龍園翔という狂犬を特別棟の屋上で完全に屈服させた、その翌日。
いつものように寮から学校へと続く並木道を歩きながら、俺――呉 刃叉羅は、小さくため息をついていた。
(……いくらなんでも、昨日『外し』まで使っちまったのは、少しやりすぎたか)
春の生ぬるい風を浴びながら、昨日の出来事を脳内で反芻する。
俺がひよりと過ごす『聖域』に土足で踏み入り、あまつさえ彼女を凌辱して壊すと言い放ったあの男。その言葉を聞いた瞬間、俺の理性は完全に吹き飛び、一族の禁忌の力――『外し』を解放してしまった。
圧倒的な暴力と殺意で龍園の首を締め上げ、死の恐怖を骨の髄まで刻み込んでやったわけだが……。
(……危うく、いきなり殺っちまうところだったな)
俺は自嘲気味に首を振った。
この学校に入学するにあたり、俺は坂柳理事長と『敷地内において、いかなる理由があろうとも人を殺さないこと』という絶対の誓約を交わしている。
もし昨日、怒りに任せて龍園の首の骨をへし折っていれば、その約束を真っ向から反故にするところだった。
(いくら暗殺のプロとして完璧に死体を処理し、証拠を隠滅したところで、この箱庭みたいな敷地内で生徒が不審死を遂げれば、俺の素性を知る理事長には間違いなく俺の仕業だとバレるだろうしな)
そうなれば、俺が手に入れた平穏な日常もその場で強制終了だ。
ひよりの安らぎを守るためにキレたはずが、結果として彼女との日々を自ら手放すことになる――そんな、笑えない本末転倒だけは何としても避けなければならなかった。
(……まあ、ギリギリのところで踏み止まれたのは、僥倖と言えるな。結果オーライというやつだ)
結果として、龍園は完全に戦意を喪失し、二度とひよりには手を出さないと誓った。あの時の絶望に染まった龍園の顔を思い返せば、あの約束が反故にされることはない。
最後にキツく釘も刺しておいた。もし彼が少しでも俺の秘密を漏らそうものなら、次こそは本当に首の骨をへし折る。その絶対的な『死の気配』を、龍園は細胞レベルで理解したはずだ。暗殺者として、相手に植え付けた恐怖の深度を測り違えることはない。
それに、自分たちCクラスのトップである龍園と、その主力三人が、Dクラスの無名な生徒たった一人に手も足も出ずに惨敗したなどという事実、彼らのプライドが許すはずもない。俺のあの姿や、屋上での出来事を言いふらすような真似は絶対にしないだろう。
(これで、俺とひよりの放課後は完全に守られた)
そう結論づけ、俺は気持ちを切り替えて1年Dクラスの教室へと足を踏み入れた。
教室は、相変わらず「赤点即退学」の恐怖に支配されており、かつての動物園のような騒がしさは鳴りを潜めている。
俺も自分の席につき、あくまで『少し料理が得意な、事勿れ主義の普通の高校生』という仮面を被り直した。
――それから、数日が経過した。
季節は五月中旬。運命の中間テストまで、残り一週間と迫ったある日の放課後。
「……うーん。ここ、どうしても計算が合わないんだけど……」
「軽井沢さん、そこはマイナスとマイナスを掛けているから、プラスになるんだよ」
「あーっ! そっか! またやっちゃった!」
放課後の教室で、俺たちは今日も平田洋介を筆頭とする「赤点回避の勉強会」を開いていた。
俺の目の前では、クラスの女子カーストトップである軽井沢恵と、同じギャルグループの佐藤麻耶が、ノートにびっしりと書かれた数学の数式と睨み合っている。
「軽井沢、佐藤。お前ら、ケアレスミスが多いな。公式の当てはめ方は完璧に理解できてるんだから、あとは落ち着いて記号を確認しろ。料理で言えば、塩と砂糖を間違えるような致命的なミスだぞ」
俺がそう指摘すると、二人は「うげっ」と顔をしかめた。
「塩と砂糖の間違いはヤバい! ケーキがしょっぱくなっちゃう!」
「だから言ってるだろ。テスト本番でそのミスをやらかしたら、赤点一直線だ。見直しを徹底する癖をつけろ」
「はーい……呉先生、厳しいなぁ」
軽井沢は口を尖らせながらも、素直に消しゴムで自分のミスを消し、再び計算をやり直していく。佐藤もそれに倣って真剣な表情でノートに向かっていた。
(……うん、悪くないな)
俺は二人の様子を見ながら、内心で頷いた。
数日前まで分数の計算すら怪しかった彼女たちだが、毎日の放課後の積み重ねにより、基礎学力は着実に向上している。この調子なら、平均点の半分という赤点ラインを下回ることはまずないだろう。
平田も少し離れた席で男子生徒たちに英語を教え、みーちゃんは丁寧な口調で歴史の暗記法をアドバイスしている。
教室の空気は、前向きな努力の熱気で満たされていた。
――その、和やかな空気が、一瞬にして凍りついたのは、直後のことだった。
ガラッ!!!
