七月中旬。
高度育成高等学校の1年Dクラスを揺るがした、須藤健の暴力事件の再審議の日がやってきた。
事の顛末は、放課後の特別棟の――事件の現場となった薄暗い場所で、ひっそりと、そして劇的に幕を下ろそうとしていた。
「……なんだよ、櫛田から『話がある』って呼び出されたから来てみれば……お前らじゃねえか」
不機嫌そうに舌打ちをしながら現れたのは、Cクラスの石崎、小宮、近藤の三人だった。彼らの顔には、須藤に殴られた生々しい痣がまだ残っている。
だが、彼らを待っていたのは、呼び出しのメールを送ったはずの櫛田桔梗ではなかった。
「やっほー、石崎くん。呼び立ててごめんね」
そこに立っていたのは、Bクラスのリーダーである一之瀬帆波。そして、その少し後ろに控えるように立っている無気力な少年、綾小路清隆だった。
「一之瀬……? それにDクラスの地味な奴……。櫛田はどうした? ていうか、お前らが俺たちに何の用だよ」
石崎が警戒心を露わにして睨みつける。
一之瀬は持ち前の明るい笑顔を崩さないまま、しかし、その瞳には有無を言わせぬ強い光を宿して一歩前に出た。
「単刀直入に言うね。須藤くんに対する暴行の訴え、今すぐ取り下げてほしいんだ」
「はぁ!? ふざけんな! 俺たちは一方的に殴られた被害者だぞ! 取り下げるわけねえだろ!」
「そうだよ! 明日の再審で、あいつは確実に退学だ!」
小宮と近藤が声を荒げるが、一之瀬は全く動じなかった。彼女はふと視線を上げ、自分たちの頭上――特別棟の壁の隅を指差した。
「……ねえ、石崎くん。この学校のセキュリティって、すごく厳重だよね」
「あ? なんだよ急に」
「実はね、私たちBクラスもこの事件を調べさせてもらって、気づいたことがあるんだ。……あそこ、見てくれる?」
一之瀬の指差す先。
薄暗い軒下の奥に、黒くて丸い、小さなレンズのようなものがこちらを向いて設置されていた。
「なっ……! カ、カメラ……!?」
石崎たちの顔色が一瞬で青ざめた。
事件当日、彼らは念入りに下調べを行い、ここが『監視カメラの死角』であることを確認した上で須藤を呼び出し、罠にハメたはずだった。
「うん。学校側が設置したものか、それとも防犯のために誰かが後からつけたものかは分からないけど……確実に、あのカメラはこの場所を録画してる」
一之瀬は、ポケットから自分の端末を取り出し、画面を軽くタップして見せた。
「私たちは、あのカメラの映像データを生徒会に提出する準備を進めてるの。……もし、映像の中に『あなたたち三人が須藤くんを先に挑発し、手を出そうとした』決定的な証拠が映っていたら、どうなるかな?」
「――――ッ!!」
「虚偽の申告で学校を騙し、他クラスの生徒を退学に追い込もうとした。……退学になるのは、須藤くんじゃなくて、あなたたち三人の方かもしれないよ?」
一之瀬の言葉は、明るく柔らかいトーンでありながら、石崎たちの心臓を鷲掴みにするような強烈な脅しだった。
「嘘だ……! そんなカメラ、俺たちが調べた時には絶対になかった!」
石崎が震える声で吠える。
「そう? なら、このまま生徒会に映像を出してもいいのかな? 私はどっちでもいいんだけど、あなたたちの未来に関わることだから、最後に確認しようと思って」
一之瀬が微笑む。
その後ろで、綾小路は無表情のまま、黙って石崎たちを見つめていた。
(……このカメラは、俺が昨日、一之瀬にポイントを借りて設置した『偽物』だ)
綾小路は内心で冷徹に状況を分析していた。
もちろん、録画機能など一切ないただのガラクタだ。しかし、一之瀬帆波という『絶対に嘘をつかない、信頼できる善人』の代名詞のような存在が口にすることで、そのハッタリは100パーセントの真実として石崎たちの脳に刷り込まれる。
「く、くそっ……! 罠だ、ハッタリに決まってる!」
「でも石崎……! もし本当に映ってたら、俺たち龍園さんに殺される前に退学だぞ……!」
「や、やめようぜ……! 退学なんて冗談じゃねえ!」
小宮と近藤が完全にパニックに陥り、石崎の袖を引っ張る。
石崎も、一之瀬の揺るぎない態度と、頭上の黒いレンズのプレッシャーに耐えきれなくなり、ギリッと歯を食いしばった。
「……わ、分かったよ! 取り下げてやる! だから、その映像は絶対に出すなよ!!」
「うん、約束する! 賢明な判断だと思うな」
一之瀬がパァッと花が咲くような笑顔を見せる。
石崎たちは屈辱に顔を歪ませながら、逃げるようにその場を立ち去っていった。
