ギイィィッ……。
錆びついた重い鉄扉の開く音が、特別棟の屋上に響き渡った。
五月の生ぬるい風が吹き抜ける、コンクリート剥き出しの殺風景な空間。
普段は生徒が立ち入ることもないこの場所に、俺――呉 刃叉羅は、龍園翔とその後ろを付き従う三人のクラスメイトと共に足を踏み入れた。
ガチャリ、と。
最後尾を歩いていた石崎が、内側から鉄扉の鍵を閉める。
これで、ここは完全に外界から隔離された密室となった。教師の目も、監視カメラの目も届かない、暴力だけが支配する無法地帯だ。
「……ククク。わざわざ自分から処刑場について来るとは、不良品にも程があるな」
屋上の中央で立ち止まった龍園が、振り返って嗜虐的な笑みを浮かべた。
その後ろでは、サングラスをかけた巨漢のアルベルトが腕を組み、ヤンキー風の石崎が拳を鳴らし、鋭い目つきの少女・伊吹が臨戦態勢に入っている。
完全に四対一の構図。普通の高校生であれば、この圧倒的な暴力の気配にあてられ、立っていることすらままならないだろう。
だが、俺は制服のポケットに両手を突っ込んだまま、退屈そうに欠伸を噛み殺した。
「処刑場、ね。ここから飛び降りでもする気か?」
「減らず口を。……おい不良品。今すぐそこで土下座して、俺の靴を舐めながら謝罪するなら、五体満足で帰してやらんこともないぜ?」
龍園は、本気で自分が優位に立っていると信じ切っている口調でそう言い放った。
恐怖でひれ伏す俺の姿を想像し、優越感に浸っているのだろう。
俺は小さく息を吐き、静かに首を振った。
「その言葉、そのままそっくり返すよ」
「……あ?」
「今すぐここで土下座して、二度とひよりに近づかないと誓うなら、怪我をさせずに帰してやるって言ってんだよ。三流チンピラ」
俺の挑発的な言葉に、龍園の顔から薄ら笑いが消え、代わりに凶悪な殺意が張り付いた。
「ククク……状況が分かってねえようだな。石崎、伊吹!」
龍園の短い命令が下った瞬間。
左右に控えていた二人が、同時に地面を蹴って俺に襲いかかってきた。
「死ねやァ!」
右からは、石崎の大振りの右ストレート。喧嘩慣れしているのか、体重がしっかりと乗った重い一撃だ。
左からは、伊吹の鋭いハイキック。無駄のないフォームから繰り出されるその蹴りは、確かな武術の心得を感じさせた。
二方向からの同時攻撃。並の人間なら反応すらできずに沈む連携だ。
だが――遅すぎる。
俺の、暗殺者として極限まで鍛え上げられた動体視力からすれば、彼らの動きは水の中を歩いているかのように緩慢だった。
俺は、ポケットから両手を抜き、その場から『一歩も』動かなかった。
「……ッ!?」
向かってくる二人の目に、驚愕の色が浮かんだのが見えた。
次の瞬間。
俺は最小限の動きで、左右にすっと腕を伸ばした。
石崎の拳が顔面に届くより早く、俺の右の手刀が彼の頸動脈を正確に打ち抜いた。
同時に、伊吹の蹴りが到達する寸前、俺の左の手刀が彼女の首筋に深々と沈み込んだ。
「ガ、ァ……ッ」
「あ……」
パタリ、と。
糸の切れた操り人形のように、二人の体が同時にコンクリートの床に崩れ落ちた。
気絶。脳への血流を一瞬だけ断つことで、無傷のまま意識だけを刈り取る、一族の基本的な制圧術だ。
「……なっ!?」
これには、余裕の笑みを浮かべていた龍園も目を見開いた。
何が起きたのか、彼の目には見えなかったはずだ。一歩も動かず、一瞬の交差で手下二人が同時に沈んだのだから。
「なるほど、やるじゃねえか……! おもしれぇ!」
驚愕をすぐに歓喜へと塗り替え、龍園が叫ぶ。
「アルベルト! 潰せ!!」
「Oh……!」
ボスの命令を受け、これまで静観していた巨漢――山田アルベルトが動いた。
体重100キロは軽く超えているであろうその筋肉の塊が、ダンプカーのような勢いでタックルを仕掛けてくる。
単純な質量と筋力に物を言わせた、圧倒的な暴力の突進。
「……力任せの猪か」
俺は依然として、その場から一歩も足を動かさない。
迫り来るアルベルトの巨体に対し、俺はスッと右腕一本を前に突き出した。
ドゴォォォォンッ!!!
