見るは夢か、絶望か   作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか

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双刃、迷宮に踊る

 

 

 神々が下界へ降り立つ、遥か以前。

 

 この地には既に【ダンジョン】があった──という話を、私は何度か耳にしている。

 

 迷宮の真上には、今ほど巨大ではなかったにせよ街が築かれ、人はそこに住み、息をし、日々を営んでいたらしい。そして、その頃から既に、現在の【ギルド】へと連なる管理機関も存在していたのだという。

 

 つまり。

 

 神の【恩恵】など存在しなかった時代にも、人はこの地下迷宮へ挑み、怪物を狩り、生きて地上へ戻ってきたのだ。

 

「……信じ難いな」

 

 薄青く燐光を放つ壁面を見つめながら、私は小さく呟いた。

 

 静かな通路だった。

 

 壁も、床も、天井も、鉱石に似た物質で形成された迷宮は、陽の光が差し込むはずもないのに、昼間のような明るさを保っている。天井近くには星屑のような光の粒が点在し、一定ではない淡い輝きが、湿り気を帯びた空気の中へ青白い陰影を落としていた。

 

 迷宮都市オラリオの地下に広がる巨大迷宮──その第一階層。

 

 冒険者にとっては入口に過ぎないこの場所ですら、こうして実際に立ってみれば異様だ。生き物の腹の中に迷い込んだような息苦しさがあるくせに、構造そのものは妙に理知的で、規則的で、人工物じみている。その歪な整合性が、却って不気味だった。

 

 今の私たちは、神から授かった力がある。それでも低階層のモンスター相手に手を焼くことは珍しくない。ベルも私も、まだ駆け出しだ。ようやく冒険者として歩き始めたばかりの、未熟な新参者に過ぎない。

 

 それなのに。

 

 そんな力さえ持たぬ時代、人は怪物と戦っていたという。

 

 無謀なのか。英傑なのか。

 あるいは、その両方か。

 尊敬と疑念が、胸の内で半々にせめぎ合っていた。

 

 もし、その話が真実なのだとしたら。

 

 当時この迷宮に挑んでいた者たちは──今の私たちなど、比べものにならぬほど強かったのだろう。

 

『ギャウッ!?』

 

 思考を断ち切るように、獣じみた悲鳴が通路に響いた。

 

「はっ!」

 

 前方で短く気合いの声が弾け、銀の閃きが走る。

 

 ベルの短剣だ。

 

 飛びかかってきたコボルトの前脚を浅く裂き、灰褐色の毛皮に赤い線を刻む。鮮血が細かい飛沫となって散り、青白い迷宮の壁面へと斑に貼りついた。

 

 浅い。

 

 致命傷には遠い。

 だが、悪くない。

 致命打を狙って硬くなるより、まずは生きるために躱し、崩し、間合いを外す。その判断は間違っていなかった。

 

 傷を負ったコボルトが苦鳴を上げて飛び退いた、その瞬間。

 左右の通路脇から、別の影が飛び出す。

 

『シャアッ!』

「ほあっ!?」

 

 ベルが情けない悲鳴を漏らしながら、咄嗟に上体を逸らした。鋭い爪が鼻先を掠め、白い髪が数本、宙へ舞う。

 直後、別の一匹が低い体勢から噛みつこうと跳ねた。

 

『グェッ!?』

「っとぉ!」

 

 どうにか短剣の柄頭で顎を打ち上げ、コボルトの頭を反らせる。勢いを殺された魔物が不格好に着地し、唸りながら距離を取った。

 

 ……悪くない。

 

 動きはまだ拙い。踏み込みも浅いし、視線の運びにも無駄がある。敵に対して身体ごと正対し過ぎていて、退路の意識も甘い。経験不足は隠しようがない。

 

 だが、それでも。

 

 反応速度は速い。

 

 追い詰められながらも、致命の一撃だけはきっちり避けている。才能がある、とまではまだ言い切れないが、少なくとも折れない心と、覚えの良さはある。

 

 ただ──。

 

『『『『『『グルオァァァッ!!』』』』』』

 

 通路の奥から重なって響く咆哮に、私は目を細めた。

 

 六匹。

 

 問題は、数だ。

 

「無理だぁぁーっ!? 助けて、ヘイレルーっ!!」

 

 ついにベルが半泣きの声で叫び、こちらへ全力で駆け戻ってくる。顔色は悪く、呼吸は荒く、それでも脚だけは止めない辺り、まだ本当に限界というわけではないらしい。

 

