(完結)ホラー短編集「頓千記」   作:埴輪庭

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呪いの動画を見てしまった。私は一週間後に死ぬらしい。
でも大丈夫(?)。
地球が三日後に滅びるそうだから、怖くない。


第18話「メテオリック・エクソシズム」

 ◆

 

 突然だが私は呪われている。

 

 一週間後に死ぬのだ。そういう動画を見てしまった。

 

 いわゆる呪いの動画というやつで実際にもう何十人も死んでいる。ネットで霊媒師を探してかたっぱしからあたってみたが呪いが余りに強くてどうしようもないらしい。一応アドバイスらしきものは受けた。霊は負の感情を糧としてさらに呪いを強めるとかそんな感じのクソの役にも立たないアドバイスだったが。

 

 つまり、苦しんで死にたくなければ必要以上に怖がるな、ということである。

 

 身も蓋もない。

 

 そも、私の状況で怖がるなとは無理がないだろうか? 

 

 除霊方法も尋ねたがなにやらごちゃごちゃと宣い要領を得ない。要約すると、一切の負の情念を抱かずにそして相手の幸を想い願うことでワンチャンあるらしい。

 

 馬鹿を云うなという話だ。私は何も悪いことをしていないのに殺そうとしてきて、そんな奴の幸を願えるか? 否である。

 

 だがそれはそれとして、呪いは怖い。いや、怖かった。

 

 過去形なのはもうどうでもいいからだ。

 

 生をあきらめたのかと言われればイエスである。だがそれは、呪いをとくことをあきらめた事のみを意味しない。すべてだ。私はすべてをあきらめた。

 

 理由は隕石である。

 

 隕石が落ちてくるのだ──地球に。

 

 それも三日後に。非常に大きな隕石だそうだ。

 

 すなわち、地球は滅びる。

 

 ◆

 

 ニュースで聞いたとき、私は湯船に浸かっていた。防水のスマートフォンを風呂場に持ち込む習慣があり、動画サイトを眺めていたところ速報が流れてきたのだ。直径約四百キロメートルの小惑星がおよそ七十二時間後に地球へ衝突する見込みであり、回避は不可能、との内容だった。画面の向こうでアナウンサーが原稿を読み上げている。声がわずかに震えていたがそれも当然だろう。私は首まで湯に沈んだまま、その報道を見つめていた。

 

 風呂の湯がぬるくなっていることに気づく。追い焚きのボタンを押すか少し迷っていた所で、そういえば、と思い出す。

 

 私は呪われていたのだった。

 

 一週間後に死ぬ呪い。だが地球が三日後に滅びるのであれば、その呪いは意味を持たない。私が死ぬより先に呪った側も呪われた側も霊媒師もアナウンサーも隣の部屋で暮らしている独居老人もみんな等しく塵になる。

 

 奇妙な解放感が胸の底から湧き上がってきた。呪いが解けたわけではない。それは依然として私にまとわりついている。だがもはやそれを恐れる理由がどこにもない。

 

 浴槽から上がり、体を拭いた。鏡に映った自分の顔を見る。頬が少しこけている。この数日、ろくに食事もとれていなかったのだ。呪いのせいで食欲が失せていた。

 

 冷蔵庫を開けると、賞味期限が二日後のヨーグルトがある。三日後に地球が滅びるのだから賞味期限など些末なことだ。スプーンですくって口に運ぶ。酸味が舌に広がり、それが妙に生々しかった。

 

 私は呪いの動画を見たことを後悔していた。つい三時間前までは。

 

 あの動画は友人から送られてきたものだった。面白い動画がある、と。タイトルには何の変哲もない言葉が並んでいて、再生時間は一分三十二秒。画質の悪い、古いビデオカメラで撮影されたらしい映像が流れ、薄暗い部屋の隅に何かがうずくまっているのが見える。それだけの動画だった。

 

