七月最初の日曜日。
降り続いていた梅雨の雨も今日は一休みし、窓の外からは薄日が差し込んでいる。
俺――呉 刃叉羅は、学生寮の自室のソファに深く腰掛け、のんびりとした時間を過ごしていた。
淹れたてのコーヒーを啜りながら、昨日ひよりと一緒に読んだミステリー小説の余韻に浸る。
もちろん、休日に愛しの天使であるひよりとデートに出かけるのが、俺にとっての至上の幸福だ。それに、平田たちと適当に遊んだり、綾小路に飯を食わせながら駄弁ったりするのも、今ではすっかりお気に入りの過ごし方になっている。
だが、テストも終わり、たまにはこうして予定を入れず、一人で静かに気力をチャージする休日というのも、これはこれで悪くない。
血生臭い任務も何もない、平和な高校生らしい贅沢な息抜きの時間だ。
クラスの連中は、須藤の無実を証明するために、今日という休日を返上してまで聞き込みや証拠探しに奔走していることだろう。
平田や櫛田のような善人たちはさておき、池や山内といった連中までが「親友のため」という建前(本音は自分たちのポイントのため)で泥水の中を這いずり回っている。
須藤が頭を下げて反省したことで、クラスが変な方向に団結してしまったのだ。
(まあ、俺には関係のない話だ)
俺は本を閉じ、コーヒーカップをローテーブルに置いた。
いくら須藤が殊勝な態度を見せようと、俺のスタンスは変わらない。俺の限られた青春の時間は、ひよりとの逢瀬と、自分自身の平穏のためにのみ使われるべきだ。他人の尻拭いのために汗を流す趣味はない。
そんなことを考えながら、テレビをつけて適当なバラエティ番組を眺めようとした、その時だった。
――ピンポーン。
部屋のインターホンが、無機質な音を立てた。
「ん?」
時計を見る。昼の十二時半を少し回ったところだ。
休日のこの時間に、俺の部屋を訪ねてくる人間など一人しかいない。
俺はため息をつきながら立ち上がり、玄関のドアを開けた。
そこには予想通り、無地のパーカーを着た、無気力な眼差しの少年――綾小路清隆が立っていた。
「よお」
俺が声をかけると、綾小路は小さく会釈をした。
「なんだ? また俺の作った飯でも食いたくなったか?」
俺が呆れ半分、面白さ半分で尋ねると、綾小路は素直に頷きつつも、いつになく真面目なトーンで口を開いた。
「……まあ、それもあるが。お前に一つ、聞きたいことがあって来た」
「聞きたいこと?」
「須藤のことだ。あいつはみんなの前で頭を下げて、自分の行いを反省している。……それでもお前は、目撃者探しに協力しないのか?」
綾小路の言葉に、俺は一瞬だけ目を細めた。
まさか、この自称事なかれ主義の男が、クラスメイトのために俺を説得しに来たというのか? いや、違うな。おそらく彼も、堀北あたりに「彼を説得してきなさい」とでも押し付けられたのだろう。
「とりあえず上がれ。立ち話もなんだし、腹空かせてるんだろ」
俺は綾小路を部屋の中に招き入れ、ドアを閉めた。
「まあ、飯は作ってやるよ。冷蔵庫に厚切りの豚ロースがあるから、ガッツリとトンテキ定食にしてやる」
「……ありがたい」
「だがな」
俺はキッチンに立ち、エプロンを締めながら、リビングのソファに座った綾小路に背中越しに告げた。
「須藤の件だが、俺は徹底して不干渉だ。あいつが頭を下げて反省しようがしまいが、目撃者探しなんかに協力する気は一切ない」
手際よく包丁を動かし、豚肉の筋を的確に切っていく。
「あいつの自業自得でクラスのポイントが入らないのは正直腹立たしいが……動かない理由はそれだけじゃない」
トントン、と小気味良い包丁の音が部屋に響く。
「今回の件、裏で糸を引いてるのは龍園だ。……だが、俺はあいつと『約束を守る限りは、他で何をしようが不干渉』という暗黙の不可侵条約を結んでいてな。龍園はきっちりその境界線を守って、ゲームを楽しんでる」
俺は切った豚肉をボウルに移し、綾小路の方を振り返ることなく淡々と告げた。
「向こうがルールを守っている以上、俺が下手に首を突っ込んで、親しくもない須藤のためにその協定を破るつもりはないんだよ」
「――龍園?」
その単語が出た瞬間。綾小路がわずかに反応を示したのが、気配で分かった。
「そいつが、Cクラスのリーダーか?」
「ま、そんなとこだな」
俺はフライパンに油を引き、ニンニクの香りを立たせながら淡々と答えた。
あの屋上での一件以来、龍園は絶対にひよりに危害加えないと誓った。
俺がDクラスの生徒として、須藤の冤罪を晴らすためにCクラスの罠を暴きに行けば、それは俺から龍園への宣戦布告と受け取られかねない。そんな無駄な争いの火種を、自分から蒔く気はなかった。
もっとも、龍園も俺の逆鱗に触れるようなことはしないだろうが。
「……」
