見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
神々が下界へ降り立つ、遥か以前。
この地には既に【ダンジョン】があった──という話を、私は何度か耳にしている。
迷宮の真上には、今ほど巨大ではなかったにせよ街が築かれ、人はそこに住み、息をし、日々を営んでいたらしい。そして、その頃から既に、現在の【ギルド】へと連なる管理機関も存在していたのだという。
つまり。
神の【恩恵】など存在しなかった時代にも、人はこの地下迷宮へ挑み、怪物を狩り、生きて地上へ戻ってきたのだ。
「……信じ難いな」
薄青く燐光を放つ壁面を見つめながら、私は小さく呟いた。
静かな通路だった。
壁も、床も、天井も、鉱石に似た物質で形成された迷宮は、陽の光が差し込むはずもないのに、昼間のような明るさを保っている。天井近くには星屑のような光の粒が点在し、一定ではない淡い輝きが、湿り気を帯びた空気の中へ青白い陰影を落としていた。
迷宮都市オラリオの地下に広がる巨大迷宮──その第一階層。
冒険者にとっては入口に過ぎないこの場所ですら、こうして実際に立ってみれば異様だ。生き物の腹の中に迷い込んだような息苦しさがあるくせに、構造そのものは妙に理知的で、規則的で、人工物じみている。その歪な整合性が、却って不気味だった。
今の私たちは、神から授かった力がある。それでも低階層のモンスター相手に手を焼くことは珍しくない。ベルも私も、まだ駆け出しだ。ようやく冒険者として歩き始めたばかりの、未熟な新参者に過ぎない。
それなのに。
そんな力さえ持たぬ時代、人は怪物と戦っていたという。
無謀なのか。英傑なのか。
あるいは、その両方か。
尊敬と疑念が、胸の内で半々にせめぎ合っていた。
もし、その話が真実なのだとしたら。
当時この迷宮に挑んでいた者たちは──今の私たちなど、比べものにならぬほど強かったのだろう。
『ギャウッ!?』
思考を断ち切るように、獣じみた悲鳴が通路に響いた。
「はっ!」
前方で短く気合いの声が弾け、銀の閃きが走る。
ベルの短剣だ。
飛びかかってきたコボルトの前脚を浅く裂き、灰褐色の毛皮に赤い線を刻む。鮮血が細かい飛沫となって散り、青白い迷宮の壁面へと斑に貼りついた。
浅い。
致命傷には遠い。
だが、悪くない。
致命打を狙って硬くなるより、まずは生きるために躱し、崩し、間合いを外す。その判断は間違っていなかった。
傷を負ったコボルトが苦鳴を上げて飛び退いた、その瞬間。
左右の通路脇から、別の影が飛び出す。
『シャアッ!』
「ほあっ!?」
ベルが情けない悲鳴を漏らしながら、咄嗟に上体を逸らした。鋭い爪が鼻先を掠め、白い髪が数本、宙へ舞う。
直後、別の一匹が低い体勢から噛みつこうと跳ねた。
『グェッ!?』
「っとぉ!」
どうにか短剣の柄頭で顎を打ち上げ、コボルトの頭を反らせる。勢いを殺された魔物が不格好に着地し、唸りながら距離を取った。
……悪くない。
動きはまだ拙い。踏み込みも浅いし、視線の運びにも無駄がある。敵に対して身体ごと正対し過ぎていて、退路の意識も甘い。経験不足は隠しようがない。
だが、それでも。
反応速度は速い。
追い詰められながらも、致命の一撃だけはきっちり避けている。才能がある、とまではまだ言い切れないが、少なくとも折れない心と、覚えの良さはある。
ただ──。
『『『『『『グルオァァァッ!!』』』』』』
通路の奥から重なって響く咆哮に、私は目を細めた。
六匹。
問題は、数だ。
「無理だぁぁーっ!? 助けて、ヘイレルーっ!!」
ついにベルが半泣きの声で叫び、こちらへ全力で駆け戻ってくる。顔色は悪く、呼吸は荒く、それでも脚だけは止めない辺り、まだ本当に限界というわけではないらしい。
