地雷系彼女(マイ・フェア・レディ) 作:あなたへのレクイエムです
1993年。
運命のオークションまで、あと6年。
エルバト市の空を覆う夕焼けが、新たに建造された白亜の豪邸を血のような赤に染め上げていた。
その赤い光は窓を貫いて薄暗い室内に入り込み、豪華絢爛な応接室を照らし出す。
もはや地元の名士の屋敷ではなく、この街の王城と化した新邸宅の最奥。
「……はい、パパ。これ、今日の分。
昨日も多かったけど、今日は倍くらいに増えてない?」
豪華なベルベットの椅子に深々と腰掛けたネオンが、退屈そうに数枚の紙を放り出した。
かつてのようなノートへの落書きではない。
それはファミリーの幹部たちが跪いて待ちわびる、一国の運命をも左右しかねない神託だった。
「おお、ネオン……! ありがとう、我が愛しき天使よ!
ネオンに占ってほしいという人が、最近多くてね……!」
ライト=ノストラードは、娘の足に縋り付くようにしてその紙を拾い上げる。
ネオンはそんな父親の姿を無感情に見下ろしながら、くるりと指先でウサギのペンを回した。
「……ねえパパ、そんなことよりお願いしたもの、いつ届くの?」
「え、ええと、ど、どれの事だったかな、ネオン……?」
「もうっ! 沈没した豪華客船レディ=クリサニア号乗客の凍結遺体ッ!!」
「あ、ああっ! もちろん、わかっているとも! 忘れていないよ!
万全の輸送態勢で運ばせているから、明日には届くはずだ!
お前の予言のおかげで、軍資金はいくらでもあるんだからね!」
「予言じゃなくて占い!」
「もうっ」と頬をふくらませるネオンを、ライトは「あ、ああ、そうだったね」と慌ててなだめにかかる。
その瞳に宿っているのは、ファミリーのドンとしての威厳でもなければ、父親としての慈愛でもない。
打ち出の小槌を手放すまいとする、成金特有のギラついた欲望と、予言……占いへの依存だ。
かつて、悲惨な事故で母を亡くした娘のせめてもの慰めとして甘やかしていた父親は、自分の運命をすべてこの娘に任せて、その機嫌を損ねまいと必死におもねるだけの存在になりかけつつある。
ノストラード・ファミリーの急成長は、まさに狂気の一言に尽きた。
地方の小規模なマフィアに過ぎなかった組織は、近隣の都市を次々と傘下に収め、コミュニティーの重鎮たちからも一目置かれる存在へとなりつつある。
ノストラード・ファミリーは、今やマフィア界の新星としてその名を轟かせていた。
その原動力は、ただ一つ。
ドン・ノストラードの傍らに座る、十一歳の少女が紡ぎ出す
ネオン=ノストラードが羽ペンを走らせるたびに、敵対組織の動向は暴かれ、投資は成功し、死ぬはずだった幹部は生き残った。
次第にその評判も広まり、今では大金を積んで彼女に定期的に占ってもらいたがる顧客まで発生している。
その中には六大陸十地区を支配するマフィアンコミュニティ、十老頭の一人までいるという。
ネオンが占いを書くたびに、ファミリーの口座には数億、数十億という大金が転がり込む。
だが、その金と引き換えに、彼女の周囲からは人間が消えていった。
今、ノストラード・ファミリーにいる連中にとって、ネオンはドンのご令嬢ではない。
ファミリーの運命そのものを握りしめた、気まぐれで我儘な巫女だ。
俺──アンドー=ルモアは、その光景をネオンの背後に控えるコレクションとして、無機質な瞳で見つめていた。
* * *
「……ルモア。喉が渇いた。いつもの、炭酸が強いやつ!」
「はい、お嬢様。冷やしてあります」
俺は手慣れた動作でグラスにドリンクを注いで、彼女の隣へと腰を降ろした。
ネオンは「飲ませて!」と言うので、俺はその小生意気な唇へとグラスを運んでやる。
ネオンの「仕事」がまだ「特訓」だった頃から変わらない光景だった。
11歳。
成長期に差し掛かった俺の体はまだまだ子供を抜け出してはいないけれど、筋肉には鋼のようなしなやかさが備わり始めている。
それに身長も伸びて、ネオンを数センチ追い越していた。
