無人島での地獄のサバイバル特別試験が終わり、豪華客船での『真のバカンス』が幕を開けた、八月八日の朝。
「……最高だ」
俺――呉 刃叉羅は、ふかふかの客室のベッドで目を覚まし、真っ白なシーツに顔を埋めながら、心の底からの歓喜を漏らした。
背中を痛めつける小石もなければ、耳元で羽音を立てる蚊もいない。エアコンによって完璧に温度管理された室内は、まさに文明の利器がもたらす至高の楽園だった。
部屋を見渡すと、同室の平田洋介と綾小路清隆はまだ静かな寝息を立てており、高円寺六助に至っては、朝から窓際の光を浴びながら優雅に己の肉体を鏡でチェックし、念入りなスキンケアに勤しんでいた。
初日のカオスな四人部屋のままだが、無人島での泥臭い集団生活を経た後だと、この適度な距離感のある変人たちとの同室も、不思議と居心地が悪くなかった。
俺は誰よりも早くベッドから抜け出し、シャワーを浴びて入念に身支度を整えた。
今日の予定は、すでに完璧に決まっている。
昼間は、俺の愛しの天使・椎名ひよりと、船内の巨大プールで遊ぶ。
そして夜は、見事1位の成績を収めたDクラスの『祝勝会』に参加する。
(……プール。ひよりの水着姿。……ふふっ)
鏡の前で前髪を整えながら、俺の顔は自然とだらしなく緩んでしまっていた。
あのケヤキモールの試着室の前で、想像するだけで脳の血管が切れそうになった『パステルブルーのフリル付き水着』。それを着たひよりと、ついに今日、一緒にプールで遊べるのだ。
「よし。気合を入れていくぞ」
俺は己の頬をパチンと叩き、暗殺者としての全神経を『ひよりを最高にエスコートするため』だけに集中させて、部屋を飛び出した。
豪華客船の最上階に位置する、巨大な屋外リゾートプール。
南国の強い日差しが水面をキラキラと反射し、プールサイドにはパラソル付きのデッキチェアが並べられ、トロピカルなBGMが流れている。
俺は指定の黒いスイムショーツ一丁という姿で、待ち合わせ場所であるプールエントランスの柱によりかかっていた。
「刃叉羅くん、お待たせしました!」
聞き慣れた、鈴を転がすような愛らしい声。
俺は大きく深呼吸を一つしてから、声のした方へと顔を向けた。
「――――ッッッ」
その瞬間。
俺の心臓は、文字通りドクンッと特大の音を立てて、一時停止した。
そこに立っていたのは、白い肌を惜しげもなく陽光に晒した、ひよりの姿だった。
あの日、俺が選んだ『パステルブルーのフリル付きビキニ』。
胸元と腰回りにあしらわれた控えめなフリルが、彼女の華奢で可憐なラインをこれ以上ないほど見事に引き立てている。銀色の髪はうなじで綺麗にまとめられており、普段は隠れている細く美しい首筋があらわになっていた。
(……可愛すぎる。ダメだ、これは完全に致死量だ)
俺の脳内コンピューターが、圧倒的な情報量(可愛さ)を処理しきれずにエラーを吐き出している。
世界中のどんな凶悪なテロリストの銃弾よりも、目の前の少女の水着姿の方が、俺の命を容易く奪い去っていく。
もう、俺、今この瞬間に死んでも絶対に悔いはない。いやむしろ、この幸福な瞬間のまま時を止めてほしい。
「どう……でしょうか? その、刃叉羅くんが選んでくれた水着……変じゃ、ないですか?」
ひよりは、恥ずかしそうに両手で少しだけ身体を隠すようにしながら、上目遣いで俺を見つめてきた。
「……すっごく、似合ってる。世界中の誰よりも可愛いよ、ひより」
俺が一切の誤魔化しなくストレートに絶賛すると、ひよりは顔を真っ赤にして、「あ、ありがとうございます……」と俯いてしまった。
と、その時。
俯いていたひよりの視線が、ふと俺の上半身へと向けられ、ピタリと止まった。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、まじまじと俺の身体を見つめてきた。
「……あの、刃叉羅くん」
「ん? どうした?」
