見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
夕刻。
地上へ戻った私たちは、迷宮都市の外れに建つ廃教会──その地下に隠された【ヘスティア・ファミリア】の拠点へと帰還していた。
外では、沈みゆく陽が街並みを赤く染めている頃だろう。
だが、この部屋に差し込む光は乏しい。古びた燭台に灯された小さな炎と、壁際へ吊るされた魔石灯の淡い輝きだけが、石造りの空間へ静かな陰影を落としていた。壁面に刻まれた細かな傷や、長い年月のうちに削れた床の凹凸までが、その頼りない明かりに浮かび上がっている。
戦いの熱気も、街の喧騒も、ここまでは届かない。
あるのは、探索を終えた者だけが知る、奇妙な安堵と疲労だった。
汗の乾いた服の張りつき。鉛のように重い脚。まだ掌の奥に残っている、刃を握り締めていた感覚。耳の奥では、もう止んだはずの戦闘音が、残響のようにかすかに鳴っている気さえした。
そして──。
「……えっ」
間の抜けた声だった。
机の前で硬直しているベルが、羊皮紙を両手で持ったまま、目を見開いている。
赤い瞳は文字通り丸くなり、白い髪は汗で少し乱れたまま。口は半開き。
まるで、世界の理そのものが、一枚の紙切れによって覆されてしまったかのような顔だった。
私は壁へ背を預け、腕を組みながらその様子を眺める。
机の向こうには主神ヘスティア。
小柄な身体で椅子へ座り、足をぶらぶらと揺らしながら、いかにも不機嫌そうな顔で頬杖をついている。
その表情は、実に分かりやすかった。
「……………………」
口はへの字。
目は半眼。
眉間にはうっすらと皺。
頬杖をつく指先にまで、妙な刺々しさが滲んでいる。
幼い容姿ゆえ愛嬌にも見えるが、当人は本気で機嫌が悪いのだろう。
いや、悪いなどという程度ではない。拗ねている。かなり露骨に。
「か、神様……これ……」
ベルは震える指で羊皮紙を掲げた。
「なにか、書き間違えてませんか……?」
「……君はボクが、簡単な読み書きすら怪しい神だとでも言いたいのかい?」
声が低い。
普段の軽やかさが嘘のようだ。
「い、いえっ!? そういう意味じゃなくて!」
「じゃあ、どういう意味かな?」
「そ、それは、その……ええと……」
追い詰められた小動物のように視線を泳がせ、やがて助けを求めるようにこちらを見るベル。
「……ヘイレル」
「私を見るな。紙に書かれた数字は変わらん」
「冷たくない!?」
「事実を述べただけだ」
「今ので、もっと冷たくなったよ!」
騒がしい。
だが、ベルが混乱するのも無理はなかった。
私は壁から身を起こし、ベルの手から羊皮紙を受け取る。
紙はまだ新しく、共通語が書き写された表面には、灯りを受けてかすかな艶が浮いていた。そこに記されていたのは──。
ベル・クラネル Lv.1
力:I82 → H120
耐久:I13 → I42
器用:I96 → H139
敏捷:H172 → G225
魔力:I0
《魔法》
【 】
《スキル》
【 】
「……異常だな」
率直な感想だった。
一日で伸びる数値ではない。
まして、駆け出しの冒険者が低階層を潜った程度で得られる成長幅では断じてない。
今日、ベルは確かに奮闘した。
コボルトの群れへ立ち向かい、何度も死線をくぐり抜けた。恐怖に震えながらも脚を止めず、未熟なりに戦い続けたのは紛れもない事実だ。覚束ないながらも自分の判断で踏み込み、自分の意思で刃を振るった。その成長が【ステイタス】へ反映されること自体は、何もおかしくない。
だが、それでも。
熟練度上昇合計、一六〇超。
もはや笑うしかない数字だった。
(私の半月分が、一日で抜かれている……)
少しだけ虚無を覚える。
いや、かなり覚える。
努力が無価値だと思うわけではない。
ベルにはベルの理由があり、私には私の積み重ねがある。そう頭では分かっている。
それでも、こうも露骨に数字で示されると、心のどこかにある小さな自尊心が、静かにへこむのを感じた。
「か、神様! でもやっぱり変ですよ!? ここ見てください、耐久!」
