見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
夢を見ていた。
……気がする。
目覚めた直後には、いつもそう思う。
だが、その夢の輪郭は指の隙間から零れる砂のように、意識が浮上するたび失われていく。
覚えているのは断片だけだ。
赤黒く焼けた空。
地平線まで続く炎。
誰かが泣いている声。
鉄と血の臭い。
そして──翼。
白い翼と、黒い翼。
それが誰のもので、何を意味するのか。
私には分からない。
分からないまま、夢はいつも終わる。
「…………」
私はゆっくりと瞼を開いた。
視界に映るのは、見慣れた地下室の天井だった。
石造りの低い天井。
ところどころ補修の跡があり、隅には小さな蜘蛛の巣まである。地上の教会が廃墟同然である以上、この地下空間もまた完璧とは程遠い。
だが、嫌いではない。
むしろ落ち着く。
壁際に吊るされた魔石灯が、淡い青白い光を放っていた。
夜通し点けられていたそれは、夜明けを知らぬ地下室に擬似的な朝を作り出している。
地上の陽光はここまで届かない。
鳥の囀りも、風の音も、街路を行く荷車の音も。
それでも私は、朝だと分かるようになっていた。
「……五時、か」
寝台代わりのソファーから体を起こさぬまま、壁時計へ視線をやる。
規則正しい秒針の音が、静かな部屋によく響いていた。
この時間に目が覚めるようになったのは、間違いなくベルのせいだ。
ベル・クラネル。
【ヘスティア・ファミリア】所属の白髪の少年。十四歳。純朴。素直。異様なほど朝に強い。
彼は毎朝、まだ空が白む前に起きる。
鍛錬だの準備だのと言って、眠気など存在しないかのように起床するのだ。
その生活へ付き合わされているうち、私の身体も勝手に覚えてしまったらしい。
記憶は失っているくせに、こういう余計なことだけはすぐ馴染む。
私は小さく息を吐き、上体を起こした。
その時だった。
「…………?」
隣のソファーに違和感を覚える。
本来ならベルが寝ているはずの場所。
だがそこには、妙に丸い膨らみがあった。
シーツがこんもりと盛り上がっている。
私は数秒それを見つめ、結論に至る。
「……主神だな」
間違いなかった。
シーツの隙間から覗く黒髪。
規則正しい寝息。
小さな身体を丸め、ベルへしがみつくような姿勢。
神ヘスティア、その人である。
「…………」
どうやら昨夜、自分の寝台で寝ていたはずが、寝ぼけてこちらへ移動してきたらしい。
珍しいことではない。
いや、珍しくないのが問題なのだが。
主神は寝相が悪い。
寝ぼける。
勝手に人の寝具へ侵入する。
そして翌朝、何も覚えていない。
神としてどうなのかと問いたくなるが、本人にその自覚はない。
「……相変わらず、ベルのことが好きだな」
呆れ半分、感心半分で呟く。
その声に反応したのか、ベルがもぞりと動いた。
「ん……ぅ……」
薄く目を開ける。
寝起き特有のぼんやりした視線が天井をさまよい、やがて私へ向けられる。
「……おはよう、ヘイレル」
「おはよう」
「……なんか、見てる?」
「いや」
「絶対何かあるよね……?」
ベルは首を傾げ、ようやく自分の胸元へ視線を落とした。
そして、そこにいた。
我等が主神である、ヘスティアが。
ベルの胸へ顔を埋めるようにして眠りこけ、片腕で抱き枕のように彼へ絡みついている。
「…………」
状況把握まで数秒。
「……あはは」
乾いた笑いが漏れた。
「また寝ぼけちゃったのかな、神様」
「たぶんそうだろう」
「たぶんって……」
「確定しているが、あえて余地を残した」
「優しさの方向性が変だよ」
ベルは困ったように笑う。
怒るでもなく、騒ぐでもなく、苦笑いで済ませるあたり、慣れてしまっているのだろう。
白兎のように純粋な顔をして、妙に苦労人気質である。
その時だった。
