地雷系彼女(マイ・フェア・レディ) 作:あなたへのレクイエムです
飛行船の柔らかなカーブを描く窓の外、夕闇が夜へと溶け落ちていく。
眼下にはマフタツ山、その名の通り両断された岩山の狭間にクモワシの卵を求め、断崖絶壁からの降下に挑む受験生たちの姿があるはずだが、ここからはただ静まり返った山林と、海まで続くという急流の川が見えるばかりだ。
俺とハンゾー、そしてポンズの三人は、メンチによる合格の判定をネテロ会長が尊重したことで、追加課題を免除されていた。
他の受験生が命懸けでゆで卵を作っている間、俺たちは一足先に飛行船内へと案内され、温かい食事と清潔な寝床、そして何より休息という贅沢を享受している。
ハンゾーは「そーいや走って作ってで自分のメシ食ってなかったわ。調理場借りるぜ」と厨房に向かった。
ポンズは「泥と汗でベタベタ……もう今日はシャワー浴びて寝る……」とぼやきながら与えられた個室へと消えていった。
俺は一人、静まり返ったラウンジに残っている。
(──……これが、
結局、全ては原作……あるいは運命の通りに進んでいる。
ネテロの介入、再審査、クモワシのゆで卵。
きっと次はトラップタワーだ。
俺の選択に何か意味はあったのか?
あったはずだ……と、言いきれるだけの自信はない。
確かに、違いはあった。
俺とハンゾー、ポンズの組み合わせなど原作にはない。
メンチはネテロ会長から説教を受けていない。
今行われているのは再審査ではなく、
まだ審査しきれていない素質を見極めるため、メンチから
そして二次審査を突破した俺達は、優遇処置として個室での休息権利という次の試験で有利を与えられた。
だが、
俺は何か大きな歯車に組み込まれているのではないか。
俺の原作知識など、ネオンの占い、そしてこの現実の前でどれほど役に立つだろうか。
何をしても無駄なのではないか。
介入せずとも全ては滞りなく進み──9月のヨークシンシティへと転がり落ちていくのではないか。
幻影旅団は好き勝手に暴れ、護衛団のみんなは皆殺しになるのではないか。
ふとした瞬間──毎夜毎夜、そんなことばかり考えてしまう。
考えない夜はない。
刻一刻と迫りくる時間。止まらない時計の針。
傍らにレディはいない。ネオンはいない。俺から彼女に呼びかける事はできない。
なぜなら俺がネオンの所有物であって、ネオンは俺の所有物ではない。
俺の隣には、誰もいない。
「ほっほっほ。ずいぶんと
──背後から、気配もなく声が刺さった。
俺は心臓が跳ね上がるのを抑え、ゆっくりと振り返る。
見なくても、そこに誰がいるのか、振り返る前から予想はつく。
着物姿で、にこにこと人好きのする笑みを浮かべた小柄な老人。
ハンター協会会長、アイザック=ネテロ。
この世で最も高い場所にいる男。
「……そう、見えますか?」
「見える、見える。
若者にゃ目の前にでっかい道があるというのにな」
俺は何も言わずにネクタイを締め直し、スーツを正した。
この不安定な精神状態も、取り繕っていることも、虚勢を張っていることも、何もかも見透かされているだろう。
だがそれでも、俺は体裁を取り繕う。スタイルを貫かないと、中身は伴ってこないだろう。
何より、こんな姿をネオンには見られたくないし、見せたくなかった。
「会長、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。248番、アンドー=ルモアです」
「堅苦しい挨拶は抜きにしよう。なに、少しばかりおぬしに興味があってな。
ビスケから聞いとるよ。ミッドナイト・トレインで出会った男の子の話をな」
「と、言いますと……」
「そう誤魔化さんでええ。お別れの時にばっちりその、
俺の頬を冷たい汗が伝う。
まあ、そうだろうなと思っていた。
ビスケット=クルーガー……ビスケは、心源流拳法の師範で、ネテロの弟子。
そしてこの目の前の人物は、ハンター協会の会長なのだ。
当然、彼は俺の事を調べて、知り尽くしていると言っても良い。
「おぬしのことを気に入っとった様子だの、あれは。
ずいぶんと
ははあ、なるほどのう」
「恋は、まあ、ノーコメント……ということで……」
「ホッホッホッホッホ。…………いや近頃の若者ってこえーわ」
まあ、一目惚れなのは、うん。否定しようがないので、その通りだ。
ただ、ネオンの方はわからない。
もちろんネオンは俺の事を大事に思ってくれてはいる、とは思う。
流石にそれに気づかないほど鈍感なわけじゃあない。
だけどその上で彼女から向けられている好意の種類が、どういうものか。
それは俺が勝手に推し量って良いものじゃあないだろう。
「……では、あの金髪のお嬢さんに『ありがとうございました』とお伝え頂けますか?」
「お、おじょ、お嬢さん!? お嬢さん!? お嬢さん!!?!?」
