地雷系彼女(マイ・フェア・レディ) 作:あなたへのレクイエムです
ノストラード・ファミリーの支配するエルバト市の賑わいや喧騒も、ノストラードの本邸には届かない。
けど本邸裏にある訓練場には、また別種の喧騒が満ち溢れている。
「……腰が高い。そんな浮ついた重心で何をするつもりだ。
お嬢様のコレクションを預かっている自覚を持て」
冷徹な声が、俺の頭上から降ってくる。
汗が目に入り、視界が塩辛い痛みで歪む。だが、瞬きは許されない。
戦闘中に目を閉じるなというのは、この目の前の男から俺が教わった事の一つだからだ。
「…………っ、すいません」
俺は震える足に力を込め、重心をさらに数センチ落とした。
6歳の肉体は、想像以上に脆くて不自由だ。
ちょっとした型を維持するだけで、全身の筋肉が悲鳴を上げ、乳酸が溜まっていく。
「声が小さい。謝罪は不要だ。返事も一度で十分。だが、腹から出せ」
「はい!」
俺は言われた通り、精一杯に力を込めて返事をした。
ダルツォルネ。
後にノストラード・ファミリーはネオン=ノストラード護衛団のリーダーとなる男。
ダルツォルネは鞘に納めた刀を手に、無言で俺を睨んでいる──たぶんただ見ているだけだけど、迫力が違う。
今はまだ二十代半ばといったところか。
でも逆立った髪と、厳しい規律を具現化したような顔つきは、十年後とさほど変わらない。
おぼろげな記憶だと幻影旅団相手にはそこまで対抗できなかった人だが、とてもそうは思えなかった。
(実際、あれは相手が悪すぎたってだけなんだろうな……)
原作のあの時点で、ドン……ライト=ノストラードはダルツォルネを「銃弾10発くらっても平気なくらいの鍛え方をしていた」と評していた。
並の念能力者では
幻影旅団……というか、強化系能力者のハイエンドなウボォーギンや、それに次ぐ腕力でしかもパンチ特化のフィンクスとか相手じゃなければ、結果は全然違っただろう。
実際、フィンクスからの一撃は背後からの不意打ちだったし。
旧アニメだとその上でウボォーギン達にほんの少しとはいえ対抗できてたんだから、間違いなくダルツォルネは念能力者としてトップクラスだ。
相手が悪かった、につきるのだ。
今のダルツォルネが、念能力に目覚めているのかどうかを俺は知らない。
だけど、彼は間違いなく今の時点でもプロだった。
なら前世では恐らくただの一般人、今は六歳の子供の俺としては、頭を垂れるのは当然のことだ。
まあ「そっかあ、この人この頃からネオンの護衛やってたんだなあ」なんて素直に喜んでもいたんだけど。
「よーし、では型を最初からもう一度繰り返せ。
気絶してようが体が自動で動くくらいまで覚え込めよ。
少しでも失敗したら頭からやり直しだ」
「はい……っ!」
俺はダルツォルネから、ひたすら基礎体力の向上と格闘の基本型を叩き込まれていた。
曰く……
拳と足、靴を履いたまま至近距離の室内で戦うことを想定した、マフィアの基本だ……とか。
本来なら、こんな幼い子供にマフィアの戦闘術を教え込むことなどあり得ない。
だが、ドン・ノストラードは俺に許可を与えた。……いや、与えざるを得なかった、と言うべきか。
まったくもって喜ばしいことに、俺はネオン=ノストラードのお気に入り……コレクションなのだから。
そしてダルツォルネはドンの忠実な右腕で、ドンの命令には絶対に従う。
……とすると、やっぱりもう
「へっ、お嬢様のペットが芸を仕込まれてら」
遠巻きにしながら各々の訓練に励んでいる構成員たちの中で、髭面の男が鼻で笑ってそう言い放ったのが聞こえた。
マフィアの構成員たちからも、俺は「運良くお嬢様に気に入られただけの、目の色が変なガキ」としてしか見られていない。
当然の反応だ。文句もない。むしろダルツォルネが例外だ。
ただ職務に忠実なだけだとしても、彼が真剣に指導してくれる事に俺は感謝しなければならない。
「……おい。貴様ら、手が止まっているぞ」
ダルツォルネの低く、地を這うような声が響いた。
俺を嘲笑していた髭面の構成員たちが、びくりと肩を跳ねさせて沈黙する。
ダルツォルネは視線すら彼らに向けず、ただ鞘に納めた刀の柄を指先で叩いた。
「この少年の瞳は、ドンが買い求めた、お嬢様のコレクションだ。
つまり、ノストラード・ファミリーの財産である事を意味する。
この少年が身を護る術を学ぶのは、ファミリーの損失を防ぐことに直結する。