「すごい……綺麗な、お体ですね。刃叉羅くん、何かスポーツでもやっていたんですか?」
ひよりが、感嘆の声を漏らす。
当然といえば当然だ。俺の肉体は、幼少期からの呉一族の地獄のような暗殺修練によって、極限まで無駄を削ぎ落とされ、しなやかな鋼の筋肉で覆い尽くされている。服を着ていればただのガタイのいい高校生に見えるが、脱げば、その筋肉の付き方が常人のそれとは次元が違うことが一目で分かる。
「まあ、昔から体だけは徹底的に鍛えられててな。実家が、そういう武道系の道場みたいなもんだからさ」
俺が適当な嘘で誤魔化して笑うと、ひよりは「そうだったんですね」と感心したように頷いた。
だが、直後。
彼女の視線が、俺の右の脇腹付近でピタリと止まり、その美しい顔にサッと影が差した。
「……あの、脇腹のそれ……」
ひよりの白い指先が、おずおずと俺の右脇腹を指差した。
そこには、生々しく大きな傷跡がはっきりと残っていた。
普段ならラッシュガードなどで隠すこともできたが、今日は浮かれすぎていて完全に失念していたのだ。
「すごく、痛そうな傷跡……大丈夫なんですか?」
ひよりの瞳が、本気で心配するように揺れている。
その顔を見た瞬間、俺の胸の奥がキュッと締め付けられた。彼女の純粋な優しさが、血塗られた過去を持つ俺には眩しすぎた。
「ああ、これか。大したことないよ」
俺は極めて自然な笑顔を作り、その傷跡を自分の手で軽く叩いてみせた。
「昔、ちょっと運悪くデカい交通事故に巻き込まれたことがあってな。その時にガラスか金属の破片でザックリやっちまった傷痕だよ。……もう何年も前のことだし、完全に治ってるから、全然痛くない。心配すんな」
俺がそう言って彼女の頭をポンと撫でると、ひよりは「……本当ですか?」と上目遣いで尋ねながらも、ホッとしたように小さく息を吐いた。
「はい。痛くないなら、よかったです。……でも、あまり無茶はしないでくださいね」
「分かってるよ。俺はもう、ひよりと平和に読書する方が好きだからな」
俺たちは微笑み合い、プールサイドへと歩き出した。
周囲の男子生徒たちが、ひよりの圧倒的な美少女っぷりに目を奪われ、こちらを羨望の眼差しで見ているのが分かる。
(見ろ、見やがれ。この世界一可愛くて優しい天使は、俺の隣にいるんだぞ)
俺は内心でマウントを取りまくりながら、一番景色の良いパラソルの下のデッキチェアを確保した。
「わぁ、水が冷たくて気持ちいいですね!」
プールに入ると、ひよりは子供のように目を輝かせてはしゃぎ始めた。
俺たちは水を掛け合ったり、備え付けの大きな浮き輪に二人で掴まってプカプカと浮かんだりしながら、時間を忘れて遊び惚けた。
「刃叉羅くん、えいっ!」
「甘いな! くらえ、水しぶきの舞!」
「きゃああっ! 冷たいですー!」
太陽の光に透ける銀髪。水に濡れて肌に張り付く水着。そして、心の底から楽しそうに笑う天使の笑顔。
これだ。俺が夢にまで見た『青春』の1ピース。
人を殺すための技術しか持たなかった俺の両手は、今、彼女の乗った浮き輪を優しく支え、彼女が転ばないようにエスコートするためだけに使われている。
「……刃叉羅くん、少し休憩しませんか?」
「ああ、そうだな。飲み物でも買ってくるよ」
一時間ほど遊んだ後、俺たちはデッキチェアに戻り、南国フルーツたっぷりのトロピカルジュースで喉を潤した。
「ふふっ。なんだか、こうしてプールで遊んでいると、本当に普通の高校生の夏休みって感じがしますね」
ひよりが、ストローを咥えながら嬉しそうに微笑む。
「そうだな。……無人島での泥臭い生活があったから、余計にこの平和が身に染みるよ」
俺が言うと、ひよりは手元のグラスを見つめながら、少しだけ恥ずかしそうに呟いた。
「刃叉羅くんがいない一週間は寂しかったですから、今は一緒に遊べて、とても嬉しいですっ!」
(――――ッッッ!!!!!!!)
なんだ、なんなんだこの可愛い天使は!俺を悶絶死させるつもりか!?