俺の一言が、ネテロ会長の腹筋を直撃したらしい。
ネテロ会長は腹を抱え、悶絶するように身を捩り、涙さえ浮かべて「ひーっひーっ」と荒い呼吸を繰り返した。
やったぞ俺、すごいぞ俺、メルエム級だ。世界がとれる。待って貧者の薔薇はやめてください。死んでしまいます。
「ぶ、っ、く、くく、く……ひ、ひひひっ わ、わか、わかった……っ。
つ、伝えておこう、く、くく……お、おじょ、お嬢さん、に……く、く、くぃッ。
お、おお、おぬしから、言ってやっても、ひ、ひっ、よ、喜ぶと、思う、ぞい……くひいっ」
そうしてひとしきりダメージと格闘して堪えきったネテロ会長は、どうにか体裁を取り繕って、やっとそう答えた。
そしてヒーッヒーッと過呼吸気味になりながら差し出された、一枚の紙片。
ビスケット=クルーガーのホームコード。
俺は今の一連のリアクションを見なかったことにして、ありがたく連絡先を受け取った。
「それで……会長。第三審査の方は立ち会わなくてよろしいのですか?」
「メンチくんが楽しそうにやっとるよ。
やっぱりやる気を見せとる若いもんは良いのう。乳もデカいし。
年寄りは邪魔をせんように後ろの方で腕組んで見守っとこうと思ってな」
俺の仕切り直しに何事もなかったかのように乗っかったネテロ会長は、ひょいと、隣に並んで窓の外を見た。
ただの好々爺が、若者と語らうような動き。だがまったく予想もできず、目で動きを追うこともできない。
認識できるのは、この老人が
(…………なんて人だ)
ネテロ会長はオーラなど一切使ってはいない。
純粋に培った身体能力、経験、武術だけでこの動きを成し遂げている。
俺とまったく同じ条件なのに、この老人は軽々とそんな事をやってのけるのだ。
比べるのもおこがましい。それはわかっている。わかったうえで──……。
(……こんなにも、俺は足りていない)
そんな俺を見たネテロ会長は、つまらなさそうに溜息を吐くと、にやりと笑ってこう言った。
「どうじゃ、ルモアくん。面倒な試験はここまでにせんか?」
「は……?」
「ワシの一存でライセンスを発行しても良い。
そもそも、おぬし、本来ならこんな試験を受ける必要もあるまいて。
にも関わらず……あえて試験に臨むその姿勢。
近頃の若者にしては、律儀というか、感心というか、酔狂というか」
一瞬呆然とした俺に、今度はネテロは面白そうに目を細めた。
立て続けに投げつけられる言葉。ほとんどは、右から左に通り抜けていったけれど。
「合格は保証しよう。
このまま飛行船を降りて、仕事に戻ってはどうかの。
今にも飛んで帰りたいと思っておるだろう。
これ以上、
――どうじゃ?
そう聞かれて、俺はすぐには答えられなかった。
それは、喉から手が出るほど魅力的な提案だった。
ここで「はい」と言えば、この後の試験はすべてスキップできる。
安全に、確実に、最短で、ノストラード・ファミリーにプロハンターの肩書きを持ち帰れる。
ネオンの側に一日でも早く戻ることができる。
9月まであと8ヶ月、そのすべてを彼女の傍で過ごす事ができる。
俺は何も考えず、口を開きかけた。はいの、「は」の音が口から漏れる。
だが──……。
甘い誘いを断てば 道は平坦に拓けるだろう
心臓に絡みつく二色の糸の感触とこの言葉が、俺に
俺は深く、深く息を吐き出した。
最初の、一番最初の頃にダルツォルネさんから受けた訓練を思い出す。
何時間もひたすら形の繰り返し。
ネオンが早く切り上げさせてとワガママを言ってきたことがあった。
俺はそれを断った。
その時と、同じだ。
俺は胸に手を当てる。心臓の上。ネオンの占いがそこにある。左目がちりちりと燃える。
吐き出した息を、肺に吸い込む。
空気が冷たく、涼しく、心地よかった。
体の中の熱が抜けるようだった。
「……ありがたいお誘いですが、お断りさせていただきます」
「ほう? なぜかな」
俺はネテロの瞳を真っ向から見据えた。
彼はきらきらと、人生を謳歌している少年のような目を俺に向けている。
確かに、俺がこの選択肢に気づけたのは……ネオンの占いがあったからだ。
けれど俺がこの選択肢を選ぶのは、選べたのは、今まで培ってきたものがあったからだ。
俺の選択に意味はある。あると、思おう。
俺は自分に言い聞かせるように繰り返して、こう答えた。
「俺はドンの……ライト=ノストラードの命令でここに来ています。
『ライセンスをもぎとって来い』と言われたのであって、『ライセンスを貰ってこい』と言われたわけではありません」
ネテロは数秒間、無言で俺を見つめていた。
やがて、彼は喉を鳴らし、愉快そうに笑い声を上げた。
「ほっほっほ! 楽な道よりも茨の道を選ぶか。
よかろう、おぬしの気が済むまで続けるが良い」
「……せっかくのご厚意を、申し訳ありません」
「なに、かまわん、かまわん。
