(完結)恋愛系短編集「懇々千記」   作:埴輪庭

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「品」──それが僕と亜里沙の決定的な違いだった。亜里沙は二年付き合った恋人だ。でも彼女は何をやるにも雑だった。料理も、紅茶の淹れ方も、そして僕らが共有する「ある趣味」においても。過程を楽しむことを知らず、すぐに結果だけを求める。僕は彼女との日々に疲れていた。だがそんなある日、見知らぬ男から届いたとあるメッセージ。そこには、彼女のあられもない姿が映っていた。そう、NTRという奴である。怒るべき場面で僕が感じたのは、ただ一つの確信だった──やはり、彼女とは性格が合わない。


第22話「性格の不一致」

 ◆

 

 亜里沙とはもう二年になる。悪い人ではない。顔立ちも整っているし、頭の回転も悪くはなく、何より一緒にいて退屈しないという点においてはこれまで付き合ってきた誰よりも相性が良かったと言える。けれども──どうにも合わないところがあった。

 

 何をやるにも雑なのである、あの人は。

 

 僕がそのことに気づいたのは付き合い始めて三ヶ月ほど経った頃だったろうか。最初のうちは気にならなかったし、むしろ彼女の手際の良さ、物事をてきぱきと片付けていく姿にある種の清々しさすら感じていた。しかし時間が経つにつれ、その手際の良さの裏側にあるものが次第に僕の神経を逆撫でするようになっていく。

 

 過程を楽しむということを知らないのだ、彼女は。

 

 何事においても結果だけを求め、そこに至るまでの道筋、時間の流れ、空気の変化、そういったものに一切の関心を払わない。

 

 たとえば料理にしてもそうで彼女の作る食事は確かに美味いけど、美味いだけなのである。栄養のバランスは考えられているし、見た目にも気を遣っているようではあるが、そこに味わいというものがない。丁寧さに欠ける。食材を切る音、鍋の中で具が煮える音、湯気の立ち上る様子、そういったものを愉しむ余裕が彼女にはまるでなかった。

 

 仕事は早い。確かに早い。けれどもそれだけなのだ。

 

 僕は別に完璧を求めているわけではない。人間誰しも欠点はあるし、合わないところの一つや二つ、目を瞑れば済む話ではある。ただ──品ってものがあるだろう、と思うのである。そう、品がね。

 

 品というものは説明しようとすると難しい。

 

 辞書を引けば「人柄や態度などに現れる上品さ」とでも書いてあるのだろうが、僕の言う品とはそういうものではない。もっと根源的な、物事に対する姿勢のようなもの、一つ一つの所作に込められた意識の在り方とでも言えばいいか。急がないこと。慌てないこと。一瞬一瞬を疎かにしないこと。そういった態度の総体を、僕は品と呼んでいる。

 

 ◆

 

 喫茶店でコーヒーを飲んでいる時のことだった。

 

 隣の席で中年の男が電話をしており、その声が次第に大きくなっていくのを僕は苦々しい思いで聞いていた。怒鳴るのは品がない。声が枯れるし、周囲の客に迷惑をかけるし、何より自分の感情をコントロールできていないことを衆目に晒している。恥ずかしいことだと僕には思える。怒りというものは静かにじっくりと、時間をかけて醸成されるべきものであり、それを一気に放出してしまうのはあまりに勿体ない。

 

 学生時代のことをふと思い出す。放課後の教室でクラスメイトが誰かを殴っているのを目撃したことがあった。理由は知らない。知る必要もなかった。ただ僕が思ったのは殴るのも品がない、ということだけである。拳が痛むし、血が飛ぶし、何より──すぐに終わってしまう。感情の発露としてはあまりに短絡的でもっとこう、じっくりと……いや、何の話だったか。

 

 とにかく、僕は亜里沙との関係に行き詰まりを感じていた。別れ話を切り出すこと自体は簡単だろう。言葉にすればいいだけの話ではある。しかし怒鳴り合ったり、物を投げたり、泣いたり泣かせたりするのは──品がない。別れるにしてももっとスマートに美しく終わらせたいと僕は思っていた。そういう意味では向こうから別れを切り出してくれるなら、それはそれで都合が良いとさえ考えていたのだ。

 

 その日、僕のスマートフォンに見知らぬ相手からメッセージが届いたのは午後三時を少し過ぎた頃のことだった。

 

 名前はKOJIとある。コジ……コウジ、だろうか?