「……一人でやってみる、と豪語していた男はどこへ行った」
「前言撤回! 今の僕には無理でした!!」
「男に二言はないと聞くが」
「今それ言う!? 畜生ぉぉぉっ!」
涙目で叫ぶベルの背後から、六匹のコボルトが牙を剥いて迫る。
石床を叩く爪音が不規則に鳴り響き、低く濁った唸りが通路の壁で反響する。獣臭い吐息が、少し離れた場所にいる私のところまで届いた気がした。
場所は第一階層。
壁も床も天井も青白く明るい迷路のような構造で、早朝のせいか、周囲に他の冒険者の姿はない。静まり返った迷宮には、ベルの悲鳴と魔物の足音だけが妙に大きく響いていた。
(群れすぎだ)
コボルトは通常、一匹か二匹。多くても三匹で徘徊することがほとんどだ。
六匹。しかも、こうもまとまって襲ってくるのは珍しい。
先日のミノタウロスといい、今日のこの群れといい、偶然にしては少し続きすぎている。
「……ダンジョンの機嫌でも悪いのか」
そんな独り言に答える者はいない。
いるとすれば、壁の向こうで胎動している“何か”だけだろう。
私は通路の中央へ、一歩進み出る。
「ベル、下がれ」
「っ、了解!」
ベルは即座に反応し、私の横をすり抜けて後方へ駆け抜けた。少し先の曲がり角を曲がったところで足を止め、壁際に身体を寄せた気配がする。息を殺し、こちらの邪魔にならない位置を選んだのだろう。
悪くない判断だ。
本来なら、こういう場面は待ち伏せが定石だ。
曲がり角を使い、一匹ずつ飛び出してきたところを叩く。多数相手の基本は、一対一へと分解することにある。
だが第一階層の通路は、思いのほか広い。
コボルト六匹を相手に曲がり角へ逃げ込めば、包囲される危険もある。下手に時間をかければ、戦闘音に別のモンスターまで引き寄せるかもしれない。
そして、何より。
今の私には──試してみたい力があった。
「…………」
ゆっくりと、両手を開く。
指先が、妙に熱かった。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさい。血が巡る音さえ大きく感じる。けれどそれは恐怖ではない。怯えではなく、もっと別の感覚だ。
高揚。
あるいは、渇望。
昨日ようやく形になった【スキル】。その実戦使用は、これが初めてになる。
使いこなせる保証はない。
威力も、限界も、代償も、まだ何ひとつ正確にはわかっていない。
それでも。
「やるしかない、だ」
迫る足音が、床を震わせる。
どた、どた、と荒々しい獣の足取り。牙を打ち鳴らす音。喉の奥で煮え立つような唸り。複数の敵意が一つの濁流となってこちらへ押し寄せてくる。
私はゆっくり息を吸い込んだ。
肺の奥まで満たし、止める。
「…………」
視界が、研ぎ澄まされていく。
世界から余計な音が薄れていき、目の前の空間だけが異様なほど鮮明に浮かび上がった。コボルトの肩の動き、脚の運び、跳躍の予備動作。何もかもが遅く見える。
両手に、意識を集中させる。
身体の奥底に沈んでいた何かが、呼び声に応じて浮上してくる感覚があった。熱く、冷たく、どこか禍々しい力が、血管の内側を擦るように駆け巡る。
「【顕現せよ】──【魔影の双連刃】」
その瞬間。
空間が、裂けた。
掌の上に生まれたのは、黒ではない。闇よりなお濃く、紫にも似た色を孕んだ異様な光だった。紫黒の輝きが渦を巻き、捻れ、凝縮し、現実そのものを侵食するように形を得ていく。
現れたのは、二振りの剣。
片刃とも両刃ともつかぬ、奇妙な均衡を備えた双剣だった。濃い紫の刀身には、金色の意匠が血管のように刃から柄へと這っている。禍々しさと神秘性が不気味なほど同居し、武器というより、異界の儀礼具のようにさえ見えた。