それを理解できん愚か者は、今すぐ表の門番と交代してこい」
構成員たちは気まずそうに顔を見合わせ、そそくさと自分たちのサンドバッグ打ちに戻っていった。
ダルツォルネは、俺を庇ったわけじゃない。ただ、自分の職務に忠実であろうとしてるだけだ。
彼にとって、俺は価値ある人間ではなくて、価値ある財産に過ぎない──その言葉通りだ。
けど、俺は言うべきだと思ったことは、ちゃんと言っておくことにした。
「……ありがとうございます、ダルツォルネさん」
俺が息を切らしながら礼を言うと、ダルツォルネはようやく俺の目を正面から見据えた。
「わかっているだろうが、勘違いはするんじゃあないぞ。
ファミリーの財産、ボスのコレクションの価値を構成員が貶めるなど、許されん。
……続けろ」
「……はいっ」
俺は苦笑しそうになるのをこらえ、再び型のトレースに意識を戻した。
ダルツォルネの指導は合理的で、一切の無駄がない。
けど、彼はまだ俺を評価していない。
6歳の子供が、どれだけ本気でこの過酷な訓練にしがみついてくるか、品定めをしている段階だ。
正直に言えば、ちょっと後悔してるところもある。
前世のお陰で精神が多少大人だからって、厳しいものは厳しいし、辛い事は辛いんだ。
本格的なマフィアの戦闘訓練なんて生まれてどころか死ぬ前から初めてだし、逃げ出したいとすら思う。
これでダルツォルネが、ただのイジメとかイビリとしてやってたなら、きっともう投げ出してただろう。
けど、そうじゃないって事はわかる。わかるし、わかるから、投げ出さない。
──焦るな。
一歩ずつ、着実に。十年という時間を、無駄遣いせずに歩いていく必要がある。
なにせ今の俺はまだ、体内のオーラを感じる段階にすら至っていない。
だが、ダルツォルネの放つ、あの肌を刺すような威圧感。
彼が無意識に、あるいは意識的に纏っている
これが、勘違いじゃなければ良いんだが。
* * *
訓練が始まって数時間が経過した頃、訓練場の入り口が騒がしくなった。
「ルモア! まだ終わらないの!?」
不機嫌を絵に描いたような声。
水色の髪をなびかせ、豪華なフリルドレスの裾を翻して歩いてくるのは、我らがネオンお嬢様だ。
彼女の後ろでは、付き人の侍女たちが申し訳なさそうに頭を下げている。
「お嬢様、訓練中につき、立ち入りは……」
ダルツォルネが規則通りに制止しようとするが、ネオンはそれを鼻で笑って俺の目の前まで歩み寄ってきた。
「うるさいなぁ。ルモアは私のコレクションなんだよ?
持ち主が見たい時に見れないなんて、管理がなってないんじゃない?」
「は……」
恐縮するダルツォルネを無視して、ネオンは俺の頬を指先でなぞった。
汗で濡れた肌を汚いとも思わず、ただ自分の所有物を検品するように。
俺は彼女の爪が、わずかに俺の左目の縁に触れるのを感じた。
「ねえ、もう良いでしょ?
私、今日はルモアの目を見ながらお茶を飲むって決めてたの!」
「……お嬢様、ルモアの今日のメニューはまだ三十分残っております」
「三十分も!?」
ダルツォルネが、鉄の無表情を崩さずに告げ、ネオンが声を荒らげる。
周囲の構成員たちが、冷や汗を流しながら様子を窺っているのがわかる。
マフィアのドンが溺愛する一人娘のワガママだ。
それを撥ね退ける度胸など、並の構成員にはない。ダルツォルネでさえ無理だ。
ネオンは、汗まみれの俺の顔にぐっと自分の顔を近づけた。
花の香りと、お嬢様特有の甘ったるい香水の匂いが、汗の臭いに混じって鼻を突く。
至近距離で見つめてくるエメラルドの瞳。
その奥にあるのは、単純な……女の子がお気に入りの宝石を見るような、支配欲だ。
今の俺は、彼女にとって「外に連れ出して遊ぶこともできるコレクション」なのだ。
俺は肩で息をしながら、指先一つ動かさずにネオンの視線を受け止めた。
ここで下手に甘えたり、訓練を投げ出したりすれば、ダルツォルネの評価は地に落ちる。
「お嬢様の甘やかしで腐ったガキ」として扱われれば、二度と真剣な指導は受けられないだろう。
「……お嬢様、あと三十分だ。あと三十分だけ、待っててくれ」
俺は、荒い呼吸を整えながら、できる限り穏やかに、だが拒絶の意志を込めて言った。
それが伝わったのか、ネオンは「うーっ」と不機嫌そうに唸り声をあげる。
けど、それを爆発はさせなかった。
「……ああもうっ! 仕方ないなあ……!
