見るは夢か、絶望か   作:この世で一番素敵なものとはなんだろうか

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朝焼けの誓い

 

 

 石畳へ膝をついた少年の身体が、ゆっくりと前へ傾いだ。

 

 つい先ほどまで、白刃を凶狼の喉元へ突きつけていた男──ヘイレルは、内側から糸を断たれた操り人形のように、唐突に力を失う。

 

 肩が落ちる。

 膝が沈む。

 指先から最後の緊張が抜け、支えを失った身体は横へ崩れた。

 額が石畳へ触れる寸前、かろうじて肩から倒れ込む。

 それきり、動かない。

 

 夜風が吹いた。

 熱気を孕んでいた広場の空気が、一瞬で冷やされる。

 月明かりに照らされた石畳には、戦いの残滓だけが散らばっていた。砕けた破片。靴底が削った白い筋。浅く飛んだ血。激突の余韻を残す埃。

 だが、そのすべてよりもなお、この場の視線を奪っていたのは──倒れ伏した、名も知れぬ少年だった。

 

 静寂。

 

 先ほどまで野次と歓声で満ちていた広場が、嘘のように沈黙している。

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 理解が追いついていないのだ。

 

 都市オラリオにその名を轟かせる第一級冒険者。

【ロキ・ファミリア】幹部。

 幾多の戦場と死線を潜り抜けてきた【凶狼】ベート・ローガ。

 

 その喉元へ。

 どこの誰とも知れぬ新人冒険者の刃が、確かに届いた。

 しかも、その場の勢いでも偶然でもない。真正面から戦い、押し込み、掴み取った一撃として。

 だが、その勝者であるはずの少年もまた、直後に力尽きた。

 

 勝ったのか。

 負けたのか。

 引き分けなのか。

 

 即座に断じられる者は、この場に一人としていなかった。

 

「……いやぁ」

 

 最初に沈黙を破ったのは、女神ロキだった。

 愉快そうに肩を揺らしながら、しかしその双眸だけは鋭く細められている。珍妙な玩具を見つけた子供のような色と、掘り出し物を見定める神の視線。その両方が、ないまぜになっていた。

 

「なんちゅうもん見せてくれるんや、この坊やは」

 

 乾いた拍手が、ぱち、ぱち、と夜気へ響く。

 その軽さとは裏腹に、場の空気はさらに張り詰めた。

 

「ベート」

 

 呼ばれた狼獣人は、返事をしない。

 ただ、荒い息を吐きながらその場に立っていた。

 

 額には汗。頬には浅い裂傷。肩口には白刃が残した傷痕。そして何より──喉元に、一本の赤い線。

 そこから滲んだ血が、月光を受けて鈍く光っている。

 呼吸のたびに、その傷がわずかに開閉した。

 

「首……取られとったで?」

「……っ」

 

 その言葉に、ベートの顔が歪む。

 獣の牙を剥くように唇を吊り上げ、喉へ手を当てる。指先へ付いた血を見た瞬間、その瞳へ宿ったのは怒りではない。

 屈辱だった。

 

 格下。

 雑魚。

 そう断じ、嗤っていた相手に、自分の命を握られた。

 

 その事実が、凶狼の矜持を深々と抉っていた。

 

「ふざけんな……」

 

 低く、喉の奥で唸る。

 

「まだ終わってねぇ。俺ァ立ってる。あいつは倒れてんだぞ……!」

 

 一歩、踏み出そうとする。

 だが次の瞬間、脚がわずかにもつれた。

 

 重心がぶれる。視線が揺れる。

 平衡感覚の乱れか。状態異常の余韻か。あるいは、自身でも制御しきれぬ激昂のせいか。

 その、ほんのわずかな綻び。

 普段のベートであれば決して晒さぬ隙を、この場の誰もが見逃さなかった。

 

「その理屈も分かるよ」

 

 穏やかな声が、場へ滑り込む。

 フィン・ディムナだった。

 小柄な体躯のまま、円陣の中央へ歩み出る。だがその一歩ごとに空気が変わる。ざわついていた観衆も、無意識に口を閉ざした。

 

 勇者。

 

 その異名が示す通り、彼には場を支配する力があった。

 怒号も威圧もいらない。ただ立つだけで、人は耳を傾ける。

 フィンは倒れたヘイレルを一瞥し、次いでベートへ視線を向ける。

 

「けれど、喉元へ刃が届いた時点で、実戦なら君は死んでいた」

「……ッ!」

 

 ベートの肩が震える。

 

「そして彼は、その一撃を届かせた代償に倒れた。継戦能力では君が上だろう。けれど、勝負を決めた一手は確かに彼のものだ」

「…………」

 

 フィンは周囲へも視線を巡らせる。

 野次馬たち。仲間たち。神々。誰一人として、この裁定から逃れられぬように。

 

「状態異常が卑怯な手段だと思う者もいるだろう」

 