ベルが机へ身を乗り出した。
「僕、今日ほとんど攻撃受けてませんよ!? 一、二回くらいしか!」
「……」
「なのに、なんでこんなに伸びてるんですか!?」
「……」
「か、神様……?」
「……」
「えっと……」
「……知るもんかっ」
ぷいっ、と。
顔ごと横を向いた。
完全なる拗ねである。
神がやる仕草ではない。
「反抗期か……」
「今なんて言った!?」
「主神は耳も良いらしい」
「そこじゃないよ!?」
ベルが悲鳴じみた声を上げる一方、ヘスティアは椅子から飛び降りると、ぱたぱたと小走りで部屋の奥へ向かった。
クローゼットを開け、小さな背を精一杯伸ばしながら外套を引っ張り出そうとしている。
届かない。
背伸び。
届かない。
もう一度背伸び。
白い指先がぷるぷると震え、つま先立ちになった足もふらついている。
「……手伝うか?」
「いらないっ!」
語尾だけ妙に力強い。
次の瞬間、勢い余って外套ごと倒れかけた。
「危ない」
反射的に手を伸ばし、その身体を支える。
軽い。驚くほど軽い。主神といえど、今の彼女は本当に小柄な少女のそれだった。
「さ、触るなぁっ!」
「理不尽だな」
「知らないっ!」
顔を真っ赤にしながら、ヘスティアは外套へ腕を通す。
ばさり、と漆黒の布が小さな身体を包み込んだ。
胸元だけ妙に主張が強い。
神とは不思議な生き物である。
見た目だけでいえば幼い少女なのに、変なところで妙な迫力がある。そして今は、その迫力の全てが嫉妬へ振り切れている気がした。
準備を終えた主神は、つかつかとベルの前まで歩み寄ると、じとっと睨みつけた。
「ボクはバイト先の打ち上げに行くからね」
「は、はい……」
「君もたまには一人で羽を伸ばして、寂しく豪華な食事でもしてくればいいさっ!」
「なんで語尾だけ強いの……!?」
「ふんっ!」
勢いよく扉が開かれ、勢いよく閉まった。
バタンッ!!
静寂。
残されたのは、閉じた扉と、困惑したベルと、溜息を堪える私だけだった。
「……僕、なにかしたかな」
「したな」
「えっ!?」
「生きていること自体が罪だったのだろう」
「重すぎない!?」
「冗談だ」
「最近のヘイレル、冗談が怖い……」
ベルは肩を落とし、しょんぼりと椅子へ座る。
その姿は、雨の中へ置き去りにされた子犬のようだった。耳が垂れていないのが不思議なくらいである。
私は机上に残された羊皮紙へ手を伸ばし、自らの更新内容を見る。
ヘイレル Lv.1
力:I93 → H102
耐久:I17 → I21
器用:I96 → H103
敏捷:H101 → H108
魔力:F319 → F351
《魔法》
【 】
《スキル》
【再臨ノ宴】
・摂取した魔石の量に比例して力の一端を解放する
〔羅刹〕
・『魔影の双連刃』
・『魔明の双連刃』
「……ふむ」
魔力は順調。
新たに得た力との相性を考えれば、そこが伸びているのは悪くない。むしろ当然だろう。
だが、他は誤差の範囲だ。
横を見る。
ベル。
縦横無尽に伸びる怪物的成長率。
私。
堅実だが地味。
比較するまでもない。
いや、比較したくなかった。
「……越えられるとは言ったが、早すぎるな」
「え?」
ベルが顔を上げた。
さっきまで拗ねた主神に気を揉んでいた顔が、今度は別の意味で不安そうに揺れる。
「今日だけで、魔力以外は私を抜いた」
「そ、そんなことないよ!?」
「数字がそう言っている」
「でも魔力はヘイレルの方が……それに【スキル】だって……!」
「それ以外が全部勝っているという煽りか?」
「ち、違う違う違う!?」
「冗談だ」
「またぁ!?」
涙目である。
実に反応がいい。
少し癖になりそうだった。
私は小さく息を吐き、椅子へ腰掛け、天井を見上げる。
石造りの低い天井。
揺れる灯りが、歪んだ影をそこへ這わせている。
「…………」
「……ヘ、ヘイレル?」
ベルは強くなる。
間違いなく、これからもっと。
眩しいほど真っ直ぐで、愚直で、素直で、そして誰かに憧れながら走れる少年だ。
