六月三十日。
じめじめとした梅雨の空気が、高度育成高等学校の敷地内を重く覆っていた日の放課後。
1年Dクラスの教室は、外の陰鬱な天気とは対照的に、爆発的な歓喜の渦に包まれていた。
「よっしゃああああああっ!! ゼロポイント脱出だぜえええ!!」
「マジで!? すげぇ、俺たちついにポイントもらえるのか!」
池寛治や山内春樹が、抱き合って涙ぐみながら叫んでいる。
教壇に立つ担任の茶柱佐枝は、いつものように冷徹な表情を崩さぬまま、黒板に今月――六月最終日の最新のクラスポイントを書き出していた。
『Aクラス:1004cp』
『Bクラス:663cp』
『Cクラス:492cp』
『Dクラス:87cp』
「……」
俺――呉 刃叉羅は、自分の席に座ったまま、その数字を静かに見つめていた。
Dクラス、87クラスポイント。
プライベートポイントに換算すれば、一人当たり8,700ポイント(円)の支給となる。
入学当初に配られた10万ポイントに比べれば雀の涙のような額だが、先月まで完全なる『0ポイント』で極貧生活を強いられていた連中からすれば、砂漠で見つけたオアシスのようなものだろう。
(詳細な採点基準は相変わらず不透明だが……中間テストを全員で乗り越えたことと、先月よりは授業態度がマシになったことの評価、ってところか)
平田洋介を中心に、赤点回避のためにクラス全体がまとまったこと。そして、櫛田桔梗が過去問を手に入れてきたことで、結果的にテストの平均点が底上げされたこと。
あの土壇場での須藤の退学騒動(綾小路と堀北による点数の買収)も含め、クラスとしての『生存能力』がいくらか評価された結果の87ポイントなのだろう。
だが、俺の暗殺者としての分析器官は、Dクラスの歓喜よりも、他クラスのポイントの変動に微かな違和感を覚えていた。
(Aクラスは940から1004へ順調に伸ばしているが……BクラスとCクラスの伸びが、異常に悪いな)
先月の時点で、Bクラスは650、Cクラスは490だった。
それが今月は、Bが663(+13)、Cに至っては492(+2)しか増えていない。
いくらなんでも停滞しすぎだ。テストの結果が悪かったのか、それともクラス間で何らかのペナルティの削り合いでもあったのか。特にCクラスの『2ポイント』という微増は、あの狂犬・龍園翔が支配するクラスにしては不気味な数字だった。
(……まあ、考えても仕方がないか)
俺はすぐに思考を放棄し、小さく息を吐いた。
他クラスのポイント事情など、俺には一切関係のないことだ。俺の目的はクラスをAに導くことではなく、自分自身の平穏な青春を満喫すること。
「みんな! 頑張った甲斐があったね!」
「これでようやく、まともなジュースが買えるよぉ……」
平田や軽井沢たちが、笑顔で労い合っている。
その光景は、確かに「普通の高校生」らしくて微笑ましい。俺も素直に、今月は貧乏飯を食わずに済むことを喜ぶとしよう。
こうして、六月最後の日は、Dクラスにとって久々の明るい話題で幕を閉じたのだった。
そして、翌日の朝。
七月一日。
「……ん?」
学生寮のベッドで目を覚ました俺は、日課である端末のポイント残高のチェックを行い、思わず眉をひそめた。
『残高:12,300pp』
先月まで節約して残していたポイントから、一桁も増えていない。
つまり、昨日発表された8,700ポイントが、口座に振り込まれていないのだ。
(なぜだ? 今日は一日のはずだが)
入学式の日、茶柱先生は確かに「ポイントは毎月一日に振り込まれる」と明言していた。
システムのエラーか? いや、この国家肝煎りの学校で、そんな杜撰なミスが起きるとは考えにくい。
となると、また学校側の仕掛けた罠か、何らかのトラブルが発生しているということになる。
「……情報が無さすぎて何も分からんな」
俺は軽く溜め息をつき、制服に着替えて寮を出た。
並木道を歩き、学校へ向かう途中。前方を、見覚えのある無気力な背中が歩いているのを見つけた。
「よ、綾小路」
「……ああ、呉か。おはよう」
俺が声をかけると、綾小路清隆は相変わらずの平坦な声で挨拶を返してきた。