 ざわ、と空気が揺れた。

 

「だが前提として、この対決は下級冒険者と第一級冒険者の戦いだ。力も経験も、あまりに隔絶している」

 

 静かに、と何処かで声が上がった。

 だが一語一語を打ち込むように彼は告げる。

 

「その格上へ通用する手札を持ち合わせ、なおかつ勝機へ変えた。むしろ称賛されるべきはそこだ」

 

 誰にも覆せぬ口調だった。

 

「模擬戦としては──彼の勝ちだ」

 

 ざわめきが、爆ぜた。

 

『マジかよ……!』

『ベートが負けた!?』

『あの新人、何者だよ……!』

『見たことねぇぞ、あんな奴!』

『下級だろ!? ありえんのか、そんなことが!?』

 

 押し殺していた興奮が、堰を切ったように噴き出す。

 広場の熱は一気に戻り、むしろ先ほどまで以上に膨れ上がっていた。

 ベートは歯噛みした。

 

「認めねぇ」

「だろうね」

 

 フィンは肩をすくめる。

 

「でも、君自身が一番よく分かっているはずだ」

「……!」

 

 言い返せない。

 喉へ触れる指先。そこに残る血の感触が、何より雄弁だった。

 

 もし実戦なら。

 もし相手が躊躇なく刃を滑らせていれば。

 自分は、ここで終わっていた。

 

「……クソが」

 

 吐き捨てるような舌打ち。

 その一言に込められた悔恨は、怒号よりも遥かに深かった。

 

「いやぁ~、ええもん見せてもろたわぁ」

 

 ロキが満足げに笑う。

 

「ベートが真正面から鼻っ柱へし折られるん、いつぶりやろな?」

「茶化すな、ロキ」

 

 冷え切った声音でリヴェリアが言う。

 だが、彼女自身もまた視線を逸らしてはいなかった。

 

「……あの武装。魔剣とも通常の魔法とも違う。発現型スキルか、それとも未知の技能か」

「しかも状態異常付きじゃ」

 

 ガレスが腕を組み、低く唸る。

 

「『耐異常』を抜き、第一級冒険者へ通るとなれば、笑い話では済まんぞ」

「せやろ?」

 

 ロキの口角が吊り上がる。

 

「拾いもん、どころやないわ」

 

 その声音には、神としての歓喜が滲んでいた。

 

 才能。異質。波乱。

 神々が最も好むものだ。

 

 少し離れた位置で、アイズ・ヴァレンシュタインは黙したまま立っていた。

 金の瞳が、倒れた少年へ注がれている。

 

 興味。

 好奇心。

 それだけではない。

 

 理解できないものへ向ける、純粋な探究の眼差し。

 そして、彼女の胸へ微かに残っていたのは──あの時、誰かのために怒っていた姿だった。

 

 自分のためではなく。

 誇示のためでもなく。

 

 誰かを侮辱されたことへ、真っ直ぐ怒っていた男。

 

「……誰かのために」

 

 小さく零れた言葉は、夜風へ溶けて消える。

 

 その時だった。

 

「ヘイレルさん!」

 

 銀の髪が翻る。

 シルが人垣を押し分け、広場へ飛び込んできた。

 

 迷いなく膝をつき、倒れたヘイレルの身体を抱き起こす。頭を支え、呼吸を確かめ、胸へ耳を寄せる。

 周囲の喧騒など耳に入っていない。

 彼女にとって重要なのは、ただ一人の容態だけだった。

 

「……よかった」

 

 かすれた声だった。

 責めるような言葉はいくらでもあったはずだ。無茶をするな、と怒鳴ることもできた。

 けれど最初に漏れたのは、安堵だった。

 

「もう……本当に、無茶しすぎです」

 

 涙声にも似た叱責。

 その指先が、わずかに震えている。

 ヘイレルの胸は上下していた。呼吸もある。ただ深く意識を落としているだけだ。

 それを確認した瞬間、シルの肩から力が抜けた。

 

「ミアお母さーん! 水と布、お願いします!」

「最初から持ってきてるよ!」

 

 酒場の入口から、怒声と共に巨躯が現れる。

 女主人ミア・グランドは、大桶と布束を片手で抱えながら人垣を割った。野次馬たちが慌てて道を開ける。

 

「まったく、店先で好き勝手やってくれるじゃないか」

 

 そう吐き捨てつつ、口元には僅かな笑み。

 

 無様ではなかった。

 むしろ、見事だった。

 それを認める者の顔だった。

 

 ベートはその様子を見て、さらに顔をしかめる。

 

「……帰る」

「おろ? 反省会せぇへんの?」

「うるせぇ」

 

 踵を返す。

 だが、数歩進んだところで一度だけ足を止めた。

 

 振り返る。

 シルに支えられ、意識なく横たわるヘイレルを見る。

 

