青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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三十話

無人島サバイバル、二日目の朝。

 

テントの薄い布地を通して差し込む強烈な熱帯の朝日と、耳障りなほどにけたたましい蝉の鳴き声によって、俺――呉 刃叉羅は目を覚ました。

 

「……暑ぃ」

 

寝袋から這い出し、首筋に滲んだ汗を手の甲で拭う。

 

一族の過酷な修行で野宿には慣れきっているとはいえ、日本の真夏特有の、このまとわりつくような湿気と熱気は、決して快適と呼べるものではない。

 

テントの中では、池や山内といった連中が「腰が痛ぇ……」「虫に刺された、最悪だ……」と、寝起きの不満をタラタラと漏らしながら身悶えしていた。

 

俺は誰よりも早くテントを抜け出し、拠点としている川辺へと向かった。

冷たく澄んだ川の水を手ですくい、顔をバシャバシャと洗う。

 

ひんやりとした水滴が火照った肌から熱を奪い、いくらか意識がはっきりとしてきた。

 

「……はぁ。ひよりは今頃、船の中か」

 

ポタポタと滴る水を拭いながら、俺は沖合に停泊しているであろう豪華客船の方角を見つめ、深いため息をついた。

 

昨日、龍園翔率いるCクラスは、支給された300Sポイントを初日から惜しげもなく娯楽と食料に全ツッパし、ビーチで豪遊の限りを尽くしていた。

 

ポイントを使い切った後、彼らが取る行動は一つ。

 

『リタイア』だ。

 

つまり、俺の愛しの天使・椎名ひよりは、昨日の夕方にはあの過酷な砂浜から撤退し、今は冷房のガンガンに効いた豪華客船のふかふかのベッドで、優雅な朝を迎えているはずなのだ。

 

(くそっ……俺も、高円寺みたいに初日に勝手にリタイアしたかったな)

 

俺は川の水面を見つめながら、心底羨ましそうに独りごちた。

 

昨日の島への上陸直後。

Dクラスの最大のイレギュラーである高円寺六助は、島を一通り探索して満足した後「体調が優れないねえ」と嘘八百を並べ立て、クラスメイトの制止を完全に無視して、あっさりと船へと帰還してしまったのだ。

 

当然、彼一人の身勝手なリタイアのせいで、Dクラスは初日からマイナス30Sポイントという手痛いペナルティを負うことになった。

 

池や須藤たちは「あのクソ野郎! 絶対に許さねえ!」と激怒していたが、俺からすれば、高円寺のあの『他者の目を一切気にしない、絶対的な自己中心主義』は、ある意味で究極の自由であり、羨望の対象でもあった。

 

俺も、体調不良を理由に船に戻れば、今頃ひよりと一緒に船内のカフェで優雅なモーニングティーを楽しめていたはずだ。

 

マイナス30ポイント? そんなもの、俺の知ったことではない。クラスが勝とうが負けようが、俺の青春には1ポイントの価値もないのだから。

 

だが――俺には、高円寺のように振る舞うことはできなかった。

 

(前の須藤の件のように『ただ不干渉を貫く』のとは、訳が違うからな……)

 

自業自得で罠にハマった馬鹿を助けないことと、俺自身が身勝手な理由でクラス全体にマイナス30ポイントの損害を与えることでは、周囲からのヘイトの向き方が全く異なる。

 

もし俺がここで勝手にリタイアして高円寺と同じ「戦犯」になれば、普段から飯を振る舞って良好な関係を築いている平田や女子たちからの信用すら、完全に地に落ちるだろう。

 

クラス全員から白い目で見られ、完全に孤立してしまえば、俺が望む『平穏で楽しい日常』など夢のまた夢だ。

 

だから俺は、高円寺のように他人の目を一切気にしない変人を少しだけ羨ましく思いながらも、今日も『適度に有能で、適度に協調性のあるクラスメイト』の仮面を被り、この泥臭い無人島サバイバルに付き合う道を選んだのだった。

 

「……さてと、今日も適当に働くか」

 

俺はパンッと両頬を叩いて気合を入れ直し、拠点へと戻っていった。

 

 

二日目の午前中。

拠点の広場は、すっかりサバイバル生活の態勢が整い始めていた。

 