「んぅ……ベルくぅん……」
ヘスティアが寝言を漏らし、身じろぎする。
頬をベルの胸板へ擦りつけるように、すり、と甘えた動きを見せた。
「…………!」
ベルの顔色が一瞬で変わる。
赤い。
耳まで赤い。
昨夜ミノタウロスに追われた時より血の巡りが良いのではないかと思うほど赤い。
「へ、ヘイレル……!」
「何だ」
「見てないで助けてよ……!」
「断る」
「即答!?」
私は毛布を畳みながら答える。
「これは主神と眷族の信頼関係だ。外野が口を出すべきではない」
「今いいこと言った風にしたよね!?」
その間にも、ヘスティアはさらに深くベルへ寄っていく。
「むぎゅ」
圧倒的な柔らかさが圧縮される音がした。
ベルの顔が限界を迎える。
「し、失礼します神様ぁぁぁ!」
叫ぶや否や、ベルは神速でヘスティアを抱き上げた。
小柄な身体は軽い。
主神は眠ったまま、されるがままである。
そのまま数歩で主神の寝台まで移動し、そっと寝かせ、シーツを丁寧に掛け直す。
流れるような手際だった。
「……手慣れているな」
「慣れたくて慣れたわけじゃないよ……!」
肩で息をしながら、ベルが振り返る。
「ヘイレルもたまには手伝ってよぉ……」
「面白いので断る」
「最低だ……」
「最高の朝だろう」
「僕にとっては心臓に悪い朝だよ!」
その時、寝台の方から小さな寝言が聞こえた。
「……ベル君のあほぉ……むにゃ……」
「…………」
「…………」
私とベルは顔を見合わせる。
「聞かなかったことにしよう」
「そうしよう……」
それが最善だった。
身支度を整える。
地下室の洗面台で顔を洗い、冷えた水で眠気を追い払う。
革鎧を身につけ、腰の装備を確認する。
ベルはその間に簡単な準備運動をしていた。
屈伸。腕回し。跳躍。
実に真面目だ。
「お前、本当に朝に強いな」
「そうかな?」
「つい数分前まで主神に潰されていた者の台詞とは思えない」
「それはもう忘れてよ!」
耳まで赤くしながら抗議してくる。
私は少し笑った。
こんなふうに誰かと朝を迎える生活を、以前の私も送っていたのだろうか。
思い出せない。
だが、今は悪くないと思う。
「行こう、ヘイレル」
「ああ」
ベルが扉へ向かう。
私は最後に寝台の方を見た。
ヘスティアは毛布へ埋もれ、すやすやと眠っている。
口元には、うっすら笑みすら浮かんでいた。
……平和な神である。
「主神」
小さく声をかける。
返事はない。
「行ってくる」
それだけ告げ、私は扉を開けた。
石段を上がる。
廃教会の静かな礼拝堂を抜ける。
そして外へ出た瞬間。
ひやりとした朝の空気が、肺を満たした。
夜の名残を帯びた群青の空。
東の彼方だけが淡く白み始めている。
目覚める前の街。
動き出す直前の世界。
「……いい朝だね」
ベルが小さく呟く。
私はその横顔を見る。
昨日、死にかけた少年とは思えぬほど、晴れやかな顔だった。
「そうだな」
短く返す。
迷宮都市オラリオの一日が、また始まろうとしていた。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
廃教会を出た私たちは、朝靄の残る路地を抜け、迷宮都市オラリオの表通りへ出た。
昼間の喧騒を知る者なら、同じ街とは思えないだろう。
いつもなら冒険者たちの怒号と笑声、商人の呼び込み、鍛冶場の槌音、酒場帰りの酔漢の歌声が渾然一体となって押し寄せてくる大通りが、今はひどく静かだった。
石畳は夜露を含み、朝日を待つように淡く濡れている。
両脇の商店はまだ鎧戸を閉ざしたまま。看板だけが風に揺れ、眠たげに軋んでいた。
その静寂の中で、ぽつぽつと一日の準備だけが始まっている。
露店の布を広げるパルゥム。
荷車へ野菜籠を積み込むドワーフ。
店先を掃き清める人族の女主人。