けたたましい衝撃音が屋上に響き渡る。
アルベルトの全体重と推進力を乗せたタックルが、俺の『片腕』に激突した音だ。
「……Wha、t……?」
サングラスの奥で、アルベルトの目が信じられないものを見るように見開かれた。
当然だろう。彼の渾身のタックルは、まるで分厚い鋼鉄の壁にぶつかったかのように、俺の体を一ミリたりとも押し込むことができなかったのだ。
「勢いはいい。だが、重心が高すぎる」
俺はアルベルトの服の胸元を掴み、彼自身の突進のエネルギーを完全に利用して、自身の体を軸に円を描くように投げ飛ばした。
呉一族の基礎体術と、合気や柔道の理合を組み合わせた、完璧な『背負い投げ』。
ズガァァァァァァンッッ!!!
先ほどよりもさらに巨大な轟音が轟き、屋上のコンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れた。
空中で完全に回転させられ、背中から地面に叩きつけられたアルベルトは、白目を剥いて完全に意識を失っていた。
「…………」
静寂が戻った屋上。
立っているのは、涼しい顔をした俺と、完全に言葉を失っている龍園の二人だけとなった。
俺は軽く首の骨を鳴らし、呆然としている龍園に向き直った。
「どうする? もう実力差は分かっただろう?」
俺は努めて平坦な声で告げた。
「お前たちが徒党を組もうが、俺には指一本触れることはできない。……だが、俺は無用な争いは好まない。俺とひよりの平穏が守られると約束するなら、お前には何もしないで帰ってやるさ」
これ以上の暴力は不要だ。
実力差を理解させ、互いの不可侵条約を結ぶ。それが一番スマートな解決方法だと思った。
しかし。
「……ククク。ハハハハハハハ!」
龍園は、自分の最強のカードであるアルベルトが瞬殺されたというのに、腹を抱えて狂ったように笑い出したのだ。
「平穏? 不可侵? 傑作だな! お前、自分がヒーローにでもなったつもりかよ!」
笑い声をピタリと止め、龍園は狂気を孕んだ目で俺を睨みつけ、そのまま真っ向から殴りかかってきた。
何の計算もない、ただの喧嘩のパンチ。
「……やれやれ」
俺は小さくため息をつき、龍園の懐に滑り込むと、その鳩尾(みぞおち)に鋭い手刀を叩き込んだ。
「グハッ……!」
肺の中の空気をすべて強制的に吐き出させ、横隔膜を麻痺させる一撃。
普通ならこれで胃液をぶちまけて気絶するはずだ。
だが。
「……ガァッ……ク、クク……!」
龍園は、腹を抱えて膝をつきながらも、決して意識を手放さなかった。
それどころか、血走った目で俺を睨み上げ、口の端から涎を垂らしながら笑い続けているのだ。
(……ほう。いい根性してるな)
暗殺者として数え切れないほどの人間を見てきた俺は、少しだけ感心した。
格闘技の技術や筋力といった物理的な強さではない。絶対に相手に屈しないという、異常なまでの『精神の強靱さ』。
この男の本当の恐ろしさは、暴力ではなく、この底知れない狂気と執念にあるのだろう。
「だがな、龍園。お前たち程度では、何人いようが話にならない」
俺は見下ろしながら、冷酷な事実を告げた。
「武力、身体能力、技術、すべてにおいて次元が違う。蟻の群れが、象に挑んでいるようなものだ。何度やっても結果は変わらないぞ」
「……ククク。確かに、お前はバケモノみたいに強い。暴力じゃあ、逆立ちしたって敵わねえだろうな」
龍園はよろよろと立ち上がり、腹を抑えながらも不敵に嗤った。
「今日はお前の勝ちだろう。……だが! 明日はどうだ? 明後日は?」
「……何?」
「お前が一生気を張っていられるわけがねえ。飯食ってる時、クソしてる時、寝てる時……隙を見せた瞬間、いつでもお前を狙ってやる! 闇討ち、毒、罠、なんだって使ってな!」
龍園は両手を広げ、狂気に満ちた高笑いを響かせた。
「お前の言う『平穏』なんてものはな、もう一生訪れねえんだよ!! ハハハハハ!!」
俺は龍園の狂気の宣言を聞きながら、心底呆れ果てていた。
(こいつ、完全にネジが吹っ飛んでんな)
勝てないと分かっていても、手段を選ばず、相手が音を上げるまで一生付き纏う。
高校生のメンタルではない。裏社会のヤクザやマフィアの鉄砲玉でも、ここまでイカれた執念を持っている奴は少ない。
(こいつなら、うちの一族が支配する裏社会でも十分やっていけそうだな……)
そんな頓珍漢な感心をしている俺に対し、龍園はさらに言葉を続けた。
それが、彼自身の命を終わらせる『致命的な引き金』になるとも知らずに。
「ククク……それにな、お前の執着している『椎名』は、俺のCクラスだぜ?」
龍園の口から出たその名前に、俺の心臓がドクン、と冷たく跳ねた。
「お前がいない時にな、あいつをどうしてやろうか。俺のクラスの男どもに、たっぷりと可愛がらせてやるのもいい。ぐちゃぐちゃに犯して、その様子を動画にでも撮ってやるよ」
「…………」
「恐怖と絶望で、あの大人しい女の精神を完全に破壊して、ズタボロの廃人にしてやる! そして、その壊れた玩具をお前の前に転がしてやるよ! ハハハハ! 最高に絶望したお前の顔が見物だなァ!!」
屋上に、龍園の醜悪な笑い声が響く。
――プツン。
俺の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
理性という名の強固な鎖が、音を立てて粉々に砕け散る。
平穏? 青春?