「……一人でやってみる、と豪語していた男はどこへ行った」

「前言撤回! 今の僕には無理でした!!」

「男に二言はないと聞くが」

「今それ言う!? 畜生ぉぉぉっ!」

 

 涙目で叫ぶベルの背後から、六匹のコボルトが牙を剥いて迫る。

 

 石床を叩く爪音が不規則に鳴り響き、低く濁った唸りが通路の壁で反響する。獣臭い吐息が、少し離れた場所にいる私のところまで届いた気がした。

 

 場所は第一階層。

 

 壁も床も天井も青白く明るい迷路のような構造で、早朝のせいか、周囲に他の冒険者の姿はない。静まり返った迷宮には、ベルの悲鳴と魔物の足音だけが妙に大きく響いていた。

 

(群れすぎだ)

 

 コボルトは通常、一匹か二匹。多くても三匹で徘徊することがほとんどだ。

 

 六匹。しかも、こうもまとまって襲ってくるのは珍しい。

 先日のミノタウロスといい、今日のこの群れといい、偶然にしては少し続きすぎている。

 

「……ダンジョンの機嫌でも悪いのか」

 

 そんな独り言に答える者はいない。

 

 いるとすれば、壁の向こうで胎動している“何か”だけだろう。

 

 私は通路の中央へ、一歩進み出る。

 

「ベル、下がれ」

「っ、了解!」

 

 ベルは即座に反応し、私の横をすり抜けて後方へ駆け抜けた。少し先の曲がり角を曲がったところで足を止め、壁際に身体を寄せた気配がする。息を殺し、こちらの邪魔にならない位置を選んだのだろう。

 

 悪くない判断だ。

 

 本来なら、こういう場面は待ち伏せが定石だ。

 曲がり角を使い、一匹ずつ飛び出してきたところを叩く。多数相手の基本は、一対一へと分解することにある。

 

 だが第一階層の通路は、思いのほか広い。

 コボルト六匹を相手に曲がり角へ逃げ込めば、包囲される危険もある。下手に時間をかければ、戦闘音に別のモンスターまで引き寄せるかもしれない。

 

 そして、何より。

 

 今の私には──試してみたい力があった。

 

「…………」

 

 ゆっくりと、両手を開く。

 

 指先が、妙に熱かった。

 

 心臓の鼓動が耳の奥でうるさい。血が巡る音さえ大きく感じる。けれどそれは恐怖ではない。怯えではなく、もっと別の感覚だ。

 

 高揚。

 あるいは、渇望。

 

 昨日ようやく形になった【スキル】。その実戦使用は、これが初めてになる。

 

 使いこなせる保証はない。

 威力も、限界も、代償も、まだ何ひとつ正確にはわかっていない。

 

 それでも。

 

「やるしかない、だ」

 

 迫る足音が、床を震わせる。

 

 どた、どた、と荒々しい獣の足取り。牙を打ち鳴らす音。喉の奥で煮え立つような唸り。複数の敵意が一つの濁流となってこちらへ押し寄せてくる。

 

 私はゆっくり息を吸い込んだ。

 

 肺の奥まで満たし、止める。

 

「…………」

 

 視界が、研ぎ澄まされていく。

 

 世界から余計な音が薄れていき、目の前の空間だけが異様なほど鮮明に浮かび上がった。コボルトの肩の動き、脚の運び、跳躍の予備動作。何もかもが遅く見える。

 

 両手に、意識を集中させる。

 

 身体の奥底に沈んでいた何かが、呼び声に応じて浮上してくる感覚があった。熱く、冷たく、どこか禍々しい力が、血管の内側を擦るように駆け巡る。

 

「【顕現せよ】──【魔影の双連刃】」

 

 その瞬間。

 

 空間が、裂けた。

 

 掌の上に生まれたのは、黒ではない。闇よりなお濃く、紫にも似た色を孕んだ異様な光だった。紫黒の輝きが渦を巻き、捻れ、凝縮し、現実そのものを侵食するように形を得ていく。

 

 現れたのは、二振りの剣。

 

 片刃とも両刃ともつかぬ、奇妙な均衡を備えた双剣だった。濃い紫の刀身には、金色の意匠が血管のように刃から柄へと這っている。禍々しさと神秘性が不気味なほど同居し、武器というより、異界の儀礼具のようにさえ見えた。

 

 初めて見る武器だった。

 

 だが、違和感はない。

 

 いや──逆だ。

 

(……馴染む)