ネオンは「目が見づらくなるじゃない! コレクションとしての自覚を持って!」とご立腹ではあったけれど、俺の背が伸びる度、テーラーを呼びつけては俺の黒いスーツを仕立て直して、むふーっと満足そうな顔をする。
ネオンが年相応の、あるいは少しだけ歪んだ少女の笑みを浮かべるのは、俺にとっては良い事だった。
「あーあ、パパったら。占いを渡した瞬間に私のことなんて見えなくなるんだから。
さっきのパパの顔、見た? まるで獲物を見つけたハイエナみたい」
「……滅多なことを言うもんじゃないですよ、お嬢様」
「いいの。本当のことだもん。
……ねえ、ルモア。あなたは、そんな顔しないでね?」
ネオンはソファに深く沈み込み、不機嫌そうに唇を尖らせた。
俺の背が伸びたのと同様に、ネオンも成長期を迎えていた。
11歳のネオンは、かつての無邪気さに気だるい色気が混ざり始め、恐ろしいほどに完成された美少女へと変貌しつつある。
その一挙手一投足が、周囲の構成員たちを文字通り跪かせる。
女の子から女へと移る過渡期の始まり、つぼみが膨らみつつあるのが、間近にいる俺には良くわかった。
(目の毒だ……)
ほとんどキスでもするような間近に迫った彼女の瞳を見返しながら、俺は淡々と答えた。
「俺の顔より瞳の方が重要でしょう、お嬢様は」
「……そりゃあね。ルモアの目は、いつまで見たって飽きないけど」
ネオンは満足げに目を細め、当然のように俺の膝へと自分の頭を預けてくる。
かつては俺が膝枕をされる側だったが、今では逆だ。
俺の太ももにかかる彼女の頭の重みと、幼さを脱ぎ捨てつつある少女の体温。
伸ばされた彼女の指先が、慣れた手つきで俺の左目の縁をなぞる。
「でも、ルモアったら最近話し方までダルツォルネさんみたいになっちゃってさ。
顔までつまんない顔になったら、瞳だけくり抜いて瓶詰めにしちゃうんだから」
ネオンが、熱を帯びた吐息で囁く。その指先に、力がこもる。
俺の瞼を押しつぶさんばかりの、その圧力。
こちらを見上げるエメラルドの瞳が、きらきらと怪しく光る。
最近気がついたのだが、俺の瞳が輝く時は虹色だが、ネオンの瞳の輝きは暗く、黒い。
俺は吸い込まれそうな深い緑色を見返しながら、溜息を吐いた。
「新しいコレクションも明日には届くんでしょう? 瓶詰めの置き場所なんかありませんよ」
「ふふっ。大丈夫、五年前からルモアのための場所はちゃーんと用意してあるもんね」
ネオンは満足げに目を細め、俺の腹部に顔を埋めた。
その瞬間、俺の視界に、彼女の背後で揺らめく何かの残滓が見えた気がした。
どろりと、緑色の粘液のようなオーラが、俺の足を絡め取ろうと這い寄ってくる。
最近、その濃厚な気配を、俺は確かに感じ取れるようになってきつつあった。
(……原作のヨークシンまで、あと六年か)
──そろそろ、来てくれないと困るんだが。
* * *
その日の夜。
ネオンが寝静まった後、俺は旧邸宅の地下にある個人訓練場へと向かった。
ダルツォルネさんとの訓練は今も続いているが、最近は自主練の比重が増えている。
と言っても、俺がネオンの傍を離れるとネオンが癇癪を起こすので、俺が自主練できるのは夜だけ。
延々と本邸裏の訓練場で夜明けまで訓練をしている俺を見かねて、ダルツォルネさんがドンと相談し、旧邸宅地下のワインセラー跡を改造して、この個人訓練場を用意してくれたのだ。
(お嬢様のコレクションが一人で夜にふらふらするんじゃあないとか、説教もされたな)
少しは彼に認めてもらえているらしいのは、素直に嬉しい事ではあったけれど。
「……嬉しいだけじゃなあ。結果が伴わないと……」
薄暗いワインセラーの跡地。
ひんやりとした湿り気と、古いブドウ酒の微かな残香が漂う地下室で、俺は一人、精神を研ぎ澄ませる。
ゆっくりと目を閉じ、臍の下にある熱の塊をイメージする。
この五年、ダルツォルネさんの指導で肉体をいじめ抜き、
器は、もう十分に出来上がっている。
あとは、この内側に溜まった熱を、意識の皮膜を破って外へと引きずり出すだけだ。
(「点」で集め、「舌」で定め、「練」で高め、「発」に足る……!)