「なあ、お前、今月のポイント振り込まれてたか?」
「いや、ゼロのままだ」
俺の問いに、綾小路も端末の画面を見せながら首を振った。
彼の残高は相変わらず数百ポイントという悲惨な数字だった。
「お前もか。一日の朝に振り込まれてないってのは、少しおかしいな」
「そうだな。何らかの意図的な遅延か、トラブルの可能性が高い」
「同感だ。……はぁ、勘弁して欲しいな」
俺たちは足並みを揃え、少しばかりの警戒心を抱きながら1年Dクラスの教室へと足を踏み入れた。
ガラッ、とドアを開けると、教室内は案の定、不満と困惑の声で溢れかえっていた。
「おい! どうなってんだよ! またポイント振り込まれてねえぞ!」
「昨日は87ポイントって言ってたじゃん! 嘘だったの!?」
池や山内が、教卓を囲むようにして騒ぎ立てている。
期待から一転、またしてもハシゴを外された形になった彼らのパニックは、先月よりも酷いかもしれない。
やがて、ホームルームのチャイムが鳴り、茶柱先生が教室に入ってきた。
生徒たちは一斉に自席に戻るが、その視線は怒りと疑問に満ちていた。
「先生! ポイントが振り込まれてないんですけど! どういうことですか!」
堪えきれなくなった池が、真っ先に声を荒げる。
茶柱先生は、そんな池を一瞥すると、手元のバインダーを教卓に置き、冷たく、淡々とした声で告げた。
「騒ぐな。ポイントの支給については、今朝、学校側から通達があった。……現在、一年生の間で『あるトラブル』が発生しており、その調査のために全クラスへのポイント支給が遅れているそうだ」
「ト、トラブル……?」
「そうだ。事実関係がクリアになり次第、ポイントは順次振り込まれる。それまでは待つしかない」
「そんな……! なんだよそのトラブルって! 俺たち関係ねえだろ!」
生徒たちが口々に不満を漏らす。
連帯責任のこの学校において「他の奴のトラブルのせいで自分のポイントが止められる」というのは、最もヘイトが溜まる事態だ。
(……一年生の間でのトラブル、ね)
俺は腕を組み、静かに思考を巡らせた。
BクラスとCクラスのポイントの伸びが異常に悪かったことと、何か関係があるのだろうか。暴力沙汰か、カンニングか、それとももっと悪質なポイントの不正移動か。
何にせよ、俺の平穏な生活にヒビを入れるような真似をした奴には、腹立たしさを覚える。
「ホームルームは以上だ」
茶柱先生はそう言ってバインダーを手に取り、教室を出て行こうとした。
しかし、ドアに手をかけたところで、ふと立ち止まり、教室の後方へと冷たい視線を向けた。
「ああ、そうだ。……須藤」
ビクッ、と。
名前を呼ばれた赤髪の不良・須藤健の肩が大きく跳ねた。
「この後、すぐに職員室へ来い。お前に聞きたいことがある」
「……は? な、なんで俺が?」
須藤は怪訝な顔をして、苛立ち交じりに聞き返した。
「来ればわかる。……急げよ」
茶柱先生はそれだけを言い残し、教室を去っていった。
残された須藤は「なんだよクソッ……」と悪態をつきながら、乱暴に席を立ち、茶柱先生の後を追うように教室を出て行った。
「……」
俺は、その後ろ姿を冷ややかな目で見送った。
(タイミング的に……今のポイント支給遅延のトラブル、須藤が絡んでるってことか)
須藤健。バスケ部のレギュラー候補で、運動神経は抜群だが、短気でキレやすく、頭に血が上ると後先考えずに手を出してしまう典型的な不良だ。
先日も、中間テストの赤点を綾小路たちの買収でなんとか免れたばかりだというのに。何かやらかしたというのか。
教室には、不穏な空気がどんよりと立ち込めていた。
「ねえ……須藤くん、まさかまた何か問題起こしたのかな……?」
「もし須藤くんのせいでポイントが減らされたら、マジで許せないんだけど!」
女子生徒たちの間で、早くも非難の声が上がり始めている。
平田が「まだ須藤くんが原因と決まったわけじゃないよ。落ち着こう」と必死に宥めているが、クラスメイトたちの疑心暗鬼は拭えそうになかった。
――それから、数十分後。
ガラァッ!!
