六月の第一土曜日。
波乱に満ちた一学期中間テストが終わり、高度育成高等学校の敷地内には、重圧から解放された生徒たちの開放的な空気が満ちていた。
午前十時。
学生寮の自室で目を覚ました俺――呉 刃叉羅は、ベッドの上で大きく伸びをした。
「さて、今日は何をするかな」
昨日の放課後は、平田や軽井沢たちを招いて急遽打ち上げパーティーを開き、大いに盛り上がった。おかげで冷蔵庫の食材はすっからかんだが、それに見合うだけの「普通の高校生らしい」達成感と疲労感があった。
今日は完全にフリーな休日だ。ケヤキモールへ食材の買い出しに行き、ついでに図書室で本でも読もうか。運が良ければ、ひよりに会えるかもしれない。
そんなことを考えていた時。
枕元に置いていた端末が、短いバイブレーションと共にメッセージの受信を知らせた。
画面に表示された送り主の名前を見た瞬間、俺の眠気は文字通り一瞬で消え去った。
『椎名ひより』
(――――ッ!! ひよりから!!)
弾かれたように身を起こし、画面をタップしてメッセージを開く。
『おはようございます、刃叉羅くん。中間テスト、本当にお疲れ様でした。もし今日、刃叉羅くんのご予定が空いていたら……二人で、テストのお疲れ様会をしませんか?』
「おっしゃああああああああああっっ!!!」
俺はベッドから跳ね起き、誰もいない部屋の中心で、全身の筋肉を躍動させた。
ステップ、ターン、そして見えない敵の首を刈り取るような鋭い足捌き――否、これは暗殺の歩法を応用した、完全なる『喜びの舞(狂喜乱舞)』だ。
千三百年続く呉一族の歴史において、休日の朝に女子からのデートの誘いを受けて歓喜のステップを踏んだ暗殺者が、果たしていただろうか。
俺が第一号だ。間違いない。爺様が見たら「たるんどる!」と薙刀で斬りかかってくるだろうが、知ったことか。俺は今、世界で一番幸せな男だ。
俺は深呼吸を三回して高鳴る心臓を落ち着かせ、なるべく冷静な返信を打ち込んだ。
『刃叉羅:おはよう、ひより。もちろん空いてるよ。俺もひよりとお疲れ様会をしたかったところだ。時間はいつでも合わせるから、場所を指定してくれ』
数秒後、すぐに『本当ですか! 嬉しいです!』という返信と共に、ケヤキモールの入り口に十一時半待ち合わせ、という指定が送られてきた。
現在時刻は十時十五分。
「シャワー! 服! 髪のセット!」
俺はかつてないほどの素早さで動き出し、完璧な休日の身支度を整え始めた。
午前十一時二十分。
ケヤキモールの入り口に到着した俺は、約束の十分前だというのに、すでに心臓をバクバクと鳴らしていた。
(落ち着け……。ただの放課後の延長だ。いつも通りに接すればいい)
自分に言い聞かせていると、前方から見覚えのある銀色の髪が揺れるのが見えた。
「刃叉羅くん! お待たせしました!」
小走りでこちらに向かってくるひよりの姿を見た瞬間、俺の思考は完全に停止した。
学校では制服姿しか見たことがなかったが、今日の彼女の私服姿は、文字通り『天使』の具現化だった。
淡い水色のふんわりとしたワンピースに、白いカーディガン。銀色の髪はサイドで可愛らしく編み込まれており、足元は歩きやすそうな白いサンダル。
飾り気はないが、彼女の持つ透明感と儚さを最大限に引き出す、完璧なコーディネートだ。
「……あ、いや、俺も今来たところだ」
「ふふっ、嘘ですね。さっきからずっと入り口で待ってくれていたの、見えていましたよ」
ひよりは悪戯っぽく笑い、首を傾げた。
「あの……私服、変じゃないですか?」
「変なわけないだろ。……すごく、似合ってる。可愛すぎて、さっきから心臓に悪い」
俺が一切の誤魔化しなくストレートに褒めると、ひよりの白い頬がポッと薄紅色に染まった。
「ありがとうございます。……刃叉羅くんの私服も、かっこいいですね。いつも制服なので、少し新鮮です」
俺の私服は、黒のシャツに細身のダークグレーのパンツというシンプルなものだが、鍛え上げられた肉体のおかげで、ただの服でもそれなりに見栄えはする(はずだ)。
「それじゃ、行こっか。テストの重圧から解放された記念すべき日だ」
「はいっ!」
俺たちは自然と歩調を合わせ、休日の生徒たちで賑わうケヤキモールの中へと足を踏み入れた。
まずは、少し早めのランチも兼ねて、モール内で人気のカフェへ向かった。