「……完璧な交渉だったな、一之瀬」
「ふふっ、堀北さんの作戦のおかげだよ。まさか、ダミーのカメラを使うなんてね。心臓バクバクだったよぉ」
一之瀬はホッと胸を撫で下ろし、綾小路に笑いかけた。
こうして、Dクラスを窮地に陥れていた暴力事件の罠は、一之瀬のカリスマと綾小路の暗躍によって、誰一人の血を流すことなく完全に解体されたのだった。
その頃。
1年Dクラスの教室には、重苦しい空気が漂っていた。
「……遅いな。審議、どうなったんだろう」
「須藤くん、無事だといいけど……」
平田や池、軽井沢といったクラスメイトたちは、誰も帰宅することなく、教室に留まって生徒会室からの報告を待ち続けていた。
もし須藤が退学になれば、クラスのポイントは大きく減点される。彼らにとって、これは自分自身の生活がかかった死活問題だった。
やがて。
ガラァッ! と、教室の前方のドアが勢いよく開かれた。
「みんな!!」
現れたのは、目を真っ赤に腫らし、大粒の涙を流している須藤健だった。
その後ろから、やれやれといった表情の堀北鈴音と、相変わらず無気力な綾小路清隆が姿を見せる。
「須藤くん! 審議は……結果はどうだったの!?」
平田が弾かれたように立ち上がり、駆け寄る。
須藤は鼻を啜りながら、クラス全員を見渡し、深く、深く頭を下げた。
「俺……! 助かった! 退学にならずに済んだぞ!!」
「えっ……!?」
「本当かよ須藤!!」
驚きと歓喜の声が上がる中、堀北が教壇の前に立ち、腕を組んで状況を説明し始めた。
「生徒会室で再審議が始まる直前、Cクラスの彼らから『勘違いだった』と、訴えを取り下げる申し出があったのよ。結果として、事件そのものが『無かったこと』になったわ。……もちろん、須藤くんへのペナルティも、クラスへの減点も一切なしよ」
「――――よっしゃあああああああああっっ!!!」
堀北の口から「ペナルティなし」という言葉が出た瞬間、Dクラスの教室は割れんばかりの大歓声に包まれた。
「すっげええ! 須藤、よかったな!!」
「堀北さんマジすげえ! 天才!!」
「これで明日からポイントもらえるんだよね!? ヤバい、最高!!」
池や山内が須藤に飛びつき、もみくちゃにして喜ぶ。軽井沢や佐藤たち女子グループも、「マジ疲れたけど、これでやっと安心だねー!」とハイタッチを交わしていた。
堀北は「私だけの力じゃないわ」と小さく呟き、後ろに立つ綾小路をチラリと見たが、クラスメイトの狂騒の中でその声が届くことはなかった。
Dクラスは、『クラスの危機』を全員の団結で乗り越え、確かな達成感と安堵の渦の中にいた。
――だが。
「……あれ? そういえば、呉くんは?」
ふと、平田が教室内を見回して首を傾げた。
「あ、呉くんなら、放課後のチャイムが鳴った瞬間に『俺は帰る』って言って、さっさと教室出ちゃったよ」
松下が苦笑いしながら答える。
「あいつ……クラスの存亡がかかってるって時に、相変わらず冷たいヤツだな」
池が少し不満げに口を尖らせたが、すぐに「まあいいや! 今日は宴だぜ!」と須藤の肩を組んで騒ぎに戻っていった。
平田は少しだけ寂しそうな顔をした後、自分の端末を取り出し、文字を打ち込み始めた。
その頃。
俺――呉 刃叉羅は、クラスの狂騒など一切知る由もなく、図書室という絶対的な『聖域』で、極上の平和を謳歌していた。
「……ふふっ、この登場人物、なんだか刃叉羅くんに少し似ていますね」
向かいの席に座る椎名ひよりが、文庫本から顔を上げ、クスクスと笑いながら俺を見た。
「俺に? どんなキャラなんだ?」
「普段はすごく無愛想で近寄りがたいんですけど、実はお料理がとっても上手で、隠れて野良猫に餌をあげているような、不器用で優しい人です」
「……俺は野良猫に餌はやらないぞ。栄養価を計算した手作り飯を食わせる派だ」
俺が真顔で答えると、ひよりは「もうっ!」と楽しそうに笑い声を立てた。
俺にとって、須藤の退学騒動も、クラスのポイントも、この目の前の天使が微笑む時間に比べれば、道端の石ころ以下の価値しかなかった。
だから放課後、クラスの連中が固唾を飲んで教室に居残る中、俺は一秒の迷いもなく鞄を持って図書室へと直行したのだ。
ブーッ、ブーッ。
ポケットの中の端末が、短い振動でメールの受信を知らせた。
こんな時に誰だ、と舌打ちしそうになりながら画面を確認すると、送り主は平田洋介だった。
『件名:無事に解決したよ!