 

 画像が添付されている。

 

 開いてみると、それは亜里沙と見知らぬ男の、行為の後と思しき写真だった。二人とも裸でベッドの上に横たわっている。男の顔には下卑た笑みが浮かんでおり、亜里沙はといえば、カメラに向かって微かに微笑んでいるようにも見えた。

 

 続けてメッセージ。

 

「お前の女、いただいたわw」

 

「てか関係冷めてんだろ? 亜里沙から聞いたぜ」

 

「ま、悔しかったら何か言ってこいよwww」

 

 僕はしばらくその画面を眺めていた。

 

 驚いたかと問われれば、驚かなかったと答えるしかない。何も感じなかったのである。亜里沙に対する執着など、とうの昔に消え失せていた。むしろこれで別れる口実ができたとさえ思った。彼女のほうから離れていってくれるなら、僕としては手間が省けるというものだ。

 

 ただ──。

 

 僕は少し考えて、返信することにした。

 

 普通なら無視するところだろう。こういう手合いに反応するのは相手を喜ばせるだけだということは分かっている。けれどもまったく反応しないというのもそれはそれで品がない気がした。怒るべきところで怒らないというのはなんというか、恋人として──いや、少なくともこれまで恋人だった男として筋が通らない。言語化するのは難しいが、とにかくそういう感覚があった。だからとりあえず怒ったふりをすることにしたのだ。礼儀というやつである。コウジという男に対してではなく、亜里沙に対しての。

 

「ずいぶんなことをしてくれたね」

 

 送信する。

 

 返事はすぐに来た。

 

「おお、反応あったw 怒ってる?www」

 

「怒っているよ。一応ね」

 

「一応ってなんだよw 彼女寝取られたんだぜ?」

 

「そうだね。で君はこれからどうするつもり?」

 

「は? どうするって、亜里沙とはこれからも会うけど? お前はもう用済みってことw」

 

「そう。それで満足?」

 

「強がってンの?w もっと怒れよ。つまんねーな」

 

「怒鳴ったり喚いたりするのは品がないからね」

 

「品ってなんだよwww」

 

「君には分からないだろうね」

 

 このコウジという男。軽薄で浅はかで何も考えていない。亜里沙と似た匂いがする。すぐに結果を求める。過程を楽しまない。刹那的で味わいがない。ああ、そうか。だから亜里沙と気が合ったのだな、と僕は納得した。類は友を呼ぶというか、同じ穴の狢というか。

 

「つーか、お前と亜里沙ってどうせ終わってたんだろ? 亜里沙言ってたぜ、「あの人とはもう無理」って」

 

「そうだろうね。僕もそう思っていた」

 

「じゃあいいじゃん。何が不満なんだよ」

 

「不満というか……そうだな。あえて言うなら、やり方かな」

 

「やり方?」

 

「こういうことをするなら、もう少し丁寧にやってほしかった。段取りというか、手順というか。いきなり画像を送りつけるなんて、品がない」

 

「だから品ってなんだよ……お前マジで変だな」

 

 コウジは僕との会話に疲れ始めているようだった。期待していた反応──怒り、悔しさ、懇願──が何も返ってこない。代わりに返ってくるのは妙に冷静な言葉と、品へのこだわりばかり。彼としては面白くないだろう。

 

 しかし僕としても彼の相手をするのは退屈だった。会話のキャッチボールというものが成立しないのである。こちらが投げた言葉の意味を彼は半分も理解していない。品という概念が彼の頭の中には存在しないのだ。

 

 考えてみれば当然のことである。品とは時間の積み重ねの中でしか生まれないものだ。インスタントな快楽を追い求める人間に品など宿るはずがない。コウジという男は典型的な「今すぐ欲しい」タイプの人間なのだろう。欲望が生じればすぐに満たそうとする。

 

 我慢ができない。待てない──亜里沙も同じだった。

 

 彼女との付き合いの中で、僕が最も苛立ったのは実はそこなのである。彼女は待つということを知らない。すべてにおいて即物的なのだ。

 