勢いよく教室のドアが開け放たれ、一人の女子生徒が血相を変えて飛び込んできた。
長い黒髪を乱し、普段の氷のような冷静さを完全に失い、肩で息をしている。
孤高の美少女、堀北鈴音だった。
「堀北さん……? どうしたの、そんなに慌てて」
教壇の近くにいた平田が、驚いたように声をかける。
堀北は教室に残っていた生徒たちを見渡し、ギリッと唇を噛み締めながら、絶望的な宣告を放った。
「……中間テストの出題範囲が、当初の予定から大幅に変更になっているわ」
「――――えっ?」
教室中の空気が、ピタリと止まった。
数秒の空白の後、軽井沢が持っていたシャープペンを落とし、悲鳴のような声を上げた。
「まじ!? やばくない!?」
「嘘でしょ……!? 私たち、ここまで一生懸命今の範囲を勉強してきたのに!」
佐藤も顔面を蒼白にしている。
他の生徒たちも、「あと一週間しかないのに!」「今から新しい範囲なんて無理だ!」と口々に絶望の声を上げ始めた。
無理もない。
勉強が苦手な生徒たちが、死に物狂いで数週間かけてやっと理解してきた基礎。それが「出題されません、別の範囲が出ます」と言われたに等しいのだ。
残り一週間で、ゼロから新しい範囲を詰め直す。それは、赤点ギリギリの生徒たちにとっては文字通りの『死の宣告』だった。
パニックになりかける教室。
しかし、ここでクラスのリーダーである平田が、力強い声で手を叩いた。
「みんな、落ち着いて!」
平田の声に、生徒たちの視線が集まる。
「確かに、試験範囲の変更は痛手だ。でも、まだ一週間ある! 今まで勉強してきた基礎の考え方は、新しい範囲でも絶対に活きるはずだ。ゼロからのスタートじゃない。僕も、呉くんも、みーちゃんも、全力でサポートする。だから、諦めずにやろう! まだ間に合うよ!」
平田の真っ直ぐで、ブレのない言葉。
その言葉の力に、軽井沢たちが少しだけ落ち着きを取り戻し、「……そうだね、平田くんの言う通りだ」「やるしかないよね」と、再びノートに向かい始めた。
堀北はそんな平田の姿を忌々しそうに見つめた後、自分の席に戻り、猛烈な勢いで新しい範囲の対策を練り始めたようだった。おそらく、彼女が主催している『三馬鹿(須藤、池、山内)』の勉強会も、これで完全に計画が狂ったのだろう。
俺は自分の席に座ったまま、淡々と新しい範囲の教科書を開きながら、一人で冷徹な思考を巡らせていた。
(……試験一週間前での、大幅な範囲変更。なるほど、学校側もえげつない揺さぶりをかけてくるな)
そもそも、この高度育成高等学校が、ただ真面目に勉強しているだけの生徒を評価するような甘い組織ではないことは、最初の『10万ポイント支給』と『1ヶ月間の授業完全放置』の罠で嫌というほど理解している。
実力至上主義。それはつまり、盤面をひっくり返すようなイレギュラーに対し、どう対応し、どう切り抜けるかという『生存能力』を試しているということだ。
(茶柱先生が言っていたな。「退学者を出すことなく乗り越えられると確信している。」と)
赤点を取らずに、この絶望的な状況を乗り越えるための『隠されたルート』が、必ずどこかに用意されているはずだ。
(買収か?)
この学校は「ポイントで買えないものはない」と公言している。ならば、教師にポイントを支払ってテストの点数を買ったり、あるいは赤点そのものをもみ消したりすることも可能なのかもしれない。だがそんなことが可能なら、筆記試験という存在の意義がなくなる。おそらく莫大なポイントがかかるはずだ。
(それとも、意図的に平均点を下げる?)
赤点ラインが『クラス平均点の半分』である以上、成績上位者がわざと0点に近い点数を取り、クラス全体の平均点を意図的に底辺まで下げてしまえば、どれだけバカな連中でも赤点ラインをクリアできる。しかし、それは優秀な生徒に多大なリスクと犠牲を強いる諸刃の剣だ。幸村や堀北がそんな自己犠牲を払うとは到底思えない。
(……もしかして、『過去問』か?)