窓際の明るい席に座り、俺はアイスコーヒーとサンドイッチ、ひよりは紅茶と季節のフルーツタルトを注文する。
「本当に、テストが終わってホッとしました。Cクラスも、なんとか全員赤点を回避できたみたいです」
「そうか、それは良かったな。……ちなみに、うちのクラスもギリギリで全員生き残ったよ」
「ふふっ、知っています。櫛田さんが、過去問を手に入れてくださったんですよね?」
ひよりは紅茶のカップを両手で持ちながら、嬉しそうに微笑んだ。
どうやら、Dクラスが過去問で赤点を回避したという噂は、すでに他のクラスにも広まっているらしい。
「ああ。彼女のファインプレーのおかげで、前日まで教え込んでいた俺の苦労は少し徒労に終わったけどな。まあ、真面目に頑張ってた奴らが退学にならずに済んだのは良かったよ」
「刃叉羅くんは、本当にクラスのみなさんに優しいですね。毎日勉強会で教えてあげるなんて」
「平田みたいな善人に真っ直ぐ頼まれたら、無下にはできないさ。それに……早く終わらせて、ひよりに会いに行きたかったからな」
俺がサラリと言うと、ひよりはまたしても頬を赤らめ、タルトのイチゴを小さくフォークで切り分けた。
カフェでの時間は、あっという間に過ぎていった。
テストの話、最近読んだ本の話、そしてこれから読みたい本の話。
図書室のような静寂はないが、周囲の喧騒すらもBGMのように心地よく感じられる。向かい合って座り、彼女の笑顔を見ながら会話をしているだけで、俺の心は極上の幸福感で満たされていた。
カフェを出た後は、二人でモール内の大型書店へ向かった。
ここが今日のメインイベントの一つだ。
「あ、刃叉羅くん! この作家さんの新刊、出てますよ!」
「おお、マジか。ずっと気になってたんだ。……ひよりは、何か探してる本あるか?」
「私は、少し古い海外文学のコーナーを見てみようかと……あ、これ……」
高い本棚の前で、ひよりが背伸びをして上の段の本を取ろうとする。
しかし、彼女の身長ではあと少し届かない。
「危ないぞ。俺が取るよ」
俺は彼女の後ろからスッと手を伸ばし、目的の本を軽々と抜き取った。
その瞬間、俺の腕が彼女の肩に軽く触れ、彼女の背中が俺の胸元にすっぽりと収まるような形になった。
「あ……」
「……これだろ?」
ひよりがハッとして振り向き、至近距離で視線が絡み合う。
微かに漂う、フローラル系の甘い香り。
一瞬だけ時間が止まったような錯覚に陥った後、俺は慌てて一歩下がり、本を彼女に手渡した。
「あ、ありがとう、ございます……」
「お、おう。気にすんな」
お互いに少しだけ顔を赤くして、視線を泳がせる。
こういうベタなハプニング、漫画や小説の中だけかと思っていたが、実際に起こると心臓の音がうるさすぎて死にそうになる。
その後、お互いに二、三冊の本を購入し、書店を後にした。
時刻はすでに夕方近く。
モール内のベンチに座り、少し休憩しながら、俺たちは他愛のない雑談を続けていた。
「そういえばさ、ひより」
俺はふと、昨日の出来事を思い出し、話題に出した。
「昨日、テストが終わった後なんだけどさ。うちのクラスの平田ってやつに頼まれて、勉強会をやってた連中の打ち上げに付き合わされたんだよ」
「打ち上げ、ですか?」
「ああ。みんな今月はポイントがゼロで金欠だったから、俺の部屋に呼んで、俺が料理を振る舞ったんだ」
俺がそう言うと、ひよりは目を丸くして驚いた。
「刃叉羅くんのお部屋で、ですか? 料理を……?」
「ああ。唐揚げとかフライドポテトとか、ピザとか。高校生が好きそうなジャンクなパーティー料理だけどな。みんな美味いって喜んで食べてくれたよ」
俺としては、ただの日常報告のつもりだった。
しかし、ひよりの反応は俺の予想と少し違っていた。
彼女は、持っていた紙袋を膝の上でギュッと握りしめ、少しだけ俯き加減で……上目遣いに俺を見たのだ。
その瞳には、ほんのわずかな『羨望』と、隠しきれない『嫉妬』のような色が混じっていた。
「……羨ましいです」
ぽつりと、静かな声が落ちる。
「え?」
「私……刃叉羅くんのお料理、食べたことないのに。……クラスの女の子たちは、刃叉羅くんのお部屋で、手料理を食べたんですね」
(――――――――ッッッ!!!!!!!)
