青春を求めて実力主義の教室へ   作:リリリリら

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三十六話

豪華客船でのバカンスを終え、高度育成高等学校の敷地へと帰還した俺たちは、九月一日までの残された『本当の夏休み』を心ゆくまで満喫していた。

 

俺――呉 刃叉羅の夏休みは、控えめに言っても「最高」の一言に尽きた。

 

ある日は、平田に誘われて、軽井沢や佐藤、松下、みーちゃんたち女子グループに混ざってカラオケに行った。賑やかな女子たちの歌声や他愛のない恋バナに耳を傾けながら、平田と共にジュースを傾けて笑い合う。暗殺者として生きてきた俺にとっては非日常の極みだったが、不思議と居心地の良い、平和な時間だった。

 

ある日の夜は、俺の部屋に無気力な悪友・綾小路清隆を呼び出し、約束通り極上のステーキを焼いてやった。あいつは相変わらず無表情だったが、肉を口に運ぶスピードが尋常ではなく、内心では相当喜んでいたのが丸わかりだった。

 

そして何より。

 

俺の夏休みの大部分は、愛しの天使・椎名ひよりと共にあった。

ケヤキモールのカフェでの読書、映画館での映画鑑賞、新しくできたスイーツ店の開拓。

 

暗殺者として血と硝煙の匂いしか知らなかった俺の人生は、このひと夏で、甘い紅茶の香りと眩しい太陽の光によって完全に上書きされようとしていた。

 

 

 

 

――そして、八月二十六日。

 

「刃叉羅くん、あそこです! あそこの特設テントです!」

 

ひよりが、少し興奮した様子で俺の袖を引いた。

 

今日のデートの舞台はケヤキモールだが、行き先はカフェでも映画館でもない。モールの広場に期間限定で出店している『占いブース』だった。

 

「ひより、占いなんて興味あったのか?」

 

「はいっ! 私、占いをしてもらうのって初めてなんです。ファンタジー小説に出てくる魔法使いみたいで、なんだかワクワクしませんか?」

 

目を輝かせるひよりがあまりにも可愛すぎて、俺は「そうだな、行ってみようか」と二つ返事で頷いた。俺の辞書に、ひよりの頼みを断るという選択肢は存在しない。

 

薄暗い紫色の布で覆われた怪しげなテントの中に入ると、水晶玉の前に座る、ミステリアスな雰囲気を持った年配の占い師の女性がいた。

 

「ようこそ。……おや、珍しい星の巡りをしたお二人だね」

 

占い師は、俺とひよりの顔を交互に見比べると、ふふっと意味深に笑った。

 

「今日は、お二人の『相性』を占ってみようか」

 

「あ、はいっ。よろしくお願いします」

 

ひよりが少し緊張した面持ちで頷くと、占い師はタロットカードをシャッフルし、テーブルの上に展開していった。

 

俺はこういうオカルトの類は一切信じていない。暗殺の世界では、信じられるのは己の肉体と情報だけだ。だが、ひよりが楽しんでいるなら、ただのエンターテインメントとして付き合うのも悪くない。

 

「……ほう」

 

占い師はカードを見つめ、大きく頷いた。

 

「素晴らしい。お二人の相性は『完璧』だ。まるで、光と影のように、互いに欠けたものを補い合い、一つの完全な円となる運命にある。……この先、どんな困難があろうとも、お互いを信じ抜くことで最高の未来が待っているよ」

 

「っ……!!」

 

「か、完璧……最高の、未来……っ」

 

占い師の言葉に、俺とひよりは顔を見合わせ、同時にボフッと音を立てんばかりに顔を真っ赤にしてしまった。

 

ただの占いだと頭では分かっているのに、「完璧」だの「最高の未来」だのと言われると、どうしても意識してしまう。ひよりに至っては、恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、指の隙間から俺をチラチラと見ている始末だ。

 

「ははっ……そりゃあ、どうも」

 

俺が照れ隠しに頭を掻きながら席を立とうとした、その時だった。

 

「――ただ」

 

占い師の声が、急に一段階低く、そして重いものへと変わった。

 

俺が足を止めると、占い師はタロットカードの一枚――『月』の逆位置を指差しながら、真っ直ぐに俺の目を見据えた。

 

「そちらの男の子。……お主の抱える『影』は、あまりにも深く、そして濃すぎる」

 

「……」

 

「お主がこのまま、彼女と共に光の道を歩みたいと望むのであれば。……お主の『全て』を、彼女に打ち明ける必要があるだろう。偽りの隠れ蓑を脱ぎ捨て、真実を晒す覚悟がなければ、いずれその影が、お主たち二人の未来を呑み込んでしまうよ」

 

ドクン、と。

 

俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 

(この占い師……ただのカマかけか? それとも、俺から漏れ出る『血の匂い』を感じ取ったのか……?)