そういう者は伸びる。壁にぶつかっても、それを言い訳にせず前へ進む。傷つくことを恐れながら、それでも諦めきれず、手を伸ばし続ける。
私には分かる。
なぜなら、そういう人間は強いからだ。
今の強さではなく、いずれ手にする強さが。
ならばせめて──。
「…………」
その足を引っ張る存在にだけは、なりたくない。
私は記憶を失っている。
自分が何者で、どこから来て、何を背負ってここへ辿り着いたのかも分からない。得体の知れない力だけを抱え、知らない戦い方だけを身体に刻んだまま、曖昧なまま立っている。
そんな私が、これから先もベルの隣に立つのなら。
せめて足手まといになるわけにはいかなかった。
「ベル」
「な、なに?」
「今夜、食事に行くのだろう」
「え? う、うん。シルさんに誘われて……というか、ヘイレルも一緒にいた──」
「なら奢れ」
「ええっ!?」
「成長祝いだ」
「自分で言うの!?」
「私は祝う側だ」
「理不尽だよぉ……!」
ベルの悲鳴が、薄暗い地下室へ響く。
その情けない声に、少しだけ空気が軽くなった。
主神が去った後の妙な気まずさも、数字の差が生んだわずかな棘も、その声によって幾分か和らいでいく。
外ではきっと、夜のオラリオが灯り始めている。
酒場の喧騒。
街路の笑い声。
冒険者たちの一日の終わり。
そして私たちの夜も、これから始まろうとしていた。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
日が沈みきる頃、迷宮都市オラリオはもう一つの顔を見せる。
昼間、剣戟と怒号と商人の呼び声で満ちていた都市は、夜になると熱を帯びた祝祭へ姿を変えるのだ。
西の空には、燃え残りのような朱が細く滲んでいた。そこへ群青の帳がゆるやかに降り、空の高みから一つ、また一つと星が瞬き始める。石造りの街路には魔石灯が灯り、黄金色の光が道端へ柔らかな輪を描いていた。白亜のバベルは夜空を裂く巨槍のように聳え、その外壁へ散りばめられた無数の灯火が、まるで天の星々そのものを地上へ引きずり下ろしたかのように瞬いている。
人影が、石畳の上を絶え間なく流れていく。
仕事帰りの職人。
戦利品を抱えた冒険者。
酔い潰れたドワーフを肩で支える仲間。
どこかの店へ急ぐ恋人たち。
店先で客引きに励む獣人の娘。
今日の稼ぎを自慢し合う若い駆け出したち。
誰も彼もが忙しなく、それでいて楽しげだった。
夜のオラリオは、生きている。
都市全体がひとつの巨大な心臓となり、鼓動しているかのようで。人の声が血流となり、魔石灯の明かりが毛細血管のように路地を照らし、街全体が休むことなく脈打っている。
「朝、シルさんと会ったの、この辺だったと思うんだけどなぁ……」
隣を歩くベルが、きょろきょろと落ち着きなく首を巡らせた。白い髪が灯りを受けて淡く光り、その赤い瞳は迷子の子どものように頼りなく揺れている。
「いや、違うが」
「えっ?」
「お前はさっきから三度、同じ路地を見ている」
「うそっ!?」
「本当だ」
「なんで早く言ってくれないの!?」
「迷っているベルが少し面白かった」
「ひどいよぉ……!」
半泣きで抗議するベルを横目に、私は人波の向こうを見据えた。
この辺り一帯は酒場街だ。
通りの左右には大小さまざまな店が軒を連ね、扉という扉は開け放たれている。そこから溢れ出るのは、酒と料理の匂い、笑い声、怒鳴り声、歌声、そして楽器の音色。夜風に乗ったそれらが石畳の上を流れ、通り全体をひとつの巨大な宴へ変えていた。
どこかの店では弦楽器が陽気に鳴り、別の店では太鼓が腹に響く低音を刻んでいる。笛の軽やかな旋律がその隙間を泳ぎ、調和などしていないはずの音たちが、なぜか不思議と一つの賑わいへまとまっていた。
パルゥムとノームが肩を組み、路上で大声の合唱をしている。
その横を、すでに出来上がっているらしいドワーフが豪快に笑いながら通り抜け、さらにその背を獣人の女が本気で蹴り飛ばした。
アマゾネスの集団は周囲の視線などまるで意に介さず、肌面積の多い衣装で堂々と闊歩している。