本文:呉くん、お疲れ様! さっき再審議が終わって、Cクラスが訴えを取り下げてくれました! 須藤くんも退学にならず、クラスへのペナルティも一切なしで事件は解決したよ。これで、明日の朝には全員にポイントが支給されるって先生も言っていました。みんなで頑張ってよかったね! 明日からもよろしく!』
(……なるほど。相手が訴えを取り下げたか)
俺はメールの文面を読み、内心で状況を瞬時に理解した。
あの龍園が、何の理由もなく自ら引き下がるわけがない。おそらく、綾小路が、Cクラスを脅迫するほどの『強烈な爆弾』を裏で用意したのだろう。
偽の証拠か、あるいは弱みでも握ったか。やり方はどうあれ、見事な手際だ。
俺は端末の画面をタップし、短い返信を打った。
『わざわざありがとう。よかったな』
送信ボタンを押し、すぐに端末をポケットの奥底へと封印する。
「刃叉羅くん、お友達からのメールですか?」
ひよりが、少しだけ不思議そうな顔で聞いてきた。
「ああ。うちのクラスの揉め事が、無事に解決したって報告だ。どうやらペナルティもなしで、明日には遅れていたポイントがちゃんと支給されるらしい」
「本当ですか! それはよかったですね」
ひよりは、自分のことのようにパッと顔を輝かせて喜んでくれた。
「ああ。……だからさ、ひより」
俺は身を乗り出し、机の上に組んだ手に顎を乗せて、彼女の目を見つめた。
「明日ポイントが入ったら、買い出しに行って新鮮な食材が買える。……また、俺の部屋に料理を食べに来ないか?」
俺がストレートに誘うと。
ひよりの白い頬が一瞬でぽんっと薄紅色に染まり、彼女の瞳が期待と喜びでキラキラと輝き始めた。
「……はいっ!」
ひよりは、本を胸に抱きしめながら、世界で一番可愛い笑顔で力強く頷いた。
「ぜひ! 刃叉羅くんのお料理、ずっとまた食べたいなって思っていたんです! すっごく、すっごく嬉しいです!」
「よし、決まりだな。ひよりの好きなもん、何でも作ってやるよ」
俺たちは図書室の静寂の中で、明日への甘い約束を交わした。
他人のための聞き込みに時間を浪費していたら、この天使の笑顔は見られなかった。やはり、俺の『事なかれ主義』と『ひより最優先主義』のハイブリッド戦略は、完璧な正解だったと確信した。
翌日。
朝、端末を確認すると、口座にはしっかりと『8,700ポイント』が振り込まれていた。
クラスメイトたちは朝から「ジュースが買える!」「購買のパンが食える!」と大騒ぎし、まるで飢餓から救われた難民のように歓喜していた。
俺はそんな連中を横目に、放課後のチャイムが鳴ると同時にケヤキモールのスーパーへとダッシュした。
ポイントが入り、食材の選択肢は一気に広がった。
俺が今日作るメニューは、すでに決まっている。
(ひよりは前回、出汁巻き卵を一番美味しそうに食べていたな。なら、今日は卵焼きをメインにした、究極の和食御膳だ)
特売の卵ではなく、少し値段の張る平飼いの高級卵のパックをカゴに入れる。
新鮮な三つ葉、大根、みょうが。そして、メインのおかずとして脂の乗った銀鱈(ぎんだら)。
完璧だ。暗殺者の研ぎ澄まされた直感が、今日のディナーの大成功を確信していた。
夕方。
俺の部屋のインターホンが鳴り、ドアを開けると、そこには少し緊張した面持ちのひよりが立っていた。
今日は制服ではなく、淡いピンク色のブラウスに白いフレアスカートという、清楚で可憐な私服姿だ。
「お邪魔します……刃叉羅くん」
「おう。いらっしゃい。ちょうど準備ができたところだ」
俺はひよりをリビングのソファに案内し、キッチンから料理を運んだ。
テーブルの上に並べられたのは、料亭も顔負けの和食のフルコースだった。
「わぁ……!! すごくいい匂いです……!」
ひよりの目が、テーブルの上を見て釘付けになる。
メインは、銀鱈の西京焼き。香ばしい味噌の香りが食欲をそそる。