 そこに、もはや侮蔑はなかった。

 あるのは剥き出しの敵意。苛立ち。そして、認めたくない認識。

 

 格下ではない。

 次に会う時は、警戒すべき敵だと。

 

「次は──殺す」

 

 低く吐き捨て、凶狼は夜の街へ消えていく。

 

「いやぁ、えらい気に入られたなぁ、この子」

「それは気に入るとは言わん」

 

 リヴェリアが即座に切り捨てる。

 フィンは苦笑しながら、倒れた少年へ視線を落とした。

 

「……それでも」

 

 静かな声だった。

 

「面白い風が吹いた」

 

 誰も否定しなかった。

 

 月下の広場に残されたのは、砕けた石畳。散った血痕。熱狂の残滓。

 

 そして。

 

 都市オラリオの均衡へ、確かな爪痕を刻んだ── 一人の無名冒険者の存在だった。

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 気づけば、私は荒野に立っていた。

 

 風が吹いている。

 

 乾ききった風だった。砂と灰を巻き上げ、肌を撫でるというより削るように吹きつけてくる。鼻腔へ入り込む空気には、土の匂いよりも、焼け焦げた何かの臭気が濃く混じっていた。鉄にも似た錆びた匂いと、火に炙られた肉を思わせる不快な臭気が、呼吸のたびに肺の奥へ沈んでいく。

 

 目の前に広がるのは、荒れ果てた大地だった。

 

 草木は尽く抉り飛ばされ、残った木々も半ばから黒く焼け、炭と化した枝を空へ突き立てている。地面は大きく裂け、その亀裂の奥には赤黒い熱がまだ燻っていた。岩は砕け、盛り上がり、あるいは何か巨大な力で押し潰されたように、無残な平面へ変えられている。

 

 戦いの跡だ。

 

 しかも、私がこれまで見たどの戦闘とも比べものにならないほど、凄惨で、巨大で、理不尽な破壊の痕跡。

 

 人が争った跡というより、世界そのものが傷つけられた跡だった。

 

『……なんだ、ここは』

 

 声に出してみる。

 

 だが、自分の声さえひどく遠い。

 口を動かし、確かに音にしたはずなのに、どこか別の場所から響いてくるように曖昧だった。

 

 夢の中でよくあるような曖昧さではない。むしろ、やけに鮮明だ。風の冷たさも、灰のざらつきも、焼けた空気の重さも、現実としか思えないほど生々しい。

 

 それが逆に、不気味だった。

 

 周囲へ視線を巡らせる。

 

 人がいた。

 いや、正確には“人影”が、いくつも立っていた。

 

 見慣れない武具を纏った戦士たち。分厚い甲冑に身を包んだ者。刺突用の長槍を構える者。異形の紋様が刻まれた大剣を引きずる者。法衣にも似た衣を纏い、杖や書物を手にした魔法使いらしき者たち。

 そのどれも、私の知るオラリオの冒険者たちとは違っていた。

 

 意匠が違う。

 纏う気配が違う。

 立ち姿そのものが違う。

 

 洗練ではなく、もっと別の何かだ。生き残るために研ぎ上げられた、時代そのものの切実さのようなものが、彼らの背に貼りついている。

 

 さらに、その後方には──巨大な鋼鉄の人形があった。

 

 巨人。

 

 そう呼ぶべきか、一瞬迷う。

 人を模してはいる。だが、あれは生き物ではない。鈍く光る金属の装甲が幾重にも重なり、頭部らしき箇所には眼のような光が灯っては明滅している。胸部には亀裂が走り、片腕を失ったものもあった。装甲の至る所に焼け焦げた痕と穿たれた穴が残り、既に激しい破壊を受けていることが見て取れる。

 

 彼らと戦っていたのか。

 あるいは、彼らと共に何かと戦っていたのか。

 

 分からない。

 見たことがない。

 知るはずがない。

 

 だというのに。

 

『……どうしてだ』

 

 喉の奥から、掠れた声が零れる。

 

 懐かしい。

 

 そんなはずがないのに、私はこの光景にどこか既視感を抱いていた。

 

 知らない景色のはずだった。知らない人々のはずだった。知らない時代、知らない戦場。そう断じるのが正しい。正しいはずなのに、胸の奥のどこかが、これを“知っている”と告げている。

 

 初めて見るはずの荒野。

 初めて見るはずの兵装。

 初めて見るはずの鋼鉄の巨人。

 

 なのに、記憶の底で何かがざわついていた。

 忘れていたものが、眠ったままの何かが、微かに身じろぎする。

 

 理解が追いつかない。

 疑問が疑問を呼び、思考はまとまらず、ただ胸の内側だけが不穏にざわついていく。

 

 ──その時だった。

 

 異音が響いた。

 耳で聞いたのか、頭の内側で鳴ったのか分からない。金属を引き裂くような、硝子を噛み砕くような、ひどく不快な音だった。聞いた瞬間、背骨の芯を爪でなぞられたような悪寒が走る。