 

暗殺者としての本能が警鐘を鳴らすが、占い師はそれ以上何も語らず、ただ静かに微笑むだけだった。

 

「……肝に銘じておくよ」

 

俺は短く答え、少しだけ戸惑っているひよりを連れて、足早にテントを後にした。

 

 

その日の夕刻。

俺たちは、ケヤキモールでの買い物を終え、男子寮にある俺の部屋へと戻ってきていた。

 

「さあ、できたぞ。今日はひよりのリクエスト通り、特製の和風オムライスだ」

 

「わぁ……! とっても美味しそうです。いただきます!」

 

ローテーブルを挟んで向かい合い、俺の作った料理に舌鼓を打つ。

出汁を効かせたご飯をフワフワの卵で包み、和風のきのこ餡をたっぷりとかけた自信作だ。ひよりは「美味しいです!」と目を細めて食べてくれている。

いつもと変わらない、甘く、穏やかで、幸せな日常の風景。

 

だが。

俺の胸の奥には、昼間の占い師の言葉が、重い鉛のように居座り続けていた。

 

『お主の全てを、彼女に打ち明ける必要があるだろう』

 

分かっていたことだ。

俺は、このままひよりに嘘をつき続けることはできない。俺の本質を、呉一族の暗殺者であるという血塗られた真実を隠したまま、彼女の隣で笑い続ける資格などないのだと。

 

食後の温かいお茶を淹れてテーブルに戻ると、ひよりがカップを両手で包み込みながら、少しだけ躊躇うように口を開いた。

 

「……あの、刃叉羅くん」

 

「ん? どうした?」

 

「今日の、占い師さんの最後の言葉……。刃叉羅くんは、何か心当たりがあるんですか?」

 

ひよりの瞳は、俺を問い詰めるようなものではなかった。ただ純粋に、俺が何か重いものを一人で抱え込んでいるのではないかと、優しく心配してくれているのだ。

 

「……」

 

俺は手にしていた湯呑みを、ことり、とテーブルに置いた。

 

部屋から一切の物音が消える。

 

俺が何も言わず、ただジッと自分の両手を見つめ続けていると、ひよりも俺の纏うただならぬ空気を察したのか、少しだけ姿勢を正して息を呑む気配がした。

 

数秒にも数分にも感じられる、重く張り詰めた沈黙。

やがて、俺はゆっくりと顔を上げた。

 

「……ひより。これから俺が話すことは、君の平穏な世界を壊してしまうかもしれない。君に嫌われるのが怖くて、俺がずっと隠してきた最低な真実だ」

 

俺が声のトーンを落とし、真剣な眼差しを向けると、ひよりは一瞬だけ不安そうに目を揺らしたが、すぐに真っ直ぐに俺を見つめ返し、「はい」と静かに、力強く頷いた。

 

その揺るぎない瞳に背中を押されるように、俺は重い口を開いた。

 

「俺は、ひよりが思っているような、普通の高校生じゃない。……今まで、ずっと騙していてごめん」

 

料理を作り、ひよりの手を引く自分の両手を強く握りしめながら、俺はゆっくりと、しかしはっきりと語り始めた。

 

「俺の家……『呉一族』は、1300年続く、裏社会の暗殺業を生業とする一族なんだ。表の歴史には決して出てこない、人を殺すためだけに特化して交配と修練を繰り返してきた、禁忌の血族」

 

ひよりの目が、大きく見開かれる。

だが、俺は止まらなかった。

 

「俺も、物心ついた時からそのための訓練を受けてきた。……12歳の時には、すでに『仕事』に出ていたよ。ターゲットの命を奪い、闇から闇へと葬る仕事だ。……この前のプールでひよりが見た脇腹の傷も、交通事故なんかじゃない。中東での仕事中、ライフルで撃ち抜かれた傷だ」

 

部屋の空気が、急激に冷え込んでいくのを感じた。

平和な日本で、温かいお茶を飲んでいるこの空間に、『暗殺』『裏社会』『銃撃』という血生臭い単語が、異物として撒き散らされていく。

 

「俺は、……一度でいいから、普通の高校生として『青春』ってやつをしてみたくてな。一族の長である爺様を、姉ちゃんに頼み込んで説得してもらって、この高度育成高等学校に入学したんだ。……ひよりと出会って、一緒に本を読んで、映画を見て。本当に、夢みたいに幸せな日々だったよ」

 

俺は、そこで一度言葉を区切り、ギリッと奥歯を噛み締めた。

ここから先が、最も残酷な真実だ。

 