ベルは一瞬だけそちらを見て、凄まじい速度で視線を逸らした。
「……忙しいな、お前の目は」
「み、見てないからね!?」
「誰も責めていない」
「そういう言い方が一番つらい……!」
騒がしい。
実に騒がしい。
だが、嫌いではない。
むしろ好きだと言っても差し支えなかった。
見知らぬ者同士が、同じ夜の中で笑い、酒を交わし、明日の生還を疑わずにいる。この都市にはそういう力がある。人を巻き込み、飲み込み、否応なくその熱へ同化させていくような生命力が。
「……ここ、だよね?」
ベルが足を止めた。
私も視線を上げる。
石造りの二階建て。周囲の酒場と比べても頭ひとつ抜けた大きさを誇る建物だった。入口脇には洒落たカフェテラスまで備えられ、窓から漏れる橙色の灯りが通りを暖かく照らしている。石壁に揺れる明かりはどこか上品で、それでいて酒場らしい親しみもあった。
看板には流麗な文字で記されている。
──【豊穣の女主人】。
「……すごい名前」
ベルが率直な感想を漏らした。
「入る前から負けている気分になる」
「どういう感覚なの、それ……」
私は先に入口へ歩み寄り、店内を一瞥した。
途端、熱気が押し寄せる。
笑い声。
食器の触れ合う音。
肉の焼ける香ばしい匂い。
スープに溶けた香草の香り。
酒の芳醇な匂い。
人の体温と火の熱が混じり合った、夜の酒場特有の空気。
客席はほぼ満席だった。多くは男性の冒険者だが、荒れている印象はない。むしろ活気と陽気さが支配していた。酒場特有の雑然とした熱気を保ちながらも、どこか品よくまとまっている。それは店員たちの采配が行き届いているからだろう。
そして目を引くのは、やはり店員たちだ。
給仕も厨房も、見える限り全員女性。
猫耳の少女たちが忙しなく料理を運び、ヒューマンの娘が快活な笑顔で注文を取り、奥では長耳のエルフが見るからに不本意そうな顔で皿を持っている。その不機嫌さすら妙な華になっているのだから、客が多いのも頷けた。
さらにカウンター中央では、恰幅のいいドワーフの女性が鍋を振り、厨房と客席の両方へ睨みを利かせている。
女将。
それも只者ではない。
調理をしながらでも分かる。
その身体には、戦場を潜った者特有の重みがあった。ただ太いのではない。岩を削って造ったような胴と腕。その一挙手一投足に、長年戦いの場へ身を置いた者だけが持つ隙のなさが滲んでいる。
「いや、これ僕には難易度高すぎない……?」
「何がだ」
「全部だよ……!」
ベルの喉がごくりと鳴る。
その様子があまりにも分かりやすく、少しだけ口元が緩みそうになった。
その時だった。
「ベルさんっ」
「ひゃあっ!?」
いつの間にか。
本当に、いつの間に現れたのか。
私たちのすぐ隣へ、薄鈍色の髪を揺らす少女が立っていた。
シル。
朝と同じ柔らかな笑み。
白いエプロン姿。
穏やかな声。
灯りの下では、その灰がかった髪が月光を吸った水面のように淡く光って見える。
だが──やはり妙だ。
この喧騒の中、接近にまるで気配がなかった。
気配を消せる者がいないわけではない。だが、それは訓練された冒険者や暗殺者の類だ。あるいは、
「……やってきました」
ベルがぎこちなく笑う。
その顔は見事なまでに引きつっていた。
「はい、いらっしゃいませ。ヘイレルさんも」
「……ああ」
「ふふ、そんなに緊張なさらないでください」
そう言って笑うシル自身が、一番人を緊張させる部類だと私は思う。
無邪気な笑顔。
柔らかな物腰。
人懐こい声音。
それでいて、底が見えない。
水面が穏やかだからといって、底が浅いとは限らない。むしろ、静かすぎる水ほど何を沈めているか分からないものだ。
「では、お席へどうぞっ」
くるりと踵を返し、軽やかな足取りで店内へ入っていく。
私たちはその後を追った。
案内されたのはカウンター席。
店の隅に近く、背後に壁があり、店内全体を見渡せる位置だった。落ち着いて食事をするにも、何かあった時に周囲を見るにも都合がいい。
悪くない位置だ。
いや、むしろ良すぎる。
(偶然か?)