 

 まるで昔から握っていたかのように、指の位置が定まる。重心の置き方も、手首の返し方も、踏み込みに合わせた振り抜きも、全部が最初から身体へ刻まれていたように自然だった。

 

 私は双剣を握り締める。

 

 その瞬間、脳裏に閃いた。

 

 見覚えのない景色。

 

 夜だ。

 

 燃えている。

 

 遠くで何かが崩れる音がする。熱風。鉄の臭い。血煙。地面に広がる死体。何十、何百という敵影。赤黒い戦場の真ん中で、私は──いや、“誰か”は、刃を振るっていた。

 

 その時。

 

 耳元で、声がした気がした。

 

 ──斬れ。

 

「っ……」

 

 頭の奥に、針をねじ込まれたような痛みが走る。

 

 一瞬だけ、視界が揺らいだ。

 

 だが、その違和感もすぐに消えた。

 

 記憶は戻らない。

 

 戻らないまま、身体だけが戦い方を知っている。

 

『グルルッ……!?』

 

 先頭を走っていたコボルトが、足を止めた。

 

 本能で察したのだろう。目の前にいる獲物が、つい今しがたまでの存在とは別物になったと。

 

 だが。

 

 遅い。

 

「──『魔影乱舞』」

 

 小さく呟き、踏み込む。

 

 次の瞬間、景色が流れた。

 

 一歩で間合いを奪う。

 

『ガッ!?』

 

 先頭のコボルトの前脚が、血飛沫と共に宙を舞った。骨ごと断ち斬った手応えが掌に伝わる。止まらない。逆手に持った刃を返し、喉を裂く。湿った音。噴き出す赤。獣の目が見開かれる。

 

 二匹目が跳ぶ。

 

 低く沈み込み、その爪を紙一重で躱す。腹を裂き上げる。皮膚と筋肉が別れる手応え。短い悲鳴。

 

 三匹目。四匹目。

 

 斬る。

 

 斬って、斬って、なお斬る。

 

 紫の軌跡が通路へ何筋も残像を描いた。双剣が走るたび、冷たい青の迷宮に、赤だけが鮮やかに咲いていく。壁に、床に、私の頬に、細かな血飛沫が散った。

 

 コボルトたちは反応できない。

 

 いや、正確には、反応しようとはしている。

 

 だが、その頃にはもう遅いのだ。

 

 こちらへ爪を伸ばそうとした瞬間には腕が落ちている。跳びかかろうと力を込めた時には喉が裂けている。獣の視線が私を捉えた時には、もう次の刃がその視界を断っている。

 

 速い、というだけではなかった。

 

 もっと異質だ。

 

 自分で剣を振っているというより、双剣そのものに導かれている感覚に近い。身体が迷わない。思考が追いつかないほど先に、最適な一手が浮かび、その通りに筋肉が動く。

 

 まるで、この技だけは最初から知っていたかのように。

 

『ギャッ──』

『グルッ──』

『ガァ──ッ!』

 

 悲鳴は長く続かない。

 

 断ち切られる。

 

 肉と共に。

 

 命と共に。

 

 私は止まらない。

 

 止まれない。

 

 視界の端で、最後の二匹が左右から同時に飛び込んでくるのが見えた。片方へ踏み込みながら一閃。頬から顎にかけて斬り上げる。返す刃で背後へ回り込んだもう一匹の脇腹を薙ぐ。血が霧のように散り、石床に黒ずんだ線を描いた。

 

 斬撃の数など、もう数えてはいなかった。

 

 ただ、身体が知っている。

 

 もう終わる、と。

 

 最後の一匹が膝を折ったところで、私は一歩後ろへ退いた。

 

 それだけで十分だった。

 

 遅れて六つの影が、どさり、どさりと石床へ崩れ落ちていく。

 

 静寂。

 

 さっきまであれほど激しかった足音も、唸りも、もうない。

 

 通路に残っていたのは、濃い血の臭いと、肉片と、動かなくなった六匹の骸だけだった。

 

「……っ、は……」

 

 そこで初めて、息が漏れた。

 

 膝から力が抜ける。

 

 双剣が霧のように輪郭を失い、そのまま空気へと溶けて消えた。

 

 同時に、身体の芯から何かがごっそり持っていかれる感覚が走る。

 

 重い。

 

 腕が鉛のようだ。脚も、肩も、背中も、全部が鈍く沈む。呼吸が浅くなり、指先が細かく痺れていた。

 

(……魔力、か)

