七月上旬。
1年Dクラスを襲った『須藤の暴力事件』という名の嵐は、収まるどころかますますその勢いを増していた。
「……今日もダメだった。誰も見てないってよ」
放課後の教室で、池寛治が机に突っ伏して絶望の声を上げた。
事件発生から数日。平田洋介を中心に、クラスのほぼ全員が手分けして目撃者を探し回っていたが、有力な情報は何一つ得られていなかった。
それもそのはずだ。Cクラスのリーダーである龍園翔が仕掛けた罠なのだから、人目につくような杜撰な時間と場所を選ぶはずがない。特別棟という、監視カメラの死角。完璧に計算された冤罪劇に、素人の高校生が聞き込みをした程度でボロが出るはずもなかった。
「もうすぐ生徒会立ち会いの審議の日なのに……このままじゃ、須藤くん本当に退学になっちゃうよ……」
「今月のポイントも、ずっとお預けのままなのかな……」
女子生徒たちからも、疲労と諦めの声が漏れ始めている。
連日の聞き込みで、クラス全体に重苦しい空気が立ち込めていた。
だが、そんな絶望的な状況に、一筋の光明が差し込んだのは、審議の数日前のことだった。
「やっほー! Dクラスのみんな、お疲れ様!」
ガラッと教室のドアを開けて現れたのは、Bクラスのリーダー。一之瀬帆波だった。
「一之瀬さん? どうしてここに……?」
平田が驚いて尋ねると、一之瀬は持ち前の明るく爽やかな笑顔を向けた。
「Dクラスが目撃者探しで困ってるって聞いてさ。うちのBクラスも、協力させてもらえないかなって思って!」
「えっ……Bクラスが、手伝ってくれるの!?」
「うん! 困った時はお互い様だし、嘘の証言で誰かが退学になるなんて、絶対におかしいもん。Bクラスのネットワークを使えば、もしかしたら何か情報が掴めるかもしれないからさ」
一之瀬のその言葉に、Dクラスの生徒たちは「女神だ……!」「一之瀬さん、マジでありがとう!」と歓喜の声を上げた。
Bクラスの生徒たちは、一之瀬のカリスマ性で強く団結しており、他クラスへの顔も広い。彼女たちが協力してくれるとなれば、これほど心強い味方はいない。
(……一之瀬帆波か)
俺――呉 刃叉羅は、自分の席からその光景を静かに眺めていた。
ライバルである他クラスのピンチに、無償で手を差し伸べる。普通なら裏があると考えるのが妥当だが、あの一之瀬という少女からは、そういったどす黒い打算が一切感じられない。本気で「困っている人を助けたい」という純粋な善意だけで動いているように見える。
(だが、どんなに網を広げようが、無いものは見つからないだろうな)
俺は心の中で冷酷に結論づけた。
龍園が仕掛けた罠の網目は、善意の聞き込み程度で破れるほど脆くはない。一之瀬の協力はクラスの士気を上げるのには役立つだろうが、事態を根本的に解決するカードにはならない。
そして、俺の後ろでは、綾小路清隆もまた、淡々とした無表情のまま一之瀬の姿を観察していた。
「……まあ、頑張れよ」
俺は誰に聞こえるわけでもない呟きを漏らし、鞄を手にして教室を後にした。
クラスがどんなに結束しようが、他クラスのアイドルが協力してくれようが、俺のスタンスは変わらない。
俺の時間は、図書室で待つ天使のために使われる。それだけだ。
そして、運命の審議の日がやってきた。
放課後のホームルームが終わると、教室の空気はピンと張り詰めたものになった。
これから、生徒会室で事件の当事者たちを集めた審議が行われる。そこで須藤の処分が決定するのだ。
「須藤くん……頑張ってね」
「絶対に負けるなよ! 俺たちは須藤を信じてるからな!」
平田や池たちが、教室を出て行く須藤にエールを送る。
須藤は緊張した面持ちで「おう……任せとけ」と短く返し、教室を出た。
その後ろを、須藤の弁護人として堀北鈴音が付き従い、さらにその後ろを、なぜか綾小路が幽霊のようにふらふらとついて行った。
(生徒会長は、堀北の兄貴だったか)
絶対的な権力を持つ生徒会長を前に、あの妹がどこまで論陣を張れるのか。そして、後ろに控える無気力な悪友が、どうやって盤面をコントロールするのか。