そう考えた時点で、もう偶然ではないのかもしれなかった。
「アンタらがシルのお客さんかい!」
豪快な声が飛ぶ。
カウンターの向こうから女将が身を乗り出してきた。
圧がある。物理的にも精神的にもある。
「ははっ、冒険者のくせに可愛い顔してるねぇ!」
ベルが固まる。
「な、なにを……」
「何でも、腹を空かせた大食漢だって聞いてるよ! 今日はたんと食っていきな!」
「えっ!?」
ベルが勢いよく振り向く。
そこには、さっと目を逸らしたシルがいた。
「シルさん!?」
「えへへ……少しだけ、盛りました」
「少しの範囲じゃないですよ!?」
「応援してますからっ」
「何を!?」
相も変わらず、商売上手である。
いや、もはや商売上手の一言では済まない。人の懐へ自然に入り込み、言い逃れできない空気を作るのが上手すぎる。
私は内心で感心しつつ、差し出されたメニューを開いた。
「……………………ほう」
高い。
静かに閉じた。
「ヘイレル?」
「まだ心の準備がいる」
「値段だよね!?」
「料理の輝きに圧倒された」
「絶対違うよね!?」
結局、最も無難な料理を選ぶことになった。
パスタ二皿。
ベルがほっと安堵の息を吐く。
その横で、シルはほんの少しだけ残念そうに眉を下げてみせた。
演技か、本音か。
判別が難しい。
だが、そのほんのわずかな落胆の仕草すら妙に愛嬌があるのだから、油断ならなかった。
料理が運ばれ、ようやく一口つけた頃。
再びシルがやってきた。
今度は仕事用の笑顔ではなく、どこか砕けた柔らかな表情で丸椅子を持ってきていた。
「お隣、失礼しますね」
当然のようにベルの隣へ座る。
ベルの肩がぴくりと跳ねた。
分かりやすいにも程がある。
「お、お仕事はいいんですか?」
「今は給仕も落ち着いてますから」
そう言って、シルは女将へ視線を送る。
女将は鼻を鳴らし、顎で「好きにしな」と示した。
どうやらこの店では、シルはそれなりに自由が利くらしい。
「今朝はありがとうございました。パン、とても美味しかったです」
ベルが礼を言う。
「いえいえ。頑張って渡した甲斐がありました」
「頑張って売り込んだ、の間違いでは……?」
「ふふっ。鋭いですね」
悪びれない。
この女、なかなか強い。
それからベルは、どこかぎこちなく、それでも嬉しそうにこの店のことを褒め始めた。
内装が綺麗だとか、雰囲気が明るいだとか、料理が美味しいだとか。言葉は少し不器用だったが、その分だけ本音なのが分かる。
「でも、このお店、本当にすごいです」
ベルが周囲を見回す。
「皆、楽しそうで……」
「はい」
シルも同じように店内へ目を向けた。
その横顔は、不思議と少し大人びて見えた。
酒を運ぶ猫耳の店員。
大声で笑うドワーフの客。
皿を前に幸せそうな顔をするヒューマンの青年。
隣席の仲間と肩を叩き合う冒険者たち。
そのすべてを、シルは柔らかく見渡している。
「たくさんの人が集まる場所って、好きなんです」
「好き?」
「知らない人が笑って、怒って、泣いて、仲直りして……そういうのを見ると、この街って生きてるんだなって思えて」
灯りに照らされた瞳が、柔らかく細められる。
その言葉には、不思議な実感がこもっていた。うわべだけの綺麗事ではない。ちゃんとこの場所を見て、感じてきた者の声音だった。
「私、そういう瞬間を見るのが好きなんです」
ベルが見惚れたように黙る。
……分かりやすい。
だが私は別のことを考えていた。
「…………」
この少女は、人を見る目をしている。
ただ眺めて楽しむ者の目ではない。
観察し、拾い上げ、記憶し、そこから何かを見出す目だ。
優しい笑顔の奥に、妙な鋭さがある。
人好きのする雰囲気の下へ、刃のように細い感覚が潜んでいる。
やはり、怪しい。
だが同時に──。
妙に放っておけない空気も持っていた。
柔らかく、穏やかで、どこか危うい。本人は笑っているのに、ふとした拍子にその輪郭だけが遠く見えるような、不思議な違和感。
「……ヘイレルさん?」
「なんだ」
「さっきから私のこと、少し警戒してます?」
「……していない」
「今の間で、してますよね?」
にこり、と笑う。
見透かされた。
この少女、やはり油断ならない。
それでも不思議と、嫌な感じはしなかった。
警戒はしている。だが拒絶したいわけではない。近づきすぎれば飲み込まれそうで、それでももう少しだけ見ていたくなるような、妙な引力があった。