 

 理解は早かった。

 

 この剣は、私の内側を燃料にしている。

 

 昨日、【ステイタス】の魔力が一定値へ達したことで、ようやく開かれた力。ならば今の私は、ただ“使えるようになっただけ”なのだろう。

 

 自在にはほど遠い。

 

 一戦でこの消耗だ。

 

 切り札と呼ぶには、まだあまりにも不安定すぎる。

 

「ヘイレル!」

 

 焦った声が響き、ベルが曲がり角の向こうから飛び出してきた。血まみれの通路を一目見て、目を見開く。それでも足は止めず、私の傍まで駆け寄って膝をついた。

 

「大丈夫!? 怪我は!?」

「……ない」

「ほんとに!? どこか切られたりしてない!?」

「少し、疲れただけだ」

 

 壁へ手をついて立ち上がる。

 

 脚は震えていたが、まだ動く。これならしばらく休めば何とかなるだろう。

 

 ベルは改めて周囲を見回し、信じられないものを見るように息を呑んだ。

 

「すご……」

「凄くはない」

 

 私は首を横に振る。

 

「消耗が大きすぎる。これでは切り札にもなり得ない」

「でも、六匹を一瞬で……」

「一瞬ではない。お前の目が追いつかなかっただけだ」

「それを一般的には一瞬って言うんじゃないかな!?」

 

 思わず、といった様子で返してきたベルに、私は小さく息を吐く。

 

 いつもの調子が戻っているなら問題はない。

 あのまま本気で怯えられていたら、少しだけ困っていた。

 自分でも、今の動きが普通ではないことくらいは分かっている。

 

 記憶を失った私の中に、どうしてあの技が眠っていたのか。

 なぜ、あの双剣を握った瞬間だけ、知らない戦場の景色が脳裏に焼き付くのか。

 

 それはまだ、何ひとつ分からない。

 分からないまま、ただ前へ進むしかないのだ。

 

 ベルが、少し躊躇いがちに口を開く。

 

「でも……やっぱり、すごいよ。僕じゃまだ、あんな風には──」

「お前なら、すぐに追いつく。いや、追い越す」

「えっ」

 

 意外そうに瞬いた赤い瞳に、私は淡々と告げる。

 

「だから今は、基礎を磨け。焦るな。お前は、ちゃんと強くなっている」

「……」

 

 ベルはしばらくぽかんとしていたが、やがて照れくさそうに笑った。

 

「……うん」

 

 その笑顔は、妙に眩しかった。

 

 まっすぐで、曇りがなくて、見ていると自分の方が少し目を逸らしたくなる。

 

 私は通路へ転がるコボルトの死体へ視線を向けた。

 

 無傷で勝てた。

 それだけで、今は十分だ。

 

 だが同時に理解している。

 この力は、まだ未完成だ。

 

 使えば勝てる、などという都合のいい代物ではない。扱いを誤れば、自分の方が先に潰れる。ベルを守るための力が、逆に足手まといになる未来だってあり得る。

 

 ならば、磨くしかない。

 この剣の正体も、失われた記憶も、戦い方も。

 全部、これからだ。

 

「まだまだ先は長いな……」

 

 誰に向けたわけでもない呟きが、青白い通路へと溶けていく。

 

 迷宮の奥は深い。

 

 私の記憶も、この力の底も、それと同じくらい深いのだろう。

 

 そして、冒険者としての道もまた──入口に立ったばかりだ。

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 動かなくなったコボルトたちの骸の傍で、私はしばし立ち尽くしていた。

 まだ鼻の奥には血の臭いが残っている。湿った獣臭と、生暖かい鉄臭さが混ざり合い、迷宮特有の冷えた空気の中で妙に際立っていた。

 

 だが──傷はない。

 

 服に飛び散った返り血を除けば、私もベルも無傷だった。

 それだけで、十分すぎる戦果だ。

 六匹の群れを相手にし、生き残ったどころか、誰一人欠けることなく立っている。駆け出しの冒険者としては、上出来と言っていいだろう。

 

 もっと上手いやり方は、あったのかもしれない。

 地形を利用して、一匹ずつ処理する方法もあった。もっと消耗を抑えられたかもしれないし、私の新しい力を使う必要すらなかったかもしれない。

 

 だが、私たちには経験がない。

 指示を飛ばしてくれる先輩も、背中を預けられる熟練者もいない。

【ヘスティア・ファミリア】の構成員は、私とベルの二人だけだ。

 

 我流。

 

