無人島サバイバル特別試験、第六日目。
それは、これまで静かに、しかし確実に降り積もってきたDクラスの疲労と疑心暗鬼が、最悪の形で爆発した日だった。
初日のトイレ騒動から始まり、女子の下着泥棒事件による男女の分断。
それでも、平田洋介の必死の取りなしや、配給と俺が持ってきた野菜、池が取ってきた魚による最低限の食料確保によって、なんとか五日間を乗り切ってきた。
だが、極限状態における人間の精神力というものは、一本の糸のようなものだ。
ピンと張り詰めたその糸は、ほんの小さな『火種』で、いとも容易く断ち切られてしまう。
「――――火事だっ!!」
誰かの悲痛な絶叫が、昼下がりの川辺の広場を切り裂いた。
「なんだと!?」
木陰で薪割りの休憩をしていた俺――呉 刃叉羅は、弾かれたように立ち上がり、声のした方角へと視線を向けた。
広場の一角、Dクラスのルールブックである『マニュアル』が置かれていた場所から、モクモクと黒い煙が立ち上り、赤い炎が上がっていた。テントに燃え移るのも時間の問題だ。
「きゃあああああっ!!」
「火、火がっ! 誰か、水を持ってきて!!」
軽井沢や篠原たち女子がパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑う。
池や山内も「うわあああ! なんで火なんて!」と腰を抜かして動けない。
(チッ……面倒なことになりやがった!)
俺は一瞬で思考を戦闘モードに切り替え、川辺に置かれていた生活用水用のポリタンクを両手に掴み取った。
そのまま、常人には決して出せない速度――だが、ギリギリ『運動神経の良い高校生』と言い訳できる範囲のスピードで炎へと駆け寄り、迷うことなく水をぶちまけた。
ザバァァァッ!!
「須藤! 幸村! ぼーっとしてないで川から水を運べ! テントへの延焼を防ぐぞ!」
俺の低く鋭い怒号に、ハッとした須藤たちが慌ててバケツを手に川へ走る。
俺は燃え盛る炎に砂を蹴り上げ、酸素の供給を絶つように動いた。数人の男子との連携プレイにより、数分後、炎はテントに燃え移る前に完全に鎮火し、焦げた匂いと黒い煙だけが後に残された。
「……はぁ。なんとか消えたな」
俺は額の汗を拭い、黒焦げになった地面を見下ろした。
幸い、テントは無事で怪我人もいない。だが、そこに置かれていた試験用の『マニュアル』は、完全に灰と化していた。
「……なんで、こんなことに……」
ふと、背後から震える声が聞こえた。
振り返ると、そこには平田洋介が、膝から崩れ落ちるように座り込み、灰と化したマニュアルの残骸を見つめていた。
「なんで……なんでこんなことになるんだ……! どうして、みんなで協力して、平和に終わらせることができないんだよ……っ!!」
平田は両手で頭を抱え、まるで過去のトラウマでもフラッシュバックしているかのように、過呼吸気味に肩を震わせていた。
下着泥棒事件でクラスが分断し、それでも必死にリーダーとして皆を繋ぎ止めようとしてきた彼の精神は、この放火事件によってついに限界を迎えようとしていた。
「おい、平田」
俺は彼の傍にしゃがみ込み、その震える肩をガシッと力強く掴んだ。
「……呉、くん……」
「落ち着け。深く息を吸え。……誰も怪我はしてない。火は消えた。それだけで十分だろ」
俺は、ただの『頼りになる友人』としての声色で語りかけた。
「お前がここで折れたら、あそこで怯えてる女子たちはどうするんだ? お前が立ってなきゃ、このクラスは本当に終わるぞ」
俺の言葉に、平田はハッと顔を上げ、涙目のまま女子たちの方を見た。
軽井沢たちが、不安そうに身を寄せ合って震えている。
「……っ。そうだね……僕が、しっかりしなきゃ……」
平田はギリッと歯を食いしばり、俺の腕を借りてフラフラと立ち上がった。
「ありがとう、呉くん。君がいてくれて、本当に助かった……」
「気にするな。俺もお前には助けられてるからな」
平田を女子たちの元へ向かわせた後、俺は再び黒焦げになったマニュアルの跡を見つめ、脳内で急速に情報を演算し始めた。
(……ただの事故じゃない。明らかに人為的な放火だ。だが、誰がやった?)