「よし、今日の午前中の班分けを発表するよ」

 

平田洋介が、マニュアルを片手にクラスメイトたちを前にして指示を出す。

 

初日のパニックは嘘のように収まり、仮設トイレや女子用のシャワーテントも無事に設置され、最低限の生活基盤は確立している。

 

「池くんと山内くんは、今日も川で魚を捕ってきてほしい。須藤くんは、拠点周辺の見回りと、テントの補強をお願い。……呉くんと綾小路くんは、森の中に入って、火を起こすための薪拾いと、食料の探索をお願いできるかな?」

 

「了解だ」

 

「……分かった」

 

俺と綾小路は、それぞれ短く返事をして立ち上がった。

 

俺は配給された軍手をはめ、首にタオルを巻いて森の中へと足を踏み入れた。

綾小路も隣を歩き、二人で適度な距離を保ちながら、無言のまま手頃な枯れ枝を拾い集め始める。

 

「あっちーな……。クーラーの効いた俺の部屋が恋しいぜ」

 

俺が額の汗を拭いながらこぼすと、綾小路が淡々とした声で返してきた。

 

「そうだな。お前が昨日見つけてきたトマトとキュウリがなければ、今頃俺たちは暑さと配給のレーションの不味さで精神に異常をきたしていたかもしれない」

 

「ははっ、大げさな奴だ。まあ、お前は俺の美味い飯に完全に胃袋を掴まれてるからな」

 

俺は拾った薪を小脇に抱えながら、ニヤリと笑った。

 

「学校に戻ったら、打ち上げでまたガッツリと美味い肉でも焼いてやるよ。どうせお前、ポイント節約してまともなもん食ってないんだろ」

 

「……お前が焼く肉は確かに美味かった。真面目に、それを目標にこの一週間を生き延びることにする」

 

無表情のまま、真剣なトーンで言う綾小路がおかしくて、俺は声を立てて笑った。

 

この男とは、互いに決して深くは踏み込まない暗黙の了解がある。綾小路が裏でDクラスを操る影の支配者であることも、昨日「俺の計算が狂わないように動かないでくれ」と頼んできたその裏事情も、俺は詮索しない。

 

だが、その境界線を守った上で、俺たちは確かに『友人』として気さくな関係を築いていた。

 

「しかし、お前も大変だな。堀北の荷物持ちやら何やらで、裏でコソコソ動き回って」

 

「……好きでやっているわけじゃない。俺はただの巻き込まれたモブだ」

 

「それを世間では黒幕って言うんだよ」

 

軽口を叩き合いながら森を歩く。

 

綾小路の根本にある機械のような冷徹さに気づいてはいるが、俺に対してはこうして腹を割って話してくれる(少なくとも、普通の高校生としての雑談を楽しんでくれている)のが分かるから、居心地が悪くない。

 

一時間ほど作業を続け、抱えきれないほどの薪が集まった頃。

 

拠点から少し離れた、森の境界線に近い木陰で、一人膝を抱えて座っている少女の姿を見つけた。

 

Cクラスから孤立し、昨日からDクラスの拠点に転がり込んでいるスパイ――伊吹澪だった。

 

彼女は、女子たちの輪に入るわけでもなく、ただ鋭い目つきで周囲を警戒するように一人で過ごしている。

 

(……ちょうどいい。少し話でもしておくか)

 

俺は綾小路に「ちょっと先行しててくれ」と薪の束の一部を預け、伊吹のいる木陰へと近づいていった。

 

「……っ!」

 

俺の足音に気づいた伊吹は、顔を上げた瞬間、ビクッと肩を跳ねさせ、極度の警戒態勢に入った。

 

まるで、目の前に巨大な肉食獣が現れたかのように、全身の筋肉が硬直しているのが分かる。

 

無理もない。

伊吹は『知っている』のだ。

 

自分を一瞬で無力化した圧倒的な武力、あの龍園を心折るに至らしめた俺という存在に、彼女が本能的な恐怖と強い警戒心を抱くのは当然だった。

 

「よお。こんなとこで一人で何してんだ?」

 

俺が極めて普通に、気さくに声をかけると、伊吹は顔をしかめて少しだけ後ずさった。

 