 たとえば、紅茶の淹れ方ひとつとってもそうだった。彼女はティーバッグをカップに入れ、熱湯を注ぎ、三十秒も経たないうちにバッグを引き上げる。色が出れば良いと思っている。

 

 違うのだ。

 

 紅茶というものは、蒸らしの時間にこそ本質がある。三分間、じっと待つ。その間、茶葉は湯の中でゆっくりと開き、香りを放ち、成分を溶け出させていく。その変化の過程を想像しながら待つこと。それが紅茶を淹れるという行為の醍醐味ではないか。

 

「三十秒でも三分でも、結局は紅茶でしょ?」と彼女は言った。

 

 違う。断じて違う。それは紅茶の形をした別の何かだ。過程を経ていない結果に価値などない。僕は何度もそう説明しようとしたが彼女には伝わらなかった。伝わるはずがなかった。彼女の中には「待つ」という概念のための器がそもそも存在しないのだから。

 

 コウジと亜里沙。実にお似合いのカップルではないか。

 

「もういいわ。お前の相手すんのダルい。亜里沙のことは俺がもらうから。じゃあな」

 

「ああ、どうぞ。好きにしてくれ」

 

「……本当に怒ってねーの?」

 

「怒っているよ。ただ、君に対してじゃない」

 

「は?」

 

「亜里沙に対して、少しだけ。でもそれももう、どうでもいいかな」

 

 僕は窓の外を見た。夕暮れの空が淡い茜色に染まり始めている。美しい時間帯だった。こういう時間をゆっくりと味わうことのできない人間は何のために生きているのだろうと、ふと思う。

 

「最後に一つ聞いていい?」

 

「なんだよ」

 

「亜里沙の仕事は知ってる?」

 

「は? OLだろ?」

 

「それだけ?」

 

「……お前、何が言いてえの?」

 

「いや、なんでもない。じゃあ、元気で」

 

 僕はスマートフォンを置いた。

 

 OLか。それだけか。適当な設定だな、と思った。まあ、亜里沙のことだからそのあたりの詳細を彼に話すはずもないだろう。彼女は昔から、そういうところが杜撰だった。相手に応じて話す内容を変えるのはいいが設定くらいはきちんと詰めておくべきではないか。やはり亜里沙と別れて正解だったと、僕は改めて確信した。雑すぎるのだ、何もかもが。

 

 僕と亜里沙が出会ったのは今から三年ほど前のことになる。ある仕事の現場でのことだった。詳しいことは言えないが僕らは同じような仕事をしていたのである。趣味が同じ、と言ってもいいかもしれない。

 

 最初に彼女を見たとき、僕は直感的に「この女とは気が合うかもしれない」と思った。物静かで感情を表に出さず、それでいてどこか虚ろな目をしている。僕と同じ匂いがしたのだ。

 

 付き合い始めてからしばらくはうまくいっていた。少なくとも僕はそう思っていた。二人で過ごす時間は穏やかでお互いの領域を侵さない、適度な距離感のある関係だった。

 

 けれども次第に僕は気づき始めた。彼女のやり方が僕とは根本的に異なるということに。

 

 彼女は効率を重視する。無駄を嫌い、最短距離で目的を達成しようとする。それ自体は悪いことではない。むしろ、ある種の合理性として評価することもできるだろう。しかし僕にはそれが耐えられなかった。

 

 過程にこそ意味があると僕は思うのである。結果は結果でしかない。そこに至るまでの道筋、時間の流れ、変化の様子、そういったものを味わうことこそが物事の本質ではないか。彼女にはそれがない。ただ結果だけを求め、そこに至るまでの時間を無駄としか考えていない。

 

 僕らは何度かそのことについて話し合った。いや、話し合いというほどのものではなかったかもしれない。僕が自分の考えを述べ、彼女が黙って聞いている。そして最後に彼女はこう言うのだ。

 

「あなたの言うことも分かるけど、私には私のやり方があるの」

 

 それだけだった。彼女は僕の言葉を理解しているようでいて、実は何も理解していなかった。あるいは理解した上でそれを受け入れる気がなかったのかもしれない。いずれにせよ、僕らの間には埋めがたい溝があった。

 