「ああ、俺もひよりと遊べて本当に嬉しい。もう寂しい思いはさせないからな」
俺が真っ直ぐに見つめてそう告げると、ひよりの顔は耳まで真っ赤に染まり、彼女は恥ずかしそうに下を向いてしまったが……重ねた手は、決して振り払われることはなく、むしろ俺の指を優しく握り返してくれた。
俺たちはパラソルの日陰の中で、お互いの鼓動が聞こえそうなほどの距離で、甘く、穏やかな時間を過ごした。
その後は、夕方までプールを満喫し、一度それぞれの部屋に戻って着替えた後、船内の高級レストランで少し早めのディナーを楽しんだ。
「この魚介のパスタ、とっても美味しいですね!」
「ああ。でも、俺が作ったやつの方が少しだけ美味いだろ?」
「ふふっ、そうですね。刃叉羅くんのお料理には敵いません」
美味しい食事と、穏やかな会話。
全てが完璧なデートだった。
「それじゃあ、俺はこの後、クラスの集まりがあるから」
レストランのエントランスで、俺はひよりに向き直って言った。
「今日は本当に楽しかった。……一週間、お疲れ様」
「私の方こそ、とっても楽しかったです。……また明日も、お会いできますか?」
ひよりが、少しだけ名残惜しそうに俺の袖を摘む。
「当たり前だろ。明日は船内の映画館に行こう。また迎えに行くよ」
「はいっ! おやすみなさい、刃叉羅くん」
手を振って自分の客室エリアへと戻っていくひよりの後ろ姿を見送りながら、俺は胸の奥が温かい光で満たされていくのを感じていた。
「……さてと。それじゃあ、祝勝会の場へ向かうとするか」
俺は顔の筋肉を引き締め、『恋する男子高校生』から『事なかれ主義のクラスメイト』へと仮面を付け替え、Dクラスの祝勝会が待つ貸切のパーティールームへと足を向けた。
パーティールームの重厚な扉を開けた瞬間。
「「「かんぱーいっっ!!!」」」
グラスがぶつかり合う音と、割れんばかりの歓声が、俺の鼓膜を激しく揺らした。
「うおおおお! Dクラス最高ォォォ!!」
「マジで225ポイントとか信じられねえ! これで毎月3万ポイントもらえるんだぜ!?」
「ケーキも食べ放題だし、もう天国すぎーっ!」
広い室内には、高級なケータリングの料理が山のように並べられ、Dクラスの連中が完全に理性を飛ばしてバカ騒ぎを繰り広げていた。
先週までポイントゼロで山菜をかじっていたクラスが、特別試験を1位で通過し、一気に莫大なクラスポイントを手に入れたのだ。狂喜乱舞するのも無理はない。
「あ、呉くん! こっちこっち!」
部屋の隅で、松下やみーちゃんたち女子グループが俺を見つけて手を振ってきた。
俺は適当なグラスにオレンジジュースを注ぎ、彼女たちの輪に加わった。
「遅かったね、呉くん! 今日もどこかでサボってたの?」
松下がニヤニヤしながら聞いてくる。
「まあな。適当に船内を散歩してたよ」
俺がはぐらかすと、佐藤が興奮した様子で身を乗り出してきた。
「ねえねえ、聞いた!? 今回の無人島で私たちが1位になれたの、全部『堀北さん』のおかげだったんだよ!」
「……ほう? 堀北の?」
俺は知らないふりをして聞き返した。
「そうなの! 堀北さん、熱を出してリタイアしちゃったけど、その前にちゃんと裏で他クラスのリーダーを全部見抜いて、平田くんにその情報を託してたんだって!」
「しかも、自分のリタイアを利用して、私たちのリーダー権を別の誰かに移して、Cクラスの伊吹さんのスパイ行動を逆手に取ったらしいよ! 天才すぎない!?」
クラス中が、堀北鈴音という一人の少女の『完璧な知略』を称賛し、熱狂していた。
平田も、クラスメイトたちに囲まれながら「堀北さんのおかげだよ。僕はただ、彼女の指示に従っただけなんだ」と謙虚に微笑んでいる。
(……なるほどな)
俺はジュースを一口飲み、部屋の奥へと視線を向けた。
賞賛の的となっている堀北本人は、壁際で腕を組み、「私は当然のことをしたまでよ」とツンケンした態度を取りながらも、クラスメイトたちに囲まれて少しだけ居心地が悪そうに、だが確かな充実感を浮かべていた。
彼女自身も、自分が全てをやったわけではない(気がついたら試験が終わって勝利していた)ことに戸惑っているはずだが、綾小路に「お前の手柄にしておけ」と丸め込まれたのだろう。
そして。
その喧騒から完全に隔離された部屋の最奥。
豪華な料理の並ぶテーブルの端っこで、ただ一人、ポツンと座って無言でローストビーフをモグモグと咀嚼している少年がいた。
この大逆転劇の真の黒幕。綾小路清隆だ。
俺はフッと息を吐き、グラスを持って女子たちの輪を抜け出し、綾小路の座るテーブルへと向かった。
「……」
綾小路は、近づいてくる俺の気配に気づき、咀嚼を止めて静かに視線を向けてきた。