「……あんたには関係ないでしょ」

 

「冷たいな。一応、ここは俺たちのクラスの拠点周辺だぜ? 客人にご挨拶ってやつだ」

 

俺は彼女から少し距離を置いた木の根元に、ドカッと腰を下ろした。伊吹の緊張を解くために、あえて隙だらけの姿勢をとる。

 

「……私に構わないで。私はあんたたちと馴れ合うつもりはないから」

 

伊吹が顔を背け、頑なな態度を取る。

 

「馴れ合うつもりはない、ね。……でも、ひよりとは普通に仲良くしてくれてるみたいだな。それはありがたく思ってるよ」

 

俺が『ひより』という名前を出した瞬間、伊吹の怪訝そうな顔が、少しだけ呆れたようなものに変わった。

 

「……あんた、椎名の保護者か何かなわけ?」

 

伊吹がチッと舌打ちをして突っ込んでくる。

 

「そんなとこだ。ひよりは大人しいからな、お前らの物騒なクラスでいじめられてないか心配でな」

 

「バカじゃないの。あいつは龍園の特別扱いだし、誰も危害なんて加えないわよ。それにあんたみたいな化け物の逆鱗に触れるわけないでしょ」

 

「そうか。それは良かった」

 

俺はニコッと笑い、手元にあった木の枝を弄りながら言った。

 

「ただな、ひよりが少し寂しそうにしてたぞ。『伊吹さんは、私と一緒に読書をしてくれないんです』ってな」

 

「……はぁ?」

 

伊吹が、本気で意味が分からないという顔をした。

 

「だいたい、なんで私が椎名と一緒に本なんて読まなきゃいけないのよ。私は活字なんて見ると頭が痛くなるの」

 

「そこをなんとか付き合ってやってくれよ。島から帰ったら、たまにはひよりと本を読んで、感想を言い合ってやってくれ。……頼むよ」

 

俺は、本当にただの友人としての『お願い』のつもりで、ごく普通に、何の圧もかけずに言葉を紡いだ。

 

だが。

 

「……っ」

 

伊吹の額に、ツッと冷や汗が流れた。

 

彼女は、俺が過去に見せた底知れない暴力の記憶と、目の前でニコニコと笑う俺の姿を脳内で重ね合わせ、勝手に戦慄していたのだ。

 

「……ただ本を読めって言ってるだけなのに……あんたみたいなのに言われると、脅されてるようにしか感じないんだけど」

 

伊吹が、引き攣った顔で恨めしそうに睨んでくる。

 

どうやら、俺がどれだけ優しく言っても、彼女の中では「椎名と本を読まなければ、お前を殺す」という物騒な翻訳機を通して変換されてしまうらしい。

 

「ははっ、冗談だ。そんな脅してるつもりはないって」

 

俺は声を立てて笑い、立ち上がってジャージについた土を払った。

 

「まあ、気が向いたらでいいさ。じゃあな、怪我人さんはゆっくり休んでてくれ」

 

俺が背を向けて歩き出すと、背後から小さく、安堵の深いため息が聞こえた。

 

(まあ、これで伊吹も少しはひよりの話し相手になってくれるだろう)

 

俺は内心でほくそ笑みながら、綾小路の待つ拠点へと戻っていった。

 

その後の二日目も、特に大きな問題やトラブルが起こることはなく、比較的穏やかに過ぎていった。

 

昼食は、昨日俺が収穫してきたトマトとキュウリ、そして配給のレーション。

午後は再び探索組と拠点整備組に分かれ、クラスの連中は少しでもポイントを節約しながら快適に過ごすための工夫を凝らしていた。

 

「見て! 川の泥を使って、簡易的なかまどを作ってみたの!」

 

みーちゃんや松下たち女子が、泥まみれになりながらも楽しそうに作業をしている。

 

「おう! 俺は罠を仕掛けて、ウサギでも捕まえてきてやるよ!」

 

池が意気揚々と森に入っていくが、数時間後に手ぶらで帰ってきて落ち込む、というコントのような光景も繰り広げられた。

 

そうして迎えた夕暮れ時。川で汗を流し、焚き火の前で一息ついていると、ふと海の方から生ぬるい夜風が吹き抜けていった。

 

