青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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十九話

五月の中間テストを無事に乗り越え、高度育成高等学校の敷地内には、初夏を思わせる少し湿気を帯びた風が吹き始めていた。

 

季節は六月の下旬。

梅雨の晴れ間に覗く青空を見上げながら、俺――呉 刃叉羅は、学食のテラス席で深く息を吸い込んだ。

 

「……いやー、普通の高校生活、最高だなぁ」

 

アイスコーヒーのストローを咥えながら、俺は心からの独白を漏らした。

冗談抜きで、この一ヶ月間は俺の人生において最も平和で、最も人間らしい日々だった。

 

放課後になれば、図書室の定位置で、愛しの天使・椎名ひよりと一緒に読書を楽しむ。最近ではお互いの距離もさらに縮まり、休日にケヤキモールのカフェで新作のケーキをつついたり、新刊の小説について熱く語り合ったりする仲だ。彼女が俺に向けてくれる「刃叉羅くん」という声と笑顔は、もはや俺の生命維持装置と言っても過言ではない。

 

クラス内の人間関係も、悪くない。

平田洋介を中心としたグループから「呉くん、週末カラオケ行かない?」と誘われることも増え、付き合い程度に顔を出しては、普通の高校生が歌うような流行りの曲を適当に歌って場を和ませている。軽井沢や佐藤といった女子たちも、テスト勉強を教えた恩からか、俺には気さくに話しかけてくるようになった。

 

そして、後ろの席の無気力な少年・綾小路清隆とも、奇妙な友人関係が続いている。

彼は相変わらずポイントが枯渇気味らしく、週に一、二回のペースで「飯を食わせてくれ」と俺の部屋にやってくる。その度に俺は、男子高校生が歓喜するような茶色いガッツリ飯を振る舞い、適当な雑談を交わして解散する。お互いの深淵には干渉せず、ただの飯仲間としての気楽な距離感が、俺にとっても心地よかった。

 

血の匂いも、殺意も、命のやり取りも存在しない、ただの平和な学生生活。

一族の最高傑作として、物心ついた時から修羅の道を歩んでいた暗殺者の俺にとって、この高度育成高等学校という箱庭は、まさに天国のような場所だった。

 

(この平和な日々が、卒業までずっと続けばいいんだけどな)

 

残りのアイスコーヒーを飲み干し、俺は午後の授業へ向かうために席を立った。

 

 

――そして、その日の放課後。 

 

「ごめんなさい、刃叉羅くん。今日は茶道部の活動が長引きそうで……図書室には行けそうにないんです」

 

昼休みにひよりから申し訳なさそうな声でそう告げられていた俺は、放課後のチャイムが鳴ると同時に、少しだけ手持ち無沙汰になってしまった。

 

ひよりが部活動を楽しんでいるのは素晴らしいことだし、全力で応援したい。だが、図書室にあの銀髪の天使がいないとなると、俺の放課後は途端に色彩を失ってしまう。

 

(さて、真っ直ぐ寮に帰って、ひよりに勧められたミステリーでも読もうか。)

 

鞄に教科書を詰め込み、席を立とうとした時だった。

 

「……呉」 

 

背後から、ひどく平坦な、しかし確かな『要求』を含んだ声が聞こえた。

振り返らなくてもわかる。後ろの席の綾小路だ。

 

「なんだ、綾小路」

 

「今日の夕飯、空いているか。……できれば、肉が食いたい」

 

綾小路は、少しだけ恨めしそうな目で自分の空っぽの財布(端末のポイント画面)を見つめながら、図々しくもリクエストまでしてきた。

 

「お前なぁ……完全に俺を食堂のおばちゃんか何かと勘違いしてないか? まあいいけどさ。ちょうどひよりも部活で、俺も暇してたところだし」

 

俺は苦笑しながら鞄を肩にかけた。

 

「ただし、冷蔵庫の肉のストックが切れてるから、ケヤキモールの中にあるスーパーに買い出しに行くぞ。荷物持ちくらいは手伝えよ」

 

「ああ、構わない。労働力は提供する」

 

こうして、ひよりが不在の放課後、俺は無気力な友人と共にケヤキモールへと向かうことになった。

 

 

梅雨の合間の夕暮れ時。

モール内のスーパーマーケットは、自炊派の生徒たちでそれなりに賑わっていた。

俺はカートを押し、綾小路がその後ろをトコトコとついてくる。

 

「豚コマ肉がグラム98円か……まあ、悪くないな。今日はこれで生姜焼きにするか。それとも鶏モモで唐揚げがいいか?」

 