じゃあ、あとの三十分は、私が横で見ててあげる。
一秒でも遅れたら、ダルツォルネ、あなたをクビにするようパパに言うから!
ルモアも瓶詰めだからね! 瓶詰め!」
ネオンは近くの椅子を侍女に用意させ、優雅に腰を下ろした。
ダルツォルネは小さく溜息をつき、俺に視線を戻した。
「……再開する。先ほどの型、続きからだ。
ルモア、今の言葉を聞いたろう。失敗してくれるなよ」
「……わかってますよ」
俺は、再び構えを取った。
ダルツォルネが、初めて、わずかに口角を上げたように見えたのは、俺の気のせいだっただろうか。
* * *
「遅い! ルモア、五秒も遅刻! 罰として、私の膝の上で一時間瞬き禁止ね!」
「……目が死ぬって、それ」
「目薬ならあるよ?」
「感謝するところかなあ……」
訓練が終わり、ネオンに引きずられるようにして彼女の部屋に戻った頃には、俺の体力は底を突いていた。
こうなってしまうと、もう俺に抵抗する余力はない。
「ルモア、顔が汚れてるよ。拭いてあげる」
「いいよ、自分でやる」
「ダメ。……私のコレクションの手入れは、私がするの」
ネオンは侍女に水盆を持ってこさせると、ベッドに飛び乗り、俺の頭を乱暴に、しかし顔──瞳を覗き込めるよう丁寧に、自分の膝の上に乗せた。
俺はその間、されるがまま、疲労困憊の中で意識を忘我の淵に飛ばしかけてた。
ネオンは俺の顔を拭きながら、きらきらと目を輝かせて俺の瞳を覗き込む。
俺の頬に手をあて、角度を変えて、俺の瞳の色を何度も何度も確かめる。
放っておいたら息を吹きかけて、俺の眼球まで磨きにかかりかねない勢いだ。
(……もしかして、俺がこの子の人体収集癖を目覚めさせてしまったんじゃあないだろうか?)
脳裏をかすめるそんな懸念から、俺は文字通り目をそらした。
おぼろげな俺の前世の記憶では、きっかけとなったのはネオンの母、ライト=ノストラードの妻の死だったはずだ。
飛行機事故の陰惨な現場で、タトゥーの入った母の片腕を見つけた事がきっかけだった……とか。
確かあれは小説版で、原作で本当にそうだったかはわからない。
けど、この世界でも俺がネオンと出会う前に、彼女は母親を
デリケートな話題だから、あえて踏み込んで聞く事はしなかったけれど……ドン、ライト=ノストラードが娘を甘やかすようになったきっかけは、これなんじゃあないかなと、俺は思う。
だからというわけではないけれど、俺もネオンのワガママに、そんなに反発する気はおきなかった。
(基礎体力はダルツォルネに教わればいい。格闘術もそうだ。……けど、それだけじゃ足りないよなぁ)
繰り返しだけど焦って「
けど、
そのための方法も、原作では提示されている。
原作のウイングさんに曰く──……
この「
けど、この
心を燃やせっていうとなんか違う
震えるぞハート、燃え尽きるほどヒート。いやこれも違うな。
とにかく、
(目標を定める……か)
ネオンがにこにこと上機嫌で俺の顔を、濡れたタオルで拭っていく。その冷たさが心地よい。
俺の目標……ネオンを守る?
いや、間違ってはいないけど、そうじゃない気がする。
単純に彼女を守るだけなら、それこそ足でも折ったり気絶でもさせたりしてオークションに行かせなかったり、極端な話(できるできないは別としてだ)ノストラード・ファミリーを崩壊させて、ネオンをさらって逃げたって良い。
でも、そうじゃないはずだ。
もうちょっと、こう……幸福な結末。
だからといって、俺が幸せにするっていうのも、おこがましい話だ。
ネオンはたぶん、俺の勝手な想像だけど、自分一人でだって幸せになれるような女の子だから。
(なら……?)