教室のドアが、蹴り破られんばかりの勢いで乱暴に開かれた。
現れたのは、顔を真っ赤に紅潮させ、肩で息をしている須藤だった。その表情には、激しい怒りと、焦燥感が入り混じっている。
須藤は自分の席には戻らず、真っ直ぐに教室の前方――堀北鈴音の席へと大股で歩み寄った。
そして、バンッ! と堀北の机に両手をつき、身を乗り出した。
「堀北! 聞いてくれよ! ふざけんなよマジで!」
「……なにかしら。唾が飛ぶから離れなさい」
読書をしていた堀北は、顔をしかめて露骨に嫌悪感を示した。
「俺はハメられたんだ! Cクラスのクソ野郎どもに!」
「……Cクラス?」
その単語に、堀北だけでなく、周囲で聞き耳を立てていたクラスメイトたちも息を呑んだ。俺も、思わずシャーペンを回す手を止めた。
「ああ! 昨日、部活の帰りに特別棟に呼び出されてよ。Cクラスの小宮と近藤、それから石崎の三人だ。あいつら、いきなり俺に殴りかかってきやがったんだよ!」
「暴力沙汰……。それで、貴方はどうしたの?」
「売られた喧嘩を買わないわけにはいかねえだろ! 返り討ちにしてやったよ! あんな雑魚三人、俺の敵じゃねえ!」
須藤は鼻息を荒くして、自分の武勇伝のように語った。
しかし、その後の言葉で、彼の顔は怒りに歪んだ。
「そしたら今日になって……あいつら、学校側に『須藤に一方的に呼び出されて、暴行を受けた』って被害届を出しやがったんだよ!!」
「「「「――――えっ!?」」」」
教室が、どよめきに包まれた。
「俺は正当防衛だ! あいつらが先に手を出してきたから、身を守っただけだ! なのに、あいつら全員で口裏合わせて、俺が加害者だってでっち上げやがった! 先生も俺の話を信じようとしねえ! このままじゃ、俺が停学か、最悪退学になるかもしれねえ!」
須藤の悲痛な、しかし自業自得とも言える叫びが教室に響き渡った。
「……はぁ」
話を聞き終えた堀北は、心底呆れ果てたように、これ見よがしな深いため息をついた。
「本当に、貴方は学習能力がないのね。少し頭を使えば、それが自分を陥れるための罠だということくらい、容易に想像がつくでしょうに」
「なんだと!? 俺は被害者なんだぞ!」
「先に手を出されたからといって、同じように手を出せば喧嘩両成敗、あるいは人数の多い向こうの証言が有利になる。なぜ逃げるなり、周囲に助けを求めるなりしなかったの。……挑発にやすやすと乗って、クラスに大迷惑をかける。愚かにも程があるわ」
氷の刃のような堀北の正論が、須藤を容赦なく切り刻む。
須藤はギリッと歯を食いしばったが、反論の言葉を見つけられず、ただ悔しそうに拳を震わせていた。
(なるほどな。龍園の仕業か)
俺は、一連の騒動の裏で糸を引いているであろう、あの男の顔を思い浮かべていた。
手も足も出ずに俺に敗北したとはいえ、腐ってもCクラスの独裁者というわけか。Dクラスのポイントを削るための戦略として、最も血の気が多く、自滅しやすい須藤に狙いを定めたのだろう。
三対一の状況を作り出し、被害者を装って暴力事件をでっち上げる。あの男らしい、狡猾で理にかなった手だ。
(それに……俺の『逆鱗』に触れないよう、きっちりと境界線を弁えているようだな)
俺やひよりには一切干渉しない範囲で、あくまで『クラス間の抗争』というルールに乗っ取り、Dクラスの弱点を的確に突いてきている。
あの屋上での圧倒的な恐怖と死を骨の髄まで味わわされた後でも、完全に牙を折られることなく、すぐに別のアプローチで盤面を掻き回してくる。その執念とタフなメンタルは、素直に評価できる。
俺は誰にも気づかれないように小さく息を吐き、机に頬杖をついて周囲を見渡した。
せっかくのポイント支給の希望が絶たれそうになり、教室には一触即発の空気が充満していた。
「……でも、須藤くんの言う通りなら、須藤くんはハメられたってことだよね?」
険悪な空気を割って入ったのは、平田洋介だった。
「もし須藤くんがこのまま退学になれば、クラスのポイントはまた大きくマイナスされる。みんな、やっと少しもらえるはずだったポイントが、これのせいでゼロになるかもしれないんだよ」
「うわ、マジかよ……! それは勘弁してくれよ」