 

 反射的に空を見上げる。

 そして、息を呑んだ。

 

 空が──割れていた。

 

 蒼でも、夜でもない、得体の知れぬ色に染まった上空が、一本の亀裂を境に軋み始める。まるで見えない巨大な手が天蓋を掴み、無理矢理左右へ引き裂いているかのように。

 

 罅が走る。

 

 一本。

 二本。

 瞬く間に、無数。

 

 空そのものが悲鳴を上げるように裂け目を広げていく。ひび割れの隙間からは、光とも闇ともつかぬ異様な揺らめきが覗いていた。

 

 裂け目が広がる。

 そして、開いた。

 その瞬間、何かが溢れ出した。

 

 禍々しい圧。

 

 形を持たぬはずの“圧”が、津波のように周囲へ流れ込んでくる。空気が沈み、大地が軋み、焼け残っていた木々の炭片が一斉に震えた。肌が粟立つ。肺が潰れそうになる。立っているだけで膝が折れそうになるほどの威圧だった。

 存在するだけで周囲を書き換える類の“何か”。

 そうとしか呼べない。

 

 周囲にいた戦士たちが、一斉に身構えた。

 

 剣が引き抜かれる。

 槍が掲げられる。

 魔法使いたちが詠唱へ入る。

 

 震える指で、それでも杖を構える者がいる。歯を食いしばり、今にも折れそうな脚を踏みしめる者がいる。

 

 だが。

 

 それは“戦意”ではなかった。

 恐怖を、気力で塗り潰そうとする動きだ。

 現れたものを前に、誰もが本能では理解していたのだろう。

 

 勝てない、と。

 

 それでも退けないから、武器を取るしかない。

 そういう絶望の構えだった。

 

 裂けた空の向こうから、何かが降りてくる。

 背に、漆黒と黄金で編まれた輪を背負っていた。

 頭上には、巨大な対の角。

 肩の後方には、夜そのものを削って形にしたような漆黒の翼。

 

 それは人型に近い輪郭をしていたが、到底“人”とは呼べない何かだった。

 

 神々しさと禍々しさが、あまりにも歪んだ形で両立している。

 見る者に畏怖を抱かせる美しさと、見た瞬間に逃げ出したくなる悍ましさ。その相反するはずのものが、破綻することなく一つの姿に収まっている。

 近づく者すべてを拒む、絶対的な異質。

 事実、周囲の戦士たちは宙に浮かぶその存在へ完全に気圧されていた。前へ出ようとする者はいる。だが、誰一人として踏み込めない。肌が拒絶している。魂が悲鳴を上げている。

 

 私自身も、動けなかった。

 視線を逸らせない。

 逸らしたら終わると、本能が告げている。

 何が終わるのかは分からない。だが、目を背けた瞬間に決定的な何かを失う──そんな理屈ではない確信だけがあった。

 

 しかし。

 

『……顔が、見えない……?』

 

 その存在の顔だけが、どうしても認識できなかった。

 輪郭はある。頭部も、目の位置も、口元の位置も、おおよそ分かる。なのに、肝心の顔だけが霧に包まれたように朧げで、像を結ばない。

 まるで、この目で見てはならないものを、何かが意図的に覆い隠しているかのようだった。

 

 顔が見えない。

 だが、それでも理解してしまう。

 

 あれは“災厄”だ。

 

 そう呼ぶしかないものが、いま、空の裂け目から降り立っている。

 やがて、その“何か”が口を開く。

 

「初めまして、と言っておこうか。ハンター諸君」

 

 声が響いた。

 静かな声だった。怒鳴りもせず、威圧も込めず、ただ自然に発された声音。

 

 だというのに、その一言だけで空気が震えた。

 遠雷のように腹の底へ落ちてくる。耳ではなく、骨の内側で聞くような声だった。鼓膜ではなく、神経そのものが音として認識しているような、不快で、抗いがたい響き。

 

「私は破滅と混沌を齎す者」

 

 戦士の一人が息を呑む。

 それがやけに大きく聞こえた。

 世界が静まり返り、その一音だけが際立ったように。

 

「私は全てが憎い。世界も、神々も、そして人間も。全てが」

 

 魔法使いの一人が膝をつく。

 耐えきれなかったのか、それとも無意識に屈したのかは分からない。ただ、その場にいた誰もが、似たような衝動を胸の奥で味わっていたはずだ。

 

 逃げたい。

 伏したい。

 見なかったことにしたい。

 

 そういう衝動を、歯噛みして押しとどめているだけだ。

 

「故に、壊す」

 

 告げられた言葉は簡潔だった。

 だが、起きた現象はその何倍も苛烈だった。

 突如として、空間そのものに無数の亀裂が走る。

 

