翌朝。高度育成高等学校での二日目の朝は、見事な快晴だった。
支給された真新しい制服に袖を通し、鏡の前で身だしなみを整える。一族の屋敷で着ていた動きやすさ重視の暗殺用装束とは違い、いかにも『学生』といった窮屈な襟の感触が、今の俺にはたまらなく心地よかった。
朝食は寮の備え付けのキッチンで、簡単な和食を作って済ませた。昨日ケヤキモールのスーパーで買っておいた食材で作った、出汁巻き卵と焼き鮭、そして味噌汁。我ながら完璧な仕上がりだ。料理は趣味でもあり、集中力を高めるためのルーティンでもある。
(よし、今日も一日、普通の高校生をやり遂げるぞ)
気合を入れ直し、俺は寮を出て学校へと向かった。
1年Dクラスの教室に入ると、すでに半分以上の生徒が登校しており、あちこちでグループが形成されて談笑していた。昨日、平田が中心となって自己紹介を行ったおかげか、初日特有のギクシャクした空気は随分と薄れている。
自分の席――窓際、後ろから二番目の席へ向かうと、後ろの席にはすでに綾小路清隆が座っていた。
相変わらず、周囲の喧騒から一人だけ切り離されたような、無気力なオーラを漂わせている。だが、俺は決めていた。隣人とは良好な関係を築く、と。これも充実した青春には不可欠な要素だ。
「おはよう、綾小路」
俺が背後から声をかけると、綾小路はゆっくりと振り返った。
「……ああ、おはよう。呉」
相変わらずの抑揚のない声色。だが、嫌がっている風ではない。
「昨日は入学式が終わった後、何してたんだ? 寮の片付けとかか?」
「いや……片付けはすぐに終わったからな。そのあとは、コンビニで少し買い物をして、部屋で休んでただけだ。特に何もしていない」
いかにも彼らしい、平坦な回答だった。誰かと群れるでもなく、一人で静かに過ごしていたのだろう。
「呉は、どこか行ったのか?」
綾小路の方から質問を返してきた。少し意外だったが、俺は素直に答えることにした。
「俺は、図書室に本を見に行ってたんだ。この学校の図書室、蔵書量が半端じゃなくてさ。一日中いても飽きないくらいだったぜ」
「図書室か。確かに、この学校の設備なら相当なものだろうな。……読書が趣味だと言っていたもんな」
「ああ。小説から実用書までなんでも読むぞ。そうだ、綾小路」
俺は学生証兼用の端末をポケットから取り出し、綾小路の目の前に差し出した。
「もしよかったら、連絡先を交換しないか?」
俺の提案に、綾小路はわずかに目を見開いた。
「……俺なんかで、いいのか?」
「なんだよそれ。俺『なんか』って。これから三年間、同じクラスなんだぜ? むしろ交換しない方が不自然だろ」
俺は笑い飛ばしながら、言葉を続けた。
「それに……なんとなくだけど、お前とは気が合いそうな気がするんだ。俺も、あんまり騒がしいのは得意じゃないしな。だから、友達としてよろしくな」
俺の『目』を見ても過剰に怯えることなく、フラットに接してくれる人間は貴重だ。打算がないわけではないが、純粋に彼とは良好な友人関係を築けそうだと感じていた。
俺の言葉を聞いた綾小路は、少しの間、じっと俺の顔を見つめていた。
そして。
「……ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
表情自体は相変わらずの無表情だった。だが、暗殺者として人間の微細な筋肉の動きを読み取る訓練を受けてきた俺の目には、彼の口元がほんのわずかに――本当にミリ単位で――緩み、微かな嬉しさを滲ませたのがはっきりと分かった。
(なんだ、こいつも普通の高校生じゃないか)
底知れない不気味さはあるが、根は案外、普通の不器用な奴なのかもしれない。俺たちは無事に端末を操作し、初めての『男友達』の連絡先を交換することに成功したのだった。
――しかし、和やかな朝の時間はそこまでだった。
チャイムが鳴り、一時間目の授業が始まる。
最初の科目は数学。教壇に立ったのは、初老の男性教師だった。
「では、教科書の15ページを開きなさい。ここの公式だが……」
淡々と黒板に文字を書き連ねていく教師。
問題なのは、教師の方ではない。生徒の方だ。
「なぁなぁ、昨日の夜のテレビ見たか?」
「見た見た! マジウケたよなー!」
俺の反対側の端に座っている池寛治(いけ かんじ)と山内春樹(やまうち はるき)が、教師が話しているにも関わらず、普通の声量で私語を交わしている。
さらに後方に視線を向ければ、昨日「仲良しごっこはしねえ」と啖呵を切って教室を出て行った須藤健が、机の上に足を乗せ、堂々とスマートフォンをいじっていた。いや、いじっているというより、完全にゲームに夢中になっている。
女子のグループも似たようなものだった。軽井沢恵を中心とするギャルグループは、コンパクトミラーを取り出して化粧直しを始めたり、手鏡越しに変顔をして笑い合ったりしている。
(……おいおい、嘘だろ?)