「せっかくジュース買えると思ったのに! ……仕方ない、ポイントのためなら手伝うしかないか」
池や山内が、現金な理由で渋々と賛同し始める。
決して「親友を助けるため」といった殊勝な理由ではなく、自分たちの利益を守るための損得勘定だ。それが彼ららしい。
「学校側が求めているのは、客観的な証拠だ。特別棟には監視カメラがなかったはずだから……つまり、『目撃者』が必要になる」
平田はクラス全体を見渡し、声を張り上げた。
「みんな! 昨日の夕方、特別棟でCクラスの生徒と須藤くんが揉めているところを見た人はいないか!? どんな些細なことでもいい! 放課後、手分けして目撃者を探そう!」
平田の呼びかけにより、Dクラスは『自分たちのポイントを守るための目撃者探し』という一つの目標に向かって動き出した。
軽井沢たち女子グループも「ポイント減るのはマジ無理ー。探すしかなさそうじゃん」と腰を上げている。
綾小路も、おそらく堀北の指示で強制的に手伝わされるのだろう。やれやれといった感じで頷いていた。
放課後、平田を中心にクラスメイトたちが目撃者を探すために動き出そうとしていた。
俺は、そんな教室の空気を背に、静かに自分の鞄を手に取った。
「呉くん! 呉くんも一緒に目撃者探し、手伝ってくれないかな?」
教室を出ようとした俺の背中に、平田が期待の込もった声をかけてきた。
俺はゆっくりと振り返り、平田、そしてその奥にいる須藤を冷めた目で見据えた。
「悪いが、俺はパスだ」
「え……?」
「俺は、自分の感情をコントロールできずに猿みたいに暴れた挙げ句、周りに尻拭いを押し付けるような馬鹿の世話をするほど、お人好しじゃないんでな」
俺の冷酷な言葉に、教室の空気が一瞬で凍りついた。
「てめぇ……ッ! 誰が猿だコラ!!」
須藤が完全に激昂し、顔を真っ赤にして俺の方へと突っ込んできた。
池や山内が止める間もなく、須藤は太い腕を振り上げ、俺の胸ぐらを力任せに掴みかかろうとする。
「須藤くん! やめ――」
平田が静止の声を上げるが、遅い。
ガシッ。
「……ぐっ!?」
俺は、その場から一歩も動くことなく、向かってきた須藤の右腕を空中で掴み取った。
「な、なんだよこれ……離せッ!」
須藤が腕を振り解こうと顔を歪めるが、俺のグリップは完全に彼の関節と筋肉の動きをロックし、ミリ単位たりとも動くことを許さない。
暗殺の修練で極限まで鍛え上げられた握力の前に、体格のいい高校生の力など、子供の腕相撲にも満たない。
「やめとけ」
俺は、微塵も感情の波立たない、冷たく平坦な声で忠告した。
「朝、堀北に『罠にハマった』と指摘されたばかりだろ。それなのに、自分の感情一つ抑えきれずに、俺に向かって一瞬でキレて手を出そうとしている」
俺は須藤の目を見据え、事実だけを冷酷に突きつけた。
「……そんな自己コントロールができない奴が、『俺は正当防衛だ』なんて主張して、一体誰が信じるんだ?」
(まあ、挑発に乗って『外し』まで使って、龍園を殺しかけた俺が言えた義理じゃねえんだがな)
俺は内心で自虐的にツッコミを入れつつも、表面上は一切の表情を崩さずに言葉を続けた。
「――――ッ」
須藤の顔が、怒りから一転して、ハッと図星を突かれたような悔しさに歪んだ。
反論できない。自分の直情的な態度が、自身の首を最も絞めているという事実に、彼自身も気づかされたからだ。
俺は須藤の腕をパッと手放し、姿勢を崩した彼を冷徹に見下ろした。
「平田は優しいから、お前を助けようとしてくれている。だが、そもそもこれはお前自身が引き起こした問題だ」
俺は教室にいる全員に聞こえるように、静かに、しかしはっきりと言い放った。
「まずは、お前がみんなに頭を下げて、『迷惑をかけてすまない、協力してくれ』と頼み込むのが筋ってもんじゃないのか? 助けてもらって当然みたいなツラをしてる奴に、誰が協力したいと思うんだ」
その言葉に、須藤は唇を噛み締め、俯いた。
平田も、池や山内も、そして堀北でさえも、俺のあまりにも身も蓋もない正論に沈黙するしかなかった。
「……じゃあな。せいぜい頑張れよ」
俺はそれだけを言い捨てて、呆然とする平田や須藤たちを残し、さっさと教室を出た。
廊下を歩きながら、俺は内心で小さくため息をついた。