 見終わった直後は何も感じなかった。だが翌日から異変が始まる。視界の端に黒い影がちらつくようになり、夜中に誰かが枕元に立っている気配で目が覚めた。寝汗がひどく、朝起きるとシーツが湿っている。

 

 ネットで調べてみると、同じ動画を見た人々の書き込みが山のように見つかった。症状は私と同じ。そして再生から七日後に全員が死んでいた。心臓発作、脳溢血、転落事故、原因は様々だが時期だけは正確に一致していた。

 

 霊媒師を探し始めたのはその日の夜からだ。金に糸目はつけなかった。貯金はある。使い道がなくなる前に使い切る覚悟だった。だがどの霊媒師も口を揃えて同じことを言う。

 

「これは手に負えない」

 

 強い。とにかく強い。元の念が尋常ではないらしい。その念の出処を探ろうとした霊媒師は途中で鼻血を出して倒れた。医者に運ばれていく彼女の背中を見送りながら、私は自分の死を確信した。

 

 ヨーグルトを食べ終え、空の容器をゴミ箱に投げる。的を外してフローリングの上を転がったが拾う気にならなかった。三日後にはこの部屋もゴミ箱もヨーグルトの容器もすべて消滅する。

 

 テレビをつけると、どのチャンネルも隕石のニュースばかりだった。専門家が衝突のシミュレーション映像を示しながら解説している。衝突エネルギーは広島型原爆の数十億倍に相当し、地表は瞬時に蒸発、その後に巻き上げられた塵が地球全体を覆って生物は死滅する、と。専門家の声は妙に落ち着いていた。もはや慌てても仕方がないことを悟っているのかもしれない。

 

 私もそうだ。

 

 ソファに座り、天井を見上げる。白い壁紙に小さな染みがあることに初めて気づいた。この部屋に越してきて三年になるが天井をじっくり眺めたことなど一度もなかった。

 

 視界の端で黒い影が揺れた。呪いの影だ。相変わらずそこにいる。私を殺すために。

 

「なあ」

 

 声に出してみる。影に向かって。

 

「お前、どう思う」

 

 返事はない。当然だ。この影は言葉を持たない。ただそこにいて、私の恐怖を糧に育ち、七日目に私を殺す。それだけの存在である。

 

「三日後に地球が滅びるんだってさ」

 

 影は微動だにしない。

 

「お前が俺を殺す前に俺もお前も消えるわけだ。どんな気分だ?」

 

 沈黙。影は相変わらず視界の端でたゆたっている。

 

「俺は正直、ほっとしてる」

 

 それは嘘ではなかった。呪いに怯えて眠れない夜を過ごすより、地球ごと消滅する方がましだと、心のどこかで思っていた。少なくとも呪いに殺されるという理不尽からは解放される。

 

 時計を見ると、深夜二時を回っていた。眠気はない。だが横になってみることにする。三日後に死ぬとしても睡眠は必要だ。

 

 布団に潜り込むと、枕元に気配がした。いつもの影だ。私が眠りに落ちるのを待っている。悪夢を見せるために。

 

「おやすみ」

 

 影に向かってそう言い、目を閉じた。

 

 ◆

 

 翌朝、窓の外が騒がしかった。遠くでサイレンが鳴っている。近所で火事でもあったのかと思ったがそうではなかった。テレビをつけると、各地で暴動が起きているとの報道が流れていた。

 

 世界の終わりを前にして、人々は理性を失いつつある。コンビニは軒並み襲撃され、商品が略奪されていた。銀行の前には長蛇の列ができている。三日後には紙幣も預金も意味を持たなくなるというのにそれでも金を引き出そうとする人々がいた。習慣とは恐ろしいものだ。

 

 私はコーヒーを淹れた。豆はまだ残っている。三日で飲み切れる量ではないがそれでも飲みたかった。香りが立ち上り、鼻腔をくすぐる。

 

 冷蔵庫の中を確認する。卵が四個、牛乳が半分、ハムが少し。三日間を過ごすには十分だ。買い出しに行く必要はない。外は危険だろうし、そもそも出かける気力もなかった。

 