「でも、これはあくまで『期限付きの休暇』なんだ。……俺が普通の高校生でいられるのは、この学校にいる間だけ。卒業したら、俺は一族に戻って、また……仕事に戻らなきゃいけない。それが、呉一族に生まれた俺の『運命』なんだ」

 

語り終えた時、部屋は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

 

俺は、ひよりの顔を直視することができなかった。

彼女は今、どんな顔をしているだろうか。

俺を恐れているだろうか。軽蔑しているだろうか。人殺しの化け物だと、今すぐこの部屋から逃げ出したいと思っているだろうか。

 

ポタッ、と。

テーブルの上に、水滴が落ちる音がした。

顔を上げると、ひよりの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちていた。

 

「……ひより」

 

(……そりゃそうだよな)

 

俺は、胸が引き裂かれるような痛みを覚えながらも、どこか達観したように納得していた。

 

ひよりは、本を愛し、平穏を愛する、光の世界の住人だ。血と暴力、争いとは最も無縁な、真っ白な天使。

 

そんな彼女が、親しくしていた相手が『人殺し』であり、将来も殺し屋に戻る運命にあると聞かされて、ショックを受けないはずがない。

俺という存在の異様さに恐怖し、絶望し、悲しむのは当然のことなのだ。

 

「ごめんな、ひより。……今まで、ひよりのことを騙していて。俺なんかが、君の綺麗な世界に踏み込んでしまって」

 

俺は自嘲気味に笑い、ゆっくりと立ち上がった。

 

物心ついた時から裏社会で育ってきた俺にとって、人の命を奪うことはただの『仕事』であり、そこに忌避感や罪悪感なんてものは一切なかった。淡々と任務をこなし、それが自分の日常だと疑いもしなかった。

 

でも、ひよりと出会って、一緒に本を読んで、笑い合ううちに……俺は初めて、君と同じ、光の差す道を一緒に歩きたいと強烈に願ってしまったんだ。

だが、ひよりとの温かい未来を夢見れば夢見るほど、今まで何とも思っていなかった、自分の手が奪ってきた命の重さが、決して拭えない『罪』として俺と君の間に立ち塞がるように思えて、ひどく怖かった。

 

これ以上、俺の抱える深い影で、彼女を汚すわけにはいかない。

もう、彼女の隣にはいられない。俺は影の住人で、彼女は光の住人。交わることのない平行線だったのだから。

 

「……違います」

 

俺が諦めとともに背を向けようとした瞬間。

ひよりが、震える声で、しかしはっきりとした拒絶の言葉を口にした。

 

「謝らないでください……っ!!」

 

「え……?」

 

振り返ると、ひよりは溢れる涙を手の甲で乱暴に拭いながら、俺を――いや、俺の『諦め』を真っ直ぐに睨みつけていた。

 

いつも温厚で、誰に対しても優しい彼女が、明確な『怒り』を露わにしていた。

 

「私が泣いているのは、刃叉羅くんが怖いからじゃありません……っ! 刃叉羅くんが人殺しだから悲しいわけでもありません!」

 

ひよりは立ち上がり、テーブルを回って俺の目の前まで歩み寄ってきた。

そして、俺の胸ぐらを、その小さな両手でギュッと強く掴んだのだ。

 

「じゃあ、なんで……」

 

「刃叉羅くんが……そんなに重くて、苦しくて、悲しい運命を……ずっと一人で背負い込んでいたことが、悔しいんです……っ!」

 

ひよりの瞳から、再び大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。

 

「私の前で、あんなに優しく笑ってくれていたのに。……美味しいご飯を作ってくれて、私の本の話をいつも楽しそうに聞いてくれていたのに。……その裏で、刃叉羅くんがどれだけ絶望に苦しんでいたのかと思うと、胸が張り裂けそうなんです……!」

 

「ひより……」

 

「暗殺者だとか、一族の掟だとか、私には難しいことは分かりません。……でもっ!」

 

ひよりは、俺の胸に顔を押し付け、声を上げて泣きじゃくった。

 

「私が知っている刃叉羅くんは、優しくて、温かくて、私をいつも守ってくれる、大好きな刃叉羅くんです! ……過去がどうであろうと、未来がどうであろうと、私にとって刃叉羅くんが大切な人であることに、何の違いもないんです!!」

 

――――ッ!!

 

俺の頭を、雷で撃たれたような衝撃が貫いた。

 

(……違う。俺はそんな上等な人間じゃない)

 

俺はずっと一人で絶望を背負い込んでいたわけじゃない。自分の罪の重さに怯え、苦しむようになったのは、君という光に出会ってからだ。

 

なのに、彼女は。

俺の血塗られた過去を恐