愛しの天使、椎名ひよりに俺の特製和食御膳を振る舞い、最高に幸せな時間を過ごした金曜日の夜から一夜明けた、土曜日の昼下がり。
学生寮の俺の部屋には、なぜかまたしても無気力な顔をした悪友が入り浸っていた。
「……美味い」
ローテーブルの向かい側で、綾小路清隆がズズッとうどんを啜りながら、短く、しかし確かな賞賛の言葉を漏らした。
今日の昼飯は、俺の得意分野の一つである『冷凍うどんのアレンジレシピ』だ。
休日の昼に手の込んだものを作るのは面倒だが、安く買い溜めしておいた冷凍うどんは、茹でるだけで極上のコシが味わえる万能食材である。
今日は、ベーコンをカリッと炒めてから、卵黄、粉チーズ、牛乳、そしてたっぷりの黒胡椒を絡めた『特製・濃厚カルボナーラうどん』を用意した。和風出汁を隠し味に少しだけ加えることで、しつこすぎず、いくらでも腹に入るジャンクで最高な一品に仕上がっている。
「そりゃどうも。ポイントも入ったんだから、たまには自分で食材買って自炊してみろよ」
「……善処する。だが、お前が作る飯のコストパフォーマンスと味のクオリティが高すぎるのが問題だ」
「俺のせいにするな。まあ、食わせてやる分には別に構わないが」
俺も自分の分のうどんを啜りながら、テレビの電源をつけた。
ポイント支給遅延騒動も無事に解決し、クラスの連中も今日はケヤキモールで豪遊していることだろう。
俺の部屋の中には、ただ男二人が麺を啜る音だけが響いている。
「それにしても」
うどんを飲み込み、俺はアイスコーヒーの入ったグラスを手に取って綾小路を見た。
「今回の須藤の件、無事に片付いたな。これで俺とひよりのカフェ代も守られたってわけだ」
俺が上機嫌でグラスを傾けると、綾小路は食べる手を止めずに、いつも通りの平坦な声で答えた。
「ああ。堀北が上手くやった」
「……ふっ。出たよ、そのセリフ」
俺は心底呆れたように苦笑し、小さく息を吐いた。
「まあいいさ。俺が図書室でひよりと平和に過ごしてる間に、裏で誰がどんな魔法を使って相手を退かせたのか……そんな面倒な舞台裏を、わざわざ詮索する気は毛頭ないからな。俺にとっては、結果オーライならそれで十分だ」
「だから、俺は本当に何もしていないがな」
「はいはい、そういうことにしておいてやるよ」
俺はそれ以上深く追求することはせず、あっさりと引き下がった。
隠したいなら、詮索しない。お互いの領域には踏み込まない。それが俺とこいつの間の、居心地の良い暗黙のルールだ。
「ただまあ、事なかれ主義の同士として、一つだけ言っておくが」
俺は適当に唐揚げをつまみながら、独り言のようにポツリとこぼした。
「お前みたいな『隠しきれない異質さ』を持ってる奴は、どれだけ堀北の影に隠れていようが、どうしても違和感として周囲に漏れ出す。いずれ、他クラスの鼻の利く奴らに嗅ぎつけられる日が来るだろうな」
俺がそう言うと、綾小路は小さく息を吐き、箸を置いた。
「……お前の忠告は、心に留めておこう」
綾小路は否定も肯定もせず、ただ静かに俺の言葉を受け入れた。
彼自身も、自分の隠れ蓑がいずれ限界を迎えることは、その驚異的な演算能力でとうに理解しているはずだ。それでも、少しでも長く平穏な日々を引き延ばすために足掻いているのだろう。
「まあ、他クラスの連中に目をつけられて面倒なことになった時は、俺の部屋に逃げ込んでくればいい。美味い飯くらいは、いくらでも食わせてやるよ」
「……頼もしい限りだな。感謝する」
綾小路が微かに口角を上げたように見えた。
食事が終わり、俺たちは食後のコーヒーを飲みながら、テレビのバラエティ番組をぼんやりと眺めていた。
クラスの陰謀劇の話も終わり、部屋には緩やかな空気が流れている。
ふと、俺は綾小路に向かって、ごく普通の男子高校生らしい質問を投げかけてみた。
「なぁ、綾小路。お前、いつも一人でいるか、堀北と一緒にいるかだけど……好きな女の子とか、気になる奴はいないのか?」
「好きな女の子?」
綾小路は、まるで宇宙語でも聞かされたかのように、少しだけ目を丸くした。
「ああ。せっかくの高校生活なんだから、一つくらいそういう普通の青春の悩みとかないのかよ」
俺がニヤニヤしながら尋ねると、綾小路は少しの間、真面目に思考を巡らせるように視線を宙に浮かせた。
そして、首を横に振った。
「……今のところ、いないな。そういう感情というものが、まだよく理解できていないというのもあるが」
「なんだよそれ。枯れてんなぁ。まあ、お前らしいっちゃお前らしいけどな」
俺が笑い飛ばすと、綾小路はコーヒーカップをテーブルに置き、今度は逆に俺の方を真っ直ぐに見つめてきた。
「呉は、どうなんだ?」
「俺?」
「ああ。……あの、Cクラスの椎名ひより、だったか」
「ブフォッ!?」