俺の脳裏に、数週間前に行われた小テストの記憶がフラッシュバックした。
あの小テスト。前半はごく一般的な高校生レベルの難易度だったが、最後の3問だけは、大学生レベルの異常な難易度を誇っていた。あんなものを、入学したばかりの高校一年生が解けるわけがない。
つまり、あの小テストは「純粋な学力」を測るものではなく、「学校の仕組みに気づいているか」を測るテストだったのではないか。
もし、この学校のテスト問題が、過去の先輩たちに出題されたものと全く同じ『使い回し』だったとしたら?
過去問さえ手に入れることができれば、あんな異常な難易度の問題も、今回の範囲変更という理不尽な罠も、すべて一瞬で無力化できる。
(……なるほどな。そういうことか)
点と点が繋がり、俺の中で一つの明確な答えが出た。
おそらく、先輩の誰かにポイントを支払い、過去の中間テストの問題を買い取る。それが、この理不尽な試験をノーリスクで突破する『正解のルート』だ。
だが。
(……まあ、いいか)
俺はシャーペンをクルクルと回し、目の前で必死に問題を解いている軽井沢たちを見た。
俺がわざわざ動いて、過去問を入手する必要はない。
軽井沢たちのように、毎日真面目に勉強会に参加している連中は、すでに基礎的な学力が身についている。仮に新しい範囲が出題されたとしても、俺や平田が残り一週間で要点を絞って教え込めば、絶対に赤点(平均点の半分以下)を取ることはない。その水準まで引き上げることは、まだ十分に間に合う。
そして、堀北が担当している三馬鹿組――須藤、池、山内についてだが。
(あいつらは、別に退学になってもどうでもいいしな)
俺は内心で冷酷に切り捨てた。
彼らが退学になれば、クラスに多大なペナルティが課され、来月以降もポイントが入らない可能性が高い。それは確かに痛手だ。
だが、俺個人としては『Aクラスに上がる』という野望など微塵も持っていない。
毎月ポイントがゼロだろうが、無料の水や食料もあり、飢えることはない。
俺の唯一の目的は「ひよりとの平穏な青春」であり、それさえ守られれば、Dクラスという泥舟が沈もうが、愚者たちが退学の烙印を押されようが、知ったことではなかった。
「よし、軽井沢、佐藤。新しい範囲の要点をまとめたから、ここからここまでを重点的に解いてみろ」
「うげー……マジか。でも、やるしかないよね!」
「呉くん、あとで答え合わせお願いね!」
俺は彼女たちにノートを渡し、再び淡々と講師の役割をこなしていった。
誰かが過去問に気づいてクラスを救うならそれでいいし、誰も気づかずに愚者たちが淘汰されるなら、それもまたこの学校のルールだ。
俺は傍観者として、この狂った箱庭の行く末を眺めるだけだ。
――そして、時は流れ。
運命の中間テスト、その前日の放課後。
ホームルームが終わり、茶柱先生が教室を出て行った直後。
いつもならすぐに帰宅の準備を始める生徒たちの前に、一人の女子生徒が教壇へと駆け上がった。
「みんな、ちょっと待って! 帰る前に、聞いてほしいことがあるの!」
クラスのアイドルであり、誰からも愛される天使――櫛田桔梗だった。
「櫛田ちゃん? どうしたの?」
「なんかあったのか?」
クラス中が不思議そうに注目する中、櫛田は自分の鞄から、分厚いプリントの束を取り出した。
「これ、見て! ……3年生の先輩から、お願いしてもらったの。去年の1学期中間テストの『過去問』だよ!」
「「「「――――えっ!?」」」」
教室が、どよめきに包まれた。
「先輩に聞いてみたんだけどね、この学校、毎年最初の中間テストは、全く同じ問題が出てるらしいの! 範囲の変更も、私たちを焦らせるための学校の罠だったみたい」
櫛田は天使のような笑顔で、プリントの束をパサパサと振って見せた。
「だから、この過去問の答えを丸暗記すれば……絶対に、誰も赤点は取らないよっ!」
その言葉が持つ意味を理解した瞬間。
教室は、割れんばかりの歓声と怒号のような喜びに包まれた。
「マジかよ!? 櫛田ちゃん、すげぇぇぇぇっ!!」
「女神だ! 俺たちの女神がここにいるぞ!!」
「うおおおおっ! これで俺たち、退学にならずに済むんだな!!」
三馬鹿を筆頭とする勉強が苦手な生徒たちが、涙を流さんばかりの勢いで櫛田に群がり、過去問のプリントを受け取っていく。
