茶柱先生が教室から退出すると、ピンと張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
無理もない。入学初日、初めて顔を合わせるクラスメイトたち。そこにいきなり10万円という大金が支給され、さらに担任からは謎めいた言葉を残されたのだ。誰もがどう振る舞うべきか、手探りの状態であることは疑いようがない。
そんな、どこか落ち着かない空気を打破するように、一人の男子生徒が立ち上がった。
「みんな、ちょっといいかな?」
よく通る、爽やかな声だった。
俺が視線を向けると、そこにはいかにも「好青年」といった風貌の男子生徒が立っていた。染めていない清潔感のある髪、整った顔立ち、そして誰に対しても分け隔てなく接しそうな、オープンな雰囲気。
「今日からこのクラスで一緒に過ごすわけだけど、まだお互いの顔も名前も分からない状態だ。だから、これから自己紹介をしないかい? まずは僕から……」
「賛成ー! てか、それめっちゃいいじゃん!」
彼が提案を最後まで言い切る前に、明るく弾んだ声が教室に響いた。
声の主は、少し後ろの席に座っている女子生徒だった。艶やかな金髪をポニーテールにまとめ、制服の着こなしも少し着崩している。いわゆる『ギャル』と呼ばれるような派手な見た目だが、その顔立ちは非常に整っており、クラスの男子たちの視線を集めるだけの華があった。
彼女の名前は、確か軽井沢恵(かるいざわ けい)、だったか。
「ねえ、佐藤さんもそう思うっしょ?」
「うんうん! 平田くんの言う通りだと思う! 私も自己紹介賛成!」
軽井沢の隣の席にいる、佐藤麻耶(さとう まや)という女子生徒も同調する。彼女もまた、軽井沢に似た系統の派手めな女子だ。
この平田という男子を中心に、早くもクラスの中に明確なヒエラルキー――スクールカーストの頂点が形成されつつあるのが分かった。人間というのは、集団になると必ずこうやってリーダー格を生み出し、群れを作ろうとする。暗殺のターゲットを絞り込む際にも、こういった人間関係の構造を把握することは基本中の基本だ。
……いかんいかん。また暗殺者としての思考の癖が出ている。俺は普通の高校生なんだ。
「ありがとう。じゃあ、まずは僕から自己紹介させてもらうよ。僕は平田洋介(ひらた ようすけ)。中学ではサッカー部だったから、この学校でもサッカーを続けようと思ってる。みんな、よろしくね」
非の打ち所のない、完璧な自己紹介だった。彼に好意的な視線を送る女子も少なくない。
平田の鮮やかな進行により、自己紹介は一番前の席から順番に行われることになった。
趣味、出身地、部活。当たり障りのないプロフィールが次々と語られていく。俺はそれを聞き流しながら、クラスメイトたちの顔と名前、そして声のトーンから読み取れる性格を脳内にファイリングしていった。
そして、順番が教室の後方、一人の男子生徒に回ってきた時のことだ。
「……あ?」
燃えるような赤髪をした、いかにも不良といった風貌の男子生徒――須藤健(すどう けん)だった。
彼は自分の番が回ってきたにも関わらず、立ち上がるどころか、苛立たしげに舌打ちをした。
「俺たちはガキじゃねぇんだよ。なんだよ自己紹介って。仲良しごっこをするつもりはねぇんだよ」
ドンッ! と、須藤が前の席を乱暴に蹴り上げた。
教室の空気が、一瞬にして凍りつく。平田を中心に作られかけていた和やかな雰囲気が、たった一人の暴力的な振る舞いによって粉砕されたのだ。
「……じゃあな。俺は帰る」
須藤は鞄をひったくると、周囲の呆然とした視線を無視して、乱暴な足取りで教室を出て行ってしまった。
(……なるほど、血の気の多い奴もいるってことか)
須藤が放っていたのは、純粋な敵意と苛立ち。しかし、それは俺が裏社会で浴びてきたような本物の『殺気』とは程遠い、ただの子供の癇癪のようなものだった。一族の訓練なら、ああやって感情を剥き出しにした時点で「死」を意味する。まあ、ここは平和な学校なのだから、あの程度の威嚇でビビる人間もいるのだろう。
須藤の退出をきっかけに、クラスの空気にヒビが入った。
「なんだよあいつ……」と男子たちがヒソヒソと囁き合う中、ガタッ、と静かな音が響いた。
俺の斜め後ろ――つまり、俺の後ろに座っている綾小路の隣の席だ。
そこに座っていた、艶やかな黒髪を長く伸ばした美少女が、立ち上がっていた。
切れ長の鋭い瞳、凜とした佇まい。彼女は誰とも目を合わせることなく、自分の鞄を手に取った。
