六月上旬
中間テストという一つの大きな嵐が過ぎ去った、日曜日の朝。
「ふあぁ……よく寝た」
学生寮の自室で目を覚ました俺――呉 刃叉羅は、ベッドの上で大きく伸びをした。
昨日、ひよりと一緒にケヤキモールへ行き、そしてこの部屋で手料理を振る舞った余韻が、まだ胸の奥にじんわりと温かく残っている。
(あぁ、幸せだったな……)
そんな甘酸っぱい感情を反芻しながら、俺は顔を洗い、休日のリラックスした私服に着替えた。
さて、今日は何をしようか。
ひよりとは昨日一日中一緒にいたし、連日誘うのもがっついているようで悪い気がする。
冷蔵庫を開けると、金曜日の打ち上げパーティーと、昨日のひよりのための和食御膳を作った残りの食材が、まだ少しだけ鎮座していた。豚バラ肉のブロック、卵、にんにく、ネギ。
「……そういえば」
俺の脳裏に、自分の後ろの席に座る無気力な少年の顔が浮かんだ。
綾小路清隆。
一昨日の放課後、須藤の退学を取り消すために、堀北と共に裏で動いていた男。
俺の推測が正しければ、彼らは茶柱先生からテストの『1点』をポイントで買ったはずだ。それも、おそらく法外な値段で。
普段から無駄遣いをしていない綾小路とはいえ、かなりポイントを消費して金欠に陥っているのではないだろうか。
「今日は、あいつでも誘うか」
俺は端末を手に取り、連絡先から綾小路の名前を選んで発信ボタンを押した。
数回のコール音の後、ガチャリと通話が繋がる。
『……なんだ、呉か』
「おお、急にごめんな。今日、暇か?」
『ああ。特に予定はない』
相変わらず、感情の起伏が一切感じられない平坦な声だ。
「なら、俺の部屋こいよ。飯、作ってやる」
『行く』
――ブツッ。ツーツーツー。
「……」
俺は、通話が切れた端末の画面を見つめ、思わず苦笑した。
「めちゃくちゃ食い気味だったな……。『行く』っつってすぐ切りやがったし。どんだけ腹空かせてんだよ」
いくら感情が読めないやつとはいえ、食欲という生物の根源的な欲求には抗えないらしい。ポイントが枯渇して、まともな飯が食えていないのだろう。
俺がキッチンに立ち、豚バラ肉を切り分けようと包丁を手に取った、まさにその瞬間だった。
ピンポーン。
「……は?」
時計を見る。電話を切ってから、まだ三分も経っていない。
同じ学生寮とはいえ、準備をして部屋を出て、エレベーターに乗ってここまで来るには異常な早さだ。
ドアを開けると、そこには普段の制服ではなく、シンプルな無地のパーカーを着た綾小路が立っていた。
「早えな! お前、電話切ってからダッシュで来たのか?」
「……お邪魔します」
綾小路は俺のツッコミを華麗にスルーし、ペコリと軽く頭を下げて部屋に入ってきた。その目は、すでにキッチンの方へと釘付けになっている。
「おう。適当に座ってろ。今からガッツリしたもん作るからな」
俺は苦笑しながらドアを閉め、キッチンへと戻った。
今日作るのは、ひよりに振る舞ったような繊細な和食や、女子向けの小洒落たパーティー料理ではない。
育ち盛りの男子高校生が泣いて喜ぶ、暴力的なまでのカロリーと旨味の塊――『超特大・豚バラ肉のガーリック炒飯』だ。
フライパンに大量のラードとにんにくを放り込み、火にかける。
香ばしい匂いが部屋中に充満し始めたところで、厚切りにした豚バラ肉を投入。焦げ目がつくまでカリッと焼き上げ、そこに溶き卵と大量の白飯を叩き込む。
中華鍋を振る要領で、一粒一粒に油をコーティングしていく。味付けは醤油、塩胡椒、そして隠し味に少しのオイスターソースと鶏ガラスープの素。
「……」
背後から、無言の凄まじいプレッシャーを感じる。
振り返らなくてもわかる。綾小路が、ソファーから身を乗り出してフライパンをガン見しているのだ。
「焦るな。すぐできる」
仕上げにネギを散らし、強火で一気に香りを引き立たせてから、深めの皿に山盛りに盛り付ける。ついでに、余っていた卵で作った簡単な中華スープを添えて、テーブルに運んだ。
「ほら、食え。男の野郎飯だ」
「……いただきます」
綾小路はスプーンを手に取ると、山盛りの炒飯を崩し、無言のまま猛烈な勢いで口に運び始めた。
「ん……」
一口食べた瞬間、彼の無表情な顔に、わずかに『感動』のような光が宿ったのが分かった。
そこからは、ただひたすらに無言の暴食である。金曜日の女子たちのように「美味しいー!」とキャッキャ騒ぐわけでもなく、ただ黙々と、だが恐ろしいスピードで皿の上の山が平らげられていく。
「お前、本当に腹減ってたんだな……」
「……美味い。コンビニの弁当とは次元が違う」
五分後。
綾小路は最後の一粒まで綺麗に平らげ、スープを飲み干して深く息を吐いた。