真っ先に思い浮かぶのは、Cクラスのスパイである伊吹だ。
だが、俺はすぐにその考えを否定した。
(いや、伊吹がやったにしては、あからさますぎる。暗殺やスパイのセオリーから言っても、こんな派手な放火はリスクが高すぎる。……だとしたら、これは『誰か』が意図的に作った、強烈な目くらましだ)
俺の視線が、騒然とする広場の中を滑る。
そして、あるべき人物の姿が『無い』ことに気がついた。
無気力な影の支配者、綾小路清隆。
そして、体調不良でテントで休んでいたはずの堀北鈴音。
さらに言えば、スパイの伊吹澪の姿もない。
(……なるほどな)
点と点が繋がり、綾小路が描いたであろう悪辣で完璧なシナリオの全貌が、俺の脳内に浮かび上がった。
(綾小路の野郎、わざとこの放火騒ぎを起こして、クラスの目を一点に集めたな。……その隙に、伊吹に『リーダーカード』を盗ませ、逃走する隙を与えたんだ)
あえてスパイに情報を持ち帰らせる。
それは一見すると敗北に見えるが、違う。持ち帰らせた情報が、最終的に『大外れ』になるように仕向けているのだ。
伊吹が「Dクラスのリーダーは堀北だ」という情報を龍園に持ち帰り、龍園がそれを信じて解答した瞬間、綾小路は裏でリーダーの権限を自分、あるいは別の誰かに『変更』し、Cクラスの解答を不正解にするつもりなのだ。
(マニュアルを燃やしてボヤ騒ぎを起こし、クラスをパニックに陥らせて、味方すらも完全に騙し切って盤面をコントロールする。……とんでもない思考回路だな)
俺は、泥沼のサバイバルにおいて、一切の感情を排して勝利への最短経路を構築するあの男の異常性を、改めて高く評価した。
これぞまさしく、本物の事なかれ主義(サイコパス)のやり方である。
俺が拠点での騒動を傍観していたその頃。
島を覆うように、急激に黒い雨雲が立ち込め、土砂降りのスコールがジャングルを打ち据え始めていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
ぬかるんだ森の中を、一人の少女が必死の形相で走っていた。
堀北鈴音だ。
彼女の顔は異常なまでに青白く、額からは雨水とは違う脂汗が流れ落ちている。
特別試験の初日から隠し続けていた体調不良。それは連日の過酷な環境と疲労によって最悪の状態まで悪化し、彼女の体はすでに高熱で悲鳴を上げていた。
だが、彼女は足を止めることができなかった。
彼女の視線の先、森を駆け抜ける伊吹澪の背中。
放火の騒ぎの最中、自分のテントから『リーダーカード』を盗み出し、逃走を図ったスパイ。
(絶対に……逃がさない……っ!)
堀北は、自分の傲慢さと甘さが招いたこの大失態を、自分自身の力で取り戻さなければならないという強迫観念に駆られていた。
自分がAクラスに上がるため。そして、絶対的な存在である兄・堀北学に認められるために。
「待ちなさい……っ! 伊吹さん!」
泥に足を取られながらも、堀北は伊吹に追いつき、その腕を力任せに掴んだ。
「チッ……しつこいわね!」
伊吹が舌打ちをし、振り返りざまに強烈な回し蹴りを放つ。
堀北はそれを間一髪で躱し、そのまま伊吹の懐に飛び込んで格闘戦へと持ち込んだ。
バシャァッ!!