少しばかり興味はあったが、俺がわざわざ生徒会室を覗きに行く義理はない。
「さて、俺は俺の天国へ向かうとするか」
俺は足早に特別棟へと向かい、いつもの図書室の扉を開けた。
そこには、審議の重苦しい空気とは無縁の、穏やかで静かな時間が流れていた。
数時間後。
俺がひよりと読書を楽しんでいる最中、端末に平田からのクラス一斉送信メールが届いた。
『審議の結果報告:堀北さんが完全無罪を主張し、生徒会も判断を保留。明日、改めて再審議が行われることになりました! まだ首の皮は繋がっています!』
(……完全無罪の主張、ね)
俺はメールを一瞥して、小さく目を細めた。
あのプライドの高い堀北のことだ、生徒会長である兄への見栄もあって、折衷案でお茶を濁すのではなく、真っ向から『Cクラスの嘘』を暴く道を選んだのだろう。
だが、決定的な証拠もない状態でそれを主張するのは、ただの悪手でしかない。明日の再審議までに証拠を用意できなければ、須藤は確実に重いペナルティを食らう。
(……いや、待てよ)
俺の脳裏に、須藤たちの後ろを幽霊のようにふらふらとついて行った、あの無気力な悪友の姿がよぎった。
あの綾小路が、何の勝算も、盤面をひっくり返すための手札も用意せずに、あんな無謀な綱渡りを黙って見過ごすだろうか?
(あいつが裏で動いているなら……俺の知らないところで、すでに勝ちへの道筋を見つけているんだろうな)
それが何かは知らないが、おそらく明日の再審議で、Cクラスの連中は見事に足元を掬われることになるのだろう。
俺は少しだけ口角を上げ、端末をポケットにしまった。
「刃叉羅くん? 何かあったんですか?」
向かいの席に座るひよりが、不思議そうに俺を覗き込んできた。
「いや、うちのクラスの揉め事の審議が、明日に持ち越しになったらしい。まだしばらくは騒がしい日が続きそうだよ」
「そうですか……。早く解決するといいですね」
ひよりは優しく微笑み、再び本へと視線を落とした。
俺も微笑み返し、穏やかな活字の海へと戻ろうとした。
――その時だった。
コツ、コツ、コツ。
図書室の静寂を切り裂くように、革靴の足音が近づいてきた。
ただの生徒の歩き方ではない。周囲の空気を自分のものとして支配するような、傲慢で、自信に満ちた足音。
俺は本から視線を上げず、気配だけで相手を特定した。
(……一人、か)
足音の主が俺たちの座るテーブルのすぐ傍で立ち止まった。
ゆっくりと顔を上げると、そこには赤紫色の髪を揺らし、薄気味悪い笑みを浮かべた男――龍園翔が立っていた。
いつも引き連れている巨漢のアルベルトや、石崎、伊吹といった取り巻きの姿はない。完全に単独での接触だ。
「……龍園くん」
ひよりが驚いたように本を閉じ、彼を見上げた。
俺は小さく息を吐き、静かに本を机に置いた。
そして、ひよりに向かって、できるだけ柔らかく、安心させるような声で話しかけた。
「ひより。すまないが……五分だけ、少し席を外してくれないか? あっちの書架の方で、読みたい本でも探しててくれ」
俺の言葉に、ひよりは一瞬だけ不安そうな表情を浮かべた。
龍園が、以前この場所で俺と一触即発になったことを覚えているからだろう。
「大丈夫だ。ちょっと『王様』と立ち話をするだけだから。すぐに終わるよ」
俺がニヤリと笑って見せると、ひよりは俺の言葉を信じ、小さくコクリと頷いた。
「……はい。分かりました」
ひよりは席を立ち、少し離れた文学コーナーの書架の影へと姿を消した。彼女の姿が完全に見えなくなり、耳も届かない距離になったことを確認してから、俺は龍園に向き直った。
俺の纏う空気が、ただの高校生のものから、底知れぬ深淵を覗かせる『暗殺者』のものへと、ミリ単位で切り替わる。
「……なんだ? 王様」
俺は腕を組み、冷たく平坦な声で言い放った。
「アルベルトたちも連れずに、たった一人でノコノコと。……まさか、俺にもう一度挑みに来たなんて、笑えない冗談を言うつもりじゃないだろうな?」