「……唐揚げがいい。できれば、前にお前の部屋で出た、にんにく醤油のやつを」

 

「了解。なら、鶏モモ肉のジャンボパックと、片栗粉も買っておくか」

 

食材を吟味し、次々とカートに放り込んでいく俺の横で、綾小路は不思議そうな顔で精肉コーナーのラベルを見つめていた。

 

「グラム98円というのは、安いのか?」

 

「スーパーの相場からすれば特売価格だ。お前、物の値段とか全然気にしてないだろ」

 

「……俺が育った環境では、自分で食材を選んで調理するという概念がなかったからな。最近ようやく理解できてきたところだ」

 

「ふーん。まあ、少しずつ覚えていけばいいさ。自炊できる男はモテるらしいぞ」

 

俺が適当に返すと、綾小路は「そういうものか」と真剣な顔で呟いていた。相変わらず、変なところで素直なやつだ。

 

買い物を終え、両手にずっしりと重いレジ袋を提げた俺たちは、スーパーを出てケヤキモールの連絡通路を歩いていた。

 

「重いなら半分持つぞ、呉」

 

「いや、いい。これくらい指一本でも持てる重さだ。お前は俺の分までジュースでも奢ってくれりゃそれでいいよ」

 

「分かった。自販機で買おう」

 

そんな、高校生らしい平和な会話を交わしながら、人気のない裏通路を歩いていた、その時だった。

 

――――ゾクリ。

俺の全身の産毛が、一瞬にして逆立った。

両手に提げていたレジ袋の重さを忘れ、足の動きがピタリと止まる。

 

「……ッ」

 

隣を歩いていた綾小路も、同時に足を止めた。

 

彼もまた、その無表情の裏で、全身の筋肉を硬直させ、極限の警戒態勢に入っているのが気配でわかった。普段の無気力な高校生の仮面が外れ、冷徹な戦闘態勢。重心がミリ単位で下がり、いつでも迎撃できるように無意識の構えを取っている。

 

(なんだ……? この、濃密すぎる気配は……!)

 

俺の『暗殺者』としての防衛本能が、警鐘をけたたましく鳴らしていた。

尋常ではない、圧倒的な武のオーラ。

 

ここが学校の敷地内だろうが関係ない。このレベルの気配を放つ者が現れたということは――。

 

(郷からの追っ手か!? それとも、俺の命を狙う同業の暗殺者か……!)

 

俺はレジ袋を静かに床に置き、呉一族の秘伝である『外し』をいつでも解放できるよう、体内のリミッターに手をかけた。

 

綾小路もまた、無言のまま視線を鋭くし、気配のする前方――通路の角の影へと意識を集中させている。

 

張り詰めた緊張感が、通路を支配する。

そして、夕陽が差し込む角の影から――。

 

「やっほー! 刃叉羅! 久しぶりっ!」

 

ポンッ、と。

張り詰めた殺気を完全にぶち壊すような、やけに明るく、そして極めて聞き覚えのある快活な声が響き渡った。

 

「――――は?」

 

俺の思考が、完全に停止した。

 

角から姿を現したのは、高度育成高等学校の制服ではない、動きやすい黒のタンクトップにショートパンツというラフな私服姿の、一人の少女だった。

 

艶やかな黒髪をポニーテールにまとめ、健康的なプロポーションを惜しげもなく披露している。

 

そして何より特徴的なのは、その瞳。

白目であるはずの強膜が漆黒に染まり、虹彩だけが不気味に発光しているような、俺と同じ特有の異形の瞳。

 

「……ね、姉ちゃん!?」

 

俺は間抜けな声を上げ、その場に棒立ちになってしまった。

俺の姉――呉 迦楼羅(くれ かるら)だった。

 

「アハハッ! 刃叉羅、すっごく間抜けな顔してる!」

 

迦楼羅は俺の驚く顔を見て、ケラケラと楽しそうに笑いながら駆け寄ってきた。

 

「ちょっと気配強めに出してみたけど、やっぱり刃叉羅ならすぐ気づくと思った! ビックリした?」

 

「ビックリしたなんてもんじゃねえよ! わざとあんな気配出してたのかよ! 寿命縮むかと思ったわ!」

 

俺は心底安堵して脱力しつつも、慌てて周囲を見回した。

 

ここは日本政府が直轄し、外部との接触が完全に遮断されているはずの、高度育成高等学校の敷地内だ。生徒は三年間、敷地から出ることを許されず、外部の人間が立ち入ることも厳重に禁止されている。