俺は唖然としていた。
ここは、政府が肝煎りで設立した『高度育成高等学校』ではないのか?
全国から優秀な生徒を集め、将来の日本を背負って立つエリートを育成するための機関。それがこの学校の触れ込みだったはずだ。
だが、目の前で繰り広げられている光景は、底辺高校のそれと何ら変わりない。いや、むしろ毎月10万円という大金を与えられて気が大きくなっている分、タチが悪いかもしれない。
さらに俺の違和感を加速させたのは、教壇に立つ教師の態度だった。
「……」
教師は、池や山内の私語も、須藤の態度も、軽井沢たちの化粧も、すべて視界に入っているはずなのに、一切注意しようとしないのだ。
ただ淡々と黒板に文字を書き、教科書を読み上げるだけ。生徒が授業を聞いていようが聞いていまいが、完全に『無関心』を貫いている。
(異常だ……)
呉一族の修練の場であれば、気を抜いた瞬間に木刀が飛んでくるし、教えを乞う態度が悪ければ容赦なく制裁が下る。まあ、それは極端な例だとしても、一般の学校でも教師が生徒を叱るのが普通だろう。
二時間目の英語、三時間目の歴史……どの授業になっても、状況は同じだった。
生徒はやりたい放題、教師は完全に放置。担任である茶柱先生でさえ、昨日のホームルームの時と同じように、冷ややかな視線を生徒たちに向けるだけで、態度の悪さを咎めることは一切なかった。
(この学校、本当にこいつらが『エリート』なのか? いや、違うな……)
ノートの端に無意味な線を書き殴りながら、俺は冷静に状況を分析し始めた。
昨日の茶柱先生の言葉。『ポイントは毎月振り込まれる』『今月は10万ポイントが支給されている』。
そして、この異常な放任主義。
(おそらく、これは『テスト』だ)
生徒たちがどれだけ自律できるかを試しているのか、それとも、授業態度や生活態度がポイントの増減に直結しているのか。
もし後者だとしたら、こいつらの来月のポイント支給額は、目も当てられない惨状になるだろう。
(……まあ、俺には関係のないことだ)
思考を打ち切り、俺は小さく息を吐いた。
俺の目的は、この箱庭で平和な青春を謳歌すること。クラスの連中が自滅していくのなら、それはそれで勝手にやらせておけばいい。俺は俺の平穏を守るだけだ。
そうやって割り切ることで、俺は不快な教室の空気をシャットアウトし、ただ静かに時間が過ぎるのを待った。
退屈な放課後のチャイムが鳴り響いた瞬間。
俺のポケットの中で、端末が短く震えた。
メッセージアプリを開くと、そこには一件の通知。
『椎名ひより:呉さん、こんにちは。今日の放課後も、図書室に行きませんか?』
その瞬間、俺の脳内に立ち込めていた暗雲が、一陣の春風によってすべて吹き飛ばされた。
『刃叉羅:行く。今すぐ行く』
光の速さで返信を済ませ、俺は鞄をひったくるようにして立ち上がった。
「あ、呉くん。今日、みんなでカラオケ行かない? って……あれ、もういない?」
平田が声をかけてきたような気もしたが、俺の耳には届いていなかった。俺の足はすでに、約束の地である図書室へと向かっていたのだ。
図書室に到着すると、昨日と同じ奥の書架の近くで、椎名さんが待っていた。
「呉さん! 早かったですね」
パッと花が咲いたように微笑む彼女を見て、俺の心臓は再び大きく跳ねた。
「ああ。授業が終わってすぐ飛んできたからな。待たせたか?」
「いえ、私も今来たところです」
それからの一時間は、まさに至福の時だった。