そんなものはどうでもいい。
俺の『天使』を、俺の『聖域』を、これほどまでに薄汚い言葉で汚し、あまつさえ破壊しようと目論む害虫。
生かしておく理由が、この宇宙のどこにある?
「――――あ?」
俺の口から漏れたのは、地を這うような、文字通り『死神』の低くおぞましい声だった。
「……な、なんだ?」
龍園の笑い声が、ピタリと止まった。
彼の本能が、目の前の存在が『強い高校生』から『未知の化け物』に変貌したことを察知したのだ。
「ァァァァァァァァッッ!!!」
俺は、一族の秘伝である『外し』を解放した。
脳のリミッターを強制的に解除し、人間が本来持っている潜在能力の100%を物理的に引き出す、禁断の技術。
俺の全身の筋肉が異様に膨張し、制服がはち切れんばかりに軋む。
皮膚はどす黒い赤紫色へと変色し、全身の血管がミミズのように無数に浮かび上がる。
元から黒かった強膜に浮かぶ瞳は、完全に自我を失った悪鬼のように鋭く発光していた。
周囲の空気が、俺の放つ異常な熱量と殺気でビリビリと震え上がる。
「な……な、なんだその姿は!? 化け物かてめぇ……ッ!」
さすがの龍園も、常軌を逸した俺の変貌ぶりに、完全に顔を引き攣らせ、恐怖で数歩後ずさった。
だが、もう遅い。
バンッ!
音速を超えた踏み込み。俺の姿が、龍園の視界から完全に『消えた』。
「は……?」
不可視のスピードで移動した俺は、すでに龍園の目の前に立っていた。
俺の太い腕が、龍園の首を鷲掴みにする。
「ガ、ハッ……!?」
そのまま、片手で龍園の首を掴み、体を軽々と宙に持ち上げた。
足が宙を掻き、龍園が両手で必死に俺の腕を外そうと藻掻くが、100%の力を解放した『外し』状態の俺の筋力は、もはや油圧プレス機に等しい。万力のような力で、彼の気道を確実に潰していく。
「おい、チンピラ」
人間のものとは思えない、幾重にも重なったようなおぞましい声で、俺は宙で足掻く龍園に告げた。
「お前がこの学校のルールに則って、他クラスに戦争を仕掛けるのも、勝手だ。俺にちょっかいを出すのも、殺したければ殺しに来い。好きにしろ」
ギリ……ギリ……と、首を絞め上げる力を強めていく。
龍園の顔が紫に染まり、目玉が飛び出そうになっている。
「……だが。ひよりに少しでも手を出すなら……お前を殺す」
ただの脅しではない。明確な殺意と、それを実行できる絶対的な力を込めた宣告。
「そして、お前だけじゃない。お前以外のCクラスの連中も、一人残らず皆殺しにしてやる。東京湾に沈める手間のない、ただの肉塊に変えてやる」
龍園の瞳に、今度こそ本物の、純度100%の『死の恐怖』が浮かび上がった。
この男は、自分を殺す。何の躊躇いもなく、虫を潰すように。その絶対的な事実を、細胞レベルで理解したのだ。
「……選ばせてやる」
俺は龍園の顔を近づけ、悪魔のように囁いた。
「ひよりに指一本触れないと、今ここで誓うか。……それとも、今ここで首の骨を折られて死ぬかだ」
メキッ、と。
龍園の頸椎から、嫌な音が鳴った。
あと少し力を込めれば、彼の命は完全に終わる。
「ガ……ッ、あ……」
酸素を失い、意識が遠のきかける中。
龍園は、必死に、震える手で俺の腕を叩いた。タップだ。完全なる降伏の合図。
「ちか……誓う……! 手は、出さ……ねえ……!」
掠れた、命乞いの声。
その言葉を聞いた瞬間、俺は龍園の首から手を放した。
「ゴホッ、ガハッ……! オェェェッ!」
地面に崩れ落ちた龍園は、激しく咳き込みながらコンクリートの床にうずくまり、貪るように酸素を吸い込んでいた。
その背中には、さきほどの傲慢な『王』の面影は微塵もなく、ただ恐怖に怯えるちっぽけな少年の姿があった。