それは求めてやまなかったのに、本当に不意打ちで襲ってきた。
ドクン、と心臓が跳ねた。
血管を流れる血液が沸騰するような錯覚。
次の瞬間、俺の全身の毛穴という毛穴がこじ開けられ、そこから凄まじい密度の「何か」が噴き出していく。
「……っ、あ、あぁ……!!」
熱い。同時に、恐ろしく軽い。
全身を温かな、しかし奔流のような力に包み込まれる感覚。
俺は恐る恐る目を開け、自分の手を見た。
俺の肉体の輪郭を、陽炎のような白濁としたエネルギーが覆い、荒々しく波打っている。
皮膚を叩く風のような質感。鼓動に合わせて拍動する光の衣。
「こ、これが……
意識しなくても、世界が違って見える。
壁の傷、空気中の塵、そして自分の内側から溢れる生命エネルギー。
「は、は……あ、あ……っ」
あまりの全能感と、同時に訪れる凄まじい疲労感に意識が飛びそうになる。
放っておけば、この命の輝きはただ空気に溶けて霧散してしまうだろう。
俺がここで一人で練習をしてるのはファミリーの皆が知っているから、気絶してぶっ倒れても見つけてもらえるだろうし、死にはしない……と思いたいけど、オーラが枯渇して数日間も動けなくなるのは、避けたい。
(──逃がすな。俺の輪郭の中に、全部留めておけ……!)
俺は溢れ出す力を必死に制御し、体表に留めるようイメージする。
原作で言うところの
だが、俺はすぐにそれが間違いだと気がついた。
それは全開にした水道の蛇口を、両手でどうにか抑えようとするようなものだ。
オーラは俺の体の中から出続けている。だから、上手く循環させてやらなきゃならない。
(そう言えば、ウイングさんもそんな事言ってた……!)
ここ
なので俺がやるべき事は抑え込むのではなくて、流れをつくること。
オーラを誘導して、体の周りに纏わせるように巡らせて、また内側に戻すのだ。
「スーッ……ハーッ……スーッ……ハーッ!」
暴れ狂う馬の手綱を引くような緊張感の後、オーラはしっとりと俺の肌に馴染み、安定した。
「ふー……っ」
達成感と安堵から、思わず息がこぼれる。
やっぱり
やりきった感で、そのまま大の字になって寝転がりたいのが本音だが、そうはいかない。
いかないというか、やりたい事がもう一つあるのだ。
「ようやくスタートラインだものな……!」
俺はいそいそと、水を入れたグラスと、その上に浮かぶ一枚の葉っぱを両手で包み込んだ。
準備が良いとか言わないで欲しい。
毎回、自主練をする前にかならずこれを用意するのが習慣だったのだ。
なんというか、これはちょっとしたご褒美のようなものだ。
実際、今こうして現実になるとワクワクが止まらないんだから、効果はあったと思いたい。
「へ、へへ。……いかん、ネオンに見せられない顔してるぞ、俺」
こほんと咳払いをして、俺は意識を集中させていく。
水見式。
『HUNTER X HUNTER』の世界に転生して
それにミーハーな面以外でも、水見式は極めて重要なものだ。
原作で(個人的に)屈指の実力者の一人だと思っている武道家カストロ。
彼は
たぶん天空闘技場で「洗礼」を受けて
その結果、極めて難易度が高くて複雑だという、ダブルの弱点を突かれて彼は敗れた。
カストロは「強化系」とか「具現化系」という系統も知らなければ、自分の系統だって認識していなかったに違いない。
自分の系統によって、どんな
だからこそ、俺は今すぐにでも水見式をやるべきだった。
原作の知識が、俺の背中を静かに押す。
俺はグラスを両手で囲い、今しがた覚醒させたばかりのオーラを込めた。
(さあ、どうだ……。俺の系統は……)
期待が胸を駆ける。
転生者、虹色の瞳、そしてあのネオンの傍にいる特異な環境。
もしかしたら、クロロやネオンと同じ特質系なんじゃないか?
