベルはミノタウロスから逃げるしかなかった。
Lv.1とLv.2の差は、それほど大きい。
(……だが)
私は指先で【スキル】の文字をなぞる。
私の道は、少し違うのかもしれない。
「相変わらず魔力の伸びが凄いねぇ」
ヘスティアが覗き込む。
「魔石を食べてる影響なのかな? 体に異常はないのかい?」
「ない」
「本当に?」
「少なくとも、今のところは」
腹の底に熱が灯る感覚。
何かが目覚めかけるような違和感。
それを異常と呼ぶかどうかは、判断が難しい。
「……まあ、無理はしないでおくれよ」
珍しく静かな声だった。
私は紙を畳み、立ち上がる。
「ベルも待っている。更新してやってくれ」
「もちろんさ」
ヘスティアは頷く。
私は台所へ向かった。
鍋の中では、簡素なスープが煮えている。
ベルが慣れた手つきで木匙を動かしていた。
「あっ、ヘイレル!」
ぱっと振り向く。
「終わったの?」
「ああ。次はお前だ」
「どうだった?」
「少し変わった」
「少しって顔じゃないけど……」
私の表情でも読んだのか、ベルが笑う。
その笑顔は、先ほどまで死にかけた者のものとは思えないほど明るかった。
「早く行け。主神が待っている」
「うん!」
ベルは木匙を置き、駆けていく。
白髪が揺れ、小さな背が部屋の奥へ消える。
私はその背を見送りながら、妙な確信を抱いていた。
今日、何かが変わる。
私も。
ベルも。
この小さな地下室で、運命が静かに動き出している。
やがて──
「えぇぇぇぇぇぇっ!?」
奥の部屋から、ヘスティアの素っ頓狂な叫び声が響いた。
私はゆっくりと鍋をかき混ぜる。
……どうやら、ベルの方もただでは済まなかったらしい。
そして、後に主神は告げることになる。
ベル・クラネルが【スキル】を発現させた、と。