そして、その時だった。
入口の扉が大きく開く。
夜気がひと筋、店内へ流れ込み、酒場の空気がわずかに揺れた。
次の瞬間、店内の気配が変わる。
新たな客が、入ってきた。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
入口の扉が、勢いよく開かれる。
夜気がひと筋、店内へ流れ込む。
それだけで、空気が変わった。
賑やかな喧騒が途切れたわけではない。笑い声も、皿の触れ合う音も、酒樽を鳴らす荒っぽい音も、そのまま続いている。
だが確かに、見えない波紋のようなものが、酒場全体へじわりと広がっていった。
酔っていた冒険者の視線が、自然と入口へ向く。
大声で騒いでいたドワーフの声が、わずかに萎む。
給仕たちの足も止まりこそしないが、ほんの一拍だけ、動きが鈍る。
強者が来た。
そう、誰もが本能で察したのだろう。
先頭を歩くのは、小柄な女神だった。
燃えるような赤毛を揺らし、狐狸めいた笑みを浮かべたその表情は、悪戯好きの子どものようでもあり、場を掻き回すことを楽しむ観客のようでもある。
その後ろへ続く一団は、実に雑多だった。
ヒューマン、エルフ、ドワーフ、獣人、パルゥム。
体格も、歩幅も、気配もばらばら。揃いの装束で威圧を演出しているわけでもない。
だが、それでも。
全員が、強い。
身体のどこにも緩みがない。
無防備に見える者すら、実際には一瞬で抜剣できる位置へ重心を置いている。
視線は死んでおらず、酔客のように周囲へ流れることもない。
歩いているだけで分かる。この場にいる大半の冒険者とは、潜ってきた死線の数が違う。
「……【ロキ・ファミリア】」
誰かが、小さく呟いた。
それが引き金だった。
『おい、マジかよ……』
『遠征帰りって噂、本当だったのか』
『第一級ばっかじゃねぇか……』
『あれが【剣姫】……』
ざわめきが、一気に広がる。
その視線の先。
そこにいた。
砂金を溶かして糸にしたような、淡い金髪。
透き通るような白い肌。
人形めいて整いすぎた横顔。
感情を大きく表へ出しているわけでもないのに、なぜか目を逸らせない、静かな存在感。
アイズ・ヴァレンシュタイン。
ベルが憧れ続ける少女。
この都市に名を知られぬ者の方が少ないであろう、【剣姫】その人だ。
ちらりと、隣を見る。
ベルは完全に停止していた。
口が半開き。
目は見開き。
呼吸すら忘れている。
「……死んだか?」
「い、生きてる……!」
声が裏返っている。
「ヘ、ヘヘヘヘヘヘ、ヘイレル、あれ、あれ……!」
「見れば分かる」
「アイズさんだよ!?」
「見れば分かる」
「なんでそんな冷静なの!?」
「騒いでも増えはしない」
「そういう問題じゃないよぉ……!」
ベルはそのまま、ぐったりとカウンターへ突っ伏した。
耳まで真っ赤だ。
実に分かりやすい。
対して、ロキ・ファミリアの面々は店の奥に用意されていた席へ自然に収まっていく。常連なのだろう。案内を受けるまでもなく、そこが自分たちの居場所であるかのような馴染み方だった。
やがて、先頭の赤毛の女神──ロキが、椅子の上へ立ち上がる。
「よっしゃー! 遠征おつかれさん! 今日は飲め飲めぇ!!」
どっと歓声が上がった。
ジョッキが打ち鳴らされる。
肉が裂かれ、酒が流し込まれ、笑い声が一挙に膨れ上がる。
まるでそこだけ火がついたように、空気が一気に宴会色へ染まっていった。
なるほど。
この集団は、ただ強いだけではない。
場そのものを掌握する熱量がある。
だから人は惹かれ、恐れ、憧れるのだろう。
「ベルさん、大丈夫ですか?」
シルが心配そうに顔を覗き込む。
「だ、だいじょうぶ……たぶん……」
「顔色が真っ赤です」
「たぶん死ぬ前兆です……」
「重症ですね」
シルが真顔で頷いた。
だが、その平穏は長く続かなかった。
「おい、アイズ! あの話しろよ、あの話!」
がなり立てるような声が、宴席の一角から飛ぶ。
狼のような耳を立てた獣人の青年が、酒瓶を片手にニヤついていた。
鋭い目つき。
細身だが無駄なく引き締まった体躯。
口元には、他者を値踏みするような歪んだ笑み。
ベート・ローガ。
名は知っている。
第一級冒険者。俊足。毒舌。
そして──評判は、良くない。
「……あの話?」
アイズが小さく首を傾げた。
「ほらよ、ミノタウロス追っかけた時のだよ!」
その瞬間。
隣のベルが石像になった。
