見るは夢か、絶望か 作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか
酒場の扉が、背後で荒々しく閉まった。
重い木扉が立てた鈍い音は、つい先ほどまで渦巻いていた喧騒と熱気を断ち切る合図のようだった。笑い声、怒鳴り声、食器の触れ合う音、酒精の匂い──それらすべてが一枚の扉を境に遠ざかり、代わりに夜の空気が肌へ触れる。
火照った頬を撫でる冷気は、驚くほど心地よかった。
肺へ吸い込めば、酒場の濃密な空気で曇っていた頭の内側まで洗われていく気がする。だが、冴えたのは意識だけだ。胸の奥底では、別の熱がまだ静かに燃えていた。
夜のオラリオ。
石畳の大路には魔石灯が等間隔に灯り、黄金色の光が通りを柔らかく照らしている。遠くには白亜の巨塔が夜空へ突き立ち、その外壁に散る無数の灯火が、地上へ降ろされた星々のように瞬いていた。
人の流れは絶えない。
戦利品の袋を肩へ担ぐ冒険者。
酔い潰れた仲間を引きずるドワーフ。
客引きの声を張り上げる獣人の娘。
今夜の稼ぎを自慢し合う若い探索者たち。
どこかでは笛が鳴り、別の通りからは弦楽器の陽気な旋律が流れてくる。遠くの路地では値切り交渉らしき怒鳴り声まで聞こえた。
都市全体が、一つの巨大な宴そのものだった。
だが──その賑わいも、今の私には遠い。
視界の中央にいる、一人の男以外。
「……へっ」
先を歩くベート・ローガが、肩越しにこちらを振り返る。
月光と街灯の入り混じる薄明の中、その姿は妙に鮮烈だった。
銀灰色の髪。
逆立つ狼耳。
獣じみた鋭い瞳。
細身でありながら、無駄という無駄を削ぎ落とした戦闘体躯。
左頬へ刻まれた牙の刺青が、歪めた口元と相まって本能的な警戒心を呼び起こす。
荒々しい。
だが粗暴なだけではない。
その立ち姿には、幾度も死線を越えてきた者だけが持つ均衡があった。気を抜いているように見えて、どこにも隙がない。酒が入っているはずなのに、足取りは少しも乱れていなかった。
むしろ──獲物を前にした獣のように、わずかに機嫌が良さそうですらある。
「酒場の前じゃ邪魔だ。少し離れるぞ」
そう言って、石畳の広い一角へ歩み出る。
周囲の通行人たちは事情を察したのか、自然と距離を取った。誰も止めない。誰も驚かない。
オラリオでは珍しくもないのだろう。冒険者同士の揉め事。腕試し。私闘寸前の睨み合い。
ただ興味深そうに眺めるだけだ。
むしろ、野次馬は増えていく。
酒場からぞろぞろと客が流れ出し、その中には見覚えのある顔も混じっていた。
ロキ・ファミリア。
都市最強の一角。
その幹部たちが、夜の街路へ観客として並び立つだけで、場の空気が一段重くなる。
「いやぁ、ええやんええやん。夜風に決闘、青春やなぁ」
朱色の女神、ロキが面白がるように笑った。
その隣で、ガレス・ランドロックは腕を組みながら豪快に鼻を鳴らし、リヴェリア・リヨス・アールヴは露骨に嫌そうな顔をしている。
「まったく……酔客の余興に付き合う暇はないのだが」
「なら戻ればええや~ん」
「お前が煽っている時点で説得力がない」
小柄なパルゥム──フィン・ディムナは、口元へ手を添えながら静かにこちらを見ていた。
観察している。
値踏みとも違う。興味とも違う。何かを見極めようとする目だった。
そして。
少し離れた場所で、アイズ・ヴァレンシュタインが無言のまま立っている。
金色の髪。
月光を映したような瞳。
澄み切っているのに、どこか寂しさを孕んだ眼差しだった。
ベルが憧れる理由が、少しだけ分かる気がした。
だが今、あの少女へ意識を割く余裕はない。
私の視線は自然とベートへ戻る。
「……随分と見物客が多いな」
呟くと、ベートは鼻で笑った。
「そりゃそうだろ。てめぇみてぇな身の程知らずが、俺に喧嘩売ったんだ。見世物としては上等だ」
侮蔑を隠しもしない声音。
それがわざとであることくらいは分かる。相手を怒らせ、視野を狭め、判断を鈍らせる。