 鏡が割れるような音。

 光が乱反射する。

 目に映る景色の端々が、まるで硝子細工のように砕けて散る。

 

『…………っ!?』

 

 何が起きているのか分からない。

 周囲の戦士たちも同じだった。武器を構えたまま、目を見開き、ただ空間の崩壊を見上げている。誰一人、理解に追いつけていない。理解するより早く、世界の方が壊れ始めている。

 

 空が壊れた。

 いや、それだけではない。

 この場を覆っていた“何か”が、根元から引き剥がされていく感覚。守りだったもの、隔てていたもの、世界を世界として保っていた何かが、土台ごと砕けていく。

 

「私の為すべき事に、女神の大結界は必要なかったのでね。排除させてもらった」

 

 ぞっとした。

 言葉の意味が理解できたわけではない。

 だが、その内容がこの場にいる全員にとって致命的な何かであることだけは、説明抜きで分かった。

 

 戦士たちは理解できていない。

 魔法使いたちも、誰一人として。

 勿論、私もだ。

 

 それでも。

 

 “終わった”と、どこかが理解してしまっていた。

 希望が砕ける音というものがあるなら、きっとこういう音だろうと思った。

 

「大いなる光にも満たない小さき光よ」

 

 突如として、頭に痛みが奔る。

 

『…………っ!?』

 

 鋭い。重い。熱い。

 

 何かを無理矢理こじ開けられるような痛みだった。

 外から打ち込まれる痛みではない。頭の奥底に埋め込まれていた何かが、内側から暴れ出すような痛みだ。

 

 言葉が、意味として頭へ入ってこない。なのに、その一音ごとが脳の奥を直接叩いてくる。

 

「認められないというのなら、どうか抗ってくれ」

 

 頭蓋の内側が、軋む。

 割れそうだった。

 

 視界の端に白い火花が散る。膝が笑う。呼吸が乱れる。

 立っているのか、倒れかけているのか、その境目すら曖昧になっていく。

 

「私はその行い全てを許容しよう」

 

 視界が揺れる。

 立っているのかどうかすら、もう分からない。周囲の景色が霞み、輪郭を失い、あの禍々しい存在だけが不気味なほど鮮明なまま浮かんでいた。

 

 なぜだ。

 

 なぜ、あれだけが見える。

 なぜ、その声だけが、こんなにも頭の奥へ届く。

 

 まるで──私へ向けて語っているように。

 

「そして、許容したその全てを捻じ伏せる」

 

 痛みが治まらない。

 いや、痛みだけではない。

 何かが、頭の奥底で暴れている。

 

 忘れていたもの。

 封じられていたもの。

 触れてはならない何か。

 

 それらが、この声に呼応するようにざわめいていた。沈んでいた記憶の残骸が、泥の底から浮かび上がろうとするように、輪郭を持たないまま胸の内側を掻き回していく。

 

「では、今日のところはこれにて失礼しよう」

 

 視界が朧げになる。

 

 膝が折れる感覚があった。けれど、それすら遠い。

 音も、風も、荒野の臭いも、少しずつ遠ざかっていく。

 

「また逢おう、■■■■

 

 その名を聞いた瞬間。

 

 頭の奥で、何かが決定的に軋んだ。

 

 ぞくり、と背筋が粟立つ。

 

 その名を知っている気がした。

 だが、同時に、知ってはならないもののようにも思えた。

 

 懐かしさに似た感覚と、吐き気を催すほどの嫌悪感。

 親しさと恐怖。

 それらが矛盾したまま胸の中で絡み合い、息が詰まりそうになる。

 

 意識が薄れる。

 景色が崩れる。

 戦場も、空も、裂け目も、黒き翼も、すべてが闇へ飲み込まれていく。まるで最初から存在していなかったかのように、音も色も輪郭も失われていく。

 

 最後に残ったのは、胸の奥を掻き毟るような不快感と、言いようのない喪失感だけだった。

 大事な何かを思い出しかけて、思い出せないまま引き剥がされたような、空虚で、冷たい感覚。

 

 そして私は、真っ黒な闇へ沈んだ。

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 意識が浮上した時、最初に感じたのは、背中を包む柔らかな感触だった。

 

 何かの夢を見ていたような気がしたが、それは既に霧のように朧気で。

 

 沈み込むような寝具。

 粗末ではない。だが、贅沢とも違う。必要なものだけを過不足なく揃えた、誰かの生活の温度が染みついた寝床だった。

 

 次いで、鼻先をくすぐる香りがある。

 

 乾いた木材の匂い。

 洗いたての布の清潔な匂い。

 それから、微かに混じる薬草と、酒場に染みついた酒精の残り香。

 

 ゆっくりと瞼を開く。

 視界へ映ったのは、見知らぬ天井だった。

 