初めて見る武器だった。
だが、違和感はない。
いや──逆だ。
(……馴染む)
まるで昔から握っていたかのように、指の位置が定まる。重心の置き方も、手首の返し方も、踏み込みに合わせた振り抜きも、全部が最初から身体へ刻まれていたように自然だった。
私は双剣を握り締める。
その瞬間、脳裏に閃いた。
見覚えのない景色。
夜だ。
燃えている。
遠くで何かが崩れる音がする。熱風。鉄の臭い。血煙。地面に広がる死体。何十、何百という敵影。赤黒い戦場の真ん中で、私は──いや、“誰か”は、刃を振るっていた。
その時。
耳元で、声がした気がした。
──斬れ。
「っ……」
頭の奥に、針をねじ込まれたような痛みが走る。
一瞬だけ、視界が揺らいだ。
だが、その違和感もすぐに消えた。
記憶は戻らない。
戻らないまま、身体だけが戦い方を知っている。
『グルルッ……!?』
先頭を走っていたコボルトが、足を止めた。
本能で察したのだろう。目の前にいる獲物が、つい今しがたまでの存在とは別物になったと。
だが。
遅い。
「──『魔影乱舞』」
小さく呟き、踏み込む。
次の瞬間、景色が流れた。
一歩で間合いを奪う。
『ガッ!?』
先頭のコボルトの前脚が、血飛沫と共に宙を舞った。骨ごと断ち斬った手応えが掌に伝わる。止まらない。逆手に持った刃を返し、喉を裂く。湿った音。噴き出す赤。獣の目が見開かれる。
二匹目が跳ぶ。
低く沈み込み、その爪を紙一重で躱す。腹を裂き上げる。皮膚と筋肉が別れる手応え。短い悲鳴。
三匹目。四匹目。
斬る。
斬って、斬って、なお斬る。
紫の軌跡が通路へ何筋も残像を描いた。双剣が走るたび、冷たい青の迷宮に、赤だけが鮮やかに咲いていく。壁に、床に、私の頬に、細かな血飛沫が散った。
コボルトたちは反応できない。
いや、正確には、反応しようとはしている。
だが、その頃にはもう遅いのだ。
こちらへ爪を伸ばそうとした瞬間には腕が落ちている。跳びかかろうと力を込めた時には喉が裂けている。獣の視線が私を捉えた時には、もう次の刃がその視界を断っている。
速い、というだけではなかった。
もっと異質だ。
自分で剣を振っているというより、双剣そのものに導かれている感覚に近い。身体が迷わない。思考が追いつかないほど先に、最適な一手が浮かび、その通りに筋肉が動く。
まるで、この技だけは最初から知っていたかのように。
『ギャッ──』
『グルッ──』
『ガァ──ッ!』
悲鳴は長く続かない。
断ち切られる。
肉と共に。
命と共に。
私は止まらない。
止まれない。
視界の端で、最後の二匹が左右から同時に飛び込んでくるのが見えた。片方へ踏み込みながら一閃。頬から顎にかけて斬り上げる。返す刃で背後へ回り込んだもう一匹の脇腹を薙ぐ。血が霧のように散り、石床に黒ずんだ線を描いた。
斬撃の数など、もう数えてはいなかった。
ただ、身体が知っている。
もう終わる、と。
最後の一匹が膝を折ったところで、私は一歩後ろへ退いた。
それだけで十分だった。
遅れて六つの影が、どさり、どさりと石床へ崩れ落ちていく。
静寂。
さっきまであれほど激しかった足音も、唸りも、もうない。
通路に残っていたのは、濃い血の臭いと、肉片と、動かなくなった六匹の骸だけだった。
「……っ、は……」
そこで初めて、息が漏れた。
膝から力が抜ける。
双剣が霧のように輪郭を失い、そのまま空気へと溶けて消えた。
同時に、身体の芯から何かがごっそり持っていかれる感覚が走る。
重い。
腕が鉛のようだ。脚も、肩も、背中も、全部が鈍く沈む。呼吸が浅くなり、指先が細かく痺れていた。
(……魔力、か)
理解は早かった。
この剣は、私の内側を燃料にしている。