俺の脳天を、雷が直撃した。
嫉妬。ジェラシー。
あの天使のように優しく、常に穏やかなひよりが、俺が他の女子たちに料理を振る舞ったことに、明確に嫉妬している。
「私も食べたかった」「私だけの刃叉羅くんなのに(幻聴)」という、ささやかな独占欲。
(か、かわ、可愛すぎる……ッ!! 悶絶死する!!)
俺の心の中の『呉 刃叉羅』が、床を転げ回って血の涙を流しながら歓喜の絶叫を上げていた。
破壊力が高すぎる。こんなの、暗殺の毒なんかよりもよっぽど致死量だ。
「あ、あのっ……ご、ごめんなさい! 私、なんだか変なことを……!」
ひよりはハッとして自分の発言に気づき、慌てて顔を真っ赤にして手を振った。
「その、違うんです! 刃叉羅くんが優しいから、みなさん嬉しかっただろうなって思っただけで、決してズルいとか、そういう意味じゃなくて……!」
しどろもどろになって弁解する彼女を見て、俺の心の導火線に完全に火がついた。
「ひより」
俺は、彼女の言葉を遮るように、真剣な声で名前を呼んだ。
「……はい」
「俺の手料理、食べてみたいか?」
俺が真っ直ぐに目を見つめて尋ねると、ひよりは一瞬だけ躊躇った後、小さな声で、しかしはっきりと頷いた。
「……はい。とっても、食べてみたいです」
「なら、決まりだ」
俺はベンチから立ち上がり、ひよりに手を差し伸べた。
「今日の晩飯、俺の部屋に食いに来い。俺の得意な和食のフルコース、ひよりのためだけに作ってやるよ」
俺の提案に、ひよりは目をパチクリと瞬かせ、それから、パァッと花が咲くような満面の笑顔を見せた。
「本当ですか!? ……はいっ! 喜んで、お邪魔させていただきます!」
ひよりは俺の手を嬉しそうに取り、立ち上がった。
その小さな手の温もりを感じながら、俺は内心で凄まじい冷や汗をかいていた。
(……やばい。やばいやばいやばい!!)
勢いで誘ってしまったが、よく考えろ。
『ひよりと、俺の部屋で、二人きり』だ。
昨日のは平田という男子もいたし、何より大人数でのパーティーだった。
しかし今回は、密室に、思いを寄せる女の子と二人きり。
健全な男子高校生の理性が、果たしてどこまで持つのか。
だが、誘ってしまった以上、もう後には引けない。
俺は自分の胃袋(あるいは貞操観念)を試される究極の試練へと、愛しい天使をエスコートして歩き出した。
俺の男子寮の部屋の前に到着し、鍵を開ける。
「どうぞ。散らかってはないと思うけど、適当にくつろいでてくれ」
「お邪魔します……わぁ、すごく綺麗なお部屋ですね。それに、なんだか刃叉羅くんの匂いがします」
ひよりが部屋に入るなりそんなことを言うので、俺の動悸は早くも限界を突破しそうになった。
「そ、そうか? 汗臭くないならいいけど……。ちょっと待ってろ、すぐ準備するから」
俺は慌ててキッチンに逃げ込み、エプロンを締め直した。
冷蔵庫を開け、昨日買い込んでおいた食材のストックを確認する。
よし。昨日のジャンクなパーティー料理とは違う、俺の真骨頂である『繊細な和食』で勝負だ。
鰹と昆布で丁寧に出汁を引き、部屋中にふんわりとした上品な香りを漂わせる。
キッチンからリビングを覗くと、ひよりはソファにちょこんと座り、俺が料理をする背中を興味津々といった様子で見つめていた。
「刃叉羅くん、包丁の音がすごく綺麗です。トントントントンって、リズムが良くて……見ているだけで楽しいです」
「ははっ、昔から実家で仕込まれてるからな」
彼女の視線を背中に感じながら料理をする。
まるで、新婚生活のような錯覚に陥り、思わず包丁で自分の指を切り落としそうになるのを、超人的な集中力でなんとか回避した。
一時間後。
「お待たせ。刃叉羅特製・和食御膳だ」
ローテーブルの上に、彩り豊かな料理が並べられた。
ふっくらと焼き上げた出汁巻き玉子。カレイの煮付け。じっくりと味を染み込ませた肉じゃが。ほうれん草の胡麻和え。そして、炊きたての白ご飯と、豆腐とワカメの味噌汁。
「わぁ……!! すごいですっ!」
ひよりの目が、キラキラと星のように輝いた。
「お店の料理みたいです! すごくいい香りがします……っ!」
「口に合うといいんだけどな。さあ、冷めないうちに食べてくれ」
「はいっ。……いただきます」
ひよりは両手を合わせ、まずは出汁巻き玉子を箸で割り、一口食べた。
その瞬間。
彼女の動きが止まり、大きく目が見開かれた。