 ……いや、正確には“知らない”わけではない。

 見覚えが薄いだけで、どこかで目にしている。古びた木の梁。白く塗られた壁。ところどころ剥がれた漆喰。長く使われ、きちんと手入れされ続けた建物だけが持つ、静かな落ち着きがそこにはあった。

 

 薄い窓から差し込む光は、まだ青い。

 夜と朝の狭間。

 世界が最も静かで、最も脆い時間帯だった。

 

「……」

 

 身体を起こそうとして、胸に鈍い痛みが走る。

 

「……っ」

 

 思わず顔をしかめた。

 

 肋骨。腹部。肩。腕。脚。

 どこが痛いのか分からないほど、全身が均等に軋んでいる。まるで巨大な岩に踏みつけられ、そのまま一晩放置された後のような感覚だった。

 

 ……心当たりは、ある。

 

 月下の広場。

 ベート・ローガ。

 見えない速度。

 骨まで揺らす蹴撃。

 紫紺と白の双剣。

 喉元へ届いた刃。

 そして、その直後の暗転。

 

 記憶が、痛みと一緒に遅れて戻ってきた。

 

「……生きているのか」

 

 誰へともなく呟く。

 死んでいても、おかしくはなかった。

 あの蹴りをまともに受け、あれだけ無茶に力を引き出したのだ。目覚めた場所が冥府であったとしても、驚きはしなかっただろう。

 

 だが、痛みがある。

 全身のあちこちが、こちらの都合など知らぬ顔で脈打っている。呼吸のたびに肋が軋み、腹の奥には重石のような鈍痛が沈んでいた。

 

 痛みは、生者の証だ。

 そう結論づけた、その時だった。

 部屋の扉が、控えめな音を立てて開く。

 

「起きてましたか?」

 

 朝の淡い光を背に、シルが姿を現した。

 銀の髪がやわらかく揺れる。両手には小さな盆。湯気の立つ器と水差し、巻かれた包帯、濡らした布まで用意されていた。

 気配なく現れる様は、相変わらずだ。

 

「……お前か」

「その言い方、ちょっと傷つきます」

 

 口ではそう言いながら、彼女はいつものように柔らかく笑った。

 だが、その笑みの奥に、昨夜から持ち越した心配の色が滲んでいるのは隠せていない。目元のわずかな陰りと、どこか慎重な足取りが、それを物語っていた。

 

「身体、どうですか?」

「最悪だ」

「安心しました」

「何がだ」

「それだけ減らず口が叩けるなら、重症ではありません」

「基準がおかしい」

 

 シルはくすりと笑う。

 その笑い声が、不思議と部屋によく馴染んだ。静かな朝の空気へ、小さな鈴を転がしたような音だった。

 彼女は盆を机へ置くと、ためらいなくこちらへ近づいてくる。

 

「じっとしててください」

 

 冷たい掌が、額へ触れた。

 熱を確かめているのだろう。

 その指先は驚くほど冷えていたが、不快ではなかった。むしろ、少しだけ火照っていた頭には心地いい。

 

「熱はなさそうですね。ミアお母さんが湿布と薬草を持ってきてくれました」

「……ここは?」

「『豊穣の女主人』の二階です。空いていた部屋を借りました」

 

 酒場に二階があったのか。

 そう言われてみれば、昨夜いた一階は天井が高かった。従業員の私室か、あるいは客を泊めるための簡易の部屋か。どちらにせよ、昨夜の騒ぎの後に転がり込むには十分すぎる場所だった。

 

 私は息を吐く。

 胸が痛む。やはり、笑えるような状態ではない。

 

「昨夜の後、どうなった」

 

 問うと、シルは椅子へ腰掛け、少しだけ真面目な顔になる。

 

「まず、ヘイレルさんが倒れました」

「それは知っている」

「そのあとベートさんが怒って暴れて、ロキ様に頭を叩かれて静かになりました」

「……ありそうだな」

「冗談です」

「おい」

「ふふっ」

 

 悪びれもなく笑う。

 

「本当は、悪態をつきながら帰っていきました。とても悔しそうでしたよ」

「そうか」

 

 悔しいだろう。

 

 あれだけ格下と見ていた相手に、喉元を取られたのだ。自尊心の高い男なら、なおさらだ。

 私でも逆の立場なら、簡単には飲み込めない。

 

「それと、フィンさんが勝敗を預かって……模擬戦はヘイレルさんの勝ち、ということになりました」

「……勝ち、か」

 

 実感はなかった。

 

 倒れた記憶しか、こちらには残っていない。

 喉元へ刃を突きつけた感触までは覚えている。だが、その先は闇だ。結果だけを改めて告げられても、どこか他人事のように聞こえる。

 

「はい。ちゃんと皆さんの前で宣言していました。喉元に刃が届いていたからって」

 

 シルは少しだけ胸を張る。

 なぜお前が誇らしげなのだ、と言いかけてやめた。

 

