地雷系彼女(マイ・フェア・レディ) 作:あなたへのレクイエムです
床に散らばった洗剤の泡がクラピカの振るう二刀の軌跡を描き出し、宙に舞う。
踏み込んだ俺の視界、その端で閃いた白刃を、紙一重で身体を捻ってやり過ごす。
頬を通り過ぎた風が熱い。切っ先が僅かに俺の皮膚を掠め、赤い筋を引いた。
顔はどうでも良いけど、左眼が切られるのはダメだ。
これはネオンからもダルツォルネさんからも、後でお説教だな。
「ハァッ!!」
クラピカの追撃は止まらない。
右の刀が俺の側頭部を薙ぎ、同時に左の刀が逆手に返され、心臓目掛けて突き出される。
流れるような、それでいて一切の迷いがない連撃。
クラピカの二刀流は、怒りに任せた力任せの振りではない。
クルタ族の伝統に基づいた、あるいはクラピカ自身が独学で磨き上げたであろう、冷徹なまでの効率性を備えた連撃だ。
一振りが防がれれば、即座にもう一振りが死角から。
「……イィヤアアッッ!」
床を滑るように踏み込んできたクラピカの斬撃を、脱ぎ捨てたばかりの上着を腕に巻きつけて受け流した。
生地が裂ける嫌な音がしたが、その僅かな摩擦を利用して刃の軌道を逸らす。
それにクラピカが反応するより早く、俺は開いた左手でクラピカの顎を下から突き上げた。
「──っ、ぬ!?」
クラピカはそれを首を捻って回避し、そのまま回転して円を描くような横凪ぎを繰り出す。
逃げ場を殺す、計算され尽くした剣筋。
俺は迷わず地を這うほどに身を深く沈め、頭上の空間を薙ぐ刃の音を耳にした。
「……このッ!!」
クラピカの瞳から、さらに深い緋色が溢れ出した。
その視線が俺の左眼に、オパールの虹色に固定されているのがよく分かる。
自分たちが失ったもの、奪われたもの、そして自分が今、復讐のために捧げている命の象徴。
それが生きた人間に備わっていることが、耐えられないほどの冒涜に映っているに違いない。
俺は床に手を突き、溢れ出した水と泡を跳ね除けながら、クラピカの懐へ飛び込んだ。
刀のリーチを死なせるための、文字通りの肉弾戦。
「イィヤッ!!」
渾身の膝蹴りを、クラピカの胸元へ叩きつける。
クラピカは刀の柄を交差させてそれを受け止めたが、衝撃までは殺しきれない。
乾燥機に再び叩きつけられるクラピカ。
だがクラピカはそこから跳ね返る力を利用し、俺の肩を掴んで膝蹴りをやり返してきた。
「ぐっ……!」
腹に衝撃が走る。
内臓が揺れる感覚を無視し、俺もまたクラピカの襟を掴んで、そのまま床へと投げ飛ばした。
しかしクラピカは空中で身を翻し、猫のようなしなやかさで着地。
滑るタイルの上で一寸の乱れもなく再び二刀を構え直し、立ち位置を入れ替えて俺と睨み合う。
ランドリールームは今やひしゃげた洗濯機から噴き出す水の音と、乾燥機の重低音。
そして俺達二人の荒い呼吸が混ざり合う異様な空間へと変貌していた。
「……ハァッ、ハァッ……!」
クラピカの双眸にはもはや理性の色はなく、どろりとした緋色の熱に浮かされたよう。
対する俺は濡れた床に足を取られぬよう重心を低く保ち、剥き出しの白刃を見据えるのみ。
(──速い。それに、重い)
肉体のポテンシャルだけでこれだ。
それはクルタ族という血の恩恵か、あるいはクラピカが抱く怒りの質量か。
俺は腕に巻き付けていた上着を、ばさりと広げた。
これ以上やると本当に修繕できなくなってしまいそうだな。
「死ねッ!!」
クラピカが床の水を蹴り上げ、目潰し代わりに飛沫を散らしながら突っ込んできた。
右手の刀が垂直に、左手の刀が水平に。十字に交差する死の結界。
俺は後退せず、その水飛沫を突き破るように前へと飛び込んでいく。
「──なっ!?」
一つの空間に同じものは同時に重なって存在する事はできない。
つまりどんなに回避不能な同時攻撃に見えても、そこには僅かなズレと、隙間がある。
完全同時斬撃なんて、
まず垂直斬りを、左に放った上着の厚みを重ねて拳で受ける。
ガッという鈍い衝撃が骨に響くが、肉も斬られず骨も断たれないなら問題なし。
俺は顔色一つ変えずそのまま上着の生地を刀身に絡みつかせ、力任せに右側へ引き絞った。
クラピカの腕が強引に内側へ流され、水平に振るわれる左の刀とぶつかった。
