夕暮れのトレセン学園は、どこか現実感を失ったような静けさに包まれていた。
風が芝を撫でる音だけが、やけに鮮明に耳に残る。
トウカイテイオーは、その風の中に立っていた。
走り終えた直後でもない。これから走るわけでもない。ただ、立ち尽くしているだけだった。
視線はトラックの白線を追っているが、意識はそこにはない。
――ズレている。
ここ最近、ずっと感じている違和感だった。
脚は動く。体も軽い。なのに、勝てない。
ほんのわずかなタイミングの差。踏み込みの角度。ゴール前の一瞬。
その「ほんの少し」が、届かない。
「……なんでだろ」
口に出した瞬間、その言葉の軽さに自分で驚く。
本当は、もっと重いはずだった。
悔しさも、不安も、焦りも。
全部、言葉にした途端に薄まってしまう。
だから、余計に――空虚だった。
「悩んでいらっしゃるようですわね」
背後からの声に、テイオーは肩を揺らした。
振り向くと、そこにはメジロマックイーンがいた。
いつも通りの姿勢。背筋は真っ直ぐで、視線は穏やかだが鋭い。
「マックイーン……」
「最近のレース、拝見しておりますわ」
その言い方に、責める色はない。ただ事実を述べているだけだ。
それが逆に、逃げ場をなくす。
「……ダメだね、ボク」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「結果が出ないことと、価値がないことは別ですわ」
間髪入れずに返ってくる言葉。
断定。
揺らぎがない。
「でも――」
続けようとした言葉を、マックイーンは静かに遮った。
「黄金のにんじん、という話をご存じで?」
唐突だった。
あまりにも脈絡がない。
「……なにそれ?」
「食せば、どんな願いでも叶うとされるものですわ」
冗談のような話だ。
だが、マックイーンは真剣だった。
「サイゲタワー。その最上階にあるとされています」
テイオーはしばらく黙った。
荒唐無稽だ。普通なら笑い飛ばす。
だが――
「……もし、本当だったら」
言葉が、自然とこぼれた。
マックイーンは何も言わない。ただ、静かに待っている。
「ボク、もう一回……ちゃんと走れるかな」
願いの形が、初めて言葉になる。
その瞬間、胸の奥に沈んでいたものが、少しだけ輪郭を持った。
「行きますの?」
問いは短い。
だが、その意味は重い。
テイオーは一歩、踏み出した。
迷いはなかった。
「行くよ」
その一言に、これまでの迷いがすべて込められていた。
「では、私も同行いたしますわ」
「え?」
「お一人では、無茶をなさるでしょうから」
その言い方に、わずかな優しさが滲む。
テイオーは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「ありがと、マックイーン」
その笑顔は、先ほどまでのものよりもずっと自然だった。
――こうして、二人の塔攻略が始まった。
サイゲタワーの内部は、異様なほど静かだった。
外界の音が完全に遮断されている。
足音だけが、やけに大きく響く。
テイオーは軽く足踏みをする。
床の反発を確かめる。
――走れる。
その確認が、彼女にとっては何より重要だった。
階段を上がる。
一段ごとに、空気が重くなる。
そして――
フロアに足を踏み入れた瞬間、違和感が確信に変わった。
気配がある。
だが、位置が掴めない。
「フォッ……フォッ……」
音が遅れて届く。
視線を向けると、そこにいた。
バルタン星人。
その存在は、明確に「異物」だった。
この世界のものではない。
だが確かに、ここにいる。
「排除……対象……」
声は断続的で、感情が読み取れない。
次の瞬間、視界が歪んだ。
増殖。
認識が追いつかない速度で、同一の存在が複数に分かれる。
「え……っ!?」
距離感が崩れる。
奥行きが狂う。
どれが本体か、判断できない。
「来ますわ!」
マックイーンの声。
直後、光が走る。
反射的に、テイオーの体が沈む。
光線が髪をかすめる。
焦げる匂い。
遅れてくる熱。
――直撃すれば終わる。
理解は一瞬。
行動はその前。
地面を蹴る。
加速。
直線ではない。
ジグザグに、しかし無駄なく。
視覚ではなく、気配で捉える。
分身の中へ、自ら飛び込む。
「ボクは……速さなら!」
一体を蹴る。
軽い。
偽物。
次。
踏み込み。
今度は重い。
確かな手応え。
「これだ!」
連撃。
硬質な外殻に衝撃が返る。
脚が痺れる。
だが止めない。
体をひねり、さらに叩き込む。
バルタン星人の動きがわずかに遅れる。
その「わずか」が決定的だった。
「押し切って!」
マックイーンの声。