「ごちそうさまでした。……生き返った」
「そりゃよかった。お茶淹れるから、ゆっくりしてろ」
俺は二つのマグカップにお茶を淹れ、ローテーブルを挟んで綾小路の向かいに座った。
食後の温かいお茶を一口飲み、一息ついたところで、綾小路が真っ直ぐに俺を見て口を開いた。
「ありがたいが……急にどうしたんだ? わざわざ休日に俺を呼んで、飯まで振る舞ってくれるなんて」
その声には、純粋な疑問が混じっていた。
彼のような人間は、他人の無償の善意というものを簡単には受け取らない性格をしているのだろう。
俺は肩をすくめ、マグカップをテーブルに置いた。
「まあ、こないだテストが終わった後、平田や軽井沢たちにも打ち上げで飯を振る舞ったしな。友人のお前にも、美味いもん食わせてやりたいなって思っただけだよ」
「友人、か」
綾小路が、その単語を反芻するように呟く。
「なんだよ、迷惑だったか?」
「いや……そんなことはない。素直に嬉しい」
綾小路は短く答え、お茶を飲んだ。
だが、俺の目的はただ彼に飯を食わせることだけではない。この際だから、少しだけ探りを入れてみようと思ったのだ。
「それに……」
俺は口元に微かな笑みを浮かべ、少しだけ声を潜めた。
「お前、須藤を救うために、結構ポイント使ったんじゃないのか?」
「――――」
ピタリ、と。
綾小路がマグカップを持つ手が止まった。
表情こそ変わらないものの、彼が纏う空気が一瞬だけピンと張り詰めたのを、暗殺者の直感が見逃さなかった。
「……なんのことだ?」
綾小路は、あくまで無知を装うように、淡々と問い返してきた。
俺はフッと息を漏らして笑った。
「ふっ……まあ、隠したいなら詮索するつもりはないさ。ただの俺の推測だからな」
俺はそれ以上深く踏み込むことなく、ひらひらと手を振って見せた。
「お前と堀北が席を立った後、絶望的だった須藤の退学が取り消された。あの状況で、この学校のルールを逆手にとってできることなんて一つしかない。テストの点数を『ポイントで買う』ことだ。……それも、たった1点分だけな」
俺の完璧な推理を聞かされても、綾小路は表情を崩さなかった。
「俺は、須藤がどうなろうが知ったこっちゃない。だが、あの土壇場でその機転を利かせた奴には、素直に感心してる。……だから、金欠で腹を空かせてるなら、友人として飯くらい奢ってやろうと思ったのさ。それ以上の理由はない」
俺が種明かしをすると、綾小路はしばらく無言で俺の目を見つめていた。
まるで、俺の真意を測ろうとするかのような、静かで、深い観察の目。
やがて、綾小路は小さく息を吐き、マグカップをテーブルに置いた。
「……お前の観察眼には恐れ入る。そこまで見抜かれていては、隠すだけ無駄だな」
綾小路は、詮索しないと言ってくれた俺への信頼からか、あるいは実際にポイントが枯渇しているという事実からか、珍しく正直に口を開いた。
「お前の言う通りだ。テストの点数を1点分だけ、茶柱先生から買った。……値段は、10万ポイントだった」
「1点10万か。足元見てきやがるな、あの教師」
「ああ。俺と堀北のポイントを合わせて、なんとか足りたという状況だ。だから、正直に言うと今の俺の残高は数千ポイントしかない。今日の飯は、本当に助かった」
これで、彼が異常な早さで俺の部屋に飛んできた理由が完全に裏付けられた。
「だが、勘違いしないでくれ。その抜け道に気づいて茶柱先生に提案したのは、俺じゃない。……堀北だ。俺はただ、ポイントが足りない彼女に貸しただけだ」
「ほう、堀北がね」
俺は内心で『嘘をつけ』と思いながらも、表面上は納得したように頷いた。
確かに彼女は優秀だが、あの真面目で融通の利かない堀北が『テストの点数をポイントで買う』なんていうルールの抜け道のような交渉を、自分から思いつくとは到底思えない。間違いなく、この目の前にいる無気力な少年が彼女を誘導し、動かしたのだろう。
だが、彼が表に出たくないというのなら、その意思を尊重してやるのが友人の役目というものだ。
「まあ、どっちにしろお前がポイントを払って須藤を救ったのは事実だろ。気にすんな、ポイントが振り込まれるまで、いつでも飯食いに来いよ」
「……毎日山菜定食はキツいからな、感謝する」
それからは、お互いの秘密に深く干渉することなく、ごく普通の男子高校生らしい雑談に花を咲かせた。
ゲームの話、授業の愚痴、学生寮の設備の使い勝手について。
図書室でのひよりとの甘い時間とは全く違うが、こういう野郎同士の気楽な時間も、悪くない。
一時間ほど滞在した後、「長居してすまなかった」と綾小路は立ち上がった。
「また来いよ。次は何食いたいか、リクエストくらいは聞いてやる」