綾小路は、少しの間沈黙していた。
彼の驚異的な演算能力が、俺の口にした『龍園』という名前と『暗黙の不可侵条約』という言葉から、様々な情報を引き出し、裏で何があったのかを推測しているのだろう。
「お前と、その龍園との間に何があったのかは知らないが……」
やがて、綾小路が静かに探りを入れてくるような口調で言った。
俺はトンテキに甘辛い特製ソースを絡めながら、振り返らずに釘を刺した。
「悪いが、詳細は詮索しないでもらえると助かる。俺の超個人的な事情なんでな」
俺がピシャリと言うと、綾小路は小さく息を吐いた。
「……お前がそういうなら、詮索はしない」
「助かるよ」
俺は皿に山盛りの千切りキャベツと、照りのついた分厚いトンテキを盛り付け、炊きたての白飯と味噌汁とともにお盆に乗せて、ローテーブルへと運んだ。
「ほら、食え」
「……いただきます」
綾小路は手を合わせ、箸を取った。そして、一口肉を口に運んだ瞬間、その無表情な顔に微かな至福の色が浮かぶのを、俺は見逃さなかった。
本当に、こいつは俺の飯を美味そうに食う。
「それにしても、お前が人の説得に動くなんて珍しいな。堀北にでも命令されたか?」
俺が向かいに座って自分の分のトンテキを切り分けながら尋ねると、綾小路は咀嚼を終えてから小さく頷いた。
「そんなところだ。クラスの総力を挙げて証拠を探すために、お前というピースも必要だと判断したらしい」
「やれやれ、相変わらずあの孤高の女王様は俺たちを『自分のための駒』くらいにしか思ってないらしいな」
俺は鼻で笑い、アイスコーヒーのグラスを傾けた。
「悪いが、俺の意志は固い。……それに、俺は」
俺は、もくもくと白飯をかきこむ綾小路の目を真っ直ぐに見据え、ニヤッと悪戯っぽく笑いかけた。
「俺は、お前みたいな『なんちゃって事なかれ主義』じゃなくて、本当の事なかれ主義だからな。自分の平穏に直結しないことには、絶対に動かない」
「――――」
俺の言葉に、綾小路の手がピタリと止まった。
図星を突かれたのだろう。
「お前、口では『面倒なことには関わりたくない』とか『平和に過ごしたい』とか言ってるくせに、結局、堀北に巻き込まれる形でクラスの問題に首を突っ込んでるじゃないか。中間テストの点数買収の件だって、なんだかんだで自分のポイントを削って須藤を助けてやったんだろ?」
「……俺はただ、堀北に脅されているだけだ」
「それを『なんちゃって』って言うんだよ」
俺はケラケラと笑いながら、トンテキを頬張った。
「本当に面倒なら、堀北の脅しなんて無視して突っぱねればいい。お前ならそれくらい簡単にできるはずだ。でも、お前はそうしない。……意外と、クラスがまとまっていくのを見たり、裏で手を引いたりするのが嫌いじゃないんじゃないか?」
俺の指摘に、綾小路は何も言い返さず、ただ静かに味噌汁を啜った。
「……俺も、そうしたいんだがな。」
やがて、ぽつりと。
綾小路が、どこか自嘲気味な、諦めを含んだような声で呟いた。
「お前のように、誰の干渉も受けずに自分の意志を貫き通せれば、どんなに楽だろうかとは思う」
彼のその言葉には、ただの高校生の愚痴とは思えない、もっと根深い……過去のしがらみや、逃れられない宿命のようなものを感じさせた。
だが、俺はそれ以上深く踏み込むことはしなかった。
彼が俺の『龍園との約束』を詮索しなかったように、俺も彼の『逃れられない何か』を詮索するつもりはない。
それが、俺たちが構築した、心地よい悪友としての境界線だからだ。
「まあ、せいぜい頑張れよ。俺は俺のやり方で、この学校の青春を骨の髄まで堪能させてもらうからさ」
「ああ。ごちそうさまでした。……本当に、美味かった」
綾小路は綺麗に空になった皿を両手を合わせて拝み、満足そうに息を吐いた。
その後は、クラスの揉め事の話は一切出ず、テレビで流れているバラエティ番組を見ながら適当な雑談を交わし、一時間ほどで綾小路は自分の部屋へと帰っていった。
俺は残った食器を片付けながら、自分の休日の平穏が守られたことに、心底安堵の息を漏らすのだった。
一方、その頃。
呉 刃叉羅の部屋を出た綾小路清隆は、自分の部屋に戻るなり、ベッドの上に静かに横たわっていた。
満腹になった胃袋とは対照的に、彼の脳内は、先ほどの呉との会話から得られた情報を処理するため、極めて冷徹に、そして高速で回転し始めていた。
そもそも、今回俺が呉の部屋を訪れたのは、堀北の指示でもなければクラスの総意でもない。完全に単独での行動だ。
すでに佐倉愛里という目撃者を見つけ、彼女との接触も進めている。それに来週の審議に勝つ道筋は確実に見えている。本来なら、これ以上不確定な手札を増やす必要も、呉の協力を仰ぐ必要もなかった。