迷いはない。
全力で踏み込む。
重心を乗せる。
最後の一撃。
鈍い音。
分身が消える。
本体が崩れ、光となる。
静寂が戻る。
テイオーはゆっくりと息を吐いた。
心臓の鼓動が、まだ速い。
だが――
「いける」
確かな手応えがあった。
第一フロアを抜けたあとも、二人は言葉少なに階段を上がっていた。
戦闘の余韻が、まだ身体に残っている。
特にテイオーは、脚の内側にじんわりとした疲労を感じていた。
――でも、止まれるほど軽くはない。
むしろ、それが「まだ戦える」という証明のようにも思えた。
第二フロアの扉を開いた瞬間、空気が変わった。
これまでとは明らかに違う。
異質ではあるが、どこか「現実的」な空間。
床にはカーペット。壁には家具。妙に生活感がある。
「……なにこれ」
テイオーの呟きは、違和感そのものだった。
塔の内部とは思えない。
その中央に――野獣先輩がいた。
ソファに腰掛け、無造作にこちらを見ている。
視線が合った瞬間、彼はゆっくりと立ち上がった。
その動作は、妙に重かった。
無駄がないわけではない。だが、隙もない。
「来たみたいだね」
声は平坦だった。
だが、その奥に妙な圧がある。
「……あなたが番人ですの?」
マックイーンが問いかける。
野獣先輩は肩をすくめた。
「まぁ、そんなところ」
一歩、踏み出す。
床がわずかに軋む。
その音が、やけに大きく響いた。
「いいよ来いよ」
構え。
拳がわずかに持ち上がる。
それだけ。
それだけなのに、空気が張り詰める。
「テイオー、来ますわ!」
次の瞬間、野獣先輩の姿が消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
実際には――踏み込んでいた。
距離が一瞬で潰れる。
「速っ……!」
テイオーは咄嗟に腕を上げる。
衝撃。
骨に直接響く重さ。
体が後方へ押し出される。
床を滑る。
「くっ……!」
ただ速いだけではない。
重い。
そして、迷いがない。
すべての動きが「当てる」ために最適化されている。
「まだまだこれからだろ?」
追撃。
今度は下から。
テイオーは跳ぶ。
ギリギリで回避。
だが、その瞬間にはもう次の攻撃が来ている。
「間に合わ……!」
横からの一撃。
衝撃が脇腹を打つ。
呼吸が一瞬止まる。
視界が揺れる。
――強い。
シンプルに、圧倒的に。
「マックイーン!」
「ええ!」
左右から挟む。
連携。
だが――
「甘いんだよなぁ」
野獣先輩はそれを「見ていた」。
最小限の動きで、両方の攻撃を外す。
そして、カウンター。
テイオーの肩を掴む。
「っ!」
引き寄せられる。
距離がゼロになる。
次の瞬間――
膝。
腹部に直撃。
空気が完全に抜ける。
「が……っ!」
体が折れる。
そのまま叩きつけられる。
床に背中がぶつかる。
鈍い痛みが全身に広がる。
「テイオー!」
マックイーンの声。
だが、その声もどこか遠い。
――立て。
頭の中で、声がする。
負けるな。
こんなところで。
テイオーは歯を食いしばる。
無理やり呼吸を取り戻す。
肺が痛い。
だが、関係ない。
脚に力を込める。
立ち上がる。
「……まだだよ」
その声は、さっきより低かった。
野獣先輩の目が、わずかに細くなる。
「いいねぇ」
評価。
ほんの少しだけ。
だが、それで十分だった。
テイオーは構え直す。
視線を一点に固定する。
相手の肩。
そこから動きを読む。
次の踏み込み。
予測。
合わせる。
今度は――
受けない。
避ける。
そして、差し込む。
野獣先輩の拳が空を切る。
その瞬間、テイオーは踏み込んでいた。
「はぁっ!」
渾身の一撃。
初めて、相手の体勢が崩れる。
「今ですわ!」
マックイーンの蹴りが入る。
連携。
完全に噛み合う。
野獣先輩の重心が浮く。
「これで……!」
最後の踏み込み。
全力。
すべてを乗せた一撃。
直撃。
野獣先輩は後方へ倒れた。
数秒の沈黙。
そして――
「やるじゃん」
満足げな声。
そのまま、姿が消える。
フロアに、静けさが戻った。
テイオーはその場に膝をつく。
呼吸が荒い。
だが、笑っていた。
「……勝った」
その実感が、じわじわと広がる。
ここから先は、明らかに格が違った。
扉を開けた瞬間、空気が変質する。
圧。
それだけで、足が止まりかける。
中央に立つ男。
黄金の装飾。
悠然とした佇まい。
視線を向けられただけで、呼吸が浅くなる。
「雑種どもが」
声は静かだが、圧がある。
否定ではない。
断定。
存在の格付け。
それを一方的に突きつけてくる。
テイオーは一歩踏み出した。
膝がわずかに震える。