俺の挑発的な言葉。
以前の龍園なら、ここで激昂して殴りかかってくるか、狂ったように嗤って挑発に乗っていただろう。
だが。
「……ククク。冗談キツいぜ、化け物。」
龍園は、あの時屋上で俺に見せた狂気の笑みではなく、どこか冷や汗を隠すような、乾いた笑いを漏らした。
「お前みたいな『化け物』の逆鱗に触れるような真似、二度とするわけねえだろ。俺も命は惜しいんでな」
龍園はポケットに両手を突っ込んだまま、周囲を警戒するように一度視線を巡らせ、それから俺の目を真っ直ぐに見た。
「今日は、お前個人に喧嘩を売りに来たわけじゃねえ。……約束通り、お前は俺たちのクラス間の争いに対して、『不干渉』を貫いてるようだな?」
それが、彼の目的だった。
須藤の退学騒動。Cクラスが仕掛けた卑劣な罠。
Dクラスが総力を挙げて証拠探しに奔走し、先ほどの審議でも堀北たちが必死に抵抗を見せていた。
その中で、圧倒的な力を持つはずの呉刃叉羅が、ただの一度も表舞台に姿を現さないこと。
龍園は、俺が本当に『不干渉の約束』を守っているのか、それとも裏で何か罠を張っているのか、直接確認しに来たのだ。
「当たり前だ」
俺は鼻で笑い、椅子に深く背中を預けた。
「須藤が退学になろうが停学になろうが、お前が裏でどんな絵図を描こうが、正直どうでもいい」
冷めた視線で目の前の男を見据える。
「クラスポイントが減って、俺に支給されるポイントまで巻き添えを食うのは正直腹立たしいがな。……だが、俺の『逆鱗』にさえ触れなければ、お前が学校のルール内で戦争を仕掛けるのは自由だ。俺は干渉しない、好きにやれよ」
俺は冷徹な事実だけを並べ立てた。
「それに、俺が動こうが動かまいが、お前にはどうすることもできないだろう?」
俺の目から、一瞬だけ純度100パーセントの殺気が漏れ出した。
「ひよりに危害を加えたり、俺の平穏を脅かしたりすれば、お前とCクラスの連中がどうなるか……あの屋上で、骨の髄まで理解したはずだろ?」
「――――ッ」
龍園の喉仏が、ゴクリと上下に動いた。
強がりで隠しきれない、本能的な恐怖の反射。彼は確かに、あの日の死の恐怖を細胞レベルで記憶している。
「……ククク、ああ。分かってるよ。椎名に何かするつもりは一切ねえさ」
龍園は強がりな笑みを張り付けたまま、両手を軽く挙げて降伏のポーズをとった。
「今日ここに来たのは、ただの確認だ。俺がお前の聖域を荒らさない限り、お前は俺たちの戦争には介入しない。お互い、約束を守ってるかの確認みたいなもんだ」
「用心深いことだな」
俺は肩をすくめた。
「まあ、今回は俺にとって本当にどうでもいいことだから協力しなかったが。今後、学校の行事……例えば体育祭だの、クラス対抗の試験だので、Dクラスの生徒として最低限の協力はするからな。それくらいは『高校生としての日常』の範疇だ。俺が参加したからといって、いちいちビビるなよ」
俺がそう釘を刺すと、龍園は「ククク」と喉の奥で嗤った。
「ビビるだと? 勘違いするなよ。俺はただ、盤面の外にいる規格外のバケモノに、ゲームの盤ごと蹴り砕かれるような無粋な真似をされたくなかっただけだ」
龍園は、恐怖を押し殺し、不敵な笑みを浮かべて見せた。
力では絶対に敵わないと理解した上で、それでも学校というルールの内側での『支配者』としての矜持は決して捨てていない。
「……お前が俺の首を直接獲る気がないってんなら、それでいい。精々、普通の高校生ごっこを楽しんでるんだな」
龍園は踵を返し、図書室の出口へと向かって歩き出した。
「じゃあな。図書室での甘い逢瀬を楽しめよ、化け物」
背中越しに吐き捨てられた言葉には、恐怖だけでなく、確かな『王』としての自負と、俺という規格外の存在を盤面の外に縛り付けていることへの優越感が混じっていた。
「……やれやれ」
龍園の姿が完全に見えなくなったのを確認し、俺は小さく息を吐き出して、暗殺者のオーラを完全に引っ込めた。
ただの、読書と料理が好きな男子高校生の顔に戻る。