 コーヒーを飲みながら、本棚を眺めた。読みかけの小説が三冊ある。どれも面白くて、続きが気になっていた。だが今さら読み終えたところで意味があるのだろうか。

 

「お前、本とか読むのか」

 

 影に話しかける。また返事はない。

 

「俺は好きなんだよな、読書。子供の頃から」

 

 影は微動だにしない。

 

「お前は何が好きだったんだ。生きてた頃」

 

 そう言ってから、ふと考えた。この影の正体を私は知らない。動画の中にうずくまっていた何かが見た者に取り憑いて殺す。それだけの存在として認識していたが元は人間だったのかもしれない。

 

「なあ、お前は誰なんだ」

 

 沈黙。

 

「どうしてそんなことをするんだ」

 

 沈黙。

 

「恨みがあるのか。誰かに。俺にじゃないよな。俺はお前を知らない」

 

 影が揺れた気がした。気のせいかもしれない。

 

「俺を呪ったところでお前には何の得もないだろ」

 

 そう言いながら、自分の言葉が妙に空虚に響くのを感じた。呪いに論理を求めても仕方がない。怨念とはそういうものだ。理屈ではない。ただ溢れ出し、近くにいる者を巻き込む。台風のようなものだ。

 

「まあいいさ。三日後には終わりだ」

 

 コーヒーを飲み干し、カップを流しに置いた。洗わなかった。三日後には流しごと消滅する。

 

 テレビでは引き続き暴動のニュースが流れている。どこかの国では核シェルターに人々が殺到し、入り口で押し合いになって死者が出たらしい。核シェルターに入ったところで直径四百キロの隕石の衝突からは逃れられないのにそれでも人々は生き延びようとしていた。

 

 生存本能というやつだろうか。私にはその感覚がよくわからなかった。呪いに怯えていた数日前の自分が遠い過去のように感じられる。

 

 昼になり、腹が減った。冷蔵庫からハムと卵を取り出し、目玉焼きを作った。半熟に仕上げ、醤油を少しかけて食べる。黄身が崩れて皿に広がる様子を見つめながら、これが最後から二番目の昼食になるのだと思った。

 

 食後、何をするでもなく部屋で過ごした。本は読む気になれない。テレビは不安を煽るニュースばかりで消した。音のない部屋に時計の秒針だけが響いている。

 

 影はまだそこにいた。私が死ぬのを待っている。あと六日。だが地球は三日後に滅びる。

 

「暇だな」

 

 影に話しかけた。

 

「お前も暇だろ。どうせ何もできないんだから」

 

 沈黙。

 

「なあ、お前さ、この状況をどう思ってるわけ」

 

 返事を期待しているわけではなかった。ただ、声を出さないと気が狂いそうだった。独り言を言う相手がいるだけましだと思うことにした。呪いの影でもいないよりはましだ。

 

「俺はさ、正直よくわからないんだよな。怒っていいのか、悲しんでいいのか」

 

 影は揺れもしない。

 

「お前に殺されるはずだったのにその前に地球ごと終わりって、なんか締まらないよな」

 

 窓の外を見ると、空は晴れていた。いつもと変わらない青空。その向こうに直径四百キロの岩の塊が迫っているとは思えない静けさだった。

 

「天気いいな」

 

 影に言う。

 

「最後の三日間が晴れでよかったよ」

 

 そう言いながら、自分がなぜこんなに穏やかでいられるのか不思議に思った。普通なら取り乱すところだろう。泣き叫ぶか、暴れ回るか、少なくとも何かに当たり散らすくらいはしそうなものだ。だが私の心は凪いでいた。

 

 呪いのせいかもしれなかった。この数日間、恐怖のあまり限界まで神経をすり減らしていた。もうこれ以上怖がる余力がなかったのだ。そこに隕石のニュースが飛び込んできて、すべてがどうでもよくなった。

 

「お前のおかげかもな」

 

 影に言う。

 