クラスの連中が「明日こそは肉が食いてぇ」と騒ぐ声をBGMに、俺は再び、はるか沖合に浮かぶ豪華客船へと目を向ける。

 

今頃、船の上のレストランでは、極上のディナーが振る舞われていることだろう。ひよりもきっと、美味しい紅茶とデザートを楽しんでいるはずだ。

 

(……待ってろよ、ひより。この面倒くさいサバイバルが早く終わるように、せいぜい裏で手抜きしつつ頑張るさ)

 

誰にも気づかれないように小さく笑い、俺は配給の味気ないレーションを口に放り込んだ。

 

大きなトラブルもなく過ぎ去った二日目。だが、この静けさが「嵐の前の静けさ」であることに、俺はとっくに気づいていた。

 

 

そして。

三日目、四日目と、特筆すべき大きなトラブルは起こらなかった。

 

生徒たちは過酷な環境にも少しずつ適応し始め、池のサバイバル知識や、平田の献身的なリーダーシップによって、Dクラスのキャンプ生活はなんとかギリギリの平穏を保っていた。

 

もちろん、その裏では綾小路が何らかの布石を打ち、Cクラスのスパイである伊吹が息を潜めて好機を窺っているのだろうが、俺は一切干渉せず、ただ与えられた薪拾いや水汲みの仕事を淡々とこなすだけの日々を送っていた。

 

そして、運命の五日目の朝。

 

「……ふぅ」

 

早朝、いつものように誰よりも早くテントを抜け出した俺は、冷たい川の水で顔を洗い、タオルで首筋の汗を拭っていた。

 

五日目ともなると、粗食と真夏の熱帯夜のせいで、クラスメイトたちの疲労もピークに達し始めている。テントからは、まだ重苦しい寝息や寝言が聞こえていた。

 

(さて、今日はどうやって適当にサボるか……)

 

俺がそんなことを考えながら拠点に戻ろうとした、その時だった。

 

「ちょっと男子!! 起きなさいよ!!」

 

静寂に包まれていた川辺の広場を切り裂くように、篠原さつきのヒステリックな怒声が響き渡った。

 

ビクッとしてテントから這い出してくる池や山内たち。

 

「な、なんだよ朝っぱらから……うるせえな……」

 

須藤が目をこすりながら不機嫌そうに唸る。

 

異変を察知した平田が、慌てて自分のテントから飛び出してきた。

 

「どうしたんだい、篠原さん。そんなに大声を出して……」

 

平田が宥めようとするが、篠原の怒りは収まらない。彼女は、男子のテントを睨みつけながら、震える声で叫んだ。

 

「どうしたじゃないわよ! 軽井沢さんの下着が……パンツが、盗まれたのよ!!」

 

「――――は?」

 

その場にいた全員の思考が、一瞬だけ停止した。

 

「軽井沢さん、ショックでテントの中でずっと泣いてるんだから! あんたたち、ふざけるのも大概にしなさいよ!!」

 

篠原の怒声に続き、女子のテントの方から、確かに軽井沢の微かなすすり泣く声が聞こえてきた。

 

「お、おいおい! ちょっと待てよ!」

 

状況を理解した池が、慌てて両手を振って否定する。

 

「なんで俺たちが盗んだって疑ってんだよ! 意味わかんねえぞ!」

 

「そうだよ! いくらなんでもそんな変態なことしねえって!」

 

山内も必死に弁明するが、篠原は氷のように冷たい視線を彼らに向けた。

 

「はっ。こんな無人島に、私たち以外に誰がいるっていうの!? 女子同士で盗むわけないでしょ! 絶対にあんたたち男子の中に、最低の下着泥棒がいるに決まってるわ!!」

 

(……なるほどな)

 

俺は少し離れた木陰からその修羅場を眺めながら、極めて冷静に状況を分析していた。

 

(伊吹の仕業か。……リーダーを探るためか、クラスを内部から分断させるためか知らんが、なかなか面倒で、そして『悪辣』な手を打ったな)

 