雨と泥が跳ね飛ぶ。
幼い頃から武術を嗜んできた堀北の動きは、素人離れしている。万全の状態であれば、伊吹とも互角以上に渡り合えただろう。
だが。
「ぐっ……!?」
堀北の視界が、急激に揺らいだ。
高熱によって平衡感覚が失われ、足の踏み込みが甘くなる。
その一瞬の隙を、武闘派の伊吹が見逃すはずもなかった。
「甘いっ!!」
伊吹の鋭い掌底が、堀北の胸元にクリーンヒットする。
肺から酸素が弾き出され、堀北の体は泥水の中に無様に転がった。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
「……バカみたい。そんな体で、私に勝てるわけないでしょ」
伊吹は、泥だらけになって倒れ伏す堀北を見下ろし、冷たく吐き捨てた。
その手には、堀北のリーダーカードがしっかりと握りしめられている。
「返して……それは、私の……」
堀北が震える手を伸ばすが、伊吹は容赦なくその手を払いのけた。
「悪いけど、これは持っていく。あんたたちDクラスは、せいぜい内輪揉めでもして自滅しなさい」
伊吹はそれだけを言い残し、雨の降る森の奥へと姿を消していった。
「あ……ああ……」
残された堀北は、泥濘の中で一人、絶望の涙を流した。
リーダーが自分であることがバレた。これで、Dクラスはボーナスポイントを失うだけでなく、大きなペナルティを負うことになる。
自分のせいで。自分の、独りよがりな行動のせいで。
雨が、彼女の熱い涙を冷たく洗い流していく。
限界を超えていた彼女の意識は、そこで完全にプツリと途絶え、泥水の中に深く沈み込んでいった。
その数十分後。
無人島の海岸線にある、雨風を凌げる洞窟の中。
「……遅かったな、伊吹」
薄暗い洞窟の奥で、岩に腰掛けていた龍園翔が、ニヤリと笑って迎え入れた。
その傍らには、Aクラスのリーダー格である葛城康平の姿もある。
龍園は、Aクラスと裏で密約を結んでいたのだ。
「……手間取っただけよ。ほら、要求通り、Dクラスのリーダーの証拠よ」
伊吹はリーダーカードを龍園に放り投げた。
龍園がリーダーカードを確認すると、そこには堀北鈴音の名前が刻まれていた。
「ククク……やはりな。あの生意気な女がリーダーか」
龍園は満足げに笑い、葛城にリーダーカードを見せた。
「これで、Dクラスのリーダーは確定だ。あとは試験終了時にこの名前を書き込むだけで、俺たちはボーナスポイントを頂けるってわけだ」
「ああ。ご苦労だったな、龍園。そして伊吹も」
葛城が堅物らしい口調で頷く。
「私の役目はこれで終わりでしょ。……もう限界だから、リタイアして船に戻るわ」
伊吹は泥だらけのジャージを不快そうに摘み、洞窟を出て、リタイアを申告するために本部のテントへと向かっていった。
すでに自分の仕事は終わった。あとは冷暖房完備の船内で、シャワーを浴びて泥のように眠るだけだ。
雨の降りしきる森の中。
泥濘に倒れ伏し、完全に意識を失っている堀北の前に、静かな足音が近づいてきた。
雨に濡れることも気にせず、ただ冷徹に彼女を見下ろす少年――綾小路清隆だ。
彼は、堀北が伊吹に敗北し、カードの情報を奪われるその一部始終を、息を潜めて見届けていた。
彼が堀北を助けに入ることはなかった。彼女が敗北し、カードが伊吹の手に渡ることこそが、彼のシナリオの絶対条件だったからだ。
「……」
綾小路はしゃがみ込み、気を失っている堀北の泥だらけの身体を、ヒョイと軽々と抱き上げた。
高熱で意識のない彼女の体は、ただの重りのようにぐったりとしている。
向かう先は、Dクラスの拠点ではない。教員たちが待機する、本部のテントだ。
(堀北をリタイアさせれば、Dクラスのリーダーは『正当な理由』で別の人間に変更できる。……伊吹が龍園に持ち帰った堀北のカード情報は、その瞬間に『過去のゴミ』に変わる)