(正直どうでもいいしな)
特に親しくもない須藤が消えたところで、俺の心は一ミリも痛まない。だが、あいつの起こした騒動のせいでクラスのポイントがマイナスされることについては、少し苛立っていた。
せっかく来月支給されるはずだったプライベートポイントが吹き飛べば、ひよりに美味い手料理を振る舞うための食材も買えなくなるし、休日にカフェでデートする資金だってカツカツになる。あいつの自業自得のせいで、俺とひよりの充実した青春ライフにまでダイレクトに実害が及ぶのだから、たまったものではない。
(……とはいえ、首謀者の龍園を潰すわけにもいかないしな)
あの屋上で死の恐怖を刻み込んだ際、龍園は『ひよりには二度と手を出さない』と誓った。そして実際、奴はその境界線を完璧に守り、俺の逆鱗を避けてDクラスの弱点だけを的確に突いている。
『ひよりに手を出さない限り、他でどれだけ暗躍しようが好きにすればいい』。それが俺のスタンスであり、今の龍園との間に結ばれた暗黙の不可侵条約だ。
俺がひよりとの平穏を最優先にする以上、約束を守っている龍園を理不尽に潰しに行ったり、あんな下らないトラブルの火の粉を浴びて自分の放課後を無駄にするなど、愚の骨頂でしかない。
俺の足は、迷うことなく図書室へと向かっていた。
暴力、裏切り、冤罪。
そんな血生臭い、ドロドロとした人間の醜い争いから最も遠い場所。
愛しの彼女が待つ、俺にとっての絶対的な『聖域』へ。
図書室の重厚な扉を開ける。
そこには、いつもと変わらない静寂と、インクの匂いが漂っていた。
窓際の定位置。
西日を浴びて、キラキラと輝く銀色の髪。
淡い水色のリボンをつけ、静かに文庫本に目を落とす少女の姿があった。
「……ひより」
俺が足音を殺して近づき、その名前を呼ぶと。
彼女はパッと顔を上げ、まるで世界中の憂鬱を吹き飛ばすような、純度100パーセントの柔らかい笑顔を俺に向けた。
「あ……刃叉羅くん。お疲れ様です」
「待たせたな。……少し、クラスが騒がしくてさ」
俺は彼女の向かいの席に腰を下ろし、深く、深く息を吐いた。
肺の中に溜まっていた教室の澱んだ空気が、ひよりの纏う清浄な空気によって浄化されていくのを感じる。
「騒がしい……何かあったんですか?」
ひよりが、少し心配そうに小首を傾げた。
俺は苦笑し、少しだけ肩をすくめた。
「うちのクラスのやつが、Cクラスの連中と喧嘩したらしくてな。そのせいで今月のポイントが止められて、今クラス中が大騒ぎして目撃者を探してるんだよ」
俺がそう言うと、ひよりは「あっ」と小さく声を漏らした。
「もしかして……石崎くんたちのことでしょうか? 今朝、怪我をして登校してきて……龍園くんが『Dクラスの須藤にやられた』と、すごく怒っていました」
やはり、Cクラス内でも情報は共有されているらしい。
「……刃叉羅くんは、目撃者を探さなくてよかったんですか?」
ひよりが、上目遣いで尋ねてきた。
「ああ。俺はパスさせてもらった」
俺は頬杖をつき、目の前の天使を真っ直ぐに見つめ返した。
「そんな下らない喧嘩の証拠探しより、俺にとっては……ここで、ひよりと一緒に本を読んでいる時間の方が、何万倍も価値があるからな」
俺が迷いなくそう告げると、ひよりの白い頬が、ぽっと薄紅色に染まった。
「ふふっ……刃叉羅くんは、本当に……」
ひよりは恥ずかしそうに手元の本で口元を隠し、嬉しそうに目を細めた。
「でも、私も同じです。刃叉羅くんがここに来てくれて、とても嬉しいです」
彼女のその一言で、俺の心にわずかに残っていたイライラは完全に消え去り、極上の幸福感で満たされた。
外の世界では、須藤の退学を巡ってクラスが走り回り、龍園が暗躍し、綾小路や堀北が知恵を絞っているのだろう。
ポイントやクラスの順位を賭けた、泥臭い生存競争。
だが、そんなものは俺たちには関係ない。
この図書室という箱庭の、さらに小さな二人だけの特等席。
ここだけは、誰にも不可侵の、俺と彼女の絶対的な平和な世界だ。
「さ、読もうか。今日はこの前買ったミステリーの続きからだ」
「はいっ。今日こそ、犯人がわかるかもしれませんね」
俺たちは静かに微笑み合い、活字の海へと意識を沈めていく。