クラピカみたいに瞳が輝いている時だけすごい
ゴクリ、と喉が鳴る。
オーラを注ぎ続けること数十秒。
変化は、静かに、しかし明確に訪れた。
「…………え?」
水は溢れず、葉も動かない。色も変わらず、舐めてみても水の味に変化はない。
ただ、水の中に「何か」が、結晶のようにキラキラと不純物として現れていた。
それは髪の毛によく似た薄桃色の細い糸で、ゆらりと踊るように沈んでいく。
「……これ、具現化系か」
俺は全身の力を抜き、その場にへたり込んだ。
「……はは、具現化系か。……強化系なら、良かったのにな」
自然と口から漏れたのは、原作のクラピカと同様の、しかしクラピカと違って自嘲気味な独白だった。
贅沢は言わない、せめて強化系であってほしい──なんて思いすら贅沢なのはわかっている。
だけどもし強化系なら、理屈抜きでネオンを守り抜き、旅団の連中を拳一つで黙らせることもできたかもしれない。
クラピカが強化系を求めてたのも、ちょっとわかる。やりたい事は似たようなものだし。
だが、具現化系。
「はぁー…………いや、これはどうするかなぁ……」
へたり込んだ勢いのまま、俺は今度こそ本当にごろんと仰向けになって地下室の天井を見上げた。
具現化系は、複雑なルールとイメージを積み上げ、執念を形にする系統だ。
弱い系統ってわけではない──そもそも系統にアタリハズレ、強い弱いの概念はないだろう。
ただ、具現化系が扱いの難しい系統なのは間違いなかった。習熟が難しい系統なのも。
どんな
そして具現化するもののイメージを確かにするための修行をする必要がある。
他の系統の発に比べて時間がかかるし、具現化する物を後から変えるのも難しい。
それこそクラピカは五本の鎖を具現化して、それぞれにいろんな能力を持たせる事で汎用性を高めてたけど、あれは『
似たようなのだと推定七種類、弓と矢なら十四種類、組み合わせ可能なら四十九パターンありそうなポックルの『
ただ、相手が悪かったにせよかなり無理があったんだろう。ろくに活用できずにポックルは死んでいる。それにそもそも放出系か変化系の気もする。
いずれにせよ、俺がひとりでとにかくどうにかなんとかするには――具現化系か。
(やっぱり10年……あと6年じゃ厳しいか……?)
俺は、右手をそっと自分の胸に当てる。
服の下には、この数年間、片時も離さず持ち歩いている「最初の占い」がある。
(……いや、待てよ……?)
ふと思い出し、俺は懐から、あの日ネオンが書いた占いの紙を取り出した。
されど 身代わりの人形が十の月を数えれば
……身代わりの人形。
具現化系。
(……そういうことかよ、お嬢様)
俺は冷たい地下室の天井を見上げながら、思わず笑ってしまった。
俺がどんな能力を持つべきか、あの日、既に予言されていたのだとしたら。
ならば、俺が具現化すべきものは、もう最初から決まっていたのかもしれない。
これが運命なら、文句を言っても仕方がない。
「……やるしか、ないか」
決まりだ。
俺が具現化するのは「人形」だ。
それも、ただの人形じゃない。
ネオン=ノストラードそのものを模した、彼女の身代わり人形。
「……
脳裏に、今後の修行内容がリストアップされていく。
ネオンの髪の毛一本一本の質感を指先で覚える自分。
その肌の滑らかさを、血管の透け具合を、数千枚の写生を繰り返して脳に焼き付ける自分。
彼女が動くたびに振りまく花の香りを、体温を、服が擦れる音を記憶する自分。
あるいは、あのお転婆な唇から漏れる生意気な吐息の温度すらも把握する自分。
想像してみる。
ネオンが寝ている隙に、その睫毛の長さを定規で測る自分。
ネオンが読書している隣で、彼女の耳の形のデッサンを百枚描く自分。
ネオンが「ルモア、喉が渇いた!」とせがむグラスの、彼女の唇が触れた場所の感触を確かめる自分。
つまり、こうか?