もつれて崩れた体勢。空いた攻撃線。そちらが二刀なら此方は両手両足だ。
俺は右足をクラピカの鳩尾目掛け、最短距離で下から振り上げる。
「イィヤアッ!!」
「ぅ、くう……ッ!!」
だがクラピカは左手の刀を強引に振り下ろし、柄頭で俺の足を無理やり叩き落とす。
そのまま勢いを利用した回し蹴りが、俺の側頭部を狙ってしなる。
俺は咄嗟に首を傾けて回避したが、靴底が耳朶を掠めて皮膚を焦がす。
避けた先、クラピカは同時に再び二刀を構え、一切の隙を見せずに突きを放ってくる。
「しィッ……!」
俺は乾燥機の縁を掴んで体を翻し、横跳びに躱す。
突き出された白刃は厚い金属製の乾燥機の扉を容易く貫通し、火花を散らした。
「こ、こ……だァッ!」
刺さった剣を抜くその一瞬。俺は足元の洗剤ボトルを蹴り飛ばした。
飛来する青いボトルをクラピカが反射的に一閃して切り裂く。
その飛沫が視界を遮った一瞬──……。
「きゃ、あッ!?」
俺は水浸しの床を滑り込むように低く潜り込み、クラピカの軸足を蹴りで刈り取る。
クラピカが大きくバランスを崩した瞬間を逃さず、俺は一気にその細い右手首を掴んで床へ組み伏せにかかった。
「こ、の……離せッ!!」
床に叩きつけられた衝撃と、洗剤の泡による滑り。
クラピカはそれでもなお獲物を手放さず、獣のような執念で俺の手を振り払おうともがく。
だが筋力が最大限に発揮できるのは、地に足つけて体幹全体を活用できる時だけだ。
存外に華奢なクラピカでは、いくら緋の眼の影響で怪力を発揮できても、体格差を覆せない。
俺は全体重を乗せ、抵抗するクラピカの両手首を床に縫い付けた。
「──っ、離せ! 離せと言っている……ッ!」
「大人しく、少しは頭を冷やして落ち着いてくれ……!」
もみ合い、重なり合う体。泡と水に濡れ、床の上で俺とクラピカは絡み合う。
至近距離、燃えるような緋色と、そこに映る赤を反射して煌めく俺の虹色。
ここで振り解かれては、まだ殴り合いが続くだろう。
とにかく一度、物理的に動きを封じる他ない。
俺はさらに密着し、クラピカの体を強引に押さえつけようとして──……。
「……あ?」
違和感。
厚手の布に包まれているはずの、その体の感触。
重なった胸元から伝わってくるのは、男のものにしてはあまりに細く、しなやかな──それでいて、どこか柔らかい弾力。
そして激しい運動によって乱れた呼吸と共に鼻腔をくすぐる、石鹸や汗とは違う、凛とした花の蕾のような匂い。
「……ッ 貴様、何を……っ、あ!?」
見開かれた緋色の瞳が瞬いて、何かに気づいたように視線が落ちる。
格闘の中で引き裂かれた上着や、激しい組み合いで捲れあがったインナーの隙間。
そこには厳重に巻かれたサラシと、その圧迫に抗うように波打つ、白く細い肌が覗いていた。
ほんの僅か……けれど男ではありえない、ささやかな膨らみ。
「──────……ッ!?」
クラピカの顔が、さらに赤く染まった。
それは怒りでも緋の眼の昂ぶりでもなく、羞恥。
俺は何も言えなかった。
ランドリールームを支配するのは、噴き出す水の音だけ。
俺の脳内では原作の知識が高速で駆け巡り、そして目の前の現実と衝突して弾けていた。
冷静に考えればその顔立ちの美しさも、体格の線も全てに説明がつく。
肩幅や腰を隠せるほどの貫頭衣も、思えば追憶編のクルタの衣装とはやや異なっている。
その下のシャツにしたって、体の線が顕にならないような緩やかなものを着ている。
確かに原作でも見た目に惑わされるなと、クラピカは言っていた。
言っていたが、が────……。
「……ど、け」
蚊の鳴くような、震える声。
先程までの殺気はどこへやら、クラピカの全身から力が抜けた。
俺は何も言わず捕らえていた手首を離し、這いずるようにしてその体から離れた。
クラピカも、やはりそれ以上は何も口にしなかった。
彼は──いや、彼女は荒い息を吐きながら、濡れたタイルの上で体を丸める。
散らばった二本の刀を拾い集める余裕すらないらしい。
ただ乱れた衣服を隠すように、細い腕で自らの肩を抱き、震えている。
俺は黙って、床に落ちていた自分の上着を拾い上げた。
クラピカに切り裂かれた、ネオンからの特注品。