「……約束を違えた時が、お前らの命の終わりだ。忘れるな」
俺はそう言い捨てると、深く息を吐き、『外し』の解除を行った。
異常に膨張していた筋肉が収縮し、赤黒かった皮膚が元の肌色に戻っていく。全身からもうもうと白い湯気が立ち上り、凄まじい疲労感が襲ってくるが、表面上は平静を装う。
「それと、今の俺の姿は誰にも言うなよ。もし漏らしたら……どうなるか分かってるな?」
俺が見下ろすと、床に這いつくばった龍園は、ただ恐怖に満ちた目でコクコクと頷くことしかできなかった。
これでもう、ひよりに危険が及ぶことはないだろう。
俺は倒れている三人を一瞥することもなく、踵を返し、屋上の重い鉄扉を開けて階段を降りた。
特別棟の階段を降りながら、俺は乱れた制服を整え、深呼吸をして、先ほどまでの『暗殺者』としての血の匂いを完全に消し去った。
俺はただの、本と料理が好きな、少し目の怖い男子高校生だ。
愛しいあの人が待つ場所へ、笑顔で帰らなければならない。
図書室の扉をゆっくりと開け、いつもの奥の席へと向かう。
そこには、俺が置いていった鞄の横で、手をぎゅっと握りしめて祈るように待っていたひよりの姿があった。
俺の足音に気づくと、彼女は弾かれたように立ち上がった。
「刃叉羅くん……!」
彼女の瞳は、不安と恐怖で潤んでいた。
俺の姿を上から下まで、怪我がないか必死に確認するように見つめてくる。
「大丈夫でしたか!? 痛いこと、されませんでしたか……?」
俺の腕にすがりつくようにして聞いてくる彼女の温もりに、俺の心の中に残っていた僅かな殺意の残滓も、完全に溶けて消え去った。
「ああ、大丈夫だよ。何もされてないさ。服も汚れてないだろ?」
俺はできるだけ優しく、柔らかい声で答えた。
「本当に、少しお話ししただけさ」
「お話……ですか?」
「ああ。意外と龍園も話のわかるやつでさ。『同じクラスの椎名と、仲良くしてやってくれ』って頼まれたんだよ。俺が説得したら、案外素直に引き下がってくれた」
我ながら、白々しいにも程がある大嘘だ。
あんな狂犬が、言葉だけの説得で引き下がるわけがない。
聡明なひよりが、そんな幼稚な嘘を見抜けないはずがないのだ。
俺の制服から微かに漂う汗と暴力の匂い。そして、先ほど見せた龍園の狂気。それが「話し合い」で解決するはずがないことは、彼女にも痛いほどわかっているはずだった。
だが。
「……そうですか」
ひよりは、俺の顔をじっと見つめた後。
ふわりと、心底安心したような、そして慈愛に満ちた太陽のような笑顔を見せた。
「龍園くんが話のわかる方で、本当によかったです。……刃叉羅くんが無事で、本当によかった」
彼女は、俺の不器用な『優しい嘘』を、すべて理解した上で、気づかないふりをして受け入れてくれたのだ。
自分を不安にさせないための、そして自分の世界を優しく保つための、俺の不器用な優しさを。
「ひより……」
「さあ、続きを読みましょう。時間はまだたっぷりありますから」
ひよりは俺の手を引き、元の席へと座らせてくれた。
図書室の窓から差し込む夕陽が、二人の影を優しく包み込んでいる。
先ほどまで屋上で命のやり取りをしていたことが、まるで遠い昔の幻だったかのように、ここにはただ静寂で甘い時間が流れていた。
俺は、彼女の隣で本を開きながら、心の中で固く誓った。
どんな嘘をついてでも、どんな血を浴びてでも。
俺は、この聡明で優しい天使の平穏を、この手で最後まで守り抜いてみせる、と。
活字の海を漂いながら、二人の肩がそっと触れ合う。
暗殺者の少年の初めての青春は、血の匂いを甘い紅茶の香りで上書きしながら、静かに、そして確かな絆を紡いでいくのだった。