『まずネオンを具現化しようと決めてからはイメージ修行だな。
最初は実際のネオンを一日中いじくってたな。
とにかく四六時中だよ。
目をつぶって触感を確認したり、何百枚何千枚とネオンを写生したり。
ずーっと、ただながめてみたり、舐めてみたり、音を立てたり、嗅いでみたり。
ネオンで遊ぶ以外何もするなと師匠に言われたからな』
「…………」
俺は顔を覆った。
「クラピカは……鎖だったから、まだマシだったんだな……」
俺の相手は、生身の、それも成長期真っ盛りの多感な少女だ。
そんな相手に対して、「ちょっと幻覚見えるまで全身舐め回させてくれ」なんて言えるはずがない。
ゴリラとどっちがマシだろう。甲乙つけがたい。
「……いや、ダメだ。死ぬ。社会的にも、精神的にも死ぬぞ俺」
あー、もう、良いか別に。明日考えよう明日。
オーラを大量に消費したせいか、気持ち良いくらいの疲労感が俺の全身を包んでいる。
俺は前向きに後ろ向きで投槍な気持ちで自分を納得させると、そのままゆっくりと目を閉じた。
* * *
どれくらい、経っただろう。
深い眠りの底から、ゆっくりと意識が浮上してくる。
夢の中で、俺は必死に何かを追いかけていた気がする。
逃がしてはいけない、消してはいけない「何か」を、必死にこの腕の中に繋ぎ止めようとしていた。
それをどうにか手繰り寄せる事ができた──そんな満足感と、全能感の余韻が、まだ胸の中に残っている。
(……あー、よく寝た。なんか、すっごい熟睡した感じだ……)
不意に、顔に柔らかな髪が触れる感覚で目が覚めた。
意識が浮上すると同時に、腕の中に確かな重みを感じる。
「……ん……?」
重たい瞼を持ち上げた瞬間、視界に飛び込んできたのは、ひんやりとした石造りの天井ではなく、柔らかく、透き通るような白だった。
頬に触れる質感は、極上のシルクよりも滑らかで、それでいて確かな体温を持っている。
鼻を突くのは、あの地下室の黴臭さではなく、吸い慣れた、けれど今はもっと濃厚な──甘い花の香り。
(……あれ? 俺、部屋に戻って寝てたっけ……?)
薄らと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、淡い
そして、すぐ目の前にある、透き通るような白い、うなじ。
「…………は?」
俺の腕は、誰かの体をがっしりと抱きしめていた。
しかも、布越しではない。指先が直接、吸い付くような肌の感触を伝えてくる。
心臓が、昨夜の覚醒時以上の速度で激しく鳴動し始めた。
冷や汗が、滝のように全身から噴き出す。
「…………え?」
寝ぼけた頭が、徐々に現状を整理し始める。
待て。俺は昨夜、
「……あ、れ」
腕の中の
だが、おかしい。ネオンにしては肌が少しだけ硬い気がするし、呼吸をしていない。
いや、厳密には呼吸のような音はしているが、そこに肺の動きが伴っていない。
なにより──
俺は、文字通り心臓が止まるかと思った。
「…………ル、モ……ア?」
震える、信じられないものを見たというような声。
俺は呆然としながら、焦点の合わない視界で、逆光の中に立つ人影を捉えた。
ワインセラーの重い扉をどうにか押し開いて立っていたのは、本物の、
ネグリジェ一枚。髪もまだ梳かれていない。寝起き姿。
きっと目覚めた時に俺の姿が見えなくて、探しに来て起こそうとしたか、驚かそうとしたか、説教しようとしたか。
彼女の手から、薄暗い夜明けの中を歩く手がかりだったであろう懐中電灯が、カランと虚しい音を立てて床に転がった。
その光が、地下室の惨状を無慈悲に照らし出す。
そこには、腰を抜かして震えている俺と。
そして俺のすぐ隣で、腕に絡みついている──生まれたままの姿の
エメラルドの瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれる。
視線は、俺と、俺の腕に抱きついた全裸の自分の間を、壊れたメトロノームのように往復した。
「わ、わた、私のいないところで、私の、私そっくりの、しかもそんな……!
ハ、ハダカの人形を作って、なに……なにを、してたの……!?」
「し、してない! 何もしてない! ただ寝てただけだ!」
「添い寝してたじゃない! 今、抱きしめてたじゃない!