挑発としては単純だ。だが、単純だからこそ効く。
実際、効いていた。
胸の奥底では、まだ熱が燻っている。
ベルが駆け出していった背中。
悔しさと羞恥を噛み殺し、何も言い返せず、ただ逃げるしかなかったあの横顔。
それを思い出すたび、腹の底で何かが煮えたぎる。
だが、不思議と頭は冴えていた。
怒っている。
間違いなく、今の私は怒っている。
だが、激昂しているわけではない。
怒りが深く沈んだ分だけ、意識の輪郭が研ぎ澄まされていた。
石畳の感触。
夜風の温度。
月の位置。
ベートの重心。
呼吸の間。
肩の力み。
指先の揺れ。
世界のすべてが、いつもより少しだけ鮮明に見えていた。
「お顔が怖いで~少年。もっとリラックスせえやリラックス」
いつの間にか後方へ陣取っていたロキが、愉快そうに口を挟む。
その隣で、ガレスは笑いを噛み殺し、リヴェリアは眉間を押さえ、アイズだけは何も言わず真っ直ぐこちらを見ていた。
「始める前に一つ聞く」
私が言うと、ベートが眉を上げた。
「あァ?」
「お前は普段から、ああやって弱い相手を嗤うのか」
一瞬、ざわめきが止んだ。
野次馬たちも、ロキ・ファミリアの面々も、視線をこちらへ寄越す。
ベートはすぐに口元を吊り上げた。
「嗤って何が悪い」
迷いのない声だった。
「弱ぇ奴は死ぬ。この世はな、どれだけ泣こうが喚こうが、
酒の勢いではない。
こいつは、本気でそう思っている。
「……そうか」
「なんだ。説教でもしてぇのか?」
「いや」
首を振る。
「確認しただけだ」
ベートの目が細くなった。
「さっきから気に入らねぇな」
「奇遇だな」
「はっ」
一拍。
ベートが低く笑う。
「その減らず口、すぐ塞いでやる」
数歩、近づいてくる。
ただそれだけで分かる。
圧が違う。
積み重ねた戦闘経験。
潜ってきた死線の密度。
勝者として踏み越えてきた数。
それらが存在感そのものになって叩きつけられてくる。
「てめぇ、あのトマト野郎の連れか」
「そうだと言ったら?」
「だったら尚更笑えるな」
牙を見せるように笑った。
「あんな腰抜けのどこがいい。壁際で震えて、助けられたら尻尾巻いて逃げるだけのガキだぞ」
その言葉を最後まで聞く必要はなかった。
気づけば、一歩踏み込んでいた。
石畳が鳴る。
腰が沈む。
拳へ力が宿る。
その瞬間。
「ヘイレルさんっ!」
鋭い声が飛んだ。
横合いから駆け込んできたシルが、私たちの間へ割って入る。
息を少し乱しながらも、その瞳だけは真っ直ぐだった。
「駄目です」
「……どけ」
「駄目です」
珍しく、笑っていなかった。
柔らかな物腰の少女が、今だけは一本の槍のような強さを持って立っている。
「ここで殴りかかったら、ただの喧嘩です」
「喧嘩だが」
「違います」
きっぱりと言い切る。
「ベルさんのために怒っているなら、なおさら駄目です」
その言葉で、拳の熱が少しだけ冷めた。
……危なかった。
ここで殴れば、少しは溜飲が下がったかもしれない。
だが、それで終わりだ。
ベルの悔しさも、あの背中も、何一つ報われない。
私は息を吐き、拳を下ろした。
対して、ベートは鼻で笑う。
「なんだァ? 女に止められて終わりか?」
「違う」
視線を返す。
「順番を正すだけだ」
「順番?」
「お前を叩き潰すのは、今じゃない」
後方で、ガレスが喉の奥で笑い、私の視線を受けたフィンが一歩前へ出る。
「なら、こうしよう」
小柄な身体にもかかわらず、その一歩だけで空気が締まった。
「模擬戦だ」
ざわめきが広がる。
「得物は自由。殺しはなし。気絶、戦闘不能、もしくは僕が止めと判断した時点で終了」
紺碧の瞳が、私へ向く。
「異論は?」
「ない」
そう返した私へ、フィンが紺碧の目を向けながら更に口を開く。
「ハンデはいるかい?」
「必要か?」
「……君、本当にいいんだね?」
「何がだ」
「相手は【
「知っている」
「そして、君はまだ下級冒険者だろう?」