この過酷な無人島という環境下。

替えの衣類すら満足にない状況で、女子にとって下着を失うというのは、単なる羞恥心の問題ではなく、衛生面や精神面における『死活問題』だ。軽井沢がテントで泣き崩れるのも無理はない。

 

そして、何より恐ろしいのは、この手口の巧妙さだ。同じ苦労を共有している女子が、そんな残酷な真似をするはずがないと思い込む。必然的に、疑いの目は『デリカシーのない男子』へと一極集中するのだ。

 

「だったら、今すぐ全員の手荷物検査をさせなさいよ! バッグの中身、全部見せなさい!」

 

篠原が、一歩も引かない強硬な姿勢で要求を突きつけた。

 

池や須藤たちが「ふざけんな! なんでそこまでされなきゃなんねえんだよ!」と反発し、一触即発の空気が流れる。

 

その最悪の空気を割って入ったのは、やはり平田だった。

 

「待って、篠原さん」

 

平田は両手を広げて女子たちの前に立ち、真剣な眼差しで訴えかけた。

 

「君たちの怒りと不安はよく分かる。でも、だからといって女子のみんなが男子の荷物を直接漁るようなことは避けるべきだ。……男子にだって、プライバシーはある」

 

「でも、平田くん! そうやって庇う隙に隠すかもしれないじゃない!」

 

「隠させないよ。……僕が責任を持って、男子全員の荷物を確認する。だから、少しだけ待っていてほしい」

 

平田の、クラスの和をどうにか保とうとする必死の提案に、篠原たちも渋々と頷いた。

 

「……分かったわ。そこまで言うなら平田くんに任せる。でも、絶対に見逃しとかしないでよ」

 

こうして、手荷物検査は女子たちの視線から完全に遮断された、男子用テントの奥深くで行われることになった。

 

俺たち男子は一列に縦に並び、先頭に立つ平田が一人ずつ順番にボストンバッグの中身を検めていく形となった。

 

俺の数人前には山内、その次に池、そして俺のすぐ前には綾小路という並び順だ。

 

平田自身が率先して自分のバッグをひっくり返して見せ、そこから須藤、幸村と前方の連中から順番に検査が進んでいく。

 

俺は列の後ろの方で腕を組みながら、その様子を退屈そうに眺めていた。

 

そんな、自分たちの順番を待っている最中のことだった。

平田が前方の男子の検査にかかりきりになっている隙に、池がソワソワとした様子で自分のボストンバッグのチャックを開け、中を漁り始めた。

 

「ほら見ろ、俺のバッグには何にも……って、あ?」

 

池がバッグの奥底から着替えを引っ張り出した、その時。

着替えの隙間に挟まるようにして、黒い布切れのようなものが顔を出した。

池の手に握られたそれは、どう見ても紛れもない『女性用の下着』だった。

 

「…………」

 

その場にいた男子全員ではない。たまたま池の前後に並んでいた俺たち数人だけが、その小さな布切れに釘付けになった。

 

「……か、寛治」

 

前に並んでいた山内が振り返り、信じられないものを見るような目で、池からサッと一歩距離を置いた。

 

「お前……マジかよ。いくらなんでも、それは引くわ……」

 

「ち、ちげええええええ!! 俺じゃねえ! なんだこれ、こんなの知らねえよ!!」

 

池は顔面を蒼白にさせ、前の平田に聞こえないように必死に声を殺しながらパニックに陥った。

 

「俺のバッグに誰かが勝手に入れたんだ! 絶対に俺じゃない!!」

 

極限のパニック状態に陥った池は、何を血迷ったのか、手に持っていたその下着をバッと振り返り。

 

すぐ後ろに並んでいた無気力少年――綾小路清隆の腹に向かって、それを力任せに『押し付けた』のだ。

 

「あ、綾小路! 頼む、お前持っといてくれ! 俺のバッグから出たってバレたらマジで殺される!!」

 

「――――は?」

 

突然、下着という名の特大の爆弾を押し付けられた綾小路は、普段の無表情な仮面を完全に崩し、本気で「マジかよ」という顔をして目を丸くした。

 

(ブフォッ……!!)