俺たちは昨日約束した通り、お互いのおすすめの本を持ち寄り、感想を語り合った。
椎名さんが紹介してくれたのは、古い洋館を舞台にした陰惨な連続殺人事件のミステリー。俺が紹介したのは、江戸時代を舞台にした人情味あふれる時代小説。
「なるほど……呉さんの言う通り、この主人公の不器用だけど真っ直ぐな生き方は、胸を打たれますね。それに、作中に出てくるご飯の描写がとても美味しそうです」
「だろ? 特に大根の煮物のシーンなんか最高なんだよ。今度、俺が寮で作ってみようかな」
「ふふっ、呉さんの手料理、いつか食べてみたいです」
何気ない会話。穏やかな沈黙。インクと紙の匂い。
Dクラスのあの動物園のような騒騒しさから解放され、彼女と過ごすこの時間は、俺にとって唯一の『青春』のオアシスだった。
やがて、窓の外がオレンジ色に染まり始めた頃。
本をパタンと閉じた椎名さんが、少しだけモジモジとしながら口を開いた。
「あの、呉さん。この後……」
「ん? どうした?」
「もし、お時間が許せばなのですが……その、日用品の買い物に行きませんか?」
…………は?
俺は一瞬、自分の耳を疑った。
「シャンプーやリンス、それに少し食材も買い足しておきたくて。……あの、迷惑でなければ、でいいのですが。一人で行くよりも、呉さんと一緒の方が楽しいかな、なんて……」
上目遣いで、頬をほんのりと赤く染めながらそう誘ってくる椎名さん。
(――――ッッッ!!!!)
俺の心の中の『呉 刃叉羅』が、狂喜乱舞して叫び声を上げた。
なんだこれは!? 放課後デート!? いや、買い物の付き添いか!? どっちでもいい!! 可愛い女の子(まだ出会って二日目だが、すでに俺の中で彼女の好感度はストップ高だ)から、放課後の買い物に誘われたのだ!!
心の中では、一族秘伝の体術の型を凄まじいスピードで披露し、喜びの舞を踊っていた俺だが、表面上はあくまでクールな高校生を装った。
「ああ、もちろんいいぞ。俺も、ちょうど買い足したいものがあったところだからな。一緒に行こう」
「本当ですか? ありがとうございますっ!」
ぱぁぁっ、と効果音がつきそうなほどの笑顔を見せる椎名さん。
俺は内心でガッツポーズを決めながら、彼女と共に図書室を後にした。
向かった先は、学校の敷地内にある巨大な商業施設『ケヤキモール』だ。
昨日も少しだけ足を踏み入れたが、改めて見るとその規模の大きさに圧倒される。スーパーマーケット、家電量販店、アパレルショップ、カフェ、果ては映画館まで。高校生が生活する上で必要なものは、いや、必要以上の贅沢品までがすべてここで手に入る。
「本当に、すごい施設ですよね。まるで一つの街みたいです」
「ああ。ポイントさえあれば、一生ここで暮らしていけそうだな」
俺たちはまず、大型のドラッグストアへと足を踏み入れた。
お目当ては、椎名さんの日用品だ。
「ええと、シャンプーと……洗顔フォームと……」
買い物カゴを手にした椎名さんが、商品棚の前で真剣な表情で悩んでいる。
「呉さんは、シャンプーとかこだわりありますか?」
「俺? 俺は洗えればなんでもいい派だな。一応、肌に優しい無添加のやつを選んでるくらいか」
「ふふっ、呉さんらしいです。私は……少しだけ、香りのいいものが好きで。これとこれ、どっちがいいと思いますか?」
そう言って彼女が差し出してきたのは、フローラル系の香りと、シトラス系の香りの二種類のシャンプーだった。
「うーん……」
俺は二つのボトルをまじまじと見つめた。