そして、その横に鎮座するのは、ひよりの好物である『出汁巻き卵』。今回はただの出汁巻きではない。中に明太子と大葉を巻き込んだものと、カニカマと三つ葉を巻き込んだものの二種類を用意した。
さらに、冷やしトマトの出汁浸し、オクラの胡麻和え、炊きたてのツヤツヤの白飯に、豆腐となめこの赤だし。
「さあ、冷めないうちに食べてくれ。今日はポイントが入った記念の、特別メニューだ」
「はいっ! ……いただきます!」
ひよりは両手を合わせ、目を輝かせながら箸を手に取った。
彼女が一番最初に箸を伸ばしたのは、やはり、黄金色に輝く出汁巻き卵だった。
明太子と大葉の入った一切れを口に運び、モグモグと咀嚼する。
その瞬間。
「――――んんっ!」
ひよりの動きがピタリと止まり、その両手で頬を包み込んだ。
「ど、どうだ?」
俺が少し緊張しながら尋ねると、ひよりは信じられないものを見るような目で俺を見つめ返した。
「美味しい……! すっごく、美味しいです、刃叉羅くん!」
ひよりの声が、感動で少し上ずっている。
「お出汁がジュワッて溢れて、明太子のピリッとした辛さと大葉の香りが合わさって……! 前回のもすっごく美味しかったけど、今日のはもっともっと美味しいです!」
「そ、そうか! よかった」
俺は心底ホッとして、自分の席に座った。
そこからは、ただひたすらに幸せな光景が続いた。ひよりが銀鱈を食べて「お魚が甘いです!」と微笑み、赤だしを飲んで「ホッとしますね」と息をつく。
俺の作った飯を、世界で一番可愛い女の子が、世界で一番幸せそうな顔で食べてくれている。
「刃叉羅くんのお料理、本当に魔法みたいですね。毎日食べられたら、どんなに幸せだろうって思っちゃいます」
ひよりが、ご飯を頬張りながら、無邪気にそんなことを口にした。
(――――ッ!! ま、毎日……!? それはもう、完全に『俺の嫁になれ』ってことじゃないか!?)
俺の脳内の冷静な暗殺者が、パニックを起こして自爆スイッチを押しそうになった。
だが、ここで鼻血を出して倒れるわけにはいかない。俺は必死に顔の筋肉を引き締め、極めてナチュラルに、しかし確かな熱意を込めて返答した。
「……ひよりが望むなら。毎日でも、三食でも、一生作るよ」
俺の言葉に、ひよりの箸がピタッと止まった。
彼女は自分の言った言葉の意味と、俺の返答の重さに気づいたのか、顔から首筋までを真っ赤に染め上げた。
「あ、あの……その……! そ、そういう意味じゃなくて……でも、すごく嬉しい、です……」
ひよりは俯き、顔を隠すようにご飯をかきこみ始めたが、その耳までが林檎のように真っ赤だった。
その反応が可愛すぎて、俺はこれ以上からかうのはやめて、温かいお茶を彼女のグラスに注いだ。
「ゆっくり食えよ。デザートに、抹茶のパンナコッタも作ってあるからな」
「……はいっ。刃叉羅くん、本当にありがとうございます」
食事を終えた後は、二人でソファに並んで座り、図書室で話していたミステリー小説の続きや、他愛のない話題で笑い合った。
テレビはつけず、ただ二人の声だけが部屋に響く。
肩と肩が触れ合う距離。彼女のシャンプーの甘い香りが、俺の理性を心地よく揺さぶる。
窓の外では、七月の夜風が木々を揺らしている。
クラスの連中がポイントの支給に歓喜し、綾小路や堀北が次の戦いに向けて思考を巡らせているこの夜。
俺とひよりの周りだけは、世界のあらゆる争いから切り離された、絶対的な『平穏』に包まれていた。
「……あぁ、幸せだな」
俺が小さく呟くと、隣に座るひよりが、コクリと頷いた。
「はい。私も、とっても幸せです。刃叉羅くん」
彼女の透き通るような銀色の髪を、俺はそっと撫でた。
ひよりは嫌がるどころか、目を細めて子猫のようにすり寄ってくる。
暗殺者の少年が手に入れた、普通の高校生としての青春。
美味しい料理と、大好きな本と、そして、愛しい天使の微笑み。
俺は、このささやかながらも極上の幸せを、命に代えても守り抜くことを、改めて心に固く誓うのだった。