その日、黄権が「水鏡女学院」を訪問すると、異変が起きていた。
何事も「好々」で片付ける師母の水鏡先生らしく無く、かなり徐庶を叱っている。
しかも元侠客だからこそ、逆に義理堅い徐庶が何と口答えをしてすらいた。
ひそひそとその様子をうかがう少女たちに、黄権は近付いてみた。
未だに「真名」ではなく「字」止まりの付き合いではある。
また、普段は「爺(じじ)くさい」しゃべり方を面白がられている。
それでも、ここで仲間外れにされない程度の付き合いには成っていた。
「いったい何事だ?」
「それが、この前門前払いした、何処かの誰かに蛍先輩が騙されているみたいなの」
「何処かの誰か…」
「そうよ。幽州辺りから「伏竜鳳雛」に会わせろなんて、突然に押しかけて来て」
幽州……
「門前払いは当然でしょ。それなのに、城内に宿を取って居座ったみたいだから」
「蛍先輩が「正体」を見極めてやると言って出かけたのに」
「逆に先輩が言いくるめられてしまったらしく、今度は先輩が案内して来たのよ」
そういえば、諸葛亮と鳳統がこの場に居ない。と、いうより面倒見の良い馬良が遠ざけていた。
「今日の処は、先生が何時もの「好々」で追い返したけれど、どう成っちゃったの?蛍先輩」
徐庶が……それに「伏竜鳳雛」が絡んで……
黄権は徐庶との直接の面識は「前世」で無かった。
だから、記憶がボケていた。
だがしかし、この話の展開は記憶のどこかに引っかかっている………。
……。
…ようやっと解放された徐庶が、女学院の門を出た処で声をかけた。
「元直どの。何処(いずこ)へ参る」
「私が心配無用と申し上げないと、私に謝る為だけに、引き換えして来られかねない御方なのでな」
「ずいぶんと、見込まれたものだな」
「師母が、どうしても「伏竜鳳雛」を手離されない、とおっしゃるならば私が仕官しても好い位なのだが」
徐庶(真名蛍)は、少しだけ自嘲するようなそぶりも見せた。
「もっとも、私が蛍なら、月光ほども差があるがな」
ここで記憶が甦(よみがえ)って来た。
「元直どの。その客人というのは」
「幽州から参られた、劉玄徳様だ」
(…やっばり!これが「3顧の礼」だった!!)
「今日の事で、失望なされなければ好いが」
「おそらく、その御方は、もう1度参られる。そして……」
(……「丞相」は「先帝」とともに行くだろう。そして私は……)
「……元直どの。3度目があった場合だが、陰からでも良い。私にも見守らせて欲しい」
黄権の内心では、これだけでも密かに決意が必要だった………。
……。
…そして「3顧の礼」当日。
陰から見守る黄権の前に「彼女」たちが現れた。
いかにも「関羽」らしい美丈夫。幼いながら「張飛」らしい元気な可愛らしい少女。
そして、見知らぬ少年と、もう1人の少女。
(…先帝!…陛下!!…)
間違い無かった。その優しげな美少女から見える「気(オ-ラ)」
「前世」の黄権が、ただ1人だけ信義を捧げた主君に見覚えた「気」だった。
ここでもう1度、相手の忍耐心を確かめる様に暫し待たせた後、ついに水鏡先生は「伏竜鳳雛」の本人たちを、劉備の前に出した。
「私は人々を救うために、貴女たちの助力を必要としているのです」
劉備は真剣な眼差しで「伏竜鳳雛」を見据えて切り出した。
「幽州からこの荊州までの間、ずっと見てきました。
黄巾の徒が唱える「蒼天已死」そのままの惨状を。
こんな世の中を変えたい。
でも、非才の私にはどうすれば好いのか分かりません。
もし、この女学院でその方法をお教えしているのなら、その端なりと教えて下さい。
伏竜鳳雛の英知で人々を救えるなら、貴女たちの力を私にとは言いません。
この国の民人のためにお貸し下さい」
「現在の黄巾党の騒ぎだけなら、おそらく鎮圧されるでしょう」
「伏竜鳳雛」と呼ばれる2人は其々に話す。
「しかし、これからも、こうした反乱や賊は後を絶ちますまい。
更に、この国内の混迷を見逃さない、南蛮や北狄などの侵掠が外から来ましょう。
そして、これらの討伐を大義名分としたものたちが、賊や侵掠を退けた後を、自らの拠点として事実上の王国がつくられ、そうした幾つもの小王国にこの帝国は分割されていきます」
「そうした、群雄の中の1人が他の群雄を倒して新しい「帝国」をつくるまで、天下に太平は来ますまい。
もし、この時代において人々を救いたいなら、自分がその1人になるしか無いでしょう」
「幾つもの小王国をたてる群雄の中の1人。
おそらく、それらの「王国」が3つ程にも淘汰されれば、ひと時は天下も安定するでしょう」
「その「三分」のうちの1人。
そして「三分」もいつかは、ただ1人によって統一されるでしょう」
「その最後の1人。
その1人となる「英雄」にしか、結局は多くの人々は救えません」
「私には、そんな力は無いでしょう。妹たちには「万人の敵」の「武」の力はあっても」
ここで劉備の声には、決意が籠った。
「それでも、私は何かをしなければなりません」
「「………。…」」
「力の無い人を苛める世の中を、誰かが絶対に変えなければならないのです!!
