消毒液の匂いが、静かに鼻をついた。
白い天井。規則正しく並ぶ照明。その無機質な光が、ぼんやりとした意識の中にゆっくりと染み込んでくる。
ラウラ・ボーデヴィッヒは、ゆっくりと瞼を開いた。
視界はまだ定まらない。焦点が合わず、世界が滲んで見える。だが、それでも自分がどこにいるのかは理解できた。IS学園の保健室。見慣れたはずの場所でありながら、どこか現実感が希薄だった。
身体は重い。指先に力を込めようとしても、思うように動かない。まるで自分の身体ではないような、奇妙な感覚。
「……起きたか」
低く、よく通る声が響いた。
視線を横へと動かすと、そこに立っていたのは織斑千冬だった。変わらぬ無表情。その奥にある冷静な観察の眼差しが、まっすぐにラウラを見ている。
ラウラはゆっくりと身体を起こそうとしたが、すぐに力が抜け、再びベッドに沈み込んだ。
「無理に動くな。身体への負荷はまだ残っている」
淡々とした口調だった。
だが、その言葉に逆らう気にはなれなかった。
しばらくの沈黙の後、千冬が口を開く。
「お前は暴走した。ISに取り込まれ、自我を失い、無差別に攻撃を行った」
言葉は簡潔だった。無駄がない。
だが、その一つ一つが、確かに事実として胸に落ちていく。
ラウラは何も言わなかった。言えなかった。
断片的な記憶が蘇る。恐怖。敗北。押し潰されそうな焦燥。そして――
何かに飲み込まれていく感覚。
「その結果、お前は敗れた」
一瞬の間。
「織斑一夏によってな」
その名前が出た瞬間、ラウラの指先がわずかに震えた。
だが、それ以上の反応はない。
ただ、静かに目を伏せる。
千冬はその様子を一瞥し、そして続けた。
「……さて」
わずかに間を置く。
「一つ、聞こう」
静かな声だった。
だが、鋭い。
「お前は――誰だ?」
その問いは、あまりにも単純で、あまりにも本質的だった。
ラウラの呼吸が止まる。
答えは、すぐに出るはずだった。
ラウラ・ボーデヴィッヒ。
ドイツ代表候補生。
軍人。
千冬の教え子。
だが――
「……」
言葉が、出てこない。
口を開こうとしても、何も形にならない。
自分が何者なのか。
その輪郭が、曖昧にぼやけていく。
沈黙が、答えだった。
千冬は小さく息を吐いた。
そして、短く言い放つ。
「なら、お前はラウラ・ボーデヴィッヒだ」
断定だった。
揺らぎのない、言葉。
「いくら追いかけようと、私にはなれんぞ」
その一言には、情も、否定も、すべてが含まれていた。
背を向ける。
「……自分を見失うな」
それだけを残し、千冬は保健室を後にした。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
残されたラウラは、ただ天井を見つめていた。
自分は、誰だ。
その問いだけが、頭の中で静かに繰り返されていた。
――――
湯気が、静かに立ち上っていた。
大浴場は広く、静かで、水面に反射する光が揺れている。規則的に流れる水音が、空間全体を包み込むように響いていた。
織斑一夏は、湯に肩まで浸かりながら、大きく息を吐いた。
「はぁ……」
戦闘の疲労は、まだ身体に残っている。だが、それ以上に精神的な消耗の方が大きかった。何度も限界を超え、無理やり動かした身体は、今になってようやく重さを主張し始めている。
「……」
不意に、視線を感じた。
いや、正確には“気配”だった。
「……いるんだろ」
小さく呟く。
少しの間。
そして、背後から静かな声が返ってきた。
「……うん」
シャルルだった。
互いに振り向かない。
ただ、背を向けたまま、同じ湯に浸かっている。
奇妙な沈黙が流れる。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
「……また、だな」
一夏が苦笑混じりに言う。
「……うん」
短い返事。
だが、その声にはどこか迷いが混じっていた。
しばらくの沈黙の後、シャルルが小さく息を吸う気配がした。
決意のようなものが、そこにはあった。
「……一夏」
「ん?」
「僕……いや」
言い直す。
わずかに震える声。
「……私の、本当の名前」
一夏は何も言わず、ただ耳を傾ける。
「シャルロット・デュノア」
静かに告げられたその名前は、水面に落ちる雫のように、波紋を広げていく。
一夏は目を閉じ、小さく頷いた。
「……そっか」
それ以上は、何も言わない。
責めることも、驚くことも、問い詰めることもなく。
ただ、受け止める。
その態度が、何よりも雄弁だった。
湯気の向こうで、シャルロットがわずかに息を吐いたのが分かった。
――――
翌日。
教室の空気は、どこかざわついていた。
理由は明白だった。
教壇の前に立つ、一人の少女。
金色の髪を揺らしながら、まっすぐに前を見据えるその姿に、昨日までの“少年”の面影はない。
「シャルロット・デュノアです。よろしくお願いします」
簡潔な自己紹介。
だが、その一言で教室は完全に騒然となった。
「はぁぁぁぁぁ!?」
鈴の声が、誰よりも大きく響いた。
「ちょっと待ちなさいよ!? アンタ女子だったの!?」
「う、うん……そういうことになるかな……」
苦笑するシャルロット。
その時だった。
「……あ」
鈴の動きが止まる。
何かに気付いたように、ゆっくりと一夏の方へと顔を向ける。
「……昨日の大浴場って」
空気が、凍る。
「男子しか使えないわよね?」
沈黙。
一秒。
二秒。
「……あ」
一夏の声が漏れる。
次の瞬間。
「織斑一夏ァァァァァァ!!!」
怒号。
同時に、鈴のISが展開される。
「ちょ、待っ――」
言い訳の余地などなかった。
一直線に迫る攻撃。
「死ねぇぇぇぇぇぇ!!!」
「待て」
その瞬間、低い声が割り込んだ。
次の瞬間、鈴の動きが止まる。
ラウラだった。
いつの間にか、二人の間に割り込んでいる。
その眼は、まっすぐに一夏を捉えていた。
そして。
ゆっくりと歩み寄る。
「……な、なんだよ」
一夏が一歩引く。
だが、逃げ場はない。
ラウラはそのまま距離を詰め――
「っ!?」
不意に、一夏の胸倉を掴む。
そして。
そのまま――唇を重ねた。
一瞬、世界が止まる。
教室中が、完全に静まり返る。
離れる。
ラウラは真っ直ぐに一夏を見据えたまま、静かに告げる。
「決めた」
その声には、迷いがなかった。
「お前は、私の嫁だ」
完全に沈黙した教室。
そして次の瞬間――
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
再び、爆発した。
誰もが声を上げる中、一夏だけが完全に思考停止していた。
「いや、ちょっと待て!? 今のはどういう――」
「黙れ」
即答だった。
ラウラの視線は、一切逸れない。
「お前は、私がもらう」
その宣言は、あまりにも一方的で、あまりにも確定的だった。
教室は、もはや収拾がつかない。
怒号、悲鳴、困惑、ツッコミ、すべてが入り混じり、朝の静けさなどどこにも残っていなかった。
その中心で、一夏はただ立ち尽くす。
状況を理解できないまま。
ただ一つ確かなのは――
この日もまた、平穏とは程遠い一日になるということだった。