昨日、【ステイタス】の魔力が一定値へ達したことで、ようやく開かれた力。ならば今の私は、ただ“使えるようになっただけ”なのだろう。
自在にはほど遠い。
一戦でこの消耗だ。
切り札と呼ぶには、まだあまりにも不安定すぎる。
「ヘイレル!」
焦った声が響き、ベルが曲がり角の向こうから飛び出してきた。血まみれの通路を一目見て、目を見開く。それでも足は止めず、私の傍まで駆け寄って膝をついた。
「大丈夫!? 怪我は!?」
「……ない」
「ほんとに!? どこか切られたりしてない!?」
「少し、疲れただけだ」
壁へ手をついて立ち上がる。
脚は震えていたが、まだ動く。これならしばらく休めば何とかなるだろう。
ベルは改めて周囲を見回し、信じられないものを見るように息を呑んだ。
「すご……」
「凄くはない」
私は首を横に振る。
「消耗が大きすぎる。これでは切り札にもなり得ない」
「でも、六匹を一瞬で……」
「一瞬ではない。お前の目が追いつかなかっただけだ」
「それを一般的には一瞬って言うんじゃないかな!?」
思わず、といった様子で返してきたベルに、私は小さく息を吐く。
いつもの調子が戻っているなら問題はない。
あのまま本気で怯えられていたら、少しだけ困っていた。
自分でも、今の動きが普通ではないことくらいは分かっている。
記憶を失った私の中に、どうしてあの技が眠っていたのか。
なぜ、あの双剣を握った瞬間だけ、知らない戦場の景色が脳裏に焼き付くのか。
それはまだ、何ひとつ分からない。
分からないまま、ただ前へ進むしかないのだ。
ベルが、少し躊躇いがちに口を開く。
「でも……やっぱり、すごいよ。僕じゃまだ、あんな風には──」
「お前なら、すぐに追いつく。いや、追い越す」
「えっ」
意外そうに瞬いた赤い瞳に、私は淡々と告げる。
「だから今は、基礎を磨け。焦るな。お前は、ちゃんと強くなっている」
「……」
ベルはしばらくぽかんとしていたが、やがて照れくさそうに笑った。
「……うん」
その笑顔は、妙に眩しかった。
まっすぐで、曇りがなくて、見ていると自分の方が少し目を逸らしたくなる。
私は通路へ転がるコボルトの死体へ視線を向けた。
無傷で勝てた。
それだけで、今は十分だ。
だが同時に理解している。
この力は、まだ未完成だ。
使えば勝てる、などという都合のいい代物ではない。扱いを誤れば、自分の方が先に潰れる。ベルを守るための力が、逆に足手まといになる未来だってあり得る。
ならば、磨くしかない。
この剣の正体も、失われた記憶も、戦い方も。
全部、これからだ。
「まだまだ先は長いな……」
誰に向けたわけでもない呟きが、青白い通路へと溶けていく。
迷宮の奥は深い。
私の記憶も、この力の底も、それと同じくらい深いのだろう。
そして、冒険者としての道もまた──入口に立ったばかりだ。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
動かなくなったコボルトたちの骸の傍で、私はしばし立ち尽くしていた。
まだ鼻の奥には血の臭いが残っている。湿った獣臭と、生暖かい鉄臭さが混ざり合い、迷宮特有の冷えた空気の中で妙に際立っていた。
だが──傷はない。
服に飛び散った返り血を除けば、私もベルも無傷だった。
それだけで、十分すぎる戦果だ。
六匹の群れを相手にし、生き残ったどころか、誰一人欠けることなく立っている。駆け出しの冒険者としては、上出来と言っていいだろう。
もっと上手いやり方は、あったのかもしれない。
地形を利用して、一匹ずつ処理する方法もあった。もっと消耗を抑えられたかもしれないし、私の新しい力を使う必要すらなかったかもしれない。
だが、私たちには経験がない。