一方
ピシャリ、と。
呉刃叉羅が教室のドアを閉め、その足音が廊下の奥へと消えていった後。
1年Dクラスの教室には、水を打ったような、重く冷たい静寂が降りていた。
「…………」
須藤健は、宙で掴みかかろうとした両腕を下ろし、ギリッと強く奥歯を噛み締めていた。
顔は怒りと羞恥で真っ赤に染まっているが、先ほどのように手当たり次第に暴れ回るような覇気は、完全に消え失せている。
彼の脳裏で、先ほどの刃叉羅の言葉が、重い鉛のように何度も反響していた。
『そんな自己コントロールができない奴が、「俺は正当防衛だ」なんて主張して、一体誰が信じるんだ?』
『助けてもらって当然みたいなツラをしてる奴に、誰が協力したいと思うんだ』
ぐうの音も出ない、完全なる正論だった。
須藤自身、心のどこかでは分かっていたのだ。自分がいつもすぐに頭に血を上らせて、暴力で解決しようとするから、教師からも他クラスからも『そういう人間』だと色眼鏡で見られているということを。
今回の喧嘩だって、自分がもっと冷静に対処していれば、こんな最悪の事態には陥っていなかったはずだ。
「くそっ……!」
須藤は、誰に向けるでもない悪態を吐き捨て、その場に力なく俯いた。
その様子を、平田洋介は心配そうに見つめ、池や山内も、どう声をかけていいか分からずにオロオロとしている。
やがて。
「……お前ら」
須藤が、絞り出すような低い声で口を開いた。
「須藤くん……」
「俺が……悪かった」
そう言って、須藤は大きく一歩前に出ると。
クラスの全員に向けて、深く、深く頭を下げたのだ。
「――――えっ」
いつも偉そうで、プライドの塊のような不良の須藤が、誰に強制されたわけでもなく、自らの意志で頭を下げた。その事実に、池たちだけでなく、彼を敬遠していた女子生徒たちも驚きに目を見開いた。
「呉のやつの言う通りだ……。俺が勝手に挑発に乗って、暴力沙汰を起こして……その結果、お前らのポイントまで巻き添えにしちまった。本当に、すまねえ……ッ!」
ギリギリと拳を握りしめ、屈辱と後悔に耐えながら、須藤は言葉を紡ぐ。
「俺は、ハメられた。俺の方から手を出したんじゃねえ、それだけは信じてほしい……! でも、俺一人じゃ、もうどうにもなんねえんだ。……頼む、俺を、助けてくれ……!」
それは、彼が生まれて初めて見せた、本気の懇願だった。
「須藤……」
池が、信じられないものを見るように須藤を見つめる。
教室の空気が、確かに変わった。先ほどまでの「ポイントが減るから仕方なく」という打算的な空気から、「頭を下げたクラスメイトを助けよう」という、前向きで同情的な空気へ。
「……顔を上げて、須藤くん」
その空気を確信に変えたのは、平田の温かい声だった。
平田は須藤の肩に優しく手を置き、力強く頷いた。
「君が本当のことを言っているのは、みんな分かっているよ。それに、クラスメイトが不当に陥れられているのを、僕たちが見捨てるわけがないじゃないか」
平田はクラス全体に向き直り、パンッと一度手を叩いた。
「須藤くんもこうして謝罪してくれた。みんな、協力してくれないか! 須藤くんの無実を証明するために、今日から手分けして目撃者を探そう! Cクラスの嘘を暴いて、僕たちのポイントを取り戻すんだ!」
「……おうっ! 当たり前だ! 俺の親友を見捨てるわけねーだろ!」
「仕方ないわね。須藤くんがあそこまで言うなら、手伝ってあげるわよ!」
池や山内、そして軽井沢たち女子グループも、今度は明確な意志を持って賛同の声を上げた。
呉刃叉羅の放った冷酷な正論は、一時的に教室の空気を凍らせた。
だが、その劇薬が須藤のプライドをへし折り、結果としてクラスの心を一つにまとめる起爆剤となったのだ。
平田の指示で、生徒たちが次々と聞き込みのグループ分けを話し合い始める。
そんな熱気に包まれる教室の後方で。
喧騒から一歩引いた場所で、綾小路清隆と堀北鈴音は、一連のやり取りを静かに観察していた。
「……呉くん、珍しく怒っていたわね」
手元の文庫本をパタンと閉じながら、堀北がポツリと呟いた。
彼女の記憶にある呉刃叉羅は、授業中は適当に流し、放課後はさっさと図書室へ向かう、事なかれ主義の生徒だった。あそこまで語気を強め、他人に干渉する姿は初めて見た。