 

「ここ、外部との接触禁止だぞ! どうやって入ってきたんだよ!」

 

俺が詰め寄ると、迦楼羅は胸を張って、自慢げに鼻を鳴らした。

 

「ふふん! あの程度のセキュリティじゃ、私には意味ないよ! 監視カメラの死角を突いて、赤外線センサーのタイミングをズラして、外壁をよじ登ってきたの! 楽勝楽勝!」

 

「……」

 

呆れて言葉も出ない。

政府が何百億と予算をかけたであろう最新鋭のセキュリティシステムを、身体能力と技術だけで突破してきたというのか。非常識にも程がある。

 

「いや、どうやって入ったかはもういい。……それで? なんでわざわざ危険を冒してまでここに来たんだよ。爺様が何か言っていたのか?」

 

俺の口調が、自然と真剣なものに戻る。

 

もし爺様からの勅命で、俺を実家に連れ戻しに来たのだとしたら。俺のこの平穏な青春は、今日ここで終わりを迎えることになる。

 

だが。

 

「ううん、違うよ! 連れ戻しに来たわけじゃないから安心して!」

 

迦楼羅は俺の不安をあっさりと否定し、呆れたようにため息をついて見せた。

 

「実はさ、爺様が毎日毎日『おお、刃叉羅は元気にしとるんじゃろうか……』『凡人どもに嫉妬されて、いじめられとらんじゃろうか……』って、ずーっと心配してウジウジ泣きながら電話してくるからさ! さすがに暑苦しかったから、私が代表して様子を見に来たってわけ!」

 

「……あのジジイ、曾孫をなんだと思ってるんだ。だいたい、俺がいじめられるわけねえだろ」

 

俺は心底呆れ果てて額を押さえた。一族の長たる人間が、暗殺者として育て上げた曾孫を普通のひ弱な高校生のように心配している図は、あまりにもシュールすぎる。

 

「アハハ! 私もそう言ったんだけどね! でも、ちゃんと元気にやってるみたいだし、それに、お友達も出来てるみたいで安心したよ」

 

迦楼羅はそう言って、俺の後ろで静かに佇んでいる綾小路へと視線を向けた。

その瞬間、迦楼羅の黒い瞳の奥に、ほんの僅かな興味の光が宿ったのを俺は見逃さなかった。姉ちゃんほどの達人なら、綾小路がただの高校生ではないことに気づいているはずだ。

 

しかし、迦楼羅はすぐに元の無邪気な笑顔に戻り、綾小路に向かってヒラヒラと手を振った。

 

「うちの刃叉羅と仲良くしてくれてありがとね! ちょっと口は悪いけど、料理は上手だし優しい子だから、これからもよろしくね!」

 

「……ああ。こちらこそ」

 

綾小路も、警戒を解かないまま、静かに頷き返した。

 

「さてと! 元気な顔も見れたし、長居するとさすがに見つかっちゃうかもしれないから、私はもう帰るね!」

 

迦楼羅は身軽な動作で踵を返し、来た道を戻ろうとする。

 

「おい、待てよ。……帰るって、またあの壁越えていくのか?」

 

「当たり前でしょ! 爺様にも元気だったって伝えとくからね! じゃあね刃叉羅! 学校生活、楽しんでね!」

 

「……ああ。爺様たちによろしくな」

 

俺が呆れ半分で手を振り返すと、迦楼羅は「ばいばーい!」と元気よく叫び、そのまま風のように、瞬く間にモールの影へと姿を消してしまった。

 

「…………」

 

後に残されたのは、夕暮れの静寂と、床に置かれた豚肉の入ったレジ袋。

そして、深い疲労感に襲われて肩を落とす俺と、無表情の綾小路だけだった。

 

「……はぁぁぁぁぁっ」

 

俺は、寿命が三年ほど縮んだような深いため息をついた。

心臓がまだバクバク言っている。まさか、この平穏な箱庭に、俺のルーツである実家の人間が直接乗り込んでくるとは思わなかった。

 

「……呉のお姉さん、か?」

 

不意に、綾小路がポツリと問いかけてきた。

 

俺は床からレジ袋を拾い上げながら、力なく頷いた。

 

「ああ。騒がしくてごめんな。……ちょっと、爺様も含めて実家が過保護っていうか、特殊なもんでさ。あんな風に、たまに突拍子もないことをする姉ちゃんなんだよ」

 