指示を飛ばしてくれる先輩も、背中を預けられる熟練者もいない。
【ヘスティア・ファミリア】の構成員は、私とベルの二人だけだ。
我流。
言葉にすれば聞こえはいい。
だが実際は、ただの手探りに過ぎない。
誰かに教わった剣ではなく、誰かに導かれた戦いでもない。転び、傷つき、間違えながら、その場その場で答えを拾っていくしかない未熟者の戦い方だ。
その現実が、時折どうしようもなく頼りなく感じる。
それでも。
進むしかない。
「やるか」
「……そうだね」
ベルも疲れた顔で笑い、小さく頷いた。
戦いが終わったなら、次は回収作業だ。
冒険者にとって討伐は過程でしかない。成果を持ち帰って初めて、今日を生きる糧になる。
私はコボルトの死体の前へ膝をつき、短剣を抜いた。
口からだらりと舌を垂らし、白目を剥いたまま絶命しているその姿には、先ほどまでの獰猛さは欠片も残っていない。
短く息を吸い、胸部へ刃を振り下ろす。
肉を裂く鈍い感触。
骨へ触れる硬さ。
びくり、と死体が跳ねたが、気にしない。
中心部を探るように刃先を動かし、やがて私は指先で小さな結晶を摘み上げた。
紫紺に輝く欠片。
「……これが、『魔石』」
いや、正確には『魔石の欠片』だろう。
低階層のモンスターから採れるものは、せいぜい爪ほどの大きさしかない。だが、それでも価値はある。
モンスターを動かす核。
魔力の結晶。
そして迷宮都市オラリオを支える資源。
魔石灯、冷却器具、発火装置。人の暮らしを支える様々な道具に加工され、この街から各地へ輸出されていると聞く。
迷宮が生み出す怪物を、人が生活の糧へ変える。
それは皮肉にも思えた。
怪物の心臓が、人々の明かりになるのだから。
私が摘出した魔石を見つめていると、死体に変化が起こった。
毛並みの色が抜け、肉が乾き、頭部がぼろりと崩れ落ちる。
やがて全身が灰となり、風もない迷宮の中で静かに散っていった。
「……何度見ても、不思議だね」
ベルが呟く。
同感だった。
魔石を失ったモンスターは消滅する。
まるで最初から“そこに存在していなかった”かのように。
生命というより、現象。
生き物というより、生成物。
ダンジョンの中で生まれ、魔石を核として活動し、核を失えば塵へ還る。
それがモンスターという存在らしい。
「ぼーっとしてる暇はないぞ、ベル」
「あっ、ごめん!」
私たちは手分けして残りの死体から魔石を取り出し始めた。
短剣を振り下ろし、抉り、摘出する。
振り下ろす。
抉る。
取り出す。
単純作業のはずなのに、何度もやっていれば嫌でも実感する。
冒険者とは、夢物語ではない。
血と泥と、こうした地味な作業の積み重ねだ。
「ん……?」
その時、ベルが小さく声を上げた。
「どうした?」
振り向くと、最後の一体の灰の中から、鋭い爪だけがぽつんと残っていた。
ベルがそれを拾い上げ、軽く手の中で転がす。
灰にはならない。
形を保ったまま、確かにそこに在り続けている。
「ドロップアイテムか」
「みたいだね」
コボルトの爪。
魔石を失ってなお残る、異常発達した部位。
武器や防具の素材になるため、魔石の欠片より高く売れることも多い。
ベルのこういう運の良さには、少し驚かされる。
「よかったな」
「ヘイレルが倒したコボルトのものだけどね」
「見つけたのはベルだ。それに、収益が増えるのは良いことだ」
「……うん!」
嬉しそうに笑いながら、ベルはそれを黒いバックパックへしまい込んだ。
だが、既に鞄はかなり膨らんでいる。
中には魔石の欠片、素材、簡易道具、飲み水、予備装備。
便利な見た目のくせに、無限収納など夢のまた夢だ。重さはきっちり背負う者へ返ってくる。
本来なら、こうした回収は【サポーター】の仕事だ。
戦闘を担わず、荷物運搬や戦利品回収を行う非戦闘職。