それを無造作に、だが拒絶されない程度の距離を保って、クラピカに放り投げた。
クラピカはびくりと細い肩を揺らしたが、それを振り払うことはしなかった。
それ以上その背中を見ることもなく、俺は立ち上がって溢れ出す泡を止めるため水道の栓を閉じ、ランドリーの外に出た。
別に、何かを話す必要はない。
性別がどうとか、クルタ族がどうとか、今のこの状況で語るべき言葉を俺は持ち合わせていない。
廊下に出て閉じたドアに持たれかかると、俺はわざとらしく大きくため息をついた。
扉の向こうから、衣擦れの音と、誰かの押し殺した啜り泣きが聞こえた、気がした。
気がした、だけだ。
* * *
数分が経過しただろうか。
乾燥機の回転音が止まり、入れ替わるように扉の向こうで乾いた金属音が響いた。
カチャリ、と慎重な動作でドアが開く。
「…………」
現れたクラピカの瞳は、既にあの燃え盛るような緋色ではない。
元々の、深く静かな湖面を思わせる淡い
だがその顔色にはまだ青白さが残り、濡れた髪が額に張り付いている。
彼女は俺が貸した──正確には放り投げた──ボロボロの上着を、今は丁寧に畳んで腕に抱えている。
クラピカは俺の数歩前で立ち止まり、俯いたまま、絞り出すような声で言った。
「……見た、のか」
短い問いだった。
その言葉には、先程までの激情は一切ない。
ただ自分の奥底に隠していた一番柔らかい部分を不本意な形で暴かれた者の、震えるような脆弱さだけがあった。
俺は答えない。
唇を真一文字に結び、視線をクラピカの足元……扉の下から溢れ出した泡に濡れた床へと目を落とした。
「……答えてくれ。見たのか、それとも……知ったのか」
再度の問い。今度は少しだけ、強さが混じっていた。
俺は沈黙を貫いた。
ここで「見ていない」と口にするのは、簡単だ。
暗くてよく見えなかったとか、必死で気付かなかったとか、何のことだとか言って、笑って流せばいい。
だが、あまりにも薄っぺらで白々しく、どうしようもない言葉だ。
それは彼女の存在そのものを侮辱することに等しい。
かといって「見た」と断言することもできない。
彼女が死に物狂いで守ってきた、あるいは捨て去ろうとした秘密を、俺が一方的に所有したと宣言することになってしまう。
それは結局、彼女の覚悟を土足で踏み躙ることになる。
だから、俺は黙るしかない。
それが俺にできる、クラピカに対して示せる、唯一の……そして精一杯の誠実さだ。
「…………そうか」
俺の意図をどう受け取ったのか、クラピカは小さく吐息を漏らした。
その肩から、ふっと不自然な緊張が抜ける。
俺の沈黙に、クラピカは力なく微笑んだような気がした。
その表情には秘密を暴かれた絶望よりも、あるいは奇妙な安堵が混じっているように見えた。
「……あなたのその沈黙に、感謝する。
だが……あなたは思っていたよりもずっと……酷な男だな」
自嘲めいた笑みと共に、クラピカは俺の破れた上着を、ぎゅっと握りしめた。
「取り乱して、すまなかった。
あなたが何者であれ、その眼が誰かから奪ったものではないということは、理解した。
だが……あの瞬間、私の剣が君を殺そうとした事実に変わりはない。
完全に自分を律しきれなかった。悪癖だとはわかっていた……だが……。
同胞の瞳に似ていたから、という言葉さえ、言い訳に過ぎない。
……謝っても済むことではないが、謝罪させてくれ。申し訳なかった」
クラピカは抱えていた上着を、丁重な仕草で俺の方へと差し出した。
受け取った上着は濡れていたが、クラピカの体温を吸って僅かに温かかった。
ボロボロになった生地を指で撫でながら、俺は小さく首を横に振る。
「……良いさ。ランドリールームで滑って転んで、お互いちょっと怪我をした。それだけだよ」
別に、本当に大した事ではないのだ。
この程度で問題になるならヒソカの試験官ごっこも、飛行船内でのキルアのやらかし──まあ俺は見てないから此処ではやってないかもしれないけど、ゾルディック家は快楽殺人鬼じゃないってなんだったんスか──も、トンパの妨害にしたって大問題も良いところ。
お互いに今後に影響を及ぼすような怪我はない。
ちょっと俺の服はボロボロになって、クラピカがびしょ濡れになった。
