――ギイィィッ、バタン。
錆びついた特別棟の屋上の鉄扉が、重々しい音を立てて閉ざされた。
その無機質な音が、俺――龍園翔の鼓膜をやけに遠く、不明瞭に叩いた。
「ガハッ……! ゴホッ、ゲホォォォッ!!」
コンクリートの床に四つん這いになったまま、俺は胃液をぶちまけんばかりの勢いで激しく咳き込んでいた。
酸素が足りない。気管支が火傷したように熱く、焼けるように痛む。
必死に空気を肺の奥底へと送り込もうとするが、喉仏の周囲――つい数分前まで、あの『化け物』の万力のような指に握り潰されかけていた部分が、激しい拒絶反応を示していた。
「ハァ……ハァ……ッ、ヒューッ、ヒュー……」
喉から漏れるのは、無様な喘鳴だけ。
首の骨が、ミリ単位で軋む感触がまだ残っている。あとほんの少し。あの男が指先に力を込めていれば、俺の頸椎は間違いなく粉砕され、今頃はこの冷たいコンクリートの上で、ただの肉塊になり果てていた。
「……ク、クク……」
息も絶え絶えになりながら、俺の口から自然とこぼれ落ちたのは、自嘲の笑いだった。
「なんだよ……アレは。……なんなんだよ、あの化け物は……ッ!」
震える手で自分の首を抑えながら、俺は脳裏に焼き付いた『悪夢』を反芻していた。
Dクラスの、大人しそうな読書家。少し目つきが悪く、図体がデカいだけの、よくいる見掛け倒しの不良品。それが、俺の呉刃叉羅に対する最初の評価だった。
だが、その評価は、ヤツがアルベルトのタックルを『片腕』で受け止め、あの巨体を紙切れのように投げ飛ばした瞬間に崩れ去った。
それでも、まだ俺は高を括っていた。暴力の腕自慢など、裏社会に行けばいくらでもいる。腕っぷしが強いだけの相手なら、寝首を掻くなり、罠にハメるなり、周りの人間を人質に取るなり、いくらでも盤面をひっくり返す手立てはある。
だから俺は、ヤツの精神を揺さぶるために、あの椎名という女を犯すと言い放ったのだ。
その結果が、これだ。
『ひよりに少しでも手を出すなら……お前を殺す』
幾重にも重なったような、地獄の底から響いてくるような魔人の声。
赤黒く変色した皮膚。異常なまでに膨張し、脈打つ血管。そして、光を吸い込むような漆黒の瞳に浮かんだ、純度100パーセントの『殺意』。
「……ハ、ハハハハ……ッ!」
俺は仰向けに寝転がり、灰色の空を見上げながら、力なく笑い声を上げた。
笑うたびに首と鳩尾が激痛を訴えるが、そんな物理的な痛みなどどうでもよかった。
「これが……『恐怖』、か」
ポツリと、誰に聞かせるわけでもなく呟く。
俺は、恐怖という感情が欠落している人間だと思っていた。
中学時代、不良の集団に囲まれ、コンクリートの床に頭を叩きつけられ、血反吐を吐かされるようなリンチを受けても、俺は決して心をおらず、相手を嘲笑い続けた。相手がナイフを持ち出そうが、鉄パイプを振り回そうが、俺の心には微塵も『恐れ』は湧かなかった。
なぜなら、相手も同じ人間だからだ。
痛みを感じ、疲労し、そしていつかは心が折れる、同じ人間。何度殴られようが、最終的に相手の心をへし折ってしまえば、俺の勝ちだ。そう確信していたからこそ、俺は恐怖と無縁の王として君臨できた。
だが、あの呉刃叉羅は違った。
アレは人間ではない。
同じ土俵に立っているどころか、見えている景色すら違う。
ライオンの檻に放り込まれたウサギは、ライオンに「何度でも挑んでやる」などという思考すら持たない。ただ、圧倒的な生命の危機――自分という存在が、次の瞬間に理不尽に消滅させられるという『絶対的な死の気配』の前に、本能から屈服するしかないのだ。
「……笑えねえな。俺が、ウサギの側だったとはよ」
俺は、自分が先ほど、無様に首を絞め上げられながら、涙目になって降伏のタップをしたことを思い出した。
屈辱? 怒り?