だが、俺はこの男の『境界線』を探っておきたかったのだ。
赤点回避の勉強会では嫌がる素振りも見せずに講師を引き受けていた呉が、なぜ今回の須藤の件に関しては、あそこまで頑なに不干渉を貫くのか。
単純に無駄なトラブルに時間を奪われるのが嫌なのか、それとも須藤本人に問題があるからなのか。
(……先ほどの会話で、答えは明白になったな)
単純に自分の時間を無駄にするのが嫌だというのも間違いないが、それだけではない。彼は俺が飯をたかりに行けば文句を言いつつも美味い飯を作ってくれるし、平田たちからの遊びの誘いや頼み事にもある程度は応じている。
要するに、呉刃叉羅という男の行動原理は極めてシンプルだ。俺や平田たちのように『親しい友人』と認定した人間にはどこまでも甘いが、関わりのない他人のために自分の時間を犠牲にしてまで動く気は一切ない、ということだ。自業自得で罠にハマった須藤は、彼にとって完全に『救う価値のない他者』に分類されている。
そして、もう一つの決定的な理由。
(Cクラスのリーダー、龍園との『暗黙の不可侵条約』……か)
綾小路は、無機質な天井を見つめながら思考を巡らせる。
なぜ彼がCクラスのトップである龍園と、わざわざ不可侵条約などを結ぶ必要があったのか。
綾小路の脳内に、一つの明確なパズルのピースが嵌まった。
(間違いなく、呉がよく図書室で一緒にいる『椎名ひより』という生徒との関連があるな)
放課後、呉はほとんどの時間を図書室で過ごしている。そして、その向かいの席には常に、Cクラスの銀髪の少女――椎名ひよりが座っている。
あの二人の親密さは、同じクラスの平田や軽井沢たちと接する時の距離感とは明らかに違う。呉にとって、あの少女の存在が『絶対的な最優先事項』であることは、少し観察すれば誰にでもわかることだ。
点と点が繋がる。
龍園という男は、他クラスを攻撃するためなら手段を選ばない狡猾さを持っている。今回の須藤の件を見ても明らかだ。
もし、龍園がDクラスの戦力である呉を揺さぶるために、彼と親しいCクラスの椎名ひよりに何か危害を加えようとしたとしたら?
あるいは、椎名を人質にして呉を言いなりにしようと目論んだとしたら?
(……その結果、龍園は呉の『逆鱗』に触れたのだろう)
そして、龍園は物理的、あるいは精神的に完全に屈服させられ、「二度と手を出すな」という絶対的な約束を強要された。
綾小路は、自身の右手をゆっくりと持ち上げ、その手のひらを見つめた。
(……戦闘能力において、俺とあいつの間には隔絶した差がある)
綾小路は、微塵もブレることのない冷徹な思考で、自らと呉の力関係を正確に定義づけた。
具体的にどれほどの差があるのかすら、正確には測りきれない。ホワイトルームで学んだすべての技術と知識を総動員したとしても、あいつという暴力を前にすれば、紙切れのように破られるだろう。
今のところ、俺と呉は良好な友人関係を築けている。
(だが……もし俺が、自分の都合で呉を盤面に引きずり出すために『椎名ひより』という生徒を利用し、あるいは人質のように扱うような真似をすれば——)
これまで築き上げた関係など一切関係なく、俺であろうとも間違いなく呉の『逆鱗』に触れ、無慈悲に叩き潰されるだろう。
そう。万に一つも勝機はない。
だからこそ、下手にあの男を利用しようとしたり、敵に回したりするのは、自殺行為に等しい愚策中の愚策だ。
『ふっ……まあ、隠したいなら詮索するつもりはないさ』
以前、自分がテストの点数を買ったことを見抜いた時に、呉が口にした言葉を思い出す。
呉は、綾小路が過去に何を抱えていようと、どんな異常性を持っていようと、決して境界線を踏み越えてこない。
互いの深淵に触れず、ただ「腹が減っているなら飯を食わせてやる」という無償の善意だけで付き合ってくれる。
「……あいつも、俺の事情を詮索してこない」
綾小路は、誰に聞かせるわけでもなく、静かにそう呟いた。
なら、自分もそれに報いるのが『友人』としての筋というものだろう。
堀北やクラスからの頼みであっても、無理に呉を動かそうとしたり、彼の秘密を暴こうとしたりするのはやめよう。
それが、圧倒的強者である呉刃叉羅との間に構築された、最も安全で、最も心地よい生存戦略なのだから。
「本当の事なかれ主義、か」
綾小路は、呉のニヤリと笑った顔を思い出し、微かに口角を上げた。
圧倒的な力があるからこそ、自分の平穏だけを守り抜くことができる。
それが羨ましくもあり、また、そんな怪物とこうして友人として同じ時間を過ごせているという事実が、奇妙な安心感をもたらしていた。
影の支配者は、口の中に微かに残るトンテキの甘辛い旨味を噛み締めながら、決して触れてはならない『深淵』からそっと視線を逸らし、静かにまぶたを閉じたのだった。