夜勤明けらしき冒険者が大欠伸をしながら帰路につき、別の冒険者が剣帯を締め直してダンジョンへ向かう。
街そのものが、大きな生き物のようにゆっくり目を覚ましていく時間だった。
「朝の街って、なんか好きなんだよね」
ベルが隣で言う。
白い吐息が、言葉の終わりに溶けた。
「まだ誰のものでもない感じがして」
「昼になれば、誰かのものになるのか?」
「そういう意味じゃないけど……なんて言えばいいんだろう」
ベルは困ったように笑う。
「これから頑張ろうって思える時間、かな」
「……らしい答えだ」
私がそう返すと、ベルは「何それ」と少しだけ頬を膨らませた。
この少年は、時折こちらが気恥ずかしくなるほど真っ直ぐなことを言う。
だから眩しいのだろう。
私には、朝という時間へそこまで希望を見いだした記憶がない。
そもそも記憶そのものがないのだが。
「うぅ……でもお腹空いたなぁ」
直後、ベルの腹が見事な音を立てた。
ぐぅぅ、と。
朝の静けさの中では妙によく響く。
「情緒が台無しだな」
「し、仕方ないでしょ! 昨日色々あったし、朝ご飯まだだし!」
「軽食なら持っている」
腰袋へ手をやる。乾燥肉と固い保存パンくらいならある。
だがベルは首を横に振った。
「うーん……今日は節約したいんだ。武器の手入れもしたいし、ポーションも減ってるし」
現実的な判断だった。
【ヘスティア・ファミリア】の懐事情は豊かとは言えない。
昨日の稼ぎも多くはなく、今日も潜る以上、消耗品の補充は避けられない。
腹は減る。
だが金も減る。
冒険者とは、夢と現実の帳尻合わせをする生き物らしい。
「なら我慢するしか──」
そこで、ベルがぴたりと足を止めた。
「……ん?」
視線が背後へ流れる。
私は即座に周囲へ意識を巡らせた。
「どうした」
「いや……なんだろう」
ベルは首を傾げる。
「誰かに見られてる感じがして」
私は半歩前へ出る。
反射に近かった。
視線。気配。殺意。敵意。
そういったものに敏感なのは、むしろ私の方だと思っていた。
だがベルには、別種の勘がある。
人の感情や視線の“向き”を感じ取るような、不思議な感受性だ。
周囲を見る。
通りの角で荷車を押す獣人。
開店準備中の食堂の主人。
窓辺で欠伸をする子ども。
怪しい者はいない。
それでも、何かがこちらへ向いている感覚だけはあった。
私は腰の武器へ手を添える。
十数秒。
風が通りを抜け、看板が揺れた、その時。
「あ、あの……」
「──!?」
背後から声がした。
私は即座に振り返る。
そこにいたのは──
一人の少女だった。
白いブラウスに、若葉色のジャンパースカート。
腰元まであるサロンエプロン。働き慣れた給仕服だ。
薄鈍色の髪は後ろでまとめられ、一本だけ跳ねた毛先が妙に目を引く。
瞳も同じ色合いで、曇天のように柔らかく、静かな光を湛えていた。
年は私たちより少し上か。
華やかというより、親しみやすい整い方をした顔立ちだった。
「ご、ごめんなさいっ。驚かせてしまって……!」
こちらの過剰な反応に、少女の方が慌てて頭を下げる。
「い、いえ! こっちこそ!」
ベルも慌てて両手を振った。
私は警戒を解かないまま、少女を見る。
この距離まで近づかれて気づかなかった。
足音も、衣擦れも、気配も薄かった。
偶然か。
あるいは、この少女がそういう歩き方をするのか。
「何か用か」
私が問うと、少女は「あっ」と声を漏らし、右手を差し出した。
掌の上に、小さな紫紺色の結晶が載っている。
魔石だった。
「これ……落としましたよ」
「え?」
ベルが腰袋を探る。
私は魔石を見る。
昨日換金したはずのものに近いサイズ。
欠片としてはごく普通だ。
だが、ベルの袋にはまだ数個の小片が残っていた。予備か、見落としか。
「す、すいません! ありがとうございます!」
ベルが深く頭を下げる。
少女はふわりと笑った。
「いえ。拾っただけですから」