俺は飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆った。
ゲホゲホとむせ返る俺を、綾小路は冷ややかな、しかしどこか観察するような目で見つめている。
「なっ……なんで分かったんだよ!?」
「なんでって……」
綾小路は少し呆れたようにため息をついた。
「毎日のように放課後は図書室で密会し、休日もわざわざ二人でカフェに出かけている。その時点で十分に明白だが……何より、お前が『ひより』と名前を口にする時、ひどく幸せそうな顔をしているからな。端から見れば、なぜ付き合っていないのか不思議なくらいの甘ったるい距離感だぞ」
「――――ッ!!」
俺の顔が、一気に沸騰したように熱くなる。
マジか。図書室での密会や休日のデートはおろか、俺のデレ顔まで完全にこの無気力な男に見透かされていたのか。
暗殺者としての索敵能力があるはずなのに、ひよりのことになると完全に気が緩みきってしまっているらしい。不覚すぎる。
「別に、悪いことじゃないだろう」
綾小路が淡々と言う。
「相手は他クラスだが、お前が誰と付き合おうが自由だ。……むしろ、あれだけ仲が良いのに、なぜまだ告白しないのか、俺にはそっちの方が疑問だ」
「うっ……」
俺は言葉に詰まり、頭を掻き毟った。
普通の高校生なら、間違いなく告白しているタイミングだろう。ひよりは俺に好意を持ってくれている(と信じたい)。両思いであることは、おそらく間違いない(と信じたい)。
「……まあ、一緒にいて幸せだし、ずっとそばにいたいとは、本気で思ってるよ」
俺は観念して、ポツリと本音を漏らした。
綾小路という、他人の秘密を決して他言しない口の堅い悪友が相手だからこそ、言える本音だった。
「ただ……なぁ」
「ただ?」
綾小路が、静かに続きを促す。
俺は自分の両手を見つめた。
普通の高校生を演じてはいるが、俺の本質が『呉一族の暗殺者』であるという事実は、どれだけ平和な日常に浸ろうとも、決して消え去ることはない。
俺は深く息を吸い込み、綾小路の目を見て言った。
「……これは、あくまで『例え話』だ。俺の友達の、架空の話だと思って聞いてくれ。いいな?」
「……分かった。あくまで例え話だな」
綾小路が頷く。
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。
「その友達はな、好きな女の子がいるんだ。でも、そいつには……絶対に人には言えない、暗くて、一般の常識から外れた『過去』がある。ずっと普通の世界で平和に生きてきた人間なら、知った瞬間に間違いなく恐怖して、遠ざかっていくような過去だ」
俺の胸の奥にある、最も深く、最も恐れている感情。
それは、他の誰かに向けられるものではない。ひよりにだけは、絶対に拒絶されたくないという、臆病な恐怖。
「そいつは今、過去を隠して、その女の子と普通の高校生として平和に過ごしてる。……でも、もし告白して付き合うことになれば、いずれ自分の抱えている『異常性』がバレる日が来るかもしれない」
相手が、その過去を受け入れてくれるのか。それとも、恐れをなして離れていってしまうのか。
「……その恐怖があるから、そいつは今の『友達以上』の平和な関係を壊すのが怖くて、一歩を踏み出せずにいるんだよ」
俺は自嘲気味に笑い、ソファに深く体を沈めた。
「どう思う? 俺の友達は、どうするべきだと思う?」
「……」
俺の問いかけに、綾小路はしばらくの間、静寂を保った。
(呉の過去、か)
綾小路清隆の脳内では、驚異的な速度で思考の演算が行われていた。
『あくまで例え話』と呉は前置きしたが、それが呉自身のことであるのは明白だ。
そして、その『絶対に人には言えない過去』が、高校生が少しグレていたといった可愛いレベルのものではないことも、綾小路には完全に理解できていた。
先日、ケヤキモールで邂逅した呉の姉・迦楼羅の、常軌を逸した闘気。
そして、それすらも明確に凌駕する、目の前にいる呉刃叉羅という男の『底知れない暴力の深淵』。
(あの力。あの気配……。間違いない、呉は『裏の世界』で生きてきた人間だ)
確かに、そんな裏の顔を、平和な世界で生きてきた普通の女子高生――あの、図書室で静かに本を読んでいる温厚な椎名ひよりが受け入れられるかどうかは、未知数だ。
恐怖し、軽蔑し、拒絶する可能性の方が圧倒的に高い。
呉が踏み出すことを恐れる理由は、痛いほど理解できた。
(……だが)
綾小路は、自分自身の『ホワイトルーム』での記憶と、今の自分を重ね合わせた。
自分もまた、人の心を持たない『人工の天才』として作られ、異常な過去を隠してこの学校にいる。だからこそ、呉のジレンマが、少しだけ他人事ではないように感じられた。