「……んんっ!」
「ど、どうだ?」
「美味しい……! すごく美味しいです! お出汁がジュワッて口の中に広がって、フワフワで……私、こんなに美味しい玉子焼き、初めて食べました!」
ひよりは感動したように頬に手を当て、次々と箸を進めていく。
カレイの煮付けを食べては「味が染みてて美味しい」と微笑み、肉じゃがを食べては「お肉がホロホロです」と顔を綻ばせる。
その、幸せそうに俺の作った飯を頬張る姿を見ているだけで。
俺の胸の奥は、これまで感じたことのないほどの強烈な多幸感で満たされていた。
暗殺者として、誰かの命を奪うことしか教えられてこなかったこの手。
それが今、一人の女の子のために料理を作り、彼女をこんなにも笑顔にしている。
これ以上の喜びが、この世のどこにあるというのだろうか。
「刃叉羅くん、お料理、本当に上手なんですね。」
ひよりは、ご飯を綺麗に平らげた後、温かいお茶を飲みながら満面の笑みで言った。
「そう言ってもらえると、作った甲斐があるよ。ひよりが美味しそうに食べてくれるのが、俺にとって一番嬉しいからな」
俺が本音を漏らすと、ひよりは嬉しそうに目を細めた。
そして、お茶の入った湯呑みを両手で包み込みながら、少しだけ上目遣いで俺を見た。
「あの、刃叉羅くん」
「ん?」
「私……お料理、あまり得意ではないんですけど……。また、時々こうして、刃叉羅くんのご飯を食べに来ても、いいですか?」
(――――ッッ!!)
今日何度目か分からない心臓の爆発。
「また来てもいいですか?」
それはつまり、「また私をあなたの部屋に呼んでください」と同義だ。
俺は、込み上げてくる歓喜の叫びを必死に喉の奥に押し込め、極めて平静な、しかし優しさに満ちた声で答えた。
「ああ。いつでも食べに来てくれ。ひよりのためなら、毎日だって作ってやるよ」
「ふふっ……本当ですか? 約束ですよ」
ひよりは、本当に、心の底から幸せそうに微笑んだ。
その後、二人で食後の紅茶を飲みながら、今日買った本を読み合ったり、他愛のない話で笑い合ったりした。
誰にも邪魔されない、密室での二人きりの時間。
変な緊張感はいつの間にか消え去り、そこにはただ、寄り添うように穏やかな空気だけが流れていた。
夜の八時を過ぎた頃。
「そろそろ、帰りますね。今日は本当に、ありがとうございました」
名残惜しそうに立ち上がるひよりに、俺は上着を羽織った。
「女の子を一人で帰らせるわけにはいかないからな。寮の前まで送るよ」
俺たちは一緒に部屋を出て、夜の風が心地よい敷地内を並んで歩いた。
女子寮の入り口が見える場所まで来ると、ひよりは立ち止まり、振り返った。
「今日は、本当に楽しかったです。テストの疲れも、全部吹き飛んじゃいました」
「俺もだ。ひよりと一日中一緒にいられて、最高のお疲れ様会だったよ」
「……はい。また月曜日、図書室で会いましょうね。刃叉羅くん」
「ああ。おやすみ、ひより」
ひよりは小さく手を振り、女子寮の中へと消えていった。
彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、俺は自分の男子寮へと歩き出した。
帰り道。
夜空には、満天の星が瞬いていた。
俺は、先ほどまで自分の部屋に彼女がいた事実と、彼女の笑顔、そして「また来たい」と言ってくれた言葉を反芻していた。
「……あぁ、幸せすぎるな」
自然と、口元が緩んでしまう。
暗殺者としての冷徹な思考など、今の俺には微塵も残っていない。
ただの一人の男子高校生として、一人の少女に心を奪われている事実が、そこにはあった。
「俺……完全に、ひよりのこと好きだよなぁ」
誰もいない夜道で、俺は静かに、自分の確かな恋心を自覚した。
出会った頃から「天使だ」とは思っていたが、今日のデート、そして部屋での出来事を経て、その感情は疑いようのない『恋』へと昇華していた。
もし彼女を傷つける者がいれば、俺は世界を敵に回してでも戦うだろう。
だが、そんな物騒なことよりも、まずは彼女に美味しいご飯を作り、一緒に本を読み、笑い合う日々を重ねていきたい。
「……これも、青春だなぁ」
俺は夜空に向かって大きく息を吐き、足取り軽く寮への帰路を急いだ。
血塗られた過去を持つ暗殺者は、この箱庭の学校で、確かに光り輝く青春のど真ん中を歩み始めていたのだった。