「凄かったですよ。みんな驚いてました。アイズさんも、ずっと見ていましたし」

「嬉しくない情報だな」

「ええー? オラリオ中の男性が羨む情報ですよ?」

「興味がない」

「もったいないです」

 

 他愛のないやり取り。

 

 昨夜の殺気と熱狂が嘘のように、穏やかな時間だった。

 張り詰めていた心の奥が、少しずつほどけていくのが分かる。

 

 こんな時間も、あるのだなと思う。

 

 誰かと、何の駆け引きもなく言葉を交わすだけの時間。

 それを心地いいと感じている自分に、少しだけ驚いた。

 

 だが──

 

「……ベルは?」

 

 その名を口にした瞬間、シルの表情が僅かに曇った。

 

 ほんのわずかだ。

 けれど、見逃せるほど鈍くはない。

 

「まだ、戻っていません」

 

 胸の奥が、冷えた。

 

「昨夜からか」

「はい。朝方まで誰も見ていません」

 

 身体が先に動いた。

 痛みを無視して起き上がり、床へ足をつく。足裏に重みが乗った瞬間、腹と肋骨に鋭い痛みが走る。それでも止まれない。

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 シルが慌てて立ち上がる。

 

「まだ安静にしていないと──」

「無理だ」

「無理じゃありません!」

「ベルが戻っていない」

 

 その一言で、彼女は押し黙った。

 言葉を失い、やがて諦めたように肩を落とす。

 

 分かっているのだろう。

 私がこのまま寝ていられる性分ではないことを。

 

「……せめて、これだけ」

 

 差し出されたのは包帯と小瓶だった。

 

「傷が開いたら使ってください。あと、無茶したら今度こそ怒ります」

「……助かる」

「あと」

 

 じとり、と睨まれる。

 

「倒れるほど無茶した人が、人の心配ばかりしないでください」

「善処する」

「信用できません」

 

 即答だった。

 

 少しだけ口元が緩む。

 こんな状況でも、笑えるものらしい。

 

 シルはそんな私を見て、やれやれとでも言いたげに小さく息をついた。

 だが最後には、いつもの柔らかな表情へ戻る。

 

「……行くなら、せめて気をつけてください」

「ああ」

 

 それだけ答え、私は部屋を出た。

 

 

 

 

 ▶▼◀▲▶▼◀▲▶▼◀▲

 

 

 

 

 外へ出ると、空気は鋭かった。

 

 夜の冷たさをまだ残しながら、朝の匂いが混じり始めている。

 湿った石畳。

 遠くで鳴く、早起きの鳥の声。

 どこかの店先で、木戸を開ける微かな音。

 

 空は群青。東の空だけが白み、世界の輪郭が少しずつ浮かび上がっていた。夜と朝がせめぎ合う、その中間の色だ。

 

 この時間のオラリオは静かだった。

 

 酒場帰りの酔客もいない。

 出立前の冒険者たちも、まだ宿や拠点で装備を整えている頃だろう。

 巨大都市が、ほんのわずかな眠りを許される時間。

 

 ベルは、どこへ向かったのだろうか。

 廃教会か、ギルドか。それともまた別か。

 

 昨夜の悔しさを抱えたまま、何かを振り払うように走って。

 廃教会の奥で一人悔しさを噛み締めているのだろうか。

 そう考える方が、まだ納得できる。

 

 だから廃教会のある方向へ足を向けかけて──止まった。

 

 路地裏の影。

 建物と建物の隙間、朝日も届かぬ細道を、一人の人影がふらつくように歩いている。

 

 白髪。

 細い背中。

 

 まさか、と息が止まった。

 

 廃教会にいると思っていた。こんな場所にいるはずがない。しかも、一人で。

 夜を越えてなお、そんな影の濃い路地を、今にも倒れそうな足取りで歩いているなど。

 

 足が勝手に動く。

 

「…………ベル?」

 

 影が止まる。

 ゆっくりと振り返った顔は、見慣れた少年のものだった。

 

「ヘイレル……?」

 

 掠れた声。

 喉が乾き切っているのが、それだけで分かる。

 

 だが、その姿を見た瞬間、私は言葉を失った。

 

 顔には擦り傷。頬には土汚れ。目の下には濃い隈。唇は乾き、端が切れて薄く血が滲んでいる。

 上半身の私服は裂け、青黒く腫れた肌があちこちから覗いていた。細い肩も、腕も、無理に動かした痕跡だらけだ。

 下半身のズボンは泥で変色し、右膝には鋭い爪で抉られたような裂傷。固まりかけた血が黒ずみ、布地にへばりついている。

 

 ひどい有様だった。

 まともに歩けているのが不思議なほどに。

 いや、歩いているというより、倒れていないだけに近い。

 

「……襲われたのか?」

「いや、そういうことはなくて……」

「だったら何をした」

 

 思った以上に、声が低くなった。

 