「お前に怯えすぎて、もう怖いって感覚が麻痺してる」

 

 皮肉な話だ。呪いに怯え続けた結果、世界の終わりを平然と受け入れられるようになった。

 

 夕方になり、また腹が減った。残りの卵で目玉焼きを作り、白米を炊いた。米はまだ五合ほど残っている。三日間で食べ切れる量ではないがそれでも炊いた。炊きたての米の香りを嗅ぎたかった。

 

 食事を終え、風呂に入った。湯船に浸かりながら、天井を眺めた。浴室の天井には染みがなかった。リビングとは違う。

 

「なあ」

 

 影は浴室にもついてきていた。湯気の向こうで揺れている。

 

「お前、風呂って入ったことあるか」

 

 沈黙。

 

「俺は好きなんだよな、風呂。一日の終わりに湯船に浸かるの」

 

 影は揺れるだけだ。

 

「お前も入ればいいのに。幽霊でも入れるんじゃないか。知らんけど」

 

 馬鹿な話をしている自覚はあった。だが他にすることがない。三日後に死ぬのに何をすればいいというのだ。

 

 風呂から上がり、髪を乾かした。ドライヤーの音が響く。明日も明後日もこの音を聞くことになる。そして三日後には聞けなくなる。

 

 寝室に入り、布団に潜り込んだ。影は枕元にいた。いつも通りだ。

 

「おやすみ」

 

 影に言った。

 

 その夜、夢を見た。

 

 夢の中で私は草原に立っていた。見渡す限りの緑。風が吹いて、草が波打っている。空には雲一つなく、太陽が眩しかった。

 

 誰かがそばにいる気配がした。振り向くと、影がいた。いつもの黒い影。だが夢の中では少し違って見えた。輪郭がはっきりしていた。

 

 影が何かを言おうとしているように感じた。口を開いているような、声を出そうとしているような。だが音は聞こえない。

 

「何だ」

 

 私は聞いた。

 

「何が言いたいんだ」

 

 影は答えない。答えられないのだ。言葉を持たないから。

 

「わからないよ。言葉で言ってくれないと」

 

 影が揺れた。悲しそうに見えた。気のせいかもしれない。

 

 目が覚めると、朝になっていた。残り二日だ。

 

 ◆

 

 朝食を取りながら、昨夜の夢のことを考えた。影が何かを伝えようとしていた。あれは何だったのだろう。呪いの一環だろうか。それとも別の何かだろうか。

 

「お前、昨日の夢に出てきたな」

 

 リビングにいる影に話しかけた。

 

「何か言いたかったのか」

 

 沈黙。

 

「俺には言葉がわからないんだよ。お前が何を考えてるか」

 

 影は揺れるだけだった。

 

 テレビをつけると、状況はさらに悪化していた。各地で略奪と暴動が続き、警察は機能を失いつつある。政府高官の多くは姿を消し、残された人々は混乱の中にいた。

 

 だが不思議なことに一部の地域では静けさが保たれているという。人々が家に籠もり、家族と最後の時間を過ごしている。暴れることを選ばなかった人々。

 

「俺みたいなやつもいるんだな」

 

 影に言った。

 

「静かに終わりを待つやつ」

 

 昼過ぎ、ふと思い立って部屋を掃除した。三日後には消滅する部屋を掃除することに意味があるとは思えなかったがそれでも箒を握った。埃を払い、床を拭き、窓を開けて空気を入れ替える。

 

「お前、邪魔」

 

 影がソファの近くにいたのでそう言った。影は動かなかったが気にせず掃除を続けた。

 

 掃除を終えると、部屋が少しきれいになっていた。当然のことだが新鮮に感じた。

 

「やっぱり掃除は大事だな」

 

 誰に言うでもなく呟いた。

 

 夕方、窓から空を見上げた。まだ隕石は見えない。明日には見えるようになるらしい。肉眼でも確認できるほど近づいてくると。

 

「明日、一緒に見るか」

 