綾小路は、教室の出口――すでに呉の姿はない扉の方を見つめながら、淡々と答えた。
「ああ。ポイントが入らないことへの苛立ちもあったんだろうが……一番の原因は、『無駄なトラブルに自分の時間を奪われるのが心底嫌だった』からだろうな」
「時間?」
「須藤は助けてもらう立場でありながら、逆ギレして周囲に当たり散らしていた。呉にしてみれば、そんな自業自得の騒動に巻き込まれて、自分の貴重な放課後を削られることだけは絶対に避けたかったはずだ」
綾小路の分析に、堀北も「確かにそうね」と小さく頷いた。
「ええ。自分の過ちを省みず、謝罪もできない人間を無条件で手伝うほど、彼はお人好しでも非合理的でもないということね。私だって、先ほどの須藤くんのままなら、見捨てて退学させるのがクラスのためだと思っていたわ」
堀北は腕を組み、今やクラスメイトの中心で必死に話し合いに参加している須藤へ視線を移した。
「でも、結果的に呉くんの身も蓋もない正論が、須藤くんを動かした。……平田くんの優しい言葉だけでは、彼のプライドは決して折れなかったでしょうね」
「そうだな」
綾小路は同意しつつも、内心で一人納得していた。
(呉刃叉羅。あの男は、決してクラスをまとめようとしてあんな説教をしたわけではない。本気で「馬鹿の世話はご免だ」と切り捨てて、さっさと自分の時間を優先しただけだ)
結果としてクラスがまとまったのは、偶然の産物に過ぎない。
だが、その『他者に媚びない絶対的な個人主義』こそが、彼をより底知れない存在に見せている。
「私たちも、動くわよ。綾小路くん」
「……俺もか」
「当たり前でしょう。退学者が出れば、私がAクラスに上がる足枷になるわ」
堀北に睨まれ、綾小路は小さくため息をつきながら立ち上がった。
Dクラスの、泥臭く険しい『目撃者探し』の戦いが、幕を開けた。
――それから、数日が経過した。
「くそっ……全然見つからねえ!」
放課後の廊下で、池が髪を掻き毟りながら叫んだ。
連日、平田を中心にクラスのほぼ全員が手分けして、他クラスの生徒や上級生にまで聞き込みを行っていた。
『火曜日の夕方、特別棟でCクラスの生徒と須藤が揉めているのを見なかったか』と。
しかし、結果は絶望的だった。
「特別棟なんて行かない」「部活で忙しかった」「何も見ていない」
返ってくるのは、そんな冷たい答えばかりだ。
(当たり前だ。Cクラスが仕掛けた罠なら、人目につかない場所と時間を選んでいるに決まってる)
綾小路は、焦燥感に駆られるクラスメイトたちを遠巻きに眺めながら、冷静に現状を分析していた。
監視カメラの死角。人気のない特別棟。
完璧に仕組まれた状況で、都合よく目撃者が現れる確率など、本来なら万に一つもない。このままでは、来週に控えている生徒会立ち会いの『審議』で、須藤は確実に加害者として処分される。停学か、退学か。
「ねえ、本当に誰も見てないのかな……?」
「もうダメかもね。来月もポイントなしかぁ……」
女子たちの間にも、再び諦めの空気が漂い始めている。
須藤も連日の聞き込みの疲労とストレスで、目の下に濃い隈を作っていた。
「……なあ、やっぱりあそこに誰かいた気がするんだよ。あいつらに絡まれた時、一瞬だけ、誰かの気配がしたっていうか……」
須藤が縋るように呟くが、周囲の反応は冷ややかだった。「気のせいじゃないの?」「そう思いたいだけでしょ」と、希望的観測として片付けられてしまう。
だが、そんな絶望に沈むクラスの喧騒の中で、綾小路だけは別の可能性を静かに追っていた。
(……須藤の感覚は間違っていない。あの日、あの場所にいた『目撃者』なら、もう特定できている)
綾小路の視線は、教室の片隅で俯いている一人の少女、佐倉愛里へと向けられた。
すでに綾小路は櫛田を伴い、彼女が事件を撮影していた証拠を掴み、接触を開始している。佐倉が抱える極度の対人恐怖症という壁をどう崩し、審議の場に引き出すか。そのパズルのピースを嵌める作業は、水面下で着実に進んでいた。
しかし、そんなクラスの存亡をかけた裏工作など知る由もない場所で。
俺――呉 刃叉羅は、極上の放課後を謳歌していた。
「……それで、犯人はその密室からどうやって抜け出したんですか?」