「……考えておく」
俺はドアの前で綾小路を見送り、彼がエレベーターに乗り込むまで手を振った。
彼が去った後の部屋は、ふたたび静寂に包まれる。
「さてと。洗い物でもするか」
俺は伸びをして、キッチンへと向かった。
友人をもてなし、他愛のない話で笑い合う休日。
これこそが、俺が夢にまで見た『青春』の1ページだ。満ち足りた思いを胸に、俺は鼻歌交じりに食器を洗い始めた。
一方、その頃。
学生寮の自室に戻った綾小路清隆は、無機質なほどに片付いた自室のベッドに腰を下ろしていた。
「……」
彼の脳裏を占めているのは、先ほどまでいた部屋の主――自分の前の席に座る、呉 刃叉羅の存在だった。
『友人のお前にも、美味いもん食わせてやりたいなってな』
友人。
その言葉の響きは、綾小路にとって酷く異質で、未だに実感を伴わないものだった。
真っ白な部屋で、ただ『最高傑作』となるためだけに異常な教育を施されてきた彼にとって、他者とはすべて実験対象か、排除すべき敵、あるいは利用する駒でしかなかった。
確かに、この学校に来てから、須藤や池、山内といったクラスメイトたちと「友人」と呼べるような関係性は築きつつある。教室で他愛のない会話を交わしたり、昼食を共にしたりする程度の付き合いは発生していた。
だが、休みの日に好んで彼らと遊ぶかと言われれば、決してそうではない。彼らの集まりに呼ばれる時は、大抵がカラオケや遊びの『数合わせ』としての役割を期待されているだけだ。それに、彼らは常に騒がしく、エネルギーに満ち溢れすぎていて、事なかれ主義で平穏を望む綾小路の性分とは根本的に波長が合わなかった。
それに比べて、呉刃叉羅という男はどうだろうか。
(呉刃叉羅……あいつには、間違いなく底知れぬ何かがある)
綾小路は、自身の右手をじっと見つめながら、呉の姿を思い返していた。
プールの授業の時、あの見せかけだけではない、極限まで圧縮された実戦用の筋肉を視認した瞬間。綾小路の予測演算は、真っ向からの戦闘における勝率を『ゼロ』と弾き出していた。
ホワイトルームという特殊な環境で、極限まで鍛え上げられた自分の肉体。だが、呉のそれは、後天的な教育や努力だけで到達できる次元を完全に逸脱していた。
少なくとも、純粋な暴力による戦闘になれば、自分は一瞬で肉体を破壊されるだろう。戦闘能力において、彼と自分の間には隔絶した絶対的な壁がある。綾小路はその事実を、とうの昔に冷静に受け入れている。
ボウリング場で見せた、わざとストライクを外すための精密すぎる身体制御。
そして今日、自分がテストの点数をポイントで買ったという事実を、ごく自然な状況証拠から完全に言い当てた異常なほどの洞察力。
普通の高校生が、あの土壇場で『テストの点数を買う』という発想にたどり着くのは極めて難しい。それを、現場に居合わせてもいない呉は、ほんの少しの違和感から正確に見抜いたのだ。
彼は決して、ただの料理好きの気のいい不良ではない。自分を遥かに凌駕するほどの絶対的な暴力を隠し持ちながら、あえて『普通の高校生』を演じている側の人間だ。
(もし呉と本気で敵対することになれば、盤面の外から物理的に破壊されて終わりだろうな。……あの深く暗い瞳の奥には、俺の知らない確かな深淵が広がっている)
「……だが」
綾小路は、ふと口元を緩めた。
『隠したいなら詮索するつもりはないさ』
呉は、核心を突きながらも、そこから先へは一歩も踏み込んでこなかった。
普通なら「なぜお前がそんなことに気づいたのか」「お前は何者なんだ」と根掘り葉掘り聞きたくなる場面だ。しかし彼は、他人の領域に土足で踏み入るような無粋な真似はせず、綾小路の『平穏でいたい』という境界線を完璧に尊重してくれた。
(俺のことを警戒している素振りもない。俺が何を隠していようと、あいつにとっては関係のないことなのだろう)
詮索しない。強要しない。無駄に騒ぎ立てることもなく、ただ腹を空かせているなら美味い飯を食わせてやるという、適度な距離感と飾らない善意。
それが、綾小路にとってはこれ以上ないほどに心地よかった。
「いい友人だな」
綾小路は、天井を見上げながら静かに呟いた。
呉がどんな深淵を隠し持っていようと、互いに不可侵を貫く限り、彼はこの上なく頼もしい隣人であり、気楽な悪友だ。
少なくとも、彼が敵に回らない限り、この学校での生活は少しだけ楽しいものになりそうだった。
「次は……唐揚げでもリクエストしてみるか」
虚無の少年は、口の中に微かに残るガーリック炒飯の旨味を思い出しながら、初めてできた『真に波長の合う良き友人』とのこれからの日常に、ほんの少しだけ期待を寄せるのだった。