 品というものが彼女には欠けていた。

 

 コウジとのやり取りを終えた後、僕は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外はすっかり暗くなっており、街灯の光がぽつぽつと点在している。静かな夜だった。

 

 中々気が合う人というのはいないものだな、と僕は思う。

 

 亜里沙とは二年も付き合ったが結局のところ、僕らは分かり合えなかった。彼女のやり方は僕には合わない。それだけのことである。感情的になる必要はない。ただ、合わなかっただけなのだ。

 

 そういえば、と僕は思い出す。地下室にしまっておいた肉はそろそろ熟した頃合いだろうか。肉というものは暗くて寒い場所にしばらく置いておくと、とても美味しくなる。繊維が柔らかくなり、旨味が増し、舌の上でとろけるような食感になる。僕はその変化の過程をじっくりと楽しむのが好きだった。

 

 時間をかけることの大切さを多くの人は知らない。すぐに結果を求め、過程を疎かにする。コウジもそうだし、亜里沙もそうだった。彼らには待つということの意味が分からないのだ。

 

 僕は階段を降り、地下室への扉を開けた。冷たい空気が頬を撫でる。暗闇の中で何かが微かに動く気配がした。

 

 もう少しだ、と僕は思う。もう少し待てば、ちょうど良くなる。

 

 急ぐ必要はない。物事には適切な時間というものがある。それを守ることが品というものなのだ。

 

 §

 

 ──続いてのニュースです。〇〇市内のアパートで若い男性の遺体が発見されました。死亡したのはこの部屋に住む会社員・田中幸次さん、二十四歳で警察は事件と事故の両面から捜査を進めています。遺体の状況から、死亡時刻は三日前の深夜と見られ、外傷は──

 

 §

 

 ──捜査関係者によると、遺体には複数の外傷があり、死因は頭部への強い打撃によるものと見られています。また、遺体の一部には古い傷跡も確認されており、警察は被害者の交友関係を中心に捜査を──

 

 §

 

 僕がそのニュースを見たのは、コウジとのやり取りから一週間ほど経った朝のことだった。

 

 テレビ画面にはアパートの外観が映し出されている。

 

 田中幸次──そうか、彼の名字は田中だったのか。

 

 僕はコーヒーを一口飲み、画面から目を逸らした。

 

 やれやれ、と思う。

 

 やはり雑なのである。

 

 ニュースになるようなやり方をするなんて、品がないにも程がある。痕跡を残さず、静かに誰にも気づかれずに行うのが筋というものだろう。こんな風に騒ぎになってしまっては美しくない。

 

 まあ、彼女に何を言っても無駄だということは二年間の付き合いで嫌というほど分かっている。彼女には彼女のやり方があり、それを変える気など毛頭ないのだ。

 

 僕は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外は晴れている。良い天気だった。

 

 僕はコーヒーの残りを飲み干し、カップを流しに置く。

 

 この後はお楽しみだ。

 

 僕は床のとある箇所をちらと見た。そこは開閉し、地下室へとつながっているのだ。

 

 さきほど様子を見に行ったのだが、声から媚びが消えていた。もう完全に諦めているのだ。だのに恐怖だけは抜けていない。諦めれば恐怖もスカスカになってしまうものだろうって?それは素人の考えだ。時間をかけてじっくりと丁寧に仕上げる必要があるけど、僕ならそれが出来る。今夜はそれを味わうことにしよう。

 

 急ぐ必要はない。物事には適切な時間というものがある。

 

 そうだ、時間なのだ。

 

 コウジの件を思い出し、僕はぶんむくれる。

 

 彼女は、亜里沙はあんなにもすぐに片付けてしまった。せっかくの獲物を。あれだけイキの良い男をたったの──いや、詳しいことは知らないが、おそらくは数時間やそこらで終わらせてしまった。

 

 勿体ない。実に勿体ない。

 

 僕なら一週間はかける。いや、二週間かもしれない。毎日少しずつ、丁寧に。その変化を観察し、記録し、味わう。最後の瞬間など、ほんの付け足しに過ぎない。過程こそがすべてなのだ。

 

 だから僕と亜里沙はうまくいかなかった。

 

 性格の不一致、というやつである。

 

 (了)

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