 言葉にすれば聞こえはいい。

 だが実際は、ただの手探りに過ぎない。

 

 誰かに教わった剣ではなく、誰かに導かれた戦いでもない。転び、傷つき、間違えながら、その場その場で答えを拾っていくしかない未熟者の戦い方だ。

 その現実が、時折どうしようもなく頼りなく感じる。

 

 それでも。

 

 進むしかない。

 

「やるか」

「……そうだね」

 

 ベルも疲れた顔で笑い、小さく頷いた。

 

 戦いが終わったなら、次は回収作業だ。

 冒険者にとって討伐は過程でしかない。成果を持ち帰って初めて、今日を生きる糧になる。

 

 私はコボルトの死体の前へ膝をつき、短剣を抜いた。

 口からだらりと舌を垂らし、白目を剥いたまま絶命しているその姿には、先ほどまでの獰猛さは欠片も残っていない。

 

 短く息を吸い、胸部へ刃を振り下ろす。

 

 肉を裂く鈍い感触。

 骨へ触れる硬さ。

 びくり、と死体が跳ねたが、気にしない。

 

 中心部を探るように刃先を動かし、やがて私は指先で小さな結晶を摘み上げた。

 紫紺に輝く欠片。

 

「……これが、『魔石』」

 

 いや、正確には『魔石の欠片』だろう。

 

 低階層のモンスターから採れるものは、せいぜい爪ほどの大きさしかない。だが、それでも価値はある。

 

 モンスターを動かす核。

 

 魔力の結晶。

 

 そして迷宮都市オラリオを支える資源。

 

 魔石灯、冷却器具、発火装置。人の暮らしを支える様々な道具に加工され、この街から各地へ輸出されていると聞く。

 

 迷宮が生み出す怪物を、人が生活の糧へ変える。

 それは皮肉にも思えた。

 怪物の心臓が、人々の明かりになるのだから。

 

 私が摘出した魔石を見つめていると、死体に変化が起こった。

 毛並みの色が抜け、肉が乾き、頭部がぼろりと崩れ落ちる。

 やがて全身が灰となり、風もない迷宮の中で静かに散っていった。

 

「……何度見ても、不思議だね」

 

 ベルが呟く。

 

 同感だった。

 魔石を失ったモンスターは消滅する。

 まるで最初から“そこに存在していなかった”かのように。

 

 生命というより、現象。

 生き物というより、生成物。

 

 ダンジョンの中で生まれ、魔石を核として活動し、核を失えば塵へ還る。

 それがモンスターという存在らしい。

 

「ぼーっとしてる暇はないぞ、ベル」

「あっ、ごめん!」

 

 私たちは手分けして残りの死体から魔石を取り出し始めた。

 

 短剣を振り下ろし、抉り、摘出する。

 振り下ろす。

 抉る。

 取り出す。

 

 単純作業のはずなのに、何度もやっていれば嫌でも実感する。

 冒険者とは、夢物語ではない。

 血と泥と、こうした地味な作業の積み重ねだ。

 

「ん……?」

 

 その時、ベルが小さく声を上げた。

 

「どうした?」

 

 振り向くと、最後の一体の灰の中から、鋭い爪だけがぽつんと残っていた。

 ベルがそれを拾い上げ、軽く手の中で転がす。

 灰にはならない。

 形を保ったまま、確かにそこに在り続けている。

 

「ドロップアイテムか」

「みたいだね」

 

 コボルトの爪。

 魔石を失ってなお残る、異常発達した部位。

 武器や防具の素材になるため、魔石の欠片より高く売れることも多い。

 ベルのこういう運の良さには、少し驚かされる。

 

「よかったな」

「ヘイレルが倒したコボルトのものだけどね」

「見つけたのはベルだ。それに、収益が増えるのは良いことだ」

「……うん!」

 

 嬉しそうに笑いながら、ベルはそれを黒いバックパックへしまい込んだ。

 だが、既に鞄はかなり膨らんでいる。

 中には魔石の欠片、素材、簡易道具、飲み水、予備装備。

 便利な見た目のくせに、無限収納など夢のまた夢だ。重さはきっちり背負う者へ返ってくる。

 

 本来なら、こうした回収は【サポーター】の仕事だ。

 戦闘を担わず、荷物運搬や戦利品回収を行う非戦闘職。

 だが私たちには雇う余裕がない。

 ファミリアの神台所事情は、笑えぬほど厳しい。

 