綾小路は、それ以上何も聞かなかった。

俺の実家の事情も、姉ちゃんの異常な気配についても、一切詮索することなく、ただ「呉の姉が会いに来た」という事実だけを淡々と受け入れてくれたのだ。

 

(……ありがたいな)

 

俺は内心で、この距離感を保ってくれる友人に深く感謝した。

お互いの過去には踏み込まない。それが、俺たちがこの学校で『普通の高校生』として共存するための暗黙のルールなのだ。

 

「悪いな、足止めしちまって。帰って早く唐揚げ作るぞ」

 

「ああ。頼む」

 

俺たちは再び歩き出し、学生寮へと帰路についた。

 

 

その夜。

呉の部屋で山盛りの唐揚げを平らげた綾小路清隆は、自分の部屋に戻り、ベッドの上に静かに横たわっていた。

 

満腹感と共に、彼の脳裏を支配していたのは、夕暮れのケヤキモールで邂逅した『呉の姉』――迦楼羅の姿だった。

 

「……」

 

綾小路は、自身の右手をゆっくりと持ち上げ、その手のひらを見つめた。

 

視認しただけで、相手の筋肉量、骨格、重心の置き方、呼吸のテンポから、その人間の戦闘能力をある程度、正確に弾き出すことができる彼。これまで出会ってきたどんな人間も、彼にとっては『計測可能』であり、『処理可能』な存在でしかなかった。

 

だが、今日あのモールの通路で対峙した迦楼羅が放っていた気配は、綾小路の予測演算に強烈なノイズを走らせるものだった。

 

『うちの刃叉羅と仲良くしてくれてありがとね!』

 

無邪気に笑いながら彼に向けられた、一瞥。

その瞬間、綾小路は確かに見た。彼女の小柄な身体に極限まで圧縮された、常人の枠を超越した圧倒的なポテンシャルと、底知れない闘気を。

 

(……俺と互角か。あるいは、それ以上かもしれないな)

 

綾小路の脳内で弾き出された結論は、彼自身にとっても驚くべきものだった。

技術の優劣を語る以前に、純粋な身体能力、生物としてのポテンシャルが底知れない。まさか、同年代の、しかもあんな小柄な女の身で、ホワイトルームの最高傑作である自分と同等以上の身体スペックを有する個体が存在するとは。

だが、綾小路にとって、それは今更「絶望」や「恐怖」を抱くような事実ではなかった。

 

なぜなら彼にはすでに、彼女よりも遥かに巨大で、絶対的な『理不尽』を見慣れていたからだ。

 

彼が思い浮かべたのは、友人である――呉 刃叉羅の姿だった。

 

姉の強さもバケモノじみていたが、呉 刃叉羅が抱えている深淵は、姉の比ではない。暴力の質量も、速度も、次元そのものが完全に隔絶している。

 

「……それにしても、姉弟揃ってあの異常な身体スペック、か」

 

綾小路は、天井を見上げながらポツリと呟いた。

単なる突然変異や、個人の天賦の才という言葉で片付けるには、あまりにも不自然だ。

 

あの圧倒的な暴力を内包した二人の存在。それは、彼らの血筋に由来する異常な遺伝的要素によるものなのか。それとも、彼らもまた、ホワイトルームのような特殊な環境で常軌を逸した教育を施されてきたのか。

 

(……彼らの背後には、俺の知らない果てしなく深い裏の世界が存在しているのは間違いないだろうな)

 

だが。

そこまで推測を広げたところで、綾小路はふっと息を吐き、自らその思考のスイッチを切った。

 

「……まあ、考えるだけ無駄か」

 

気にならないと言えば嘘にはなるが、彼らがどんな過去を持ち、どんな世界で生きてきたのか。それを詮索する気は、今の彼には一切なかった。

 

なぜなら、呉 刃叉羅という男もまた、綾小路が抱える底知れない闇や過去に対して、一切踏み込んでこないからだ。

 

互いに深い事情には触れず、干渉せず、ただの気のいいクラスメイトとして接する。あいつが俺の過去を詮索しない以上、俺もあいつの背景を掘り下げるような無粋な真似はしない。

 

あの理不尽な暴力の権化は、こちらから敵対さえしなければ、最高に美味い手料理を腹一杯振る舞ってくれるただの良い友人だ。これからも、その恩恵にだけ預かるのが最も合理的で心地よい。

 

影の支配者は、広大な世界の広がりを感じさせる未知の姉弟への分析を完全に放棄し、静かにまぶたを閉じた。

 

 

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