ただそれだけの話だ。
「……今回の一件、私に大きな貸しができたと思ってくれて構わない。
クルタの誇りにかけて、この借りは必ず返す……命を懸けてでも」
「重いなぁ……」
「私は常に、命を懸けて生きているのでね」
クラピカは一度だけ深く頭を下げると、二振りの刀を背負い直し、振り返ることなく廊下の奥へと去っていった。
その背中は凛としていて、もはや弱々しい少女の面影は何処にもない。
けれど……それでいてやはり、どこか寂しげに思えたのは、俺の気の所為だろうか。
独り残された俺は、手元の上着に視線を落とす。
(……貸し、か)
ランドリールームの扉を背にして、俺は肺の奥に溜まった熱を吐き出すように、長く、深い息をついた。
濡れたシャツが肌に張り付いて冷たい。左頬の切り傷がじりじりと痛む。耳も痺れたように熱を持つ。
けれどそれ以上に、彼女の瞳……。
緋の眼のことではない。あの
どうしてか、似ていないのに、もうずいぶんと見ていないエメラルドの瞳を思い出す。
「あー、クソ……参ったなぁ、本当……」
原作の知識というやつは、時に毒になる。
勝手に知ったつもりになって、理解した気になってしまう。
クラピカが中性的な容姿であることも、復讐のために全てを捧げる覚悟があることも、俺は知っていた。
知識として……だ。
だが、実際にその命の脈動と柔らかさを知ってしまえば、それはもう知識ではない。
俺にとってハンゾーとポンズが、大事な友人となったように。
俺にとって護衛団のみんなが、大切な同僚であるように。
俺にとってネオン=ノストラードが、かけがえのない大切な女の子であるように。
クラピカの故郷、クルタ族の隠れ里が滅ぼされたのは、彼女……彼女が12歳の時だ。
シーラと出会い、『Dハンター』を読み、友達と一緒に外の世界に憧れて、試験を受けた。
外の世界に行きたい。外の世界で友達の怪我を治す方法を見つけたい。
友達に『楽しかった』と言えるような、そんな旅をしてから帰りたい。
外出許可を得て外の世界に旅立ち……。
その六週間後に虐殺が行われた。
クラピカがそれを知ったのは、どれくらい後だったのだろう。
何もかも手遅れになってしまったと知ったのは。
自分の大切な人たちが、あっさりといなくなってしまった事を理解したのは。
口に出すのも憚られるような殺され方をしたと聞かされたのは。
好きな人も、嫌いな人も、そうでない人も、全員いなくなったのは。
自分の事を知っている人も、帰る場所もなくなってしまったのは。
二度と会う事も話す事もできないと悟ったのは。
どんな気持ちだったのだろうか。
「………………」
俺はごつ、とランドリールームの扉に後頭部をぶつけ、低く唸った。
無性に声が聞きたかった。瞳が見たかった。顔を見たかった。傍にいたかった。
俺は上着の内側を探り、肌身離さず持ち歩いている二枚の紙を取り出した。
一番最初に貰った占いと……そして一番最新の占い。
その無事を確かめて、丁寧に折り畳んで、またしまう。
きっと今の出来事も、この占いには書いてあるんだろう。
だけど必要なのは、欲しいのは
俺は少しの躊躇の後、携帯電話を取り出した。
さすがハンター協会の飛行船だけあって、アンテナは三本立っている。
もちろん、携帯電話は常に持ち歩いている。仕事でも使っている。
けれど一番古い登録番号のアドレスには、今まで一度も連絡したことがない。
そんな事をする必要がなかったからだ。
だから、改めて……今更だけれど、少し緊張してしまう。
──喧嘩した後の朝、ふくれっ面の君を思い出して、緊張しながら電話する、なんて。
涙が出るくらい懐かしい歌だ。
それに習って……今この瞬間、言いたい事を言おう。
俺は意を決して、プッシュボタンを押した。
無機質な呼び出し音が、やけに長く、重たく感じられる。
一回、二回、三回……。
もし出なかったらどうしよう、とか。
まだ怒っていて、着信を見た瞬間に投げ捨てられたら、なんて。
9月のヨークシンに匹敵するほど、情けない緊張が喉をせり上がってくる。
時間は午前九時過ぎ。まだ朝だ。
まだ寝てるだろうか。どうだろう。
四回、五回。
……不意に、音が途切れた。