平田の提案を無価値だというような目をして、須藤と同じように教室を出て行った。
彼女の態度に触発されたのか、さらに数人の、最初から集団に属する気がなさそうな生徒たちが、無言で席を立ち、教室を後にしていく。
「あー……ごめん。勝手に提案した、僕が悪かったね」
平田が困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべながらフォローを入れた。
その顔には微かな後悔が滲んでいる。だが、彼の提案自体は間違っていなかったはずだ。ただ、このDクラスには、協調性というものを著しく欠いた人間が少しばかり多く集まっている、というだけのことだろう。
「平田くんは悪くないよ! あいつらが空気読めないだけっしょ!」
軽井沢がすかさず平田を庇う。彼女の言葉に頷く生徒も多く、残った者たちで自己紹介は再開されることになった。
そして、ついに俺の番が回ってきた。
俺はゆっくりと立ち上がり、クラス全体を見渡した。
瞬間、何人かの生徒と目が合い、彼らが微かに息を呑むのが分かった。やはり、俺の『目』に釘付けになっているのだ。
黒い強膜。光を吸い込むような、異質な瞳。
俺はあらかじめ用意していたシナリオ通り、人当たりの良い、柔和な笑みを浮かべた。
「俺の名前は、呉 刃叉羅(くれ ばさら)。趣味は……そうだな、読書と料理だ。得意料理は和食全般かな」
体格の良さからは想像もつかない『料理』という単語に、クラスの何人かが意外そうな顔をする。ギャップ萌えというやつを狙ってみたのだが、悪くない反応だ。
「それと……みんな、俺の目が気になってると思う。怖がらせてしまったら申し訳ない」
俺は自分の目を指差しながら、あえて自分からその話題に触れた。隠そうとするよりも、オープンにしてしまった方が疑われないからだ。
「これは、生まれつきの体質なんだ。色素の異常らしくて、見た目はこんなだけど、視力は普通だし、別に伝染病とかでもないから、気にしないで普通に接してくれると嬉しい。……これから三年間、よろしく頼む」
軽く一礼をして席に座る。
「へえ、体質なんだ……」「びっくりしたけど、いい人そうじゃん」と、好意的な囁きが聞こえてきた。どうやら、無事に『少し見た目は怖いけど、実は家庭的でいい奴』というポジションを獲得できたらしい。完璧な偽装工作だ。暗殺者としてではなく、一般人としての第一歩を踏み出せたことに、俺は心の中で深く安堵した。
そして、俺の自己紹介が終わり、最後――俺の後ろの席である、綾小路清隆の番がやってきた。
彼はゆっくりと立ち上がり、無表情のままクラスを見渡した。
「あー……綾小路清隆だ。その……なんだ。特技とか、好きなものとかは……特にない。これから、みんなと仲良くできればいいと……思っている。よろしく」
棒読み。
まさに、その一言に尽きる自己紹介だった。抑揚のない声、どこを見ているのか分からない視線、そして圧倒的な熱量のなさ。
俺の目に対する「異質感」とはまた違う、完全に空気をスルーしたようなその態度に、クラス全体が「あ、はい……」という、なんとも言えない微妙な空気に包まれた。
「……あ、ありがとう、綾小路くん! これからよろしくね!」
数秒の沈黙の後、平田が慌てたように笑顔を作って拍手をした。それに釣られて、パラパラと疎らな拍手が起こる。
平田のフォロー能力の高さには恐れ入る。もし彼がいなかったら、このクラスは初日から完全に崩壊していただろう。
(それにしても、綾小路清隆、か)
席に座り直した彼を、俺は視界の端に収めた。
あの無気力な態度は、演技なのだろうか? それとも素なのか? どちらにせよ、俺のセンサーは彼に対して微かな警戒を抱き続けている。
何はともあれ、これでホームルームは完全に終了となった。
生徒たちは各々、新しくできた友人たちと連れ立って教室を出ていく。
「さて、と」
俺も鞄を持ち上げ、席を立った。
向かう先は一つ。約束の場所だ。
高度育成高等学校の敷地は、信じられないほど広大だった。
教室のある校舎の他に、巨大なショッピングモール、カフェ、映画館、カラオケ、そして生徒たちが暮らす寮まで、生活に必要なすべてが揃っている。一つの独立した都市と言っても過言ではない。
その広大な敷地の中を歩き、案内に従って図書室へと向かう。
到着した図書室は、俺の想像をはるかに超える規模だった。天井まで届きそうな巨大な本棚が整然と並び、国内外のあらゆるジャンルの書物が収蔵されている。静寂に包まれたその空間は、インクと紙の匂いが満ちていて、読書家にとってはまさに楽園のような場所だった。