「よっ」
俺は彼の隣の席にドカッと腰を下ろし、自分のグラスを彼の前にあった水のグラスに軽くカチンと当てた。
「本当に『結果』を残すとはな。……恐れ入ったよ」
俺が低く、誰にも聞こえない声で労いの言葉をかけると、綾小路は周囲に誰もいないことを確認し、静かに息を吐いた。
「初日に言った通りだ。どうしても勝つ必要があったからな」
一切の誤魔化しもなく、彼はあっさりと自分が裏で糸を引いていた事実を認めた。
初日に俺にだけ腹を割って「結果を残す」と語っていた以上、二人きりのここで今更「全て堀北がやったことだ」などとしらばっくれるような、無駄な駆け引きをしてこないのは心地よかった。
「にしても、見事な手際だったぜ。リーダー権のすり替えも、わざと伊吹を泳がせたのも、全部お前が描いたシナリオだろ? ……お前のその、一切の感情を排して勝利への最短経路を構築する思考回路、本当に規格外だと思うぜ」
俺が彼の行動の裏を的確に突いて見せると、綾小路はグラスを手に取りながら、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「……それでお前は、どうするつもりだ?」
俺がどこまで介入してくるか。俺の出方を確認するような響きだった。
だが、俺はそんな面倒なことをする気は微塵もなかった。
「安心しろよ」
俺はポンと、綾小路の肩を軽く叩いた。
「お前が目立ちたくなくて『堀北の功績』にしたいなら、俺は誰にも何も言わない。完全に黙秘してやるよ。お互いに『普通の高校生としての平穏』を望む同盟みたいなもんだろ?」
「……いいのか?」
「当たり前だ。お前が俺の異常な身体能力を探らないのと同じだ。俺もお前の頭脳を探らない。……これが、俺たちなりの友情の形ってもんだろ」
俺がそう言って笑いかけると、綾小路はほんの一瞬だけ目を丸くし、そして、フッと口角を上げたように見えた。
「……友情、か。感謝するよ、呉。お前が敵に回らないでいてくれることが、俺にとって一番の『平穏』の保証だ」
「おいおい、何言ってんだよ」
俺は苦笑し、手元のグラスを軽く揺らした。
「せっかく友達になれたのに、わざわざ俺から敵に回るような面倒な真似、するわけないだろ。俺はいつだって最高に平和を愛する高校生だぜ?」
俺が気さくに笑いかけると、綾小路は「そうだったな」と短く返し、再びローストビーフにフォークを伸ばした。
「おう。クラスの面倒ごとはお前に丸投げさせてもらうぜ。俺は特等席で、お前の暗躍を応援させてもらうからよ。……あ、そうだ」
俺は立ち上がり際に、綾小路にニヤリと悪戯っぽく笑いかけた。
「パンツの一件は、マジで傑作だったぜ。ポケットにねじ込んだ時の焦った顔、写真に撮っておきたかったくらいだ」
「――――ッ」
俺の言葉に、綾小路のフォークの動きがピタリと止まり、その無表情な顔に明確な『動揺』と『屈辱』の色が浮かんだ。
「……あれは、不可抗力だ。俺の計算外だった」
「はははっ! 天才にも計算外の事態はあるってことだな! まあ、バレなくてよかったな!」
俺は腹を抱えて笑いながら、綾小路の席を離れた。
彼とのこういう、腹の底を見せ合いながらも決して踏み越えない関係性は、本当に心地がいい。
「呉ぇ! お前も飲めよぉ!」
部屋の中央に戻ると、完全にジュース(とテンション)で酔っ払っている池や山内が、俺の肩を組んできた。
「俺たちが1位だぜ! すげえだろ! これから俺たちの時代だあああ!」
「はいはい、お前らも魚捕り頑張ってたもんな。お疲れさん」
俺は彼らのグラスにジュースを注ぎ、一緒に「乾杯!」と声を上げた。
音楽が鳴り響き、クラスメイトたちが手を取り合って喜びを分かち合っている。
壁際では堀北が相変わらずツンケンしているが、その目には確かなクラスへの帰属意識が芽生え始めているように見えた。
平田はみんなの笑顔を見て、心底安堵したような優しい顔をしている。
そして、部屋の隅では、綾小路が静かに、だが確かな満足感を持ってこの光景を眺めていた。
(……ああ、いいな。こういうの)
俺は、喧騒の中でグラスを傾けながら、部屋の天井のシャンデリアを見上げた。
血生臭い任務も、命の奪い合いもない。
ただ、テストや試験の点数で一喜一憂し、みんなでバカ騒ぎをして、美味い飯を食う。
(これも、青春だな。……本当に、最高に楽しい)
暗殺者として生み出された俺が、この高度育成高等学校という箱庭で見つけた、普通の、けれど何よりも輝かしい日常。
愛しい天使との逢瀬と、奇妙な悪友たちとの絆。
俺は、この得難い幸福を噛み締めながら、Dクラスの熱狂的な祝勝会の夜を、心ゆくまで楽しむのだった。