彼らにとって、それはまさに地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸――いや、絶対に切れない鋼のワイヤーだった。
「はい、池くん。須藤くんも、これ。絶対に満点取ってね!」
「おう! 櫛田ちゃん、一生ついていくぜ!」
歓喜に沸き返る教室。
軽井沢や佐藤も「マジ助かるー! 櫛田さん神じゃん!」とはしゃぎながらプリントを受け取っている。
平田も「櫛田さん、本当にありがとう。これでクラス全員が救われるよ」と、心底安堵したような笑顔を向けていた。
(……おお。過去問の存在に気づいたのか。やるなぁ)
俺は自分の席に座ったまま、その光景を眺めて内心で感心していた。
誰がこの事実に気づき、誰が先輩に接触したのかは分からない。櫛田本人のファインプレーかもしれないし、裏で堀北や、あの無気力な綾小路が糸を引いていたのかもしれない。
だが、結果としてDクラスは『過去問』という最強の武器を手に入れ、全員が赤点を回避する確実なルートに乗ったのだ。
「呉くんにも、はいっ! いつも勉強会でみんなを教えてくれて、本当にありがとうね!」
櫛田が、俺の席までやってきて過去問のプリントを手渡してくれた。
「ああ、ありがとう櫛田。お前のおかげで、クラスの連中も首の皮一枚繋がったな」
「ううん、私なんて全然! みんなが頑張ってたから、私も何か手伝えないかなって思っただけだよっ」
ニコッと完璧な笑顔を浮かべて、櫛田は他の生徒の元へと向かっていった。
本当に、出来すぎた善人だ。彼女のコミュ力と行動力がなければ、このクラスは間違いなく崩壊していただろう。
(これで、中間テストの件は一件落着だな)
俺はプリントを鞄にしまい、席を立った。
明日のテストは、適当にこの過去問の答えを暗記して、目立たないように70点から80点の間を狙って解答用紙を埋めればいいだけだ。
肩の荷が下りたところで、俺の意識はすでに、テストのことなど完全に彼方へと消え去っていた。
「じゃあな、お前ら。明日のテスト、頑張れよ」
俺は歓喜に沸く教室を後にし、足早に廊下を歩き出した。
向かう先は、俺の本当の居場所。
図書室へ続く道のりは、いつもより足取りが軽く感じられた。
扉を開けると、そこには今日も変わらず、西日を浴びながら読書に耽るひよりの姿があった。
「……待たせたな、ひより」
俺が声をかけると、彼女は本から顔を上げ、花が咲くような柔らかい笑顔を向けた。
「お疲れ様です、刃叉羅くん。……なんだか、今日はいつもより機嫌が良さそうですね」
「わかるか? まあな。クラスのバカどもが赤点を回避できる裏技が見つかって、これで俺の放課後の勉強会もお役御免になったからな」
俺は彼女の向かいの席に座り、深く息を吐いてリラックスした。
「それはよかったです。刃叉羅くん、毎日みんなに勉強を教えていて、少し大変そうでしたから」
ひよりは嬉しそうに目を細め、俺を労ってくれた。
「それに……これからは、放課後の時間をずっと、ここで一緒に過ごせますね」
ほんのりと頬を染めながら、少しだけ上目遣いでそう告げてくる彼女。
その破壊力満点の可愛さに、俺の心臓はまたしても大きく跳ね上がった。
「……ああ、当たり前だ。明日からまた、毎日入り浸らせてもらうよ」
俺たちは静かに微笑み合い、それぞれの本を開いた。
図書室に流れる、穏やかな静寂。
インクと古い紙の匂い。そして、彼女から漂う微かなフローラル系のシャンプーの香り。
テストの重圧も、クラス間の醜い争いも、暴力も殺意も、ここには一切存在しない。
俺と彼女だけの、誰にも邪魔されない平穏な空間。
「そういえば、刃叉羅くん。今読んでいるその歴史小説、そろそろ読み終わるんじゃないですか?」
「ん? ああ、そうだな。あと数ページで終わりだ。次はひよりがおすすめしてくれた、あのミステリーを読もうと思ってる」
「ふふっ、楽しみにしていますね。きっと、最後のどんでん返しに驚くと思いますよ」
夕陽が沈みゆく中、俺たちは他愛のない、だが、かけがえのない会話を交わしながら、穏やかに文字の海を漂っていく。
暗殺者として生を享けた俺が、この箱庭の学校で見つけた、唯一無二の光。
その光をこれからもずっと守り抜くことを、俺は心の中で静かに、だが鋼のような意志で誓い続けていた。