 

すぐ後ろでその一部始終を見ていた俺は、危うく声を上げて吹き出しそうになった。

 

(スパイが罠を仕掛けるなら、池や山内みたいな隙の多い奴のバッグを狙うのは無難なところだが……まさかその濡れ衣を、パニックになった池が影の支配者に物理的になすりつけるとはな。笑える展開だ)

 

綾小路は慌てて突き返そうとするが、池は両手を後ろに組んで頑なに受け取ろうとしない。

 

テントの外からは、結果を待ちわびる女子たちのピリピリとした気配が伝わってくるし、前方の平田の検査はもうすぐ池の番に差し掛かろうとしている。ここで床に落として騒ぎになれば、持っていた綾小路が犯人にされる可能性が高い。

 

綾小路は、一瞬だけ深い絶望の表情を浮かべた後。

 

目にも止まらぬ早業で、押し付けられた下着をギュッと丸め、自分のジャージのポケットの奥底へと『ねじ込んだ』のだ。

 

(くくっ……! あの綾小路が、女子のパンツをポッケに隠して必死に平静を装ってる……!)

 

俺は腹を抱え、必死に笑いを噛み殺した。

あの冷徹な男にこんな理不尽な受難の瞬間が訪れるとは。無人島サバイバル、最高のエンターテイメントである。

 

そして、検査は進み、池を無事にスルーして、ついに綾小路の番になった。

 

「綾小路くん、ごめんね。バッグを見せてくれるかな」

 

平田が申し訳なそうに声をかける。

 

綾小路は無表情のまま(しかしポケットには爆弾を抱えたまま)、自分のバッグを平田に見せた。当然、バッグの中には何もない。

 

「うん、ありがとう。……じゃあ、一応ポケットの中も、いいかな?」

 

平田の言葉に、綾小路の肩がピクリと跳ねた。

 

ジャージのポケットは、不自然にこんもりと膨らんでいる。

平田の視線が、綾小路のポケットの膨らみに向けられる。

綾小路は無言のまま、平田を見つめ返した。

 

数秒の、重く緊迫した沈黙。

平田は気づいたのだ。綾小路のポケットの中に、本来そこにあるべきではない異物があることに。

 

だが、ここでそれを暴けば、綾小路が犯人として吊るし上げられ、クラスの分断は決定的なものになる。彼が最も恐れる『クラスの崩壊』が現実のものとなるのだ。

 

「……うん。綾小路くんも、問題ないね」

 

平田は、穏やかな微笑みを浮かべたまま、その疑惑から完全に目を逸らすという『選択』をした。

 

そして、全員の確認を済ませた後、テントの外で待つ篠原たち女子の元へと向かった。

 

「みんな、待たせたね。……男子の荷物はすべて僕が責任を持って確認した。でも、どこにも軽井沢さんの下着はなかったよ。きっと風とかで飛んでしまったんだろう……」

 

平田が必死に空気を修復しようと報告するが、女子たちがそんな苦しい言い訳を信じるはずもなかった。

 

「信じられない……! 平田くんはそうやって、男子を庇って嘘をつくのね!」

 

篠原が激昂して叫んだ。

 

「絶対に男子の誰かが隠し持ってるんだわ! 平田くんが男同士の庇い合いをしたんでしょ!」

 

「もう無理! 下着泥棒がいるところと同じ場所で生活するなんて、絶対に嫌!!」

 

女子たちの怒りと恐怖は、もはや後戻りできないところまで達していた。

 

「私たちは、テントを移動させるわ! 悪いけど、私たちは平田くん以外の男子は、もう誰も信用できないから!」

 

篠原は男子たちを鋭く睨みつけ、決別宣言を放った。

 

「女子のエリアには、絶対に入ってこないでよね!!」

 

その言葉に、池や須藤たち男子も「勝手にしろよ! こっちだって泥棒扱いされて我慢の限界だ!」と完全にキレてしまった。

 

伊吹の仕掛けた爆弾は、見事にDクラスを男女の二極に真っ二つに分断することに成功した。

 

「みんな、待って……! バラバラになっちゃダメだ……!」

 

平田が悲痛な声で引き止めるが、誰も耳を貸さない。

 

女子たちは自分たちの荷物をまとめ、広場の端、男子のテントから遠く離れた場所へとテントの移動を要求した。

 