「それも知っている」
「なら」
フィンはそこで言葉を切り、少しだけ口元を緩めた。
私の返答、あるいは瞳に何かを見たのだろうか。
「……いや、面白い」
そして、右手の親指を口元に沿えた。
その評価が好意なのか、単なる好奇心なのかは分からない。
ただ一つ言えるのは、もう後戻りはできないということだった。
後方でシルが不安そうに私を見る。
「ヘイレルさん……」
「心配するな」
「そういう時の“心配するな”は、たいてい心配なんです」
「そうか」
「そうです」
まっすぐ返され、少しだけ口元が緩みかける。
奇妙なものだ。こんな状況でも、そのやりとりにほんの少し救われている自分がいる。
女将は酒場の入口へ腕を組んで立ち、太い腕を組んだまま言った。
「店の前で無様晒すんじゃないよ、坊主」
「善処する」
「死ぬな、って意味だよ」
「……努力する」
女将は鼻を鳴らしただけだった。
少し離れた場所では、野次馬たちが円を作り始めている。
誰かが「マジかよ」と囁き、誰かが「相手はベート・ローガだぞ」と息を呑み、誰かが「あの新人は誰だ? 見た事もねえ」と呟き、誰かが「どっちが勝つ?」と面白半分に賭けまで始めていた。
くだらない。
だが、そのくだらなさも今はどうでもよかった。
ベートが首を鳴らす。
ごき、ごき、と嫌な音が夜気へ溶けた。
「ベートもそれでいいね?」
「ねぇよ。遊んでやる」
「決まりやな!」
ロキが手を叩く。
「ベート負けろー!」
「ティオナ、あんたは黙ってなさい」
「えー?」
外野が騒がしい。
だが、その喧騒すら今は遠い。
私の中にあるのは、静かな熱だけだった。
ベルは弱い。
確かに、今はまだ弱いのだろう。
だが、弱いことは罪ではない。
恐怖に震えることも、死を前に足が竦むことも、嗤われていい理由にはならない。
それでも前へ進もうとする者を、私は知っている。
ベルは逃げたのではない。
逃げるしかなかっただけだ。
それを、嗤わせてたまるか。
「一つだけ教えてやる」
ベートが首を鳴らしながら笑う。
「後悔するぜ」
「そうか」
私は答える。
「なら私も一つ教えてやる」
「あァ?」
「お前は、負ける」
その瞬間。
空気が変わった。
ベートの笑みから、嘲りの色が消える。
獣の眼だった。
本気で獲物を噛み殺す時の、狼の目。
「……ほざけ」
月が雲間から姿を現し、青白い光が石畳へ落ちる。
円陣の中心。
私とベートの影が、長く伸びた。
周囲の喧騒だけが遠い。
私は息を吸う。
肺の奥まで満たし、止める。
世界が研ぎ澄まされていく。
ベートが低く身を沈めた。
獣が飛びかかる直前の姿勢。
速いだろう。
今まで見てきた何よりも。
だが──負けるつもりはない。
「──始め」
フィンの声が、静かに落ちた。
次の瞬間。
▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲
「──始め」
フィンの声が、夜気へ静かに落ちた。
その一言が合図だった。
世界が、裂ける。
否。
裂けたように見えただけだ。
ベート・ローガが踏み込んだのだと理解した時には、すでに眼前へ迫っていた。
「──っ!」
反射だけで身を捻る。
次の瞬間、頬のすぐ脇を何かが通り抜けた。空気が裂け、耳元で炸裂する。石畳の破片が頬へ散り、熱を帯びた痛みが走った。
視線の端で、銀灰の脚が高く振り抜かれている。
蹴り。
ただの蹴りではない。
斬撃の速度と、鉄槌の質量を併せ持つ一撃だった。しなる脚線は美しいとすら思えるほど洗練されているのに、内包している破壊力は獣の牙そのものだ。
もし直撃していれば、首ごと持っていかれていた。
『速ぇ……!』
『見えたか今の!?』
『嘘だろ、始まった瞬間だぞ……!』
野次馬たちがどよめく。
当然だ。
私も、ほとんど見えていない。
風圧で躱したと知れる程度だ。視認して避けたわけではない。身体が勝手に死線を嗅ぎ取って、辛うじて首を動かしただけ。