いいや。そんなちっぽけなプライドは、あの圧倒的な暴力の前では一瞬で消し飛んでいた。
ただ「死にたくない」という、生物としての根源的な本能だけが、俺の体を支配していたのだ。俺はあの時、間違いなく、生まれて初めて本物の『恐怖』に支配されていた。
しばらく、屋上には春の風の音と、俺の荒い呼吸音だけが響いていた。
やがて。
「……う、ん……」
「いっ、てぇ……」
少し離れた場所から、うめき声が聞こえ始めた。
呉の軽い一撃によって意識を刈り取られていた石崎と伊吹が、目を覚ましたようだ。
そして、少し遅れて「Oh……」という重い声と共に、俺の最大の暴力装置であるアルベルトも、巨体を揺らしながら上半身を起こした。
「……りゅ、龍園さん……?」
最初に状況を把握しようとした石崎が、ふらつく足取りで立ち上がり、首の後ろを抑えながら周囲を見回した。
そして、仰向けに倒れ、息を切らしている俺の姿を見つけると、血相を変えて駆け寄ってきた。
「龍園さん! だ、大丈夫っすか!? いったい何が……」
「騒ぐな、石崎」
俺は痛む首を庇いながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「あいつは……あの、呉とかいうDクラスの野郎はどこに!? くそっ、不意打ちしやがって……!」
石崎が怒りに任せて周囲を睨みつける。
こいつは、自分が一瞬で気絶させられたことすら理解できていないらしい。不意打ち? 違う。完全に正面から、手も足も出ずに叩き伏せられただけだ。
「もう帰ったよ。あの不良品はな」
「帰った!? 逃げやがったんですか! クソッ、すぐ追いかけてブチ殺して……」
「やめろ」
俺は、静かに、だが絶対の命令として告げた。
「……え?」
「今後、あの呉刃叉羅と、そしてCクラスの椎名ひより。……あの二人には、何があっても手を出すな。絶対に、危害を加えるような真似はするな。いいな?」
俺の言葉に、石崎は信じられないものを見るような目で固まった。
隣で立ち上がった伊吹も、険しい顔で俺を見下ろしている。
「はぁ? あんた、頭打っておかしくなったんじゃないの?」
伊吹は、いつも通りの不遜な態度で俺に噛み付いてきた。
「あいつに負けたからって、ビビってんの? らしくないじゃない。……アルベルトを配下にした時のように、相手が折れるまで何度でも挑むのが、あんたのやり方じゃないの?」
伊吹の言うことはもっともだ。
彼女が知る龍園翔という男は、相手が格闘の達人だろうが巨漢だろうが、自分が優位に立つまで、どんな汚い手を使ってでも相手を追い詰める執念の塊だ。一度負けたからといって「手を出すな」と命じるなど、これまでの俺の行動原理からすればあり得ないことだった。
「……」
俺はゆっくりと立ち上がり、伊吹の鋭い視線を真っ向から見返した。
「いいから、俺の言う通りにしろ。……死にたくなければな」
「――ッ!?」
俺の凄みに、伊吹が一瞬だけ息を呑み、後ずさった。
俺自身が恐怖を味わったからこそ、俺の瞳の奥には、本物の『死線』を越えた者だけが持つ、異様な気迫が宿っていたのだろう。
「死ぬって……大げさな」
「大げさじゃねえ。……伊吹、お前、武術の心得があるから分かるだろう。あいつの動きが、どう見えた?」
俺の問いに、伊吹は悔しそうに顔を歪めながら、自分の首筋――手刀を入れられた部分を撫でた。
「……見えなかったわ。私が蹴りを放つ直前、あいつは一歩も動いていなかったのに。気づいたら、意識が飛んでた。……アルベルトは?」
伊吹が視線を向けると、アルベルトは無言のまま、自分の胸元を触り、首を横に振った。
彼もまた、自分のタックルがどうやって防がれ、どうやって投げ飛ばされたのか、全く理解できていないようだった。
「あいつは、人間じゃねえ。同じ枠組みで測れる相手じゃねえんだよ」
俺は首の骨を鳴らしながら、忌々しそうに吐き捨てた。
「腕っぷしが強いとか、喧嘩慣れしてるとか、そういう次元じゃねえ。アレは……人の皮を被った、純粋な『暴力の怪物』だ。俺たちが徒党を組んで闇討ちしようが、寝首を掻こうが、確実に返り討ちにされて……殺される」
「殺されるって……ここ、学校ですよ.....?」
「石崎、お前はバカか? あいつの目を見りゃわかるだろ。あいつにとって、学校のルールなんてものは何のストッパーにもならねえ。あいつは、躊躇いなく人を殺せる側の人間だ」
あの時、俺の首を絞め上げていた時の瞳。
あれは、路傍の石を蹴り飛ばすのと同じくらい、無感情で、無機質だった。
「ひよりに手を出すなら、Cクラスの人間を皆殺しにする」という言葉も、決してハッタリではない。アイツなら、冗談抜きで一人残らず解体して、東京湾の底に沈めるくらいのことは平然とやってのけるだろう。
俺がそこまで言うと、石崎も伊吹も、ようやく事の重大さを理解したのか、重い沈黙に沈んだ。