私はゆっくりとそちらへ視線を向ける。
……なるほど。
嫌な予感しかしない。
「いたじゃねぇか、ひょろっこいガキがよ!」
ベートは腹を抱えて笑い始めた。
「壁際で震えてやんの! ミノタウロス見て腰抜かして、顔面真っ青! んでアイズが助けたら、牛の血ぃ浴びて真っ赤っ赤! トマトだトマト!」
周囲の席から笑いが漏れる。
ロキ・ファミリアの一部も、苦笑した。
呆れたように肩を竦める者もいる。
だが、全員ではない。明確に眉をひそめた者もいた。
私はベルを見る。
俯いていた。
肩が小さく震えている。
笑いを堪えているのではない。
羞恥と、悔しさと、情けなさを、必死に呑み込もうとしている震えだった。
「それにだぜ? そのトマト野郎、叫びながらどっか行っちまって……ぶくくっ! うちのお姫様、助けた相手に逃げられてやんのっ!」
「……くっ」
「アハハハハハッ! そりゃ傑作やぁー! 冒険者怖がらせてまうアイズたん、マジ萌えー!!」
「ふ、ふふっ……ご、ごめんなさい、アイズっ、流石に我慢できない……!」
酒に酔った笑いは、残酷だ。
半ば本気で、半ば悪ふざけで。
誰かの傷を踏みにじっている自覚すら薄いまま、ただその場の勢いで転がっていく。
「しかしまぁ、久々にあんな情けねえヤツを目にしちまって、胸糞悪くなったな。野郎のくせに、泣くわ泣くわ」
「……あらぁ~」
「ほんとざまぁねえよな。ったく、泣き喚くくらいだったら最初から冒険者になんかなるんじゃねぇっての。ドン引きだぜ、なぁアイズ?」
ベルの指先が、白くなるほど強く握られる。
何も言わない。
言い返せない。
言い返したところで、余計惨めになるだけだと、頭で理解してしまっているのだろう。
「……ああいうヤツがいるから俺達の品位が下がるっていうかよ、勘弁して欲しいぜ」
「いい加減そのうるさい口を閉じろ、ベート」
その時。
低く、冷ややかな声が飛んだ。
長耳のエルフ。
翡翠のような瞳に、明確な不快を宿した女。
都市最強格の魔導士──リヴェリア・リヨス・アールヴ。
「ミノタウロスを逃がしたのは我々の不手際だ。巻き込んでしまったその少年に謝罪することはあれ、酒の肴にする権利などない。恥を知れ」
「おーおー、流石エルフ様、誇り高いこって」
ベートは鼻で笑った。
「でもよ、そんな救えねえヤツを擁護して何になるってんだ? それはてめえの失敗をてめえで誤魔化すための、ただの自己満足だろ? ゴミをゴミと言って何が悪い」
空気が冷えた。
さきほどまでの宴の熱が、そこだけすっと引いていく。
ベルの肩が、さらに強張る。
アイズは黙っていた。だが、表情がわずかに曇っている。
黙って聞き流せる話ではないのだろう。それでも、あの場にいた当事者として、軽々しく言葉を差し挟めないのかもしれない。
「これ、やめえ。ベートもリヴェリアも。酒が不味くなるわ」
ロキが片手をひらひらと振る。
だが、ベートは止まらなかった。
「アイズはどう思うよ? 自分の目の前で震え上がるだけの情けねえ野郎を。あれが俺達と同じ冒険者を名乗ってるんだぜ?」
「……あの状況じゃあ、しょうがなかったと思います」
アイズの返答は静かだった。
責めるでもなく、庇い立てるでもなく。
ただ、ありのままの事実をそのまま言葉にしたような声音。
だが、その正しさが気に入らなかったのだろう。
ベートは口元を吊り上げ、さらに下卑た方へ話を転がしていく。
「何だよ、いい子ちゃんぶっちまって。……じゃあ、質問を変えるぜ? あのガキと俺、ツガイにするならどっちがいい?」
「……ベート、君、酔ってるの?」
「うるせえ。ほら、アイズ、選べよ。雌のお前はどっちの雄に尻尾を振って、どっちの雄に滅茶苦茶にされてえんだ?」
「……私は、そんなことを言うベートさんとだけは、ごめんです」
「無様だな」
「黙れババアッ。……じゃあ何か、お前はあのガキに好きだの愛してるだの目の前で抜かされたら、受け入れるってか?」
「……っ」
ベートは酒に酔っていた。
だから止まらない。
いや、酔っていなくとも止まらない類なのだろう。
酒は、ただ口にかける枷を緩めているだけだ。
「はっ、そんな筈ねえよなぁ。自分より弱くて、軟弱で、救えない、気持ちだけが空回りしてる雑魚野郎に、お前の隣に立つ資格なんてありはしねえ。他ならないお前がそれを認めねえ」
そして、放たれる。
「
その一言。
それが、決定打だった。
ガタンッ!!