ネオンの柔らかな膝の感触と、甘い香りに包まれながら、俺はとろとろと微睡むように思考する。
俺が本当に望んでいるのは、彼女を箱の中に閉じ込めて安全を確保することじゃない。
俺の望む形に当てはめて、俺の望む道を強引に歩かせてしまうことでもない。
彼女の幸せを、俺が定義する事はできない。
それはきっと、俺の好きなネオン=ノストラードの姿ではない。
彼女が、彼女のままで。
残酷で、無邪気で、天真爛漫な「お嬢様」のままで、10年後の地獄を鼻歌混じりにスキップして通り過ぎる。
それが見たいのだ。
(……そうだ。俺はネオン=ノストラードを幸せにするんじゃあない。ネオンを……)
俺は意識を自分の内側、ちょうど臍の下あたりへと深く沈めていく。
ネオンの指先が俺の瞼に触れる感覚を道標に、自分の輪郭をなぞる。
「……ルモア? 寝ちゃったの?」
「……起きてるよ」
俺は、その意志を言葉にする。
「……考えてたんだ。どうすれば、
「ふふ、殊勝な心がけだね!」
ネオンは満足げに笑い、俺の髪を指で梳く。
その瞬間、俺の意識の底で、小さな、しかし熱い火が灯ったような感覚があった。
その想いを、血管を流れる熱に変換するイメージ。
ダルツォルネとの訓練で疲れ果てたはずの細胞が、じりじりと熱を帯び、微かな震えを伴って励起し始めるような。
もちろん、オーラなんてものじゃない。ただの精神論に毛が生えた程度の自己暗示だ。
けど、間違いなく俺の中で心が燃えるような感覚があった。
そう、俺はネオンを不幸にさせない。
「あ……」
ネオンが小さく声を上げた。
俺が目を開けると、彼女は驚いたように、そして今までになくうっとりと俺の瞳を凝視していた。
「ルモア、今の……今の色、何!? すごく綺麗……!
一瞬、瞳の中に火が灯ったみたいに見えた!」
「……気のせいじゃないか?」
「絶対、気のせいじゃない!
うん、訓練を許可したの正解だった!
磨けば磨くほど輝くなんて、本物の宝石みたい!
……ううん! 宝石よりずっとキレイ!」
ネオンは興奮した様子で俺の首に抱きついた。
俺はされるがまま、ネオンのお気に入りのぬいぐるみとしての扱いに甘んじる。
彼女は俺の左目の縁を、指先で何度も何度もなぞる。
まるで、そこにある虹色を自分の指に移し取ろうとするみたいに。
その瞳は蕩けるように潤んでいて、俺を見ているようで見ていない。
彼女は俺の瞳の奥にある「何か」を、食い入るように探している。
今のネオンは6歳で、俺も6歳。
だから何も感じないし、傍目から見ても微笑ましいけど、これが10年後も続いたら俺はどうなってしまうんだろう?
周りの目はもちろん、俺自身が耐えられないかもしれない。
ネオンがどんな女の子に育つか知っているだけに。
(……でも、まあ、ホントに気のせいだろう)
光の加減とかで、俺の目がきらめくのはいつもの事だ。
緋の眼なんかと違って、別に感情が昂ぶったら色が変わるとかって事もないし。
いくら基礎修行だからって
確か天才の才能を持ってるズシで半年とか、三ヶ月とかだったはず。
俺が
「……そうだ。ねえ、ルモア?」
そうして俺の瞳を愛でていたネオンが、ふと顔を離し、少しだけ真面目な顔で俺を見つめた。
そのエメラルドの瞳の奥では、きらきらとした意思の光が、それこそネオンサインみたいにパチパチとはじけている。
珍しいこともあるものだ。
新しいコレクションを品定めする時くらいしか、ネオンはこんな真剣な顔を見せないのに。
「……なんだよ。瞬きしたのは悪かったけど」
「それもあるけど!
あのね、私、決めたの。
ルモアが毎日そんなに一生懸命訓練してるなら、私だって何か特別なことを始めなきゃって」
「……何を始める気だ?」
「占い。『銀河の祖母』って知ってる?」
「……ああ、最近、流行ってるよな」
もちろん知ってる──ずっと前から。
ネオンの占いに大きな影響を与えたカリスマ的な占い師だ。
今のところ、彼女はまだ詐欺罪で捕まる気配もない。
ネオンがテレビだ雑誌だ本だで騒いでいるのを俺は間近で見せられている。
だから……そろそろかな、とは思っていたのだ。
「あの人のインタビュー聞いて、私感動しちゃった!