「そこがこの作者の巧妙なところだ。実は、最初から部屋の中に『いた』わけじゃないんだよ」
静寂に包まれた図書室。
窓際の定位置で、俺は向かいに座る椎名ひよりと、昨日読み終えたばかりのミステリー小説についての考察を交わしていた。
「えっ? いたわけじゃない……もしかして、あの仕掛けを使ったということですか?」
「ご名答。あの第一章の何気ない描写が、最大の伏線だったってわけだ」
俺が種明かしをすると、ひよりは「ああっ!」と小さな歓声を上げ、パタパタと自分の持っている本をめくり始めた。
「本当です! ここにちゃんと書いてあります……! 全然気づきませんでした。刃叉羅くん、すごいです」
「暗……じゃなくて、こういう細かい描写を探すのは得意な方だからな」
危ない危ない。自然な流れで前世(?)の職業を口走りそうになった。
ひよりが尊敬の眼差しを向けてくれるのが嬉しくて、俺は照れ隠しに持っていたアイスティーのストローを咥えた。
「それにしても、やっぱり二人で同じ本を読むのは楽しいですね。読み終わった後に、こうして刃叉羅くんとお話しできるのが、一番の楽しみです」
ひよりはふんわりと微笑み、満足そうに本を閉じた。
その太陽のように暖かく、純粋な笑顔を見ているだけで、俺の心は完全に浄化されていく。
(……あいつら、今日も目撃者探しで走り回ってるんだろうな)
ふと、クラスの連中のことが脳裏をよぎった。
俺が教室を出る直前に叩きつけた言葉で、須藤が少しは反省したようだと、後で平田から聞いた。クラスが一丸となって証拠探しに奔走しているらしい。
だが、あの狡猾な龍園が、目撃者が残るような杜撰な罠を仕掛けるはずがない。あいつらは今頃、徒労感と絶望感に打ちひしがれていることだろう。
(俺が手伝ってやれば、監視カメラの配置や死角から、龍園の動きを逆算して証拠を捏造するくらいのことはできるかもしれないが……)
俺はすぐにその思考を頭から追い出した。
だからなんだというのだ。そんな泥臭いクラスの争いに首を突っ込んで、俺のこの貴重な放課後――ひよりと二人きりで過ごす至福の時間を、一秒たりとも削るつもりはない。
「刃叉羅くん?」
急に黙り込んだ俺を見て、ひよりが小首を傾げた。
「何か、考え事ですか?」
「いや……」
俺は頬杖をつき、目の前の天使をじっと見つめた。
「ひよりとこうして本を読んでいる時間が、本当に最高だなって、改めて思ってただけだ」
俺が真っ直ぐにそう告げると、ひよりの白い頬が、ぽんっと音を立てるように赤く染まった。
「も、もう……刃叉羅くんは、急にそういうことを言いますから……」
ひよりは恥ずかしそうに視線を泳がせ、手元の本で顔の半分を隠してしまった。
その仕草が破壊的に可愛くて、俺は内心で悶絶しながらも、極めて穏やかな表情を保ち続けた。
「本当のことだろ。……俺にとって、ここが一番落ち着く場所だからな」
外の世界では、連日降り続く梅雨の雨のように、鬱屈としたトラブルと争いが続いている。
生き残りをかけた騙し合い。蹴落とし合い。
だが、この図書室という箱庭だけは、俺と彼女の絶対的な『聖域』だ。
雨音すらも、二人の世界を外界から遮断するための心地よいBGMでしかない。
「……私もです」
本で顔を隠したまま、ひよりが小さな、けれどはっきりとした声で呟いた。
「私も、刃叉羅くんと一緒にいる時間が……一番、好きです」
(――――ッッッ!!!!!!!)
俺の心臓が、本日最大級の爆発を起こした。
好きです。一緒にいる時間が、一番好き。
もうこれは、実質プロポーズなのではないだろうか。いや、俺の中ではすでに婚姻届に判を押しているレベルだ。
「……明日も、明後日も、ずっと一緒に読書しような」
俺が必死に理性を総動員して、なんとか平坦な声でそう言うと。
ひよりは本から顔を出し、照れくさそうに、けれど最高に嬉しそうな笑顔で頷いた。
「はいっ。約束ですよ、刃叉羅くん」
クラスメイトたちが泥水の中を這いずり回っている中。
暗殺者の少年は、一切の罪悪感を感じることなく、ただ己の青春と天使との甘い時間を、骨の髄まで堪能し尽くしていた。
この平和な日々が、永遠に続けばいいと願いながら。