ベルが椅子を跳ね飛ばして立ち上がる。
肩をぶつけ、誰かの声も聞かず、そのまま店の外へ駆け出した。
逃げるように。
振り切るように。
今ここにいる全員から、自分自身から、何もかも背を向けるように。
「ベルさん!?」
シルが慌てて追う。
扉が乱暴に開かれ、夜の喧騒がひと息に流れ込み、そしてすぐに閉じた。
残されたのは、重苦しい静寂。
誰もが気まずそうに目を逸らす。
さっきまで笑っていた者も、今は沈黙している。
「…………」
私は席を立った。
腰袋からヴァリスを取り出し、カウンターへ置く。
じゃらり、と重い音。
今の私が持つ有り金、全てだった。
「……ヘイレルさん?」
追いかけようとしていたシルが足を止める。
「すまない。少し借りる」
「なにを、ですか?」
「時間だ」
そして、女将を見る。
「騒ぎになる」
女将は私を見た。
一瞬だけ、値踏みするように。
怒気に任せた若造か、それとも腹を括った冒険者かを見極めるように。
「……店を壊したらどうなるか、わかってるんだろうね」
「その時は二度死ぬ」
「はっ」
女将の口元が獰猛に歪む。
「面白い坊主だ」
了承と受け取った。
私はロキ・ファミリアの席へ歩く。
周囲の視線が集まる。
止める者はいない。
ただ、何かが起こると皆が理解していた。
ベートが椅子へ踏ん反り返り、こちらを見る。
「あぁン? なんだてめぇ」
酒臭い。
だが、強い。
座ったままでも分かる。
骨の髄まで戦いに慣れた者の気配だ。
今の私より遥か上。正面からやり合えば、まず勝ち目は薄い。
それでも。
どうでもよかった。
胸の内にある熱が、理屈を焼き切っていた。
これが怒りか、と妙に冷静な部分で理解する。
喜びでも、悲しみでもない。
ただ、腹の奥底から煮え立つような熱が這い上がり、視界の輪郭だけを鮮明にする感覚。
ベルが馬鹿にされただけだ。
それだけのことだ。
それだけのことが、どうしようもなく許せなかった。
「話がある」
「あ?」
「表へ出ろ」
一瞬、店内の音が消えた気がした。
ベートが目を細める。
その瞳に浮かぶのは、苛立ちと、嘲りと、ほんの少しの興味。
「断るっつったら?」
「引きずっていく」
椅子が軋む。
ベートが立ち上がった。
獣じみた殺気が、真正面から叩きつけられる。
普通の新人冒険者なら、それだけで腰を抜かすだろう。
膝が笑い、声が詰まり、二度と視線すら合わせられないほどの圧。
だが今の私には、むしろ心地よかった。
腹の底にある怒りと、ちょうど釣り合う。
「面白ぇ」
ベートが笑う。
「遊んでやるよ、雑魚が」
その時。
一人のパルゥムが席から立った。
小柄な体。
金髪。穏やかな笑み。
だが、その紺碧の瞳の奥には、英雄譚の一節そのもののような鋭さが宿っている。
これが【ロキ・ファミリア】の総大将。
【
「……うーん、僕としては、派閥間の揉め事は見過ごせないんだけどね」
「安心しろ」
私は答える。
「そんな大層なものじゃない」
「……ふむ?」
「ただ──私が、この男を気に入らないだけだ」
沈黙。
一拍。
次の瞬間。
「ガハハハハハッ!!」
店を揺らすような豪快な笑い声。
大柄なドワーフ、ガレス・ランドロックが腹を抱えて笑っていた。
「気に入ったぞ小僧!!」
リヴェリアは深く溜息をつき、呆れ半分、納得半分といった目を向けてくる。
アイズはじっとこちらを見ていた。驚いているのか、止めるべきか迷っているのか、その表情からはまだ読み取れない。
ロキは頬杖をつき、あからさまに面白がっている。
ベートは牙を剥いた。
「上等だァ……!」
私は一歩、踏み出す。
全身の血が、静かに熱を帯びていく。
記憶はない。
過去も知らない。
それでも今だけは、はっきり分かった。
守りたいものを侮辱された時。
譲れない一線を土足で踏みにじられた時。
私は、退かない。
「やるぞ──
「蹴り殺してやるよォッ!!」
酒場の扉が開く。
夜のオラリオが、決闘の舞台として待っていた。