この……このエロルモア! 大バカ! 瓶詰め!」
「罵倒なのか処刑宣告なのかわかんない……!」
ネオンは
彼女の目に見えているのは俺が、地下室に自作の、リアルな全裸の自分の人形を持ち込み、愛おしそうに抱き合って眠っていたという、救いようのない光景だ。
……いや、
最大威力ダメージと即死攻撃では厳密に言えば効果が違うし。
「最低! 信じられない! 私という本物がいながら、そんな偽物で……!
しかも、それ、いつの間に作ったの!? どこで作ったのよ! ここで作ったの!?」
「作ったというか、出たんだ! 勝手に!」
「勝手に出るわけないでしょ! ああもう、気持ち悪い!
っていうか、いつまで抱き合ってるの!?」
ネオンは床に転がった懐中電灯を蹴り飛ばしながら、ずかずかと俺たちの──俺とネオンの間に割り込んでくる。
ネオンは俺を突き飛ばすと、床に横たわる全裸の人形の腕を乱暴に掴み、引き剥がそうとした。
「ちょ、お嬢様! 危ないから、引っ張らないで……!」
「うるさいうるさいうるさい! なによこれ、なんなのよこれ!
私の知らないところで、こんな、こんな……私よりも私っぽいものとイチャイチャして!
ルモアは私のものなんだから! ルモアに触っていいのは、私だけなの!!」
ネオンが半泣きで、人形の細い腰を抱えて「ふんぬーっ!」と顔を真っ赤にして引っ張る。
だが、人形は磁石のように俺の腕に絡みついたまま、離れようとしない。
その光景は、客観的に見れば、少女二人が一人の少年を奪い合っているという地獄絵図だ。
間に挟まれているのが俺でなければ、俺だってニヤニヤ笑って見てたかもしれない。
しかし間に挟まれているのは俺なのだ。つらい。
「私の方が可愛いもの! 100万倍くらい可愛いもん!
こんな人形なんか、息してないし、冷たいし、動かないし、肌の感じも、重さも……」
ネオンは、涙目になりながらも、床の「人形」をまじまじと見つめた。
その視線が、人形の胸元や、足の指先にまで及ぶ。
激しく動いていた彼女の手が、ぴたりと止まった。
「……それに、髪の色。なんでこれ、私と違って桃色なの?
…………ルモアは、こっちの色の方が好きだった?」
「い、いや、そういうわけじゃあ……」
「……爪の形も、そっくり……オヘソだって……こんな、ぜんぶ……」
不意に、ネオンの声から激しい怒りが消え、代わりに底冷えするような静けさが宿った。
彼女は人形の桃色の髪を指先でなぞり、それからゆっくりと俺の顔を見上げる。
俺は、ごくりと唾を飲んだ。
「…………ルモア?」
ネオンの声が、低く、ドロリとした熱を帯びて響く。
彼女の背後に、あの「
俺は必死で助けを求めて縋るように天使を見た。天使は親指を真下に向け、喉を掻き切る仕草をした。ひどい。
「……ルモア、あなた、私を、いつ、どこで、どこまで、どうやって、見たの?」
「…………」
俺は、答えることができなかった。
言えるわけがない。
今、俺の隣にいるこの人形のネオンの髪は、
つまりこれは、
俺は生まれる前からずっと、ネオン=ノストラードを、舐めるように観察し続けていたのだ。
原作はもちろん、アニメも見た。新しいのも、古いのも。劇場版だってネオンが出てるから見た。
ぬいぐるみにデフォルメフィギュア。それに貴重なリアルフィギュアのチェスピースだって持ってた。
当然、イラストサイトでファンイラストだって見てた。その中にはエッチなものだってあった。少なかったけど。
転生してから? 言うまでもない。
そう、
「……ルモア、答えて?」
どろりと昏いエメラルドの輝きが、まっすぐに俺を見つめてくる。逃げられない。
俺は必死になって頭を働かせて、どうにか、ようやく、辛うじてマシな言い訳をひねり出した。
「……き、着替えの時、と、か……?」
「…………。…………。……………………っっ!!!」
ネオンの顔が、見たこともないような鮮やかな赤に染まっていく。
次の瞬間、彼女の叫び声が朝の邸宅に響き渡った。
「パパぁ! ルモアが変態になったぁ!!」
「待って! ドンを呼ぶのはやめて! 死んじゃう!!」
運命の日まで、あと2000日余り。
もしくは0日。