 責めたいわけではない。

 だが、こんな姿を見せられて平静でいられるほど、私は出来た人間ではなかった。

 

 ベルは視線を落とし、しばらく黙った。

 朝の薄明の中、その横顔はひどく疲れ切って見えた。今にも泣き出しそうで、それでも歯を食いしばって堪えている顔だった。

 やがて、小さく呟く。

 

「……ダンジョンに、潜ってた」

 

 一瞬、言葉を失う。

 

「まさか、一晩中か」

「……うん」

 

 今のベルには、防具がない。

 武器も腰の短刀一本だけ。

 

 そんな状態で一晩、ダンジョンへ。

 何を考えている。何をすれば、そんな真似に至る。

 

 浅慮。愚行。自暴自棄。

 

 いくらでも断じられる。

 

 だが、目の前の少年の顔を見れば、そんな言葉は喉で止まった。

 

 ベルはベルで、昨夜のままの場所に取り残されていたのだ。

 屈辱と悔恨と焦燥に焼かれたまま、じっとしていられなかった。

 ただ、それだけなのだろう。

 

「……お前らしくない」

「……」

「昨夜のことか?」

「……」

 

 返事はない。

 

 俯いた前髪が瞳を隠し、拒絶だけが静かに滲んでいた。

 今はまだ、触れられたくないのだと分かる。

 

 これ以上踏み込むべきではないと悟った。

 

「……分かった。今は何も聞かない」

「ごめん……」

「謝るな。帰るぞ。傷を癒す」

「……ありがとう」

 

 やっと浮かんだ、小さな笑み。

 弱々しく、今にも消えそうなそれが、胸に刺さる。

 

 私は無言で肩を貸した。

 ベルは最初こそ遠慮するように躊躇ったが、すぐに力が抜けたのか、ぎこちなく身体を預けてくる。

 

 軽い。

 思っていた以上に、ずっと軽かった。

 骨ばった肩。細い身体。昨夜の短い時間で、ベルがどれだけ無茶をしたのか、その軽さだけで分かってしまう気がした。

 それが、妙に痛い。

 

「ご、ごめん」

「謝るな」

「う、うん……ごめん」

「同じことを二度言わせる気か」

「…………うん」

 

 会話が噛み合っていない。

 それでも、そのどうしようもなさが、少しだけ救いだった。

 

 密着したまま、ゆっくりと歩き出す。

 石畳を踏む音が、朝の静寂へ小さく響く。

 遠くで鳥が鳴いた。

 どこかで店を開ける音がする。

 新しい一日が始まろうとしていた。

 

 オラリオは、何もなかったかのように朝を迎える。

 昨夜、誰かが傷つこうが、打ちのめされようが、世界は平然と明るくなる。

 

 その無情さが、少しだけ腹立たしかった。

 

「…………ヘイレル」

「なんだ」

 

 ベルは霞んだ目のまま、それでも前を見ていた。

 足取りは重く、声も擦れている。なのに、その一言だけは妙に真っ直ぐだった。

 

 そして、静かに言う。

 

「……僕、強くなりたい」

「……!」

 

 足が止まりそうになる。

 

 その声音には、憧れがあった。

 悔しさがあった。

 焦りがあった。

 惨めさも、情けなさも、全部あった。

 

 昨夜、何もできなかった自分。

 逃げるしかなかった自分。

 守られるだけだった自分。

 

 その全部を噛み締めた上で、それでもなお前へ進もうとしている声だった。

 

 この少年は折れていない。

 

 打ちのめされても、まだ立とうとしている。

 傷だらけで、みっともなくて、格好悪いままで。

 それでも強さを望むことをやめていない。

 

 その事実が、何より眩しかった。

 

 私は息を吐き、目を伏せる。

 

 簡単な言葉で済ませるべきではないのかもしれない。

 もっと何か言うべきなのかもしれない。

 慰めでも、励ましでも、導きでも。

 

 だが、今のベルに必要なのは、飾った言葉ではない気がした。

 

 真正面から受け止める。

 

「……なら、なれ」

 

 短い言葉だった。

 

 だが、今はそれで十分だった。

 

 東の空から、朝日が昇る。

 

 金色の光が石畳を照らし、都市オラリオの街並みを少しずつ染め上げていく。夜の群青は押し退けられ、建物の輪郭が鮮やかに浮かび上がる。

 

 ベルは何も言わなかった。

 ただ、その横顔だけが、ほんのわずかに強張ったように見えた。泣くのを堪えているのか、それとも別の感情かまでは分からない。

 

 けれど、その目だけは、もう俯いていなかった。

 

 夜は終わった。

 

 だがこの朝は、ただの朝ではない。

 

 一人の少年が、初めて本気で強さを望んだ。

 ただ憧れるだけではなく、ただ追いかけるだけでもなく、自分自身の意思として、それを掴み取りたいと願った。

 

 始まりの朝だった。

 

 

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