『占いは今を一生懸命生きている人を幸せにするためのものです。
だから私はなるべく悪いことばかり占うようにしているのよ。
そうすれば皆そうならないように願ったり努力したりするでしょ』
……って!
だから私、占い師になる!
最高の占い師になって、ルモアの悪い運命を全部教えてあげるの!」
「お嬢様……占いは、そんなに簡単に……」
「できるよ、私なら! そう決めたもん!」
ネオンは俺の頭を放り出してベッドから飛び降りると、
机の引き出しから真新しいノートと、羽飾りのついた可愛らしいペンを取り出してきた。
俺はそれを、ベッドの上に投げ出された姿勢のまま見守る。
「だから、私の最初の占いのお客さんは、ルモアにしてあげる!」
「……光栄だな」
──嫌な予感がする。
予感というより、確信に近い。
何か大きなもの、歯車かなにかが噛み合って音を立てて動き出す、その直前。
そんな感覚を、俺は押し殺して、努めて軽い調子を保つ。
「で、俺の何を見るんだ? 明日のラッキーアイテムとか?」
「もっと大事なことに決まってるでしょ、ルモアの未来だよ。
まあでも、ずっと私の傍にいるのは決まってるし……」
ネオンはノートを広げ、くるりと回してからペンを構えた。
「
ネオンはそう断言すると、俺の隣に座り直し、俺の左手をぎゅっと握りしめた。
そして、紙の上にペン先を落とす。
(……なんだ?)
先ほどまで俺の中で灯っていた微かな火が、一気に冷やされるような感覚。
ネオンの体から、無意識のうちに何かが漏れ出している。
そんなもの、俺には見えるわけもない。見えるわけもないのに……。
彼女の体から、意志の力そのものが形を成そうとしているのが、わかる。
「名前と、生年月日。あと、血液型も教えて」
「……知ってるだろ?」
「いいから、教えて。本人の口からじゃなきゃ、占いにならないの」
「アンドー=ルモア。1982年7月7日。……血液型はA型だ」
「いっつも思うけど、アンドーって名前、変だし地味だよね。
でもルモアって苗字はきらきらしてる気がする。
ルモアの方が名前だったら良かったのに」
「ほっといてくれ……」
「……ふふ。じゃあ、いくね!」
その瞬間──部屋の空気が、一変した。
ネオンがペンを握る手に、力がこもる。
ネオンの瞳が、現実から切り離されたように虚空を彷徨う。
彼女の右手を持ったペンが、彼女の意志とは無関係に、異様な速度で紙の上を走り始めた。
ガリガリと、まるで何者かが彼女の腕を乗っ取ったかのような、激しい自動筆記。
彼女の右肩のあたりに、緑色の、奇妙な化け物の姿が透けて見えた気がした。
どろりとした、それでいてどこか愛らしい──筆記具を握る手に寄り添う、不気味な天使の幽霊。
そんなもの認識できないはずの俺の肌が、泡立つような違和感に総毛立つ。
それが何かを、俺は知っている。
(……おい、嘘だろ!?)
『
原作では、彼女はごく自然にこの力を手に入れたと語られていた。
修行も、覚醒の儀式もなく、ただ無邪気な欲望と憧れだけで、彼女は
ド素人の俺にも存在を認識できるほど、はっきりとしたオーラと共に。
確かに、俺はそろそろだと思っていた。
そしてもちろん俺は知っている。だけど、知ってるのと、実際に目の当たりにするのはまるで違う。
努力して積み上げようとしている俺の隣で、彼女は軽やかに、常人の限界を飛び越えて見せたのだ。
(これが、本物か──……!)
俺は息を呑み、その様子を見守るしかなかった。
カカカカッ、と紙を削るような激しい音が静かな部屋に響く。
ネオンは、自分が何を書いているのかさえ見ていない。ただ、虚空を見つめて陶酔したように笑っている。
「……はぁ。なんだか、とってもスッキリした!