「フリーのサポーター……雇えたら楽なんだけどなぁ」

「主神に相談してみるか?」

「神様に迷惑なんてかけれないし……それに泣きながら財布見せてくる未来しか見えないよ」

 

 それは、容易に想像できた。

 思わず少しだけ口元が緩む。

 

 その時だった。

 

『ウオオオオオオンッ!』

『ガアアッ!!』

 

 通路の奥から、新たな咆哮が響いた。

 ベルの笑みが凍る。

 

「……連戦?」

「そうらしいな」

 

 私は剣の柄へ手をかけながら、薄青い壁面を見つめた。

 

 ダンジョン。

 この巨大迷宮には、あまりにも不可解なことが多すぎる。

 

 神々が降臨する前から存在していた地下世界。

 破壊された壁が、いつの間にか修復される。

 陽光なき場所で、常に灯る燐光。

 壁面から這い出るように生まれるモンスター。

 そして、いくら狩っても尽きぬ怪物の群れ。

 

 人は言う。

【ダンジョンは生きている】と。

 

 別に、壁が襲ってくるわけではない。

 床が口を開くわけでもない。

 だが、確かに意志めいたものを感じる瞬間がある。

 

 今日の異様な群れ。

 続く連戦。

 まるでこちらの様子を見て、試しているかのような悪意。

 

 ぞくり、と背筋を冷たいものが撫でた。

 

(……見られている)

 

 そんな錯覚。

 いや、錯覚であってほしい。

 

「ヘイレル?」

「……いや、なんでもない」

 

 私は首を振り、前を向いた。

 

 曲がり角の先から現れたのは、ゴブリン二体とコボルト一体。

 低階層らしい組み合わせだが、問題は数より頻度だ。

 

「行くぞ、ベル」

「う、うん!」

 

 ベルが駆ける。

 小柄な身体が一気に間合いを詰め、中央のゴブリンへ飛び蹴りを叩き込んだ。

 

『ゴブリャアッ!?』

 

 吹き飛ぶ小鬼。

 私は横手から迫るコボルトへ踏み込み、腹部へ拳を叩き込む。

 鈍い衝撃と共に体がくの字に折れ、壁際まで吹き飛んだ。

 

 そのまま抜剣。

 一閃で脳天を貫く。

 

 背後ではベルが二体目のゴブリンと揉み合いながらも、着実に押していた。

 

 ……成長している。

 少し前なら、敵を前に硬くなっていた少年が、今は自分から踏み込めている。

 

「あっ、またドロップアイテム!」

 

 戦闘を終えたベルが、嬉しそうに牙を掲げた。

 ゴブリンの牙。

 私は呆れ半分、感心半分で肩を竦める。

 

「お前、本当にそういう運だけはあるな」

「“だけ”って何!?」

 

 背負い袋を持ち上げたベルの身体が、ずしりと沈む。

 

 限界が近い。

 

「大丈夫か?」

「容量はまだあるけど……僕の動きに支障が出るかも」

「私が持つ」

「え、本当? 助か──」

 

『──ギシャアアッ!!』

 

 その時、壁陰から飛び出したゴブリンがベルへ襲いかかった。

 

「え!? ──ぐえっ!?」

 

 私は即座にベルの首根っこを掴み、後方へ放り投げる。

 

 そのまま前進。

 振り下ろされた爪を躱し、拳で顔面を打ち抜いた。

 鼻骨が砕け、ゴブリンが壁へ叩きつけられる。

 

 迷宮は、一瞬の油断すら見逃さない。

 エイナの言葉が脳裏に浮かぶ。

 

 ──“まあいいか”の積み重ねが、一番危ない。

 

 まったくもって、その通りだ。

 

「……一度戻るか」

「さんせい……」

 

 床に転がったベルが、情けない声で手を上げる。

 

 私は小さく息を吐いた。

 戦利品は十分。

 時間も悪くない。

 

 今日はベルが約束した酒場にも行く予定だ。ならばここで無理をして怪我をする理由はない。

 

 だが、まだ終わりではない。

 迷宮は常に次を寄越してくる。

 ならばこちらも、稼げるだけ稼いでから帰るだけだ。

 

 私は剣を肩へ担ぎ、口元をわずかに吊り上げた。

 

「今日は暴れるぞ、ベル」

「え、ええ!? い、今から!?」

 

 青白い迷宮の光の中。

 

 私たちは再び、奥へ向かって歩き出した。

 

 まるで、巨大な生き物の腹の中へ潜っていくように。

 

 

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