だが私たちには雇う余裕がない。
ファミリアの神台所事情は、笑えぬほど厳しい。
「フリーのサポーター……雇えたら楽なんだけどなぁ」
「主神に相談してみるか?」
「神様に迷惑なんてかけれないし……それに泣きながら財布見せてくる未来しか見えないよ」
それは、容易に想像できた。
思わず少しだけ口元が緩む。
その時だった。
『ウオオオオオオンッ!』
『ガアアッ!!』
通路の奥から、新たな咆哮が響いた。
ベルの笑みが凍る。
「……連戦?」
「そうらしいな」
私は剣の柄へ手をかけながら、薄青い壁面を見つめた。
ダンジョン。
この巨大迷宮には、あまりにも不可解なことが多すぎる。
神々が降臨する前から存在していた地下世界。
破壊された壁が、いつの間にか修復される。
陽光なき場所で、常に灯る燐光。
壁面から這い出るように生まれるモンスター。
そして、いくら狩っても尽きぬ怪物の群れ。
人は言う。
【ダンジョンは生きている】と。
別に、壁が襲ってくるわけではない。
床が口を開くわけでもない。
だが、確かに意志めいたものを感じる瞬間がある。
今日の異様な群れ。
続く連戦。
まるでこちらの様子を見て、試しているかのような悪意。
ぞくり、と背筋を冷たいものが撫でた。
(……見られている)
そんな錯覚。
いや、錯覚であってほしい。
「ヘイレル?」
「……いや、なんでもない」
私は首を振り、前を向いた。
曲がり角の先から現れたのは、ゴブリン二体とコボルト一体。
低階層らしい組み合わせだが、問題は数より頻度だ。
「行くぞ、ベル」
「う、うん!」
ベルが駆ける。
小柄な身体が一気に間合いを詰め、中央のゴブリンへ飛び蹴りを叩き込んだ。
『ゴブリャアッ!?』
吹き飛ぶ小鬼。
私は横手から迫るコボルトへ踏み込み、腹部へ拳を叩き込む。
鈍い衝撃と共に体がくの字に折れ、壁際まで吹き飛んだ。
そのまま抜剣。
一閃で脳天を貫く。
背後ではベルが二体目のゴブリンと揉み合いながらも、着実に押していた。
……成長している。
少し前なら、敵を前に硬くなっていた少年が、今は自分から踏み込めている。
「あっ、またドロップアイテム!」
戦闘を終えたベルが、嬉しそうに牙を掲げた。
ゴブリンの牙。
私は呆れ半分、感心半分で肩を竦める。
「お前、本当にそういう運だけはあるな」
「“だけ”って何!?」
背負い袋を持ち上げたベルの身体が、ずしりと沈む。
限界が近い。
「大丈夫か?」
「容量はまだあるけど……僕の動きに支障が出るかも」
「私が持つ」
「え、本当? 助か──」
『──ギシャアアッ!!』
その時、壁陰から飛び出したゴブリンがベルへ襲いかかった。
「え!? ──ぐえっ!?」
私は即座にベルの首根っこを掴み、後方へ放り投げる。
そのまま前進。
振り下ろされた爪を躱し、拳で顔面を打ち抜いた。
鼻骨が砕け、ゴブリンが壁へ叩きつけられる。
迷宮は、一瞬の油断すら見逃さない。
エイナの言葉が脳裏に浮かぶ。
──“まあいいか”の積み重ねが、一番危ない。
まったくもって、その通りだ。
「……一度戻るか」
「さんせい……」
床に転がったベルが、情けない声で手を上げる。
私は小さく息を吐いた。
戦利品は十分。
時間も悪くない。
今日はベルが約束した酒場にも行く予定だ。ならばここで無理をして怪我をする理由はない。
だが、まだ終わりではない。
迷宮は常に次を寄越してくる。
ならばこちらも、稼げるだけ稼いでから帰るだけだ。
私は剣を肩へ担ぎ、口元をわずかに吊り上げた。
「今日は暴れるぞ、ベル」
「え、ええ!? い、今から!?」
青白い迷宮の光の中。
私たちは再び、奥へ向かって歩き出した。
まるで、巨大な生き物の腹の中へ潜っていくように。