男子たちはそっぽを向き、「知るかよ」とばかりにテントの奥へと引きこもっていく。

 

残された平田は、肩を落とし、ただ一人で重い女子用テントの骨組みを解体し、移動先へと運び始めた。

 

篠原に「平田くん以外は信用できない」と言われた以上、他の男子に手伝わせるわけにもいかず、彼がたった一人でこの崩壊したクラスの責任を背負い込もうとしているのだ。

 

(……やれやれ。さすがに一人でテントを動かすのは骨が折れるだろうな)

 

俺は木陰で腕を組みながら、汗だくで作業する平田を眺めていた。

手伝ってやりたい気もするが、今の女子たちのピリピリした空気に触れるのは面倒だ。事なかれ主義の俺としては、ここで関わらないのが正解である。

 

そう思っていた、その時。

 

「あの……呉くん」

 

木陰にいた俺の元へ、松下千秋と佐藤麻耶が、少しだけ申し訳なさそうな顔で近づいてきた。

 

「どうした?」

 

「その……さっき、平田くん以外の男子は信用できないって言っちゃったけど……」

 

松下が、ちらりと遠くで作業する平田を見てから、俺に視線を戻した。

 

「呉くんのことは、私たち、信用してるから。……あの、呉くんなら、平田くんの手伝いを頼んでもいいかなって、女子のみんなで話してたの」

 

「え?」

 

「うん! 呉くんは勉強会でも優しかったし、ご飯もすっごく美味しかったし! 泥棒なんて絶対しないって、みんな分かってるから!」

 

佐藤も、俺の顔を下から覗き込んで力強く頷いた。

 

(……胃袋と赤点回避の恩は、下着泥棒の疑惑すらも凌駕するらしいな)

 

俺は内心で感心しつつ、小さく息を吐いた。

クラスの男子が軒並み変態扱いされ、女子エリアへの立ち入りを禁じられている中で、俺と平田だけが『信用できる男』として特例パスを発行されたわけだ。

 

まあ、あらぬ疑いをかけられて居心地の悪い思いをするよりは、何倍もマシだ。それに、一人で汗だくになっている平田を見捨てるのも少し寝覚めが悪い。

 

「……仕方ないな。平田があのままだと倒れちまいそうだし、手伝ってやるよ」

 

俺がそう言って立ち上がると、松下と佐藤はパァッと顔を輝かせた。

 

「本当!? ありがとう、呉くん!」

 

俺は平田の元へと歩み寄り、重いテントの骨組みの反対側を、無言で持ち上げた。

 

「……えっ。呉くん……? でも、女子が……」

 

平田が驚いたように顔を上げる。

 

「一人じゃ運べないだろ。女子からの許可はもらったから、安心しろ」

 

俺が呆れたように言うと、平田の目に少しだけ涙が滲んだ。

 

「ありがとう……呉くん。本当に、ごめんね……」

 

「謝るな。俺はただの筋トレのつもりだからな」

 

俺と平田でテントを運び、女子の新しい居住エリアへと手際よく設置していく。

 

その様子を見ていた篠原や他の女子たちも、俺に対しては嫌悪の目を向けることはなく、「呉くん、ありがとう」と小さく会釈をしてくれた。

 

俺は作業を終え、手を払いながら拠点の方を振り返った。

女子エリアに引きこもってしまった軽井沢たち。

男子テントで不貞腐れている池や須藤たち。

一人で奔走し、心をすり減らしている平田。

そして、ポケットの中に不本意な戦利品(パンツ)を抱え、伊吹というスパイへの反撃の機会を冷徹に窺っているであろう、綾小路清隆。

 

「……ふっ」

 

俺の口から、自然と笑みがこぼれた。

一見すれば、クラス崩壊の絶望的な状況だ。

だが、一歩引いて盤面を俯瞰すれば、これほど多彩な思惑とエゴが交錯する人間ドラマはそうそうお目にかかれない。

 

「本当に……なかなか面白いな、この学校は」

 

俺は、暗殺者としての人生では決して味わえなかった、この泥臭くも人間味に溢れたエンターテイメントを心の中で大いに拍手喝采しながら、南国の太陽の下、再び薪拾いの作業へと戻っていくのだった。

 

 

 

 

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