だがこの後で不合格になっても恨みっこはなしじゃぞ?」
「ありがとうございます。
かわりと言っては何ですが。ご厚意に甘えて……ひとつ、伺っても良いでしょうか」
「試験内容はいかんぞ? わしのプロフィールもダメじゃ。協会を通してもらわんとな」
茶目っ気たっぷりの返答。だけれど、彼が俺に真摯に向き合ってくれている事はわかった。
面白がっているのか、善意からなのか。構うまい。
1988年、6歳の頃、俺はプロのダルツォルネさんの真意がどうであれ、自分に向き合ってくれることに感謝した。
1999年、16歳の今、俺はネテロ会長がどう考えているのかに関わらず、自分に向き合ってくれることに感謝する。
「……教えを乞いたいのです」
「ほう」
俺は、跪いて、頭を垂れた。ネテロ会長が、わずかに目を開くのが気配でわかる。
「真の達人は、暴れ馬がいる道を通らず、他の道を通ると聞きました。
ですが、暴れ馬がいる道をどうしても通らねばならないなら──…………」
そう、俺が知りたいのは。
本当に、たった一つだけ。
「行く手に嵐の夜があるとわかっているなら、
静寂が、飛行船のラウンジに満ちた。
先ほどまでのふざけたような空気は霧散し、飛行船のエンジン音だけが低く響く。
ネテロは笑うのをやめ、顎の髭をゆっくりとなぞりながら、黙って俺を見下ろした。
その瞳には、先ほどまでの茶目っ気は一切ない。
そこにあるのは、人外の極致に至った武の化身としての、深淵のような静謐さだ。
「…………
ネテロは独り言のように呟き、ゆっくりと顎をなでた。
「ルモアくん。おぬし、嵐を
ネテロは一度言葉を切ると、いたずらっぽく、だが残酷なほどに鋭く目を細めた。
「嵐を
「…………」
「……なるほど。暴れ馬どころか、天災を相手にするつもりか」
ネテロは一歩、俺に近づいた。その足音は全く響かない。
だが、俺の視界の中で、彼の存在感が巨大な山のように膨れ上がる。
ネテロは「ほっほっほ」と短く、乾いた笑いを漏らした。
そして、その小さな手を俺の肩に置いた。
途端――ずん、と。俺の体が、見えない圧によって沈んだ。
「よいかね、ルモアくん。嵐というものはのう、避けることも、止めることもできん」
ネテロの指先から、熱のような、あるいは重圧のような何かが伝わってくる。
「おぬしは、嵐が来るのを待っておる。準備を整え、盾を構え、震えながらな。
だが、それでは嵐に飲み込まれるだけじゃ。
本当に嵐を越えたいのなら、おぬし自身が嵐となるしかあるまい」
声が出せない。
俺はただ押し潰しにくる巨岩の重みに抗いながら、ただネテロの顔を見上げた。
彼は真っ直ぐに俺を見て、続ける。
「嵐の中に立ち、ただ耐えるのではない。
無事に過ぎ去ってくれと、祈るのでもない。
風を読み、雨に馴染み、雷を鼓動にする。
嵐は外から眺めれば凄まじいが、その中心は驚くほど静かなもんじゃ」
ネテロは肩に置いた手にわずかに力を込めた。
それは、俺の迷いを叩き潰すような、強烈な叱咤だった。
「自分と世界の境界をなくし、ただその瞬間、その一瞬にすべてを込める。
そこに迷いも、恐れも、そして焦りも入る隙はない。
考えるべきは
己を捨て、ただ
……そうすれば、嵐が去った後、おぬしは望んだ場所に立っておるじゃろうて」
ネテロはそう言い残すと、ひょいと身を翻した。
俺の肩から掌が離れる。
途端、地面に押さえつけられるような重圧が失せた反動か、自然と体が軽く、俺は思わず立ち上がった。
「ま、これ以上はわしも授業料を取らねばならん!
後は自分で考えい。しいてヒントをやるなら……そうじゃな。
いっそ
何事もなかったかのように、ネテロは廊下の向こうへと歩き出す。
俺は呆然と立ち尽くしたまま、その言葉を反芻し──咄嗟に、言うべき事を言うべきだと、思い出した。
「……ありがとうございます、ネテロ会長……!」
俺が絞り出すように叫んだ言葉に、ネテロ会長は短く、楽しげな笑いを漏らした。
老人は軽やかな足取りで角を曲がり、消えていく。
きっとこの後、受験生たちに挨拶をし、そして夜にはゴンとキルアと
あるいは俺への声掛けも、ネテロ会長にとっては遊びの一環だったのかもしれない。
「……
静まり返ったラウンジで、残された俺は一人、自分の両手を見つめた。
答えは出ない。
だが、
俺は予言を勘違いしていた。
ネオンの占いは、道が平坦だと言っていたのではない。
俺の行くべき道がわかると、そう教えてくれていたのだ。
嵐の夜に続く、道が。
ほどなく第三審査を突破した受験生が回収され、二次試験は無事終了となった。
飛行船は夜の闇を突き進んでいく。
次の目的地──聳え立つ塔は、もう間近に迫っていた。
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