俺は席を立ち、ひよりが向かった書架の方へと歩き出した。
「ひより、待たせたな」
文学コーナーの奥で、背表紙を眺めていたひよりが、パッと振り向いた。
「あ、刃叉羅くん。……もう、終わったんですか?」
「ああ。本当にただの立ち話だったよ」
ひよりは、俺の顔をじっと見つめた後、少しだけ不安そうに眉を下げた。
「あの……龍園くん、何か酷いことを言ったりしませんでしたか? 刃叉羅くん、大丈夫でしたか?」
彼女の心配そうな顔を見て、俺の胸の奥がキュッと締め付けられた。
本当に、この子は底抜けに優しく、俺のことを案じてくれている。あんなチンピラに俺が傷つけられるわけがないのに、それでも心配してくれるのだ。
俺は、最高に優しく、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ、全然大丈夫だよ。酷いことなんて言われてないさ」
俺は彼女の安心させるように、ポンポンと軽く彼女の頭を撫でた。
「むしろ、感謝されたくらいだ。『うちのクラスの椎名と、いつも仲良くしてくれてありがとう。これからもよろしく頼む』ってさ」
「え……?」
「俺も驚いたよ。あの龍園が、クラスメイトの交友関係まで気にかけてわざわざお礼を言いに来るなんて。……案外、あいつは口が悪いだけで、根は仲間想いの『いい王様』なのかもしれないな」
我ながら、白々しいにも程がある、見え透いた嘘だった。
あの龍園翔が、わざわざ他クラスの生徒に「クラスメイトと仲良くしてくれてありがとう」などと律儀に頭を下げるわけがない。それは、同じクラスで龍園の独裁を見てきたひよりも、痛いほど理解しているはずだ。
聡明な彼女が、この不自然な嘘を見抜けないはずがない。
だが。
「――――もうっ!」
ひよりは、ほんの少しだけ頬を膨らませ、呆れたように、けれど心底嬉しそうにクスクスと笑ったのだ。
「刃叉羅くんは……本当に、息をするように嘘をつきますね」
「そうか? 俺は事実を言ったまでだけどな」
俺がとぼけて見せると、ひよりは「ふふっ」と笑い声を漏らした。
彼女は、俺が嘘をついていることを完全に見抜いている。
龍園が本当は何を言いに来たのか、裏でどんな危険なやり取りがあったのか、彼女は知らない。
だが、俺が『ひよりを不安にさせないため』に、そして『この平穏な時間を守るため』に、あえてこんな見え透いた嘘をついているということを、彼女は正しく理解し、そして受け入れてくれたのだ。
「ふふっ、龍園くんが『いい王様』だなんて、初めて聞きました。もし本当なら、少しだけCクラスも平和になるかもしれませんね」
ひよりは、俺のついた優しい嘘の世界に、ふわりと乗っかってくれた。
「そうだな。いっそ、あいつらも読書の魅力に目覚めてくれれば、少しは大人しくなるんだろうがな」
俺が冗談めかして言うと、ひよりは花のように笑い、手に持っていた本を胸に抱いた。
「くすっ。さすがに、龍園くんたちが図書室で大人しく本を読んでいるお姿は……ちょっと想像できませんね」
「違いねえ」
俺たちは顔を見合わせて、小さく声を潜めたまま笑い合った。
龍園たちが騒ぎを起こす外界とは切り離された、穏やかで平和な空気。
「さあ、席に戻って続きを読みましょう。時間はまだたっぷりありますから」
「ああ。今日こそは、あの密室のトリックの謎を解き明かしてやる」
俺たちは並んで歩き、窓際の特等席へと戻っていった。
外の世界では、明日行われる須藤の再審議に向けて、綾小路や堀北がギリギリの駆け引きを繰り広げていることだろう。
嘘と策略が渦巻く、残酷な生存競争。
だが、この小さな図書室のテーブルの上には、そんな泥汚れは一切届かない。
暗殺者の少年がついた優しい嘘と、それを受け入れる天使の微笑み。
ただそれだけが、この世界で最も尊く、守るべき真実だった。
窓から差し込む夕陽が、二人の影を長く、一つに重なるように伸ばしていく。
俺は、隣で活字を追うひよりの横顔を見つめながら、この完璧な青春が一日でも長く続くことを、心の底から願い続けるのだった。