暗殺者としての嗅覚は人一倍優れているが、どちらが彼女に似合うかとなると、高度な心理戦に等しい難易度だ。
「椎名さんは、普段から落ち着いた雰囲気だからな……フローラル系の方が、その銀髪にも似合ってて上品な感じがするんじゃないか?」
正直な感想を伝えると、椎名さんは少しだけ目を見張り、そして嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、フローラルの方にします! 呉さんが選んでくれたので」
(……破壊力が、高すぎる)
無自覚な一撃に、俺は危うくその場に崩れ落ちそうになった。
一族の訓練でどんな打撃にも耐えられる肉体を造り上げてきたが、この精神攻撃には全く耐性がない。
その後も、洗剤やティッシュ、さらには隣のスーパーで野菜や肉などの食材を買い込んだ。気がつけば、買い物カゴは二つになり、中身はかなりの重量になっていた。
レジでの支払いは、もちろん端末のポイントで行う。
二人分の買い物を済ませ、商品をエコバッグに詰め替える。
「あ、呉さん。私、持ちますよ。自分の買い物ですし……」
「いいって。これくらい、なんてことないから」
俺は椎名さんの分のエコバッグも両手に軽々と持ち上げた。
普通なら女子が持つには少し重い量だが、俺の握力と腕力なら、これを指一本でぶら下げてフルマラソンを走ることすら可能だ。もちろん、そんな非常識な真似はしないが。
「でも……」
「男にカッコつけさせてくれよ。な?」
俺がウィンク気味にそう言うと、椎名さんは「……はい。ありがとうございます」と、少し照れたように俯いた。
ケヤキモールを出ると、外はすでに薄暗くなり始めていた。
学生寮までの道のりを、並んで歩く。街灯のオレンジ色の光が、二人の影を長く伸ばしていた。
「今日は、とても楽しかったです。本のお話もできて、買い物も付き合っていただいて……」
「俺も楽しかったよ。一人で買い物するより、ずっと良かった」
「ふふっ。呉さんって、見た目は少し怖そうですけど……すごく優しくて、紳士なんですね」
「……そうか?」
「はい。バスで初めてお会いした時は、その……少しだけ、近寄りがたい雰囲気があるのかなって思ったんですけど。でも、お話ししてみたら全然そんなことなくて。今では、クラスは違いますけど……私にとって、一番の特別なお友達です」
特別なお友達。
その言葉が、俺の胸の奥にじんわりと温かいものを広げていく。
人を殺めるために生み出され、血の匂いを纏って生きてきた俺が、こんなにも純粋な少女から「優しい」と言ってもらえる日が来るなんて、想像もしていなかった。
やがて、一年生の女子寮の前に到着した。
「じゃあ、ここまでで」
「はい。重い荷物、本当にありがとうございました」
荷物を手渡すと、椎名さんは深く頭を下げた。
「気にすんな。じゃあ、また明日。図書室でな」
「はい! また明日、図書室で!」
彼女が寮のエントランスに消えていくまで見送り、俺はゆっくりと背を向けた。
夜風が心地よい。
自分の寮へ向かって歩きながら、俺は自然と頬が緩んでいくのを止められなかった。
(これが……『青春』か)
狂ったようなDクラスの現状も、得体の知れない学校のシステムも、どうでもよかった。
今の俺には、明日になればまた彼女と会えるという、ただそれだけの事実が、何よりも輝かしい希望に思えた。
呉一族の最高傑作である暗殺者、呉 刃叉羅。
彼の初めての高校生活は、血生臭い闘争ではなく、甘酸っぱくも平穏な日常として、着実に時を刻み始めていた。