ちょっと疲れちゃったけど……気持ち良かったぁ……」
彼女の右手が止まったのは、数分後のことだった。
ネオンは大きく息を吐き、憑き物が落ちたような顔で、ふにゃりと俺に微笑んだ。
そして占いの結果を見もせずにノートのページを破り取り、俺に突き出した。
「ほら、ルモア。私の初めての占い。大事にしなさい」
俺は、震える手でその紙を受け取った。
そこには、可愛らしい、けれどどこか禍々しい幽霊のようなイラストと共に、一つの詩が綴られていた。
────────────────────────────-
虹を啜る宝石は 瓶の中で夢を見る
硝子の檻が割れるとき 宝石は色に呑まれ牙を剥く
されど 身代わりの人形が十の月を数えれば
死神の鎌は あなたの喉を撫でて過ぎるだろう
────────────────────────────-
「……なんだ、これ」
心臓が、今日一番の激しさで警鐘を鳴らす。
本来、原作におけるネオンの予言は月ごとに週単位、複数の詩で構成されていた。
今回詩が一つしかないのは、これが彼女の初めての占いだからという事で納得がいく。
問題は、内容だ。
「宝石」は、たぶん俺のことだろう。
そして「硝子の檻」は……エルバトの屋敷か、あるいはネオンからの執着か?
それが割れる……「牙を剥く」とはどういう意味だ。俺が彼女に牙を剥くとでも言うのか?
そして後半……。
(身代わりの人形……十の月……)
十の月。それは十年の歳月か、それとも10月のヨークシンか。
いや、待てよ。原作だと月は幻影旅団の暗喩のはず……。
「なあ、ネオン。……これって……」
「あ、ダメ! 見せないで!」
ネオンは俺が紙を読み上げようとするのを遮り、パッと耳を塞いでベッドの上で身をよじった。
「自分を占ったり、自分の占いを見るのは、占い師のルールに反するんだって!
だって、それってもう誰かのためじゃなくて自分のためじゃない?
『銀河の祖母』もそう言ってたし、私もそう思う。その方が当たる気もするし。
だから、私には絶対に教えないで。約束!」
「……わかった、約束する」
俺は占いが書かれた紙を二つに折り、懐に深く仕舞い込んだ。
ネオンの言ったことは「制約」だ。この無邪気な一言が、彼女の占いを絶対的なものへと昇華させる。
(宝石は色に呑まれ牙を剥く……そして、死神の鎌が喉を撫でる、か)
冷や汗が背中を伝う。
原作知識でカンニングして先の事を知った気になっていた俺に、
ネオンという名の本物の天才が、未知の運命を突きつけてきた。
「ねえ、ルモア。何て書いてあったの? 良いこと? それとも悪いこと?」
「お前、自分で教えるなって言っておいて……」
「だってぇ、気になるのは気になるんだもん!」
ネオンが興味津々で、だが約束を守るためちらちら紙に目を向けたり反らしたりしながら尋ねてくる。
その姿は、先ほど『
「……ああ。最高の結果だ」
俺はできるだけ明るく、笑みを浮かべて見せた。
「詩になってるから、はっきりと意味がわかるわけじゃないけど。
俺とお嬢様が、十年後もこうしてお互いの顔を突き合わせてるってよ。
……悪くないだろ? 当たると良いな」
「ふふん、当たり前じゃない! 私の占いなんだから、当たるに決まってる」
ネオンは満足そうに笑い、俺の頭を掴むと再び膝の上に乗せた。
後頭部に柔らかな温かさを感じながら、俺は決意を新たにする。
(……磨けば磨くほど輝く、か)
ネオンほどの天才占い師がそう言ってくれたのなら、きっとそうなのだろう。
それに彼女の詩……俺の未来についても、途切れはせず、警告で締めくくられている。
つまり、気をつければ死ぬ事は無いという意味だろう。
身代わりの人形が何かはわからない。
だが、それを駆使して「十の月」をやり過ごす事ができれば、俺は死神から逃れる事ができる……。
それに「されど」という事は、前半の、俺のせいでネオンが危険になるという部分も回避できるのではないか。
なら、この占いに従えば、きっと大丈夫のはずだ。
ネオン=ノストラードが、そう保証してくれたんだ。
これ以上はない。
大丈夫、俺は明日からも、10年先も、きっと頑張れる。
「ねえ、ルモア!
明日からは私の占いも特訓しなきゃ。
まずはパパでしょ、それからファミリーの人たち……パパのお友達も!
全員、私が占ってあげるの!」
「……ああ、忙しくなるな」
俺は、窓の外に広がるエルバトの夜景を見た。
夜のエルバト市に、どこか遠くから犬の遠吠えが響いていた。