 影に言った。

 

「最後の天体ショーだ」

 

 影は答えない。だがそこにいた。ずっとそこにいた。

 

 夜、風呂に入りながら考えた。この二日間、私は影と会話らしきものを続けていた。一方通行の、返事のない会話だ。だがそれでも何かが変わりつつあるような気がした。

 

 影への恐怖が薄れていた。いや、最初から薄れていたのだ。隕石のニュースを聞いた瞬間から。だが今はそれ以上の何かがあった。

 

「なあ」

 

 湯船に浸かりながら、影に話しかけた。

 

「お前、寂しくないか」

 

 沈黙。

 

「ずっと一人で誰とも話せないで人を呪い続けて。寂しくないか」

 

 影が揺れた。今日は揺れることが多い気がした。

 

「俺は寂しいよ。家族もいない、友人もろくにいない。こうして死ぬ間際になって、話し相手がお前しかいないんだから」

 

 そう言いながら、ふと気づいた。霊媒師が言っていた言葉を思い出したのだ。

 

 相手の幸を想い願うことで呪いが解ける可能性がある。

 

「お前も寂しいんじゃないか」

 

 影に向かって言った。

 

「俺を呪ってるのは寂しいからじゃないか」

 

 影が揺れた。大きく。

 

「違うか。わからないな。お前が何を考えてるか、俺にはわからない」

 

 風呂から上がり、体を拭いた。鏡を見ると、自分の顔が少しだけ穏やかになっているように見えた。気のせいかもしれない。

 

「まあ、いいさ」

 

 影に言った。

 

「お前が寂しいなら、残りの二日間、俺が話し相手になってやるよ。どうせ暇だし」

 

 寝室に入り、布団に潜り込んだ。影は枕元にいた。

 

「おやすみ」

 

 そう言って目を閉じた。

 

 ◆

 

 翌朝、残り一日だった。

 

 窓を開けると、空に小さな光点が見えた。隕石だ。まだ遠いが確かにそこにある。明日には地球に衝突する。

 

「見えるな」

 

 影に言った。

 

「あれが俺たちを殺すやつだ」

 

 影は黙ってそこにいた。

 

 朝食を取りながら、不思議な気持ちになっていた。恐怖がないのだ。世界が終わるという事実を前にして、私の心は静かだった。

 

「なあ、お前のおかげかもしれない」

 

 影に言った。

 

「お前に怯え続けて、俺は恐怖に慣れたんだ。今さら隕石が来ようが怖くない」

 

 影が揺れた。

 

「ありがとうとは言わないぞ。お前は俺を殺そうとしたんだから」

 

 だが声には怒りがなかった。もはや怒る気にもなれなかった。

 

 昼過ぎ、ベランダに出て空を見上げた。隕石が少しずつ大きくなっている。光点だったものが今は豆粒ほどに見えた。

 

「でかいな」

 

 影に言った。

 

「あれが落ちてきたら、ひとたまりもないな」

 

 風が吹いた。生暖かい風だった。季節外れの風だ。隕石の影響で気候が変わり始めているのかもしれない。

 

「なあ」

 

 影に話しかけた。

 

「お前、幸せになりたいか」

 

 沈黙。

 

「俺はまあ、そこそこ幸せだったと思う。不満もあったけど、悪くない人生だった」

 

 影が揺れた。

 

「お前はどうなんだ。生きてた頃、幸せだったか」

 

 返事はない。だが影の揺れ方が変わった気がした。悲しそうな揺れ方。

 

「幸せじゃなかったのか」

 

 影が大きく揺れた。

 

「そうか」

 

 私は空を見上げたまま言った。

 

「それは辛かったな」

 

 不思議な感覚だった。呪いの影に同情している自分がいた。馬鹿げている。こいつは私を殺そうとしていたのだ。それなのに今は可哀想だとさえ思っていた。

 

「なあ」

 

 影に言った。

 