『………………なに』
初めて聞く声──スピーカー越しに聞く、彼女の声。
低くて、尖っていて、それでいて今にも消えてしまいそうなほど細い声。
久しぶりに聞くネオンの声は、記憶にあるよりもずっと幼く、そしてひどく寂しげに響いた。
「……ああ、俺だよ。ネオン」
『知ってる。番号、登録してあるもの。……一回もかかってきたこと、なかったけど』
「いつも傍にいたし、ネオンから
『……ふん。……で、何の用? 私、今、とっても忙しいんだけど?』
忙しい、と言いつつ、電話を切る気配はない。
背景からはテレビの音も、占いを書くペンの音もしない。
ただ、『
きっとネオンは部屋のベッドの上で、レディと並んで、膝を抱えて座っていたんだろう。
なんとなく、電話の着信がかかってから大慌てで携帯電話を探したんじゃないか……と思えた。
こうして思い返してみると、ネオンの部屋の何処に携帯電話があるのか、俺も知らなかった。
それくらい……俺とネオンが電話で話すなんてことは、なかったのだ。
これまで、一度も。
「用ってほどじゃないんだけど。……その、声が聞きたくなったんだ」
『……なに、それ』
受話器の向こうで、ネオンが小さく鼻をすする音がした。
きっと……怒りはもう、とうに霧散している。
ただ、どうやって自分から折れればいいのか、彼女自身も分からなくなっていたのだ。
俺とネオンは、これまでずっと一緒が当たり前すぎて、仲直りの方法なんて知らなかったから。
『……あの子、どうなったの』
「あの子?」
『……帽子の女の子。年上で。ダサい子』
「……ああ、ポンズのことか。無事に四次試験を突破したよ。頑張ったみたいだ」
『……そう。……ふーん。……まあ、ルモアがついててあげたんだから、当然だよね』
「俺は何もしてないよ。全部、彼女自身の力だ」
『……別に、聞きたくないわよ。あの子のことは。……ねえ、ルモア』
「……うん」
『
その言葉と同時に、俺の左眼が、カッと熱を持った。
じりじりと、網膜の裏側を焼くような、懐かしい感覚。
ネオンが『
「……あ」
『……あーあ。やっぱり。酷い顔』
俺の視界を共有したネオンが、呆れたような、でもどこか嬉しそうな声を漏らす。
彼女の明るく弾むような声が脳の中に入り込み、あっという間に自分のための空間を作る感覚。
見えているのはきっと、ランドリールームの向かい、通路にはめ込まれた窓ガラス。
そこには俺の、我ながら情けないにも程がある顔が、朝日に透けて映っていた。
『頬っぺた、切れてる。……耳も真っ赤。
……ルモア、私のコレクションだっていう自覚あるの?』
「面目ない。ちょっと……そう、滑って転んだんだ。石鹸でさ」
『嘘つき。
……でも、いい。許したげる。今のその眼、すっごく綺麗。
ネオンの言葉が、一瞬だけ途切れた。
『……好きだよ』
「……それは、光栄だな」
俺は、繋がったままの電話を耳に当てたまま、壁にもたれかかった。
目を開けていれば、彼女と同じものが見える。
耳を澄ませば、彼女の声が電話と重なって二重に聞こえる。
一週間、ずっと足りなかった「何か」が、すとんと胸の内に収まった。
それが、本当に嬉しかった。
「ネオン。……次が最後の試験だからさ。終わったらすぐに帰る。合格しても、しなくても」
『当たり前でしょ。ルモアは私のものなんだから。
……もし忘れたりしたら瓶詰めだよ、瓶詰め!』
「わかってるよ、大丈夫。忘れない」
『……うん』
ネオンの声は、もういつものワガママなお嬢様のものに戻っていた。
けれど繋がったままの彼女の感情は、温かく、そしてひどく安らかなものだった。
『……ねえ、ルモア』
「なんだ?」
『……えっと、その。…………おはよう』
「……ああ、おはよう。ネオン」
他愛のない、本当に意味のない会話。
けれど、それが今の俺には、どんな占いよりも必要なものだった。
────最終試験まで、あとわずか。
読んでくださってありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
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