「龍園さん……それじゃあ、俺たちはあいつの顔色を窺って、コソコソしなきゃならねえんですか? そんなの、Cクラスの王のやることじゃ……」
石崎が、悔しそうに拳を握りしめながら言う。
「……ク、ククク……」
俺は、喉の痛みを堪えながら、喉の奥で嗤った。
恐怖は確かに刻み込まれた。俺の首には、その確かな感触が残っている。
だが、恐怖を知ったからといって、俺が俺自身の野望を諦めるわけではない。
「勘違いするな、石崎。俺はビビって引きこもるわけじゃねえ。……ただ、あの『化け物』の扱い方が分かったってだけの話だ」
俺は口元を歪め、邪悪な笑みを浮かべた。
「いいか? あいつは、図書室で俺たちが騒いでいた時、少し鬱陶しそうな顔はしたが、自分から干渉してこようとはしなかった。あいつが牙を剥いたのは……俺が、あの椎名ひよりに手を上げようとした時、そして、椎名を犯して壊すと言った時だけだ」
頭の中が急速にクリアになっていく。
恐怖という感情を通過したことで、俺の思考はより冷徹に、より俯瞰的な視野を取り戻していた。
「あいつの行動原理は至ってシンプルだ。『椎名ひよりとの平穏な時間を守る』こと。それ以外の、クラス間のポイント争いだの、退学試験だのといった学校のルールには、微塵も興味がねえんだよ」
俺の推測は、間違いなく核心を突いているはずだ。
もしあいつがクラスのために動く気があるなら、あの圧倒的な暴力を使って、Dクラスをまとめ上げているはずだ。だが、あいつは目立つような真似はせず、ただひよりとの逢瀬を楽しんでいるだけ。
「……だとしたら、むしろ好都合じゃねえか」
俺は悪魔のような笑みを深めた。
「あの化け物は、椎名にさえ危害を加えないのなら、表に出ることはない。俺たちがAクラスを目指してどんな汚い策を弄しようが、Dクラスの他の連中をどうやって叩き潰そうが、あの『不可侵条約』さえ守っていれば、あいつは絶対にクラスの争いの邪魔にはならねえ」
「なるほど……そういうことね」
伊吹が腕を組み、納得したように頷いた。
「自分から手を出さなければ、無害な爆弾みたいなものってことね」
「そうだ。それどころか、Dクラスの連中は、自分たちのクラスにあんな核弾頭みたいなバケモノが潜んでいることすら気づいてねえだろうよ。いざという時、Dクラスの連中があいつを頼ろうとしても、あいつは決して動かねえ。これは、後々必ず俺たちの有利に働く」
俺はコンクリートの壁に寄りかかり、夜の闇に沈みゆく空を見上げた。
「……椎名ひより。まさか、うちのクラスのあのおとなしい女が、あんな深淵の怪物を手懐ける猛獣使いだったとはな。ククク、世の中何が起こるか分からねえもんだ」
俺は心の底から愉快そうに嗤った。
呉刃叉羅。
あの圧倒的な暴力の化身。
もしあいつが本気でこの学校の覇権を握ろうと動けば、AクラスもBクラスも、そして俺のCクラスも、一瞬で蹂躙されて終わっていただろう。
だが、怪物の首には『椎名ひより』という名の、強固な首輪がハマっている。
あの女が平穏でいる限り、怪物はただの大人しい高校生のフリを続けるのだ。
「おい、お前ら。もう一度言うぞ」
俺はアルベルト、石崎、伊吹の三人を厳しい目で見回した。
「Dクラスの呉刃叉羅、およびCクラスの椎名ひよりには、絶対に干渉するな。クラスの連中にも、俺から『椎名には手出し無用』というお触れを出しておく。……もし、俺の命令を無視して勝手な真似をした奴がいたら、その時は俺が直々に沈めるからな」
「……うす」
「Yes,Boss」
「分かったわよ」
三人は、俺のただならぬ決意を感じ取り、深く頷いた。
「よし。じゃあ帰るぞ。こんなクソみてえな屋上に、いつまでも長居する趣味はねえ」
俺は痛む首を庇いながら、屋上の鉄扉へと歩き出した。
(だがな、呉 刃叉羅……)
扉を開け、薄暗い階段を下りながら、俺は内心で不敵に笑う。
俺は確かにお前の力に屈し、恐怖を知った。
お前という『個人』に挑むことは、二度とないだろう。
だが、この学校はクラス間の生存競争だ。
俺はCクラスを率いて、お前以外のすべてを喰い尽くし、必ずAクラスの座を奪い取ってみせる。
お前が守りたいのは椎名ひよりとの平穏だけだろうが、クラスが敗北し、ポイントを奪われ、周りの連中が次々と退学していく地獄の中で、果たしてお前はいつまで『ただの高校生』の仮面を被っていられるかな?
「ククク……おもしれえ」
恐怖を乗り越え、より冷酷で計算高い独裁者として研ぎ澄まされた俺の心に、闘争への強い欲望が再び燃え上がり始めていた。
絶対に触れてはならない、深淵の怪物。
その存在を盤面の外に固定した上で、俺は俺のやり方で、この高度育成高等学校を支配してやる。
暗く静かな階段に、龍園翔の野心に満ちた笑い声が、低く、ねっとりと響き渡っていた。