ベートの姿が再び沈む。
低く、獣のように。
石畳へ這いつくばる寸前まで重心を落とし、次の瞬間には弾ける。その動きには無駄が一切なかった。構えというより、本能そのものが戦闘用に最適化されているような錯覚すらある。
次は横薙ぎだった。
咄嗟に腕を交差させて受ける。
「……ッ!!」
骨まで震える衝撃。
腕の表面ではなく、中身を直接殴られたようだった。肉の上から骨を揺らされ、関節が悲鳴を上げる。身体が横へ吹き飛び、石畳を二度、三度と転がった。肺の空気が一気に押し出され、呼吸が消える。
視界が揺れる。
夜空と石畳が逆さまに入れ替わり、明かりの輪が尾を引いて流れていく。ようやく止まった時には、口の中へ砂利の味が広がっていた。
「……っ、ぐ」
立て。
まだ一撃だ。
歯を食いしばり、腕へ力を込める。軋む関節が悲鳴を上げるが無視した。指先の感覚が少し鈍い。受けた瞬間に痺れたのだろう。だが、まだ切れていない。動く。なら問題はない。
どうにか膝を立て、立ち上がる。
その様子を見て、ベートはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「なんだァ? 威勢だけは一丁前だったが、この程度か」
返事はしない。
無駄口を叩く余裕などない。
相手は圧倒的に上だ。
力量差は最初から分かっていた。
私も。
ベートも。
ここにいる誰もが。
それでも、退く理由にはならない。
踏み込む。
右拳。左肘。低い蹴り。
持てる速度のすべてを注ぎ込み、連撃を叩き込む。呼吸を刻み、間合いを潰し、少しでも相手の視界を塞ぐように打ち込む。威力よりもまず、当てること。そう判断しての連撃だった。
だが。
「遅ぇ」
最小限の動きでかわされる。
拳は空を切り、肘は肩を掠め、蹴りは膝で弾かれた。
触れられない。
どころか、触れさせてもらえない。
こちらが全力で放っている連撃を、相手は半歩、首の傾き、肩の捻り──その程度で処理している。真正面から相手にされていないという事実が、嫌でも伝わってきた。
直後。
腹部へ鉄塊がめり込んだ。
「──がっ!?」
前蹴り。
呼吸が消え、内臓ごと背中へ押し潰される衝撃。身体が宙へ浮き、そのまま石畳へ叩きつけられた。
肺が言うことをきかない。
喉の奥から酸味が込み上げる。視界の端が白く明滅し、耳の奥で甲高い音が鳴り続ける。みっともなく空気を求めて口を開いても、すぐには何も入ってこなかった。
「ヘイレルさん……!」
シルの声が遠い。
耳鳴りの向こう側から聞こえてくるようだった。
石畳へ手をつき、咳き込みながら立ち上がる。口の端から鉄の味が滲む。腹の奥が熱い。折れてはいない。だが、内側は確実に傷んでいる。
視界の端で、アイズが僅かに眉を寄せていた。
リヴェリアは腕を組み、無言。
ガレスは笑みを消し、フィンは静かに成り行きを見守っている。
ロキだけが、楽しげに目を細めていた。だがあの視線も、ただ面白がっているだけではない。獲物を見る観客ではなく、素材を見定める神の目だ。
誰も止めない。
止める必要がないからだ。
実力差は明白。
このままなら、いずれ終わる。
「粋がってた割には、随分と普通じゃねぇか」
ベートが首を鳴らす。
「名も知らねぇ雑魚が突っかかってきたから、少しは面白ぇかと思ったが……期待外れだ」
足元が揺れる。
肋骨も一本や二本では済んでいないかもしれない。腕も痺れている。呼吸のたび胸が痛む。立っているだけで、全身が鈍く軋んだ。
だが。
まだ終わっていない。
胸の奥底では、別の熱が消えていなかった。
ベルが店を飛び出していった時の背中が脳裏をよぎる。
俯いた顔。
噛み締めた唇。
何も返せなかった悔しさ。
それでも、泣き崩れずにあの場を去った意地。
弱い。
確かに、今のベルはまだ弱いのだろう。
第一級冒険者の立場からすれば圧倒的に。
だが、それを理由に嗤っていいのか?
蔑み、貶し、侮辱されることが許されていいのか?