教えて下さい。私に何が出来るのかを」
黄権が身を潜(ひそ)めているのと同じ部屋では、蛍と水鏡先生も耳をすましていた。
「どうやら、何処(どこ)ぞで「伏竜鳳雛」の風聞を聞き込んできた、只の野心家とも限ってはいなかったみたいね」
やはり「3顧の礼」とは、主君となるかも知れない相手の「志」を試すものだった。
「はうぅ…わ、私たちも」
「あう―…ずっと思っていました」
「この私塾で学んできた知識を、困っている世の中の人たちのために役立てたいと。
それを一緒に出来る主君に仕えたいと思っていました」
「でも、この乱世をもっと大きくする様な野心家に利用されるのが怖くて、ずっと待っていたんです」
「この人は、民人のために戦おうとしていると、信じられる御方を」
別室で待っていた妹たちも加わって、改めての自己紹介が始まった。
すると、
「これから私の事は、桃香と呼んでね」
「姉上、いきなり真名をとは」
そう、この世界での「真名」とは、本当に心を許した相手にのみ呼ばせる事を許す、文字通りの「真(まこと)の名前」と言って好い。
「これからは仲間だよ。それに…今の私には此れしか出来ないから」
「姉上が其処までおっしゃるなら…
我が姓は関、名は羽、字は雲張、真名は愛紗。宜しく頼む」
「姓は張、名は飛、字は益徳、真名は鈴々なのだ。宜しくーっ」
「姓は諸葛、名は亮、字は孔明、真名は朱里です。宜しくお願いします」
「姓は鳳、名は統、字は士元、真名は雛里です。宜しくお願いします」
黄権の両目からは、もはや涙の止めようが無かった。
(…陛下!…今の私には、未だ、陛下に捧げる「真名」がありませぬ…)
捧げる真名さえあれば、この扉を押し開けたい。
そんな思いを押し殺していた………。
……。
…水鏡女学院の門前。
それぞれの乗馬の口を引いて立つ劉備(桃香)たち姉妹。
そして、軍師を迎えるために用意して来た「4輪車」
その4輪車に、小柄な諸葛亮(朱里)と鳳統(雛里)が並んで乗っていた。
その周囲を、名残惜しげに取り囲む少女たちと、引率する水鏡先生。
今、彼女の手元から、天に登る前の竜、おおとりのヒナ、とまで期待した愛弟子が飛翔して行こうとしていた。
襄陽から東北の幽州へ向かうには、双子都市の間の漢水を「連絡船」で渡り、反対側の城門から街道に出る。
その船着場までは師母が引率する1同が、城門まで代表して蛍が見送る事に成っていた。
その光景を、女学院の関係者ではない黄権は、少し離れた場所から見守っていた………。
……。
…そして、東北へと伸びる街道へ続く城門の外。
代表して見送りに来た蛍が、礼をとって妹弟子を託す。
「元直殿、確かにお預かりします」
やはり劉備らしく、下馬し片膝を付いて礼を返す。
「「蛍先輩、行って来ます」」
4輪は回り始めた。幽州へ、そして「歴史」を回転させる為に………。
……。
…その蛍が、襄陽の船着場まで引き返してくると、黄権が1人で佇(たたず)んでいた。
当然ながら師母たちも、1行を乗せた船が対岸に到着するのを見届けて女学院に戻っている筈だった。
その後に黄権1人が、対岸いや東北の幽州の方角を見続けていた。
「どうされた?公衡どの」
「…霧花…」
「?」
「“蜀の犬は太陽に吼える”
それ程に益州は雲や霧の日が多い。
だが、逆に洛陽や襄陽は晴れの日が多い」
「?……」
「すまぬ。元直どの。
もしも、私が「霧花」などと言う、女らしい名前を捧げる相手が居るとしたら……」
未だ、彼女は同じ方角を見続けていた。
水鏡先生の容姿・CVのイメージはアニメ版準拠です。
それでは続きは次回の講釈で。
次回は『第5席 我が真名は霧花』の予定です。
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本伝に当たる『簡雍酔夢』へと内容的に追い付きましたので、暫くは又追い抜かれるまでは本伝の投稿を優先させて頂きたいと思います。