綾小路はゆっくりと口を開き、極めて論理的な、しかしどこか温かみを含んだ声で答えた。
「そのお前の『友達』の話だが」
「ああ」
「俺は、恋愛感情というものを理解していない。だから、的外れな意見になるかもしれないが」
綾小路は、まっすぐに俺の目を見た。
「俺が見る限り、その……『友達の好きな女の子』は、物事の表面だけを見て人を判断するような、浅薄な人間なのか?彼女は、『その友達』の『今』の優しさや、一緒にいる時間の心地よさを、何よりも大切にしているんじゃないか?」
「……」
「過去がどうであれ、彼らが共有している『今』の感情は本物だ。……それだけお互いに思い合っているのなら、彼女は、その友達の過去ごと受け入れてくれるんじゃないのか?」
それは、打算も計算もない、綾小路清隆という人間から出た、不器用で真っ直ぐなアドバイスだった。
「……っ」
俺は、綾小路の言葉に、思わず息を呑んだ。
ひよりは受け入れてくれる。俺の異常な過去を知っても、きっと。
第三者である綾小路からそう言われると、心が少しだけ軽くなるような気がした。
だが。
「……だげどなぁ! いやぁ、うん! そうは言ってもな……!!」
俺は両手で頭を抱え、ソファの上でゴロゴロと身悶えした。
「そんな簡単に割り切れたら苦労しねえんだよ! もしも、ひよりが『そんな得体の知れない恐ろしい人だとは思いませんでした。さようなら』って言ってきたら、俺は間違いなくその場でショック死するぞ!? 俺の心臓はチタン合金じゃなくてガラスで出来てんだよ!」
「……お前、さっきから自分で設定した『友達の例え話』という設定が完全に崩壊しているぞ」
綾小路が呆れたようにツッコミを入れるが、今の俺の耳には届かない。
「ああああクソッ! どうすればいいんだ! このまま図書室の妖精として、適度な距離感を保ち続けるのが正解なのか!? いやでも、他の男に取られたら俺はそいつを東京湾に沈めてしまいそうだ……!」
俺はクッションに顔を埋め、暗殺者としての冷徹さなど微塵もない、ただの恋に悩む思春期の男子高校生になり果てていた。
自分自身の抱える闇の深さと、ひよりという光の尊さ。そのギャップが大きすぎるが故の、贅沢で切実な悩みだ。
「……まあ、焦る必要はないんじゃないか」
綾小路は、身悶えする俺を冷ややかな目で見下ろしながら、ポツリと言った。
「今はまだ、お互いの距離を測っている段階だろう。無理に過去を打ち明けて白黒つけるより、今はその『平和な時間』を少しでも長く続けることの方が、お前にとっても、彼女にとっても有益なはずだ」
「……まあ、そうだな」
俺はクッションから顔を上げ、乱れた髪を掻き上げた。
「……悪いな、綾小路。お前にこんな惚気みたいな相談に乗らせちまって」
「気にするな。美味い飯の代金だと思えば、安いものだ」
綾小路は立ち上がり、帰り支度を始めた。
「じゃあ、俺はそろそろ戻る」
「おう。また来いよ。次は……お前も恋の悩みの一つでも持ってこい。俺が先輩としてアドバイスしてやるからな」
「……それは、期待せずに待っていてくれ」
綾小路はそう言い残し、微かに口角を上げて部屋を出て行った。
一人残された部屋で、俺は再びソファに寝転がり、天井を見上げた。
「……受け入れてくれる、か」
綾小路の言葉が、耳の奥に残っている。
闇の世界しか知らなかった俺が、誰かを心の底から愛し、そして受け入れてもらえる。
そんな都合のいい奇跡が、果たして俺に許されるのだろうか。
(……いや、都合のいい奇跡にただ甘えていていいわけがない)
俺は深く息を吐き出し、自らを戒めるように眉間を押さえた。
綾小路は「今は平和な時間を引き延ばせ」と彼なりに気を遣ったアドバイスをくれたし、俺の臆病な心もそれに縋りたいと叫んでいる。
だが……いつまでも自分の素性を隠し、あの純粋なひよりを騙すような真似を続けるわけにはいかない。
ましてや、あの屈託のない真っ直ぐな笑顔に嘘をつき通したまま告白し、恋人になろうとするなんて、彼女に対する最大の裏切りだ。
本当にひよりを愛し、心から大切に思うからこそ。
この「友達以上」の曖昧な関係から一歩を踏み出し、堂々と彼女の隣に立つ資格を得るためには、いつか必ず、俺自身の口からこの異常な過去を打ち明けなければならない。
その結果、彼女が怯え、俺から離れていくことになったとしても。彼女に対する誠意から逃げることだけは、絶対にやってはいけない。
「……それまでは、せめて」
俺はゆっくりと目を閉じた。
いつか真実を告げ、本当の意味で彼女と向き合う日が来るまで。俺にできるのは、明日もまた図書室で、あの天使のような笑顔を全力で守り抜くことだけだ。
暗殺者の少年は、不器用な友人がくれたアドバイスと、愛するが故の重い覚悟を胸に抱きながら、静かに休日の夜を過ごしていくのだった。