――管理室を出て、しばらく。
人気のない通路。
足音だけが、静かに響く。
「……」
流星一花は、無言で歩き続ける。
その表情は、いつも通り。
柔らかく、穏やかで。
何も問題などないかのように。
だが――
誰の視線も届かない場所に入った、その瞬間。
「――っ……」
足が止まる。
肩が、わずかに震えた。
「……は、ぁ……っ」
呼吸が乱れる。
抑えていたものが、一気に溢れ出す。
壁に手をつく。
右手だけで身体を支える。
左腕は、ない。
「……あぁ……」
漏れる声。
その顔は――
先ほどまでの穏やかなものとは、まるで別人だった。
頬は紅潮し。
瞳は熱を帯び。
抑えきれない感情に揺れている。
「……やっぱり」
震える声。
だが、その奥にあるのは――歓喜。
「ちゃんと……刻めてる」
思い出す。
あの瞬間。
一夏の右手。
その薬指に、嵌めた指輪。
「……ふふ」
小さく、笑みが漏れる。
「愛情、信頼、願い――」
ゆっくりと言葉にする。
「そういう意味、なんだけど」
一度、言葉を切る。
そして――
「それだけじゃないよね」
静かに続けた。
視線が、自分の右手へと落ちる。
そこには何もない。
だが。
確かに“刻まれている”。
「マーキングは成功」
淡々とした声。
だが、その奥には熱がある。
「使えば使うほど……」
唇が、わずかに歪む。
「君は、私の色に染まっていく」
断言。
迷いはない。
「思考も、感覚も」
ゆっくりと。
確かめるように。
「少しずつでいい」
言い聞かせるように、静かに。
「一気にでは……壊れてしまう」
その言葉には、確かな重みがあった。
「壊れてしまえば――」
一瞬、表情が翳る。
ほんの僅かに。
だが確かに。
「あの時と同じになる」
過去の記憶。
失う恐怖。
取り返しのつかない瞬間。
「……全部、台無しになる」
小さく呟く。
その声には、はっきりとした“恐れ”があった。
「だから……」
ゆっくりと顔を上げる。
瞳は、もう揺れていない。
「丁寧にやらないとね」
優しく言う。
まるで壊れ物を扱うように。
だが――
その実態は。
確実な侵食。
「……大丈夫」
再び、柔らかい声に戻る。
「あの時みたいなことには、絶対にさせない」
強い意志。
守るために。
「だから――」
そのまま、続ける。
迷いなく。
「私だけのものになってくれればいい」
当然のように。
矛盾もなく。
「……一夏」
名前を呼ぶ。
愛おしむように。
「その指輪はね」
ふと、空を見上げる。
誰もいない空間へ。
「君が私を信じる証で――」
わずかに、声が低くなる。
「私が君を離さない証」
静かに、言い切る。
「大丈夫」
最後に、優しく微笑む。
「全部、私が導いてあげる」
その言葉は。
救いか。
それとも。
「……ちゃんと、壊さないように」
――管理か。
境界は、もう存在しなかった。