いいはずがないだろう。
「……そうか」
「あァ?」
「なら、ここからだ」
腰を落とし、深く息を吸う。
胸の奥底へ意識を沈める。
そこにある熱。
記憶はない。
自分が何者で、どこでこれを得たのかも分からない。
それでも、この力だけは身体が知っている。握ったことのないはずの柄を知っていて、知らないはずの戦い方を知っている。理解より先に、肉が、骨が、神経が、それを当然として受け入れていた。
私は右手を虚空へ伸ばした。
何もない空間へ。
そして──掴む。
「──【顕現せよ】」
空間が軋んだ。
耳ではなく、空気そのものが悲鳴を上げたような感覚だった。紫黒の粒子が渦を巻き、闇を凝縮したような双剣が両手へ収束する。
刀身は紫紺。
光を吸い込むような鈍い輝き。
生き物のように脈打つ禍々しさ。
夜の闇を削り取って形にしたような、不吉で、しかし抗いがたく美しい刃だった。
『なっ……!?』
『どっから武器出した!?』
『魔法か!?』
『……詠唱してたか?』
ざわめきが爆ぜる。
「おおっ!?」
ロキが身を乗り出す。
フィンの目が細まり、アイズの瞳が初めて明確な驚きを宿した。
リヴェリアも僅かに目を見開いている。ガレスは片眉を跳ね上げ、アマゾネス姉妹の片割れは素直に騒ぎ、もう片方の片割れは警戒を強めたように視線を鋭くしていた。
ベートだけが、数拍遅れて口元を吊り上げる。
「……面白ぇ」
「卑怯とは言ってくれるな」
「ほざくな。これで対等だ、雑魚が」
私は答えず、踏み込む。
さきほどまでとは違う。
足が軽い。
身体が武器に引かれるように前へ出る。
両手の刃が、まるで昔からそこにあったかのように馴染んでいた。柄の重み、手首の返し、踏み込みと同時に走る重心移動の感覚。そのすべてが、思考の外側で完成している。
右から袈裟斬り。
ベートが蹴りで弾く。
だが、その隙へ左刃を滑り込ませる。
「チッ!」
初めて、ベートが後ろへ退いた。
ほんの半歩。
されど、それは先ほどまでの余裕からすれば十分すぎる変化だった。
『押し返した……!?』
『おい、マジかよ!』
『今の、ベートが下がったよな……!?』
観衆がどよめく。
私自身も理解していた。
身体能力の差は変わらない。
レベル差も依然としてある。
筋力も敏捷も、純粋な打ち合いでは向こうが上だ。
それでも──戦えている。
刃があることで、私の中に眠っていた何かが輪郭を得た。無刀では届き得なかった間合いが、届く。攻撃の選択肢が増えるというだけではない。戦闘そのものの見え方が変わっていた。
ベートが低く笑う。
「……双剣使い、か」
その目に、色が宿る。
侮蔑でも退屈でもない。
認識。
記憶が正しければ、目の前のベート・ローガも双剣使いだ。脚技の印象が強いが、得物を用いる事は多々ある。だからこそ分かるのだろう。
今の私の動きが、さきほどまでの素人じみたものではないと。
わずかに、興が乗った。
そんな色が、獣の瞳の奥に灯る。
だが次の瞬間、その共感ごと踏み砕くようにベートが消えた。
「だが、甘ぇ」
横から回し蹴り。
剣を交差して受ける。
衝撃で腕ごと持っていかれ、石畳を滑った。靴裏が火花を散らす。追撃の膝蹴りが迫る。
紙一重でかわし、逆に喉元へ突きを放つ。
頬を掠めた。
薄く、皮膚が裂ける。
「チッ……」
舌打ち。
その直後だった。
「──っ?」
ベートの動きが止まる。
瞳が見開かれ、焦点が揺れる。
瞳から光が消える。
身体がふらついている。
「……っんだ、これはッ……!?」
私はベートの反応で悟る。
(……奪ったか)
『魔影の双連刃』。
この刃には、感覚を奪う力がある。
視界か、聴覚か、平衡感覚か──詳細は分からない。
だが、これをコボルトやゴブリンへ使った時、妙な挙動をしていた。耳を塞ぐように暴れた個体。突然ふらついた個体。感覚器官のどれかを奪っているのではと推測していたが──。
「どうやら、当たりらしいな」
「────クソがァッ!」
勘だけで放たれた蹴りをかわす。
精度が落ちている。
先ほどまでなら、こちらの回避先へさらに追撃が飛んできたはずだ。だが今の一撃には雑味があった。速い。重い。だが、読める。
その隙に、私は左手を虚空へ掲げた。