「……お待たせしました、呉さん」
入り口付近で周囲を見渡していると、書架の陰からひょっこりと、見覚えのある銀髪の少女が姿を現した。
椎名ひより。バスの中で出会った、同じ新入生の女の子。
「いや、俺も今来たところだ。すごい図書室だな、ここは」
「はい。私も先ほどから少し見て回っていたのですが、蔵書の数が素晴らしいです。絶版になっているような古い文学書まで置いてありました」
椎名さんは、目をキラキラと輝かせながらそう語った。その表情は、バスの中で見た儚げな印象とは少し違い、年相応の無邪気さに溢れていた。
「よかったら、一緒に見て回りませんか?」
「ああ、喜んで」
俺たちは並んで、果てしなく続く本棚の間を歩き始めた。
窓から差し込む夕暮れ時の西日が、図書室の床に長い影を落としている。
「呉さんは、普段どういう本を読まれるんですか?」
「俺か? 俺は……ミステリーも読むけど、歴史小説とか、ノンフィクション系のドキュメンタリーなんかも好きだな。あとは、料理本とか」
「お料理、されるんですね。意外です」
「そうか? これでも結構得意なんだぜ。姉貴がいるんだけど、あいつは壊滅的に料理ができなくてさ。俺が作らないと、毎日出前になっちまうんだ」
迦楼羅の包丁さばきは、料理というよりも「敵の解体」に近いため、台所には立たせないようにしているのだ。そんな裏事情は伏せつつ、俺は苦笑交じりに語った。
「ふふっ、素敵な弟さんですね。私は、古典ミステリーが好きです。アガサ・クリスティや、エラリー・クイーンなど。トリックを解き明かしていく過程も好きですが、それ以上に、人間の心理や感情が複雑に絡み合っていく描写に惹かれます」
「なるほど。人間のドロドロした部分が描かれている作品か。そういうのは、確かに読み応えがあるよな」
本棚から一冊の古びたハードカバーを抜き出し、パラパラとページをめくる。
紙の擦れる音だけが響く静寂な空間。隣には、自分と同じ趣味を共有できる可愛らしい少女。
(ああ……これだ。俺が求めていたのは、こういう時間なんだ)
俺は本に視線を落としながら、密かに感動を噛み締めていた。
これまでの人生、俺の周りにあったのは血と暴力、そして終わりのない鍛錬だけだった。誰かと静かに語り合う時間などなく、常に命のやり取りを前提とした緊張感の中に生きてきた。
それが今、俺は武器の代わりに本を持ち、標的の代わりに少女と微笑み合っている。
「……どうかしましたか? 呉さん」
俺が不意に黙り込んだのを不思議に思ったのか、椎名さんが首を傾げてこちらを覗き込んできた。
色素の薄い、透明感のある瞳と視線が絡み合う。
「いや……なんでもない。ただ、こうして君と一緒に本を選んでいる時間が、すごく……平和で、楽しいなって思ってさ」
誤魔化すことなく、素直な気持ちを口にしてみた。
すると、椎名さんの白い頬が、ほんのりと薄紅色に染まった。彼女は少しだけ俯き、手にした本を胸の前に抱きしめる。
「……私も、です。クラスが離れてしまって、一人でこの図書室に来ることになるのかなと、少し不安だったんです。でも、呉さんが一緒に来てくれて……とても、嬉しいです」
上目遣いでそう告げられ、俺の心臓は再び大きく跳ねた。
暗殺者として鍛え上げた平常心が、こんなにも簡単に揺さぶられるとは。恐るべし、普通の女子高校生。いや、椎名ひよりが特別可愛いだけかもしれないが。
「もしよかったら……これからも、こうやって一緒に図書室に来ませんか? その、お互いの読んだ本の感想を言い合ったりとか……」
「もちろん! ぜひお願いするよ。俺も、椎名さんがおすすめする本を読んでみたいしな」
「本当ですか? ふふっ、じゃあ、とっておきのミステリーを紹介しますね。覚悟しておいてください」
椎名さんは嬉しそうに微笑み、足取り軽く奥の書架へと進んでいく。
俺はその華奢な背中を追いかけながら、高校生活への期待に胸を膨らませていた。
クラスには面倒くさそうな連中もいるし、学校のシステムにも不穏な影が見え隠れしている。
だが、今の俺にはこの平穏な時間が何よりも尊かった。この『青春』を守り抜くためなら、俺はどんなことでもやってのけるだろう。
窓の外では、夕陽が高度育成高等学校の敷地を紅く染め上げていた。
暗殺者であることを隠した俺の、普通で、最高に特別で、そして少しだけ波乱に満ちたスクールライフが、今、静かに幕を開けたのだった。