龍園は、堀北がリーダーだと確信して解答する。
だが、その時にはすでにリーダーは入れ替わっている。Cクラスの解答は不正解となり、ペナルティでポイントを失う。
そして、綾小路は自らが新しいリーダーとなり、他クラスのリーダーを完璧に当ててみせる。
全ては、彼が描いた盤面の上での出来事だった。
放火も、伊吹の逃走も、堀北の敗北も、全てはこの『リーダー権の変更』という絶対的な勝利条件を満たすための、必然の犠牲。
綾小路は、意識のない堀北を腕に抱いたまま、雨の森を淡々と進んでいく。
彼の脳内で、氷のように冷たく、そして絶対的な独白が響き渡った。
(……だがな、堀北)
彼の心の中に、同情や憐憫の感情は一ミリも存在しなかった。
ホワイトルームという純白の地獄で、最高傑作として生み出された彼にとって、他者とはすべて、盤面を構成するための『駒』に過ぎない。
(俺は、お前を仲間だと思ったことはない)
平田も。
櫛田も。
須藤も。
そして、堀北鈴音でさえも。
(お前たちは全員、俺が勝つための道具だ)
道具は、壊れるまで使い潰す。
役に立たなくなれば、切り捨てる。
その過程で誰が傷つこうが、誰が涙を流そうが、そんなことは俺の心に何の波紋も呼ばない。
過程は関係ない。どんな犠牲を払おうとも。
(最後に俺が勝っていれば、それでいい)
綾小路清隆の、底知れぬ漆黒の深淵が、その時完全に牙を剥いた。
この学校の全ての人間は、彼の掌の上で踊らされているに過ぎない。
彼は意識のない堀北を抱き抱えたまま、冷たい雨の中を、確かな勝利に向けて歩き続けた。
その日の夕刻。
雨が上がり、夕焼けが水たまりをオレンジ色に染め始めた頃。
Dクラスの拠点は、リーダーである堀北のリタイアという衝撃的な知らせを受け、完全に意気消沈していた。
放火によるマニュアルの喪失。そして、30ポイントのペナルティ。
誰もが口を閉ざし、暗い顔で地面を見つめている。
「……どうして、こうなっちゃうんだろうな」
消えかけた焚き火の前で、平田がぽつりと呟いた。
その目は虚ろで、これまでの心労が完全に彼の精神を蝕んでいるのが誰の目にも明らかだった。
俺は、彼の隣に座り、無言で木切れを火に焚べた。
「平田。お前は、よくやったよ」
俺は、パチパチと爆ぜる火を見つめながら、静かに口を開いた。
「この最低最悪な状況で、ここまでクラスを引っ張ってきた。お前が折れなかったから、あの女子たちも、馬鹿な男子たちも、なんとか形だけは保ってこられたんだ」
「でも……結果は、最悪だ。僕は、誰も守れなかった……」
平田が自嘲気味に笑う。
俺は肩をすくめ、彼の方を見ずに言葉を続けた。
「結果なんて、誰にも分からないさ。……案外、明日になったら、お前の想像もつかないような大逆転が起きてるかもしれないぜ?」
「大逆転……?」
平田が怪訝な顔をする。
「ああ。この学校には、とんでもない化け物が隠れてるからな。……お前が信じて引っ張ってきたクラスが、最後に笑うかもしれない。だから、最後までリーダーとして胸を張れよ」
俺の言葉は、ただの慰めではない。
裏で綾小路が動いている以上、Dクラスの勝利はすでに約束されているようなものだ。
俺が彼に真実を語ることはないが、少しでもこの善人の心が救われればそれでいいと思ったのだ。
「……ありがとう、呉くん。君は、本当に不思議な人だね」
平田は少しだけ力なく微笑み、再び火を見つめた。
俺もまた、夕焼け空を見上げた。
試験は明日で終了だ。
ドロドロとした権謀術数のサバイバルが終わりを告げれば、待ちに待った『豪華客船でのバカンス』が始まる。
(待ってろよ、ひより。もうすぐ、最高の夏休みの続きが始まるからな)
暗殺者の少年は、クラスの絶望と影の支配者の暗躍を背に受けながら、ただ愛しの天使の笑顔だけを思い浮かべ、静かに試験の最終日を待つのだった。