五月七日。
『0ポイント』と『赤点即退学』という、茶柱先生からの非情な宣告を受けた翌週の朝。
「……」
「……」
1年Dクラスの教室は、かつてないほどの『静寂』に包まれていた。
黒板に向かって淡々と授業を進める数学教師のチョークの音だけが、やけに大きく響き渡っている。
つい昨日まで、授業中だろうがお構いなしに大声で談笑し、スマホでゲームをし、居眠りのオーケストラを奏でていた動物園の住人たちは、今や借りてきた猫のように大人しく机に向かっていた。
(……見事なものだな。恐怖による支配は、やはり即効性がある)
俺――呉 刃叉羅は、ノートに数式を書き写しながら、教室の様変わりした空気に内心で感心していた。
池も、その後ろの山内も、顔面を蒼白にしながら必死にノートを取っている。
さらに後方、不良の須藤健でさえ、苛立たしげに貧乏ゆすりをしながらも、前を向いていた。
だが、この緊張感がいつまでもつか。
暗殺の世界でも、極限状態での集中力こそが生存を分ける。だが、今の彼らが抱いているのは「実力」に裏打ちされた集中ではなく、ただの「逃避」に近い焦りだ。
昼休み、俺が購買で買ったパンを食べていると、後ろの席の綾小路が堀北に何かを命じられているような場面に出くわした。
堀北は相変わらず険しい顔で何かをまくし立て、綾小路はやれやれといった風に頷いている。
(……あいつら、何か動くつもりか?)
放課後。
平田洋介が教卓の前に立ち、真剣な面持ちでクラスメイトに語りかけた。
「みんな、先週も言ったけど、赤点回避のために勉強会を開こうと思うんだ。呉くん、みーちゃんも講師として協力してくれることになった。点数が不安な人は、ぜひ参加してほしい」
平田の呼びかけに対し、数人の生徒が集まってくる。
一方で、教室の反対側では綾小路が堀北の指示を受けたのか、教室を出ようとしていた須藤、池、山内の三人に声をかけていた。
「……おい、お前ら。少し待て」
「あ? なんだよ綾小路。俺たちはこれからケヤキモールのゲーセンに行くんだよ」
須藤が面倒そうに応じる。池も「ポイントはねえけど、無料体験版で遊べるゲームはあるからな!」と鼻息を荒くしていた。
「堀北が勉強会をやるそうだ。お前らも参加した方がいいんじゃないか。赤点を取れば退学だぞ」
綾小路の淡々とした誘い。だが、三人の反応は冷ややかなものだった。
「はぁ!? 勉強会だぁ? んなもん、柄じゃねえんだよ」
「そうそう。テストなんて、一週間前から一夜漬けすりゃなんとかなるだろ」
池と山内がヘラヘラと笑い、須藤も「俺はバスケの練習があるんだ。勉強なんて後回しだ」と吐き捨てる。
俺は少し離れた場所からその会話を聞いていて、思わずペンを止めた。
(……こいつら、正気か?)
一夜漬けでなんとかなる。その慢心はどこから来るのか。
今回の赤点ラインは平均点の半分だ。今まで勉強を碌にしていない、基礎すら怪しい連中が数日の詰め込みで対応できるような難易度ではないだろう。
(状況が全く分かってないな……。死線を越えたことのない奴の甘さだ)
一族の郷では、準備を怠った者は最初の試練で命を落とす。この平和な学校では「命」は取られないが、代わりに「未来」を奪われる。その重みが、彼らにはまだ理解できていないらしい。
結局、須藤たちは綾小路の言葉を無視して、足早に教室を出て行ってしまった。
誘った綾小路は、困ったように堀北の方をチラリと見たが、堀北は憤りを隠そうともせず、鋭い視線で扉を睨みつけていた。
「やれやれ……。俺たちは俺たちで始めるか、平田」
俺の言葉に、平田は悲しげに頷いた。
「そうだね。まずは、やる気のある子たちを救うことから始めよう」
それから一時間半ほど。俺は平田、みーちゃんと協力して、集まった生徒たちに勉強を教えた。
暗殺術を教えるよりは遥かに楽なはずだが、他人に物を教えるというのは意外と精神を削る作業だった。
予定していた範囲を終え、参加した生徒たちが「少し分かってきた」と顔を綻ばせ始めたところで、俺は席を立った。
「俺はここまでにする。平田、後は頼むぞ」
「うん、ありがとう呉くん。本当に助かったよ」
「いえ……呉くん、お疲れ様でした。教え方、すごく分かりやすかったです」
みーちゃんも照れたように微笑む。
平田たちに別れを告げ俺は鞄を掴み、小走りで図書室へと向かった。
夕暮れ時の廊下。オレンジ色の光が、俺の影を長く伸ばす。
(待たせたな……ひより)
図書室の扉を開け、いつもの奥の席へ。
そこには、銀色の髪を揺らしながら、一冊の本に耽る少女がいた。
「……ごめん、遅くなった。ひより」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げ、眩しい太陽のような笑顔を向けた。
「お疲れ様です、刃叉羅くん。勉強会、大変でしたか?」
「――――ッッ!!」
胸の奥が、熱い何かで満たされる。
昨日、お互いに下の名前で呼び合うようになってから、初めての放課後。
彼女の口から零れる『刃叉羅くん』という響きは、どんな高価な料理や暗殺の達成感よりも、俺を幸福な気持ちにさせてくれた。
「ああ。クラスの連中の勉強を見てやってたんだ。でも、赤点に近い奴ほど逃げていくからな。世の中上手くいかないもんだよ」
俺はひよりの隣に座り、深く腰を下ろした。
「ふふっ。刃叉羅くんは優しいですね。自分の放課後を削ってまで、クラスのために動くなんて」
「優しいわけじゃない。ただ、これ以上クラスのポイントが減って、ひよりと会う時間に支障が出るのが嫌なだけだ」
半分本音を混ぜて言うと、ひよりは頬を赤らめ、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとうございます。……私も、刃叉羅くんが来るのを待っている間、ずっとドキドキしていました。次に会った時は、なんて呼ぼうかな……って、何度も練習していたんですよ?」
「練習、してたのか?」
「はい。……ひよりって、呼んでくれるのが……その、すごく嬉しくて」
ひよりは、手に持っていた文庫本で顔の半分を隠しながら、恥ずかしそうに呟いた。
その仕草があまりにも可愛くて、俺は再び悶絶しそうになるのを必死に堪えた。
「俺も……ひより、って呼ぶたびに、自分がこの学校に来て本当に良かったって思うよ」
俺たちはしばらく、どちらからともなく見つめ合った。
窓から差し込む夕陽が、二人の影を一つに重ねる。
「……今日は、どんな本を読んでいるんですか? 刃叉羅くん」
「ああ、今日はこれだ」
俺たちは寄り添うようにして、本の世界へと没入していった。
時折、ひよりの肩が俺の腕に触れる。
その度に俺の心臓は跳ね上がるが、彼女は嫌がる様子もなく、むしろ心地よさそうに身を委ねてくる。
クラスでは平田たちが必死に足掻き、綾小路と堀北が裏で動き出し、愚者たちが退学の危機を嘲笑っている。
だが、この図書室という静寂の聖域だけは、俺とひよりだけの時間が流れていた。
「刃叉羅くん。明日も、ここで待っていていいですか?」
「当たり前だ、ひより。俺は、必ずここに来る」
夕闇が迫る中、俺たちは小さな約束を交わし、解けない魔法にかかったような幸福な時間を、一分一秒でも長く刻み続けるのだった。