だが、止まらない。
「通してもらうよ」
その言葉に、男はわずかに笑った。
「面白い」
その一言で、世界が変わった。
空間が裂ける。
無数の武具。
それぞれが「意思」を持っているかのように浮かぶ。
理解が追いつく前に――
放たれた。
速い。
認識が追いつかない。
テイオーは反射で動く。
回避。
紙一重。
頬に風圧。
遅れて、血が滲む。
「……っ!」
止まれば死ぬ。
だから走る。
加速。
だが、数が多すぎる。
逃げ場がない。
なら――
突っ込む。
武具の間隙。
わずかな隙間。
そこを抜ける。
呼吸を合わせる。
リズムを読む。
「テイオー、こちらです!」
マックイーンの誘導。
最短ルート。
それに乗る。
足が自然と動く。
二人の動きが重なる。
まるでレースのように。
「ほう」
男の目が細くなる。
興味。
それでも攻撃は止まらない。
むしろ、密度が上がる。
「くっ……!」
肩にかすり傷。
痛み。
だが無視。
踏み込む。
あと少し。
距離を詰める。
だが――
届かない。
その一歩が遠い。
――また、同じか。
届かない。
その感覚が、胸に刺さる。
だが。
違う。
今回は――
「ボクは!」
止まらない。
迷わない。
恐怖を踏み越える。
さらに一歩。
限界を押し広げる。
「ここで止まらない!」
その瞬間。
武具の軌道が、わずかにズレた。
偶然か、意図か。
どちらでもいい。
そこに、道ができた。
「今ですわ!」
マックイーンの声。
テイオーは迷わない。
全力で踏み込む。
距離をゼロにする。
拳を振り抜く。
衝撃。
確かな手応え。
男の体が、わずかに後ろへ動いた。
ほんの数センチ。
それだけで十分だった。
「……よい」
その一言で、すべてが止まる。
武具が消える。
空間が静まる。
「進むがよい」
男は笑い、消えた。
テイオーはその場に立ち尽くす。
心臓の音がうるさい。
だが――
確かに、届いた。
霧。
赤い。
視界が曖昧になる。
距離感が狂う。
「ようこそ」
声は軽い。
だが、その奥に底知れない何かがある。
小さな少女………レミリア・スカーレット。
だが、ただの少女ではない。
存在そのものが、異質。
「遊びましょう?」
その瞬間、空間が変わる。
光。
無数の弾。
規則的で、しかし複雑。
「なにこれ……!」
弾幕。
視界を埋め尽くす。
逃げ場がない。
だが――
動くしかない。
テイオーは走る。
隙間を探す。
リズムを読む。
規則性。
パターン。
それを掴む。
「音……!」
無意識に、テンポを感じ取る。
弾の間隔。
速度。
すべてが「流れ」を持っている。
それに合わせる。
踏み込み。
回避。
すれ違い。
ギリギリ。
「見えてきた……!」
マックイーンも同様に動く。
無駄がない。
美しい軌道。
互いに干渉しない。
完璧な距離。
「やるじゃない」
レミリアが笑う。
弾幕が変わる。
密度が上がる。
難易度が跳ね上がる。
「くっ……!」
足が止まりかける。
だが――
「テイオー!」
声。
それだけで、戻る。
集中。
再びリズムへ。
最後の弾幕。
巨大。
覆い尽くす。
「これで終わりよ」
だが。
二人は止まらない。
同時に踏み込む。
完璧なタイミング。
弾幕の隙間を縫う。
突破。
距離を詰める。
「……負けね」
レミリアは笑い、消えた。
そこは、開けた空間だった。
そして――
咆哮。
空気が震える。
巨大な影が舞い降りる。
リオレウス。
圧倒的な存在感。
炎が口元から漏れる。
「最後だね」
テイオーは前を見る。
恐怖はある。
だが、それ以上に――
高揚。
ここまで来た。
それだけで、胸が熱くなる。
炎が放たれる。
横へ跳ぶ。
熱風が背を焼く。
だが止まらない。
走る。
巨体の足元へ。
だが、翼。
跳躍。
空へ。
「上……!」
空中からの火球。
回避。
着地。
即座に再加速。
呼吸が荒い。
脚が重い。
だが――
「まだいける!」
マックイーンの援護。
隙を作る。
その一瞬。
テイオーが踏み込む。
跳躍。
限界を超える高さ。
空中で体をひねる。
狙いは一点。
頭部。
「これで――!」
全力の一撃。
衝撃。
リオレウスが崩れる。
地に落ちる。
動かない。
静寂。
そして――
そこにあった。
黄金のにんじん。
テイオーはそれを手に取る。
軽い。
だが、重い。
願いの重さ。
しばらく見つめる。
そして――
「……いいや」
そっと置く。
振り返る。
「行こ、マックイーン」
その顔に迷いはなかった。
トレセン学園。
風が吹く。
テイオーは走る。
以前よりも強く。
確信を持って。
もう迷わない。
自分の脚で、進む。
それでいいと、知ったから。