「次──なんてものがあるかわからないけど、もしお前がいつか次の人生を歩めるなら、俺はお前に幸せになってほしいっておもうよ」

 

 その瞬間、何かが変わった。

 

 影が震えた。今までにない震え方だった。そして輪郭がぼやけ始めた。

 

「おい、どうした」

 

 影がさらに薄くなっていく。視界の端でたゆたっていた黒い塊が少しずつ消えていく。

 

「待てよ。お前、消えるのか」

 

 影は答えない。ただ、薄くなり続ける。そして最後に一度だけ大きく揺れて、消えた。

 

 私は呆然とベランダに立ち尽くした。影がいない。この数日間、ずっとそばにいた影が消えた。

 

「嘘だろ」

 

 声に出して言った。

 

「成仏しちまったってのか?」

 

 誰も答えない。当然だ。影は消えたのだから。

 

 しばらく立ち尽くしていた。風が吹いて、髪が揺れた。空には隕石が浮かんでいる。明日にはあれが落ちてくる。

 

 部屋に戻り、ソファに座った。影がいない。本当にいない。視界の端を探しても黒い塊はどこにもなかった。

 

「幸せを願っただけで消えるのか」

 

 独り言を言った。

 

「あの霊媒師、本当のこと言ってたんだな」

 

 馬鹿げた話だ。相手の幸せを願えば呪いが解ける。そんな単純なことであの強力な呪いが消えるなんて。

 

 だが考えてみれば当然かもしれなかった。呪いは負の感情を糧にする。怒り、恐怖、憎しみ。そういったものを吸い取って強くなる。逆に正の感情を向けられたら、存在できなくなるのだろう。

 

「よかったな」

 

 そう呟く。

 

 ◆

 

 夕方になった。空の隕石がさらに大きくなっている。もう拳ほどの大きさに見えた。明日の朝には空の半分を覆うほどになるだろう。知らんけど。

 

 最後の夕食を作った。

 

 残りの米を全部炊いて、冷蔵庫の中身を全部使った。豪華とは言えないがそれでも満足のいく食事だった。

 

 食べ終えて、テレビをつけた。ニュースは相変わらず隕石のことばかりだ。だが暴動の報道は減っていた。人々は諦めたのか、あるいは受け入れたのか、静かになりつつあるらしい。

 

 風呂に入った。最後の風呂だ。湯船に浸かりながら、天井を見上げた。

 

「一人だな」

 

 そう呟いた。影がいなくなって、本当に一人になった。

 

 寂しいような、清々しいような、不思議な気持ちだった。

 

「まあ、明日には終わりだ」

 

 風呂から上がり、布団に入った。枕元に影はいない。静かな夜だった。

 

「おやすみ」

 

 誰にでもなく言って、目を閉じた。

 

 ◆

 

 朝が来た。

 

 最後の朝だ。

 

 窓を開けると、空の半分が隕石で覆われていた。巨大な岩の塊がゆっくりと迫ってくる。太陽の光を遮って空が薄暗い。

 

「でかいな」

 

 独り言を言った。

 

 テレビをつけると、アナウンサーが淡々と最後の報道をしていた。衝突まであと六時間。世界各地で人々が祈りを捧げている映像が流れた。

 

 私はコーヒーを淹れた。最後のコーヒーだ。香りを嗅ぎながら、ゆっくりと飲んだ。

 

 ベランダに出て、空を見上げた。隕石が近づいてくる。もう表面の模様まで見えるほどだった。灰色の、でこぼこした岩肌。あれがあと数時間で地球に激突する。

 

「きれいだな」

 

 そう思った。不思議と、恐怖はなかった。ただ、巨大な天体が迫ってくる様子を静かに眺めていた。

 

「お前も見てるか」

 

 誰にでもなく言った。

 

「幸せになれるといいな」

 

 風が吹いた。熱い風だ。隕石の熱が届き始めているのかもしれない。

 

 コーヒーを飲み干し、カップを置いた。

 

 空が赤く染まり始めていた。

 

(了)

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