白光が集束する。
夜気の中へ薄く散っていた光の粒が、一点へ吸い寄せられるように収束し、新たな双刃が現れた。
純白の刀身。
月光を凝縮したような淡い輝き。
紫紺の刃とは対照的な、清冽な双剣。
名は──『魔明の双連刃』。
『まだ出せるのか!?』
『今度は白だ!』
『やっぱ詠唱してねえ!!?』
『どうなってんだ、あいつ……!』
悲鳴じみた声が上がる。
私自身、この力の全貌は知らない。
だが使えるなら使う。
ベートは視覚を失い、さらに酒気が今更回って来たのか足元が揺れている。平衡感覚も怪しいのだろう。視覚を乱し、平衡を崩した相手へ、ガードの上から白刃を走らせる。
肩口を浅く裂く。
「──がっ!?」
今度はベートの全身が硬直した。
筋肉が瞬時に石のように固まる。
肩から肘へ、背から脚へ。狼獣人のしなやかな肉体が、何かに絡め取られたように強張っていく。
(麻痺……か)
大方、そういう類だろう。
何より有益なのは、私如きの攻撃が第一級冒険者に対しても有効である事。
これが通るなら、勝機はある。
だが、それを咀嚼している時間すら惜しい。
なら十分だ。
一気に踏み込む。
ベートの片腕が無理やりにでも動こうとする。力で痺れを捻じ伏せようとする意志が見える。
だが遅い。
今度こそ、ベートの顔から余裕の表情が消える。
無理やり動かそうとした片腕を弾き、体勢を崩し、その懐へ滑り込む。喉元へ白刃を突きつけるまでに、もはや迷いはなかった。
そして、
「終わりだ」
「────!!」
切っ先が、獣人の喉仏へ触れた。
静寂。
夜の喧騒だけが、そこから切り離されたように遠のく。
先ほどまで聞こえていたざわめきも、音楽も、笑い声も、別世界の出来事のようだった。
ベートの呼吸だけが荒い。
喉元の皮膚へ刃先がわずかに沈み、薄く血が滲む。
『……勝っちまった』
『ベートを……!?』
『【ロキ・ファミリア】……第一級冒険者だぞ……!!?』
『嘘だろ、あの新人が……?』
誰かが呟いた。
その呟きが、半ば信じられぬまま、波紋のように広がっていく。
フィンの目が鋭く細まり、アイズは息を呑んでいた。
ロキは口を大きく開け、ガレスは豪快に笑うことすら忘れている。
リヴェリアは険しい顔のまま沈黙し、アマゾネス姉妹は明らかに戦局の転転へ目を奪われていた。シルは胸元で手を握りしめたまま、祈るようにこちらを見ている。
「勝負あり、だろう?」
私が告げると、ベートは歯を剥いた。
「ふざけんな……! まだやれる! こんなもん──」
「いや、勝負ありだ」
【勇者】が模擬戦の終わりを告げる。
「フィン……てめっ……!!」
「素直に認めよう、ベート。君の負けだ。相手を侮りすぎたね」
ベートの抗議を無視し、フィンは淡々と言葉を落とす。
その時だった。
「…………っ?」
声が、急に遠のいた。
視界の端から黒が滲む。
月明かりも、魔石灯の黄金も、輪郭を失って崩れていく。
足元から力が抜けた。
(……魔力切れ、か)
精神疲労。
マインドダウン。
それしか思い当たらない。
ここまで連続して力を引き出した反動が、一気に来たのだろう。頭の芯を直接掻き回されるような眩暈と倦怠感。そして、全身から魔力だけを引き剥がされたような虚脱感が押し寄せる。
指先から双剣が霧散する。
紫紺も、純白も、まるで最初から存在しなかった幻のように闇へ溶けた。
膝が折れる。
「ヘイレルさん!」
シルの声。
駆け寄ってくる足音。
揺れる銀灰の髪。
その奥で、アイズが一歩踏み出していた。
無表情に近い顔のまま、それでも瞳だけは確かな驚きと関心を宿している。ロキは楽しげに笑いながらも、その瞳だけは真剣だった。
「いやぁ……こら、どえらい拾いもんやなぁ」
神の呟きは、感嘆と歓喜が入り混じっていた。
フィンは静かに続ける。
「……面白い新人だ」
ガレスが遅れて喉を鳴らす。
「……こいつはたまげたわい」
リヴェリアは小さく息を吐き、アイズはなおもこちらを見ていた。あの金の瞳が、倒れゆく私の姿を一瞬たりとも逸らさない。
石畳へ倒れ込みながら、最後に見えたのは月だった。
青白く、静かに。
遠いはずなのに、妙に近く見えた。
その光だけを網膜へ焼きつけたまま、意識は深い闇へ沈んでいった。