その笑みは、押しつけがましさのない笑みだった。
善意を誇示せず、恩を着せず、ただ自然にそこへ置いたような笑顔。
人はこういう表情に弱い。
事実、ベルの肩からはすでに警戒が消えていた。
「こんな朝早くから、ダンジョンへ行かれるんですか?」
「はい。ちょっと軽く潜ろうかなって。ね、ヘイレル」
「……ああ」
少女は会話の運び方が上手かった。
問いかけは軽く、答えやすい。
それでいて、相手の情報は自然に引き出していく。
無自覚なら大した才能だ。
自覚的なら、なお恐ろしい。
「すごいですね。朝から頑張ってるんだ」
「そんなことないですよ。いつもですし」
ベルは照れくさそうに頭を掻いた。
その時だった。
ぐぅぅぅぅ……
またしても腹が鳴った。
今度は先ほどより長い。
しかも力強い。
「…………」
ベルの顔がみるみる赤くなる。
私は視線を逸らした。
笑うと後で面倒だ。
対して少女は口元へ手を当て、小さく吹き出した。
「ふふっ、お腹、空いてるんですか?」
「……はい」
「朝食はまだ?」
ベルが観念したように頷く。
少女は少し考え込む仕草を見せると、「少し待っていてください」と言い残し、通りの向こうへ駆けていった。
その先にあるのは、一軒の酒場だった。
花を模した看板。
朝だというのに、すでに店内で人影が動いている。
やがて少女は、小さなバスケットを抱えて戻ってきた。
中には焼きたての丸パン。
まだ湯気すら残る白いチーズ。
香草の匂いまで漂っている。
「これ、よかったらどうぞ」
「ええっ!?」
ベルが素っ頓狂な声を上げた。
「そ、そんな! 悪いですよ! それにこれ、貴方の朝ご飯じゃ……」
少女は困ったように笑う。
「このまま見送ったら、私の良心が痛んでしまいそうなんです」
ずるい言い方だ、と私は思った。
断ればこちらが悪者になる。
受け取れば自然に借りができる。
だが、嫌味がない。
「……ずるいな」
思わず口に出た。
「え?」
「いや、何でもない」
少女はきょとんとした後、少しだけ悪戯っぽく笑った。
その表情で、私は理解する。
この少女、見た目より一枚上手だ。
「でも、条件があります」
「じょ、条件?」
ベルが固まる。
少女は通りの向こう、先ほどの酒場を指差した。
「今日の夜」
柔らかな声で続ける。
「あの店で、晩ご飯を召し上がってください」
「……え?」
「私、そこで働いてるんです」
なるほど。
施しではなく、宣伝。
善意ではなく、商売。
そう形を変えてしまえば、こちらも気負わず受け取れる。
見事だった。
「本当にずるいなぁ……!」
ベルが破顔する。
「うふふ。ありがとうございます」
少女は頭を下げた。
「それじゃあ、今夜うかがいます!」
ベルが勢いよく言う。
「ヘイレルと一緒に!」
「勝手に決めるな」
「いいでしょ一緒に!」
「……まあ、構わないが」
少女は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔には、朝の光がよく似合っていた。
私たちは歩き出す。
ダンジョンへ向かう道。
背後に酒場。
手には朝食の入った籠。
しばらくして、ベルがはっと振り返った。
「あ、僕、ベル・クラネルって言います!」
慌てて私の肩を引く。
「こっちはヘイレル!」
「……よろしく」
少女は少し驚いたように目を見開き、それから丁寧に会釈した。
「シル・フローヴァです」
朝風が彼女の髪を揺らす。
「ベルさん。ヘイレルさん。どうぞ、よろしくお願いします」
その名は、柔らかな響きだった。
私は一度だけ頷き、前へ向き直る。
何気ない朝の出会い。
ただそれだけのはずだった。
「…………」
けれど、胸の奥に小さな違和感が残っていた。
この少女は、本当にただの給仕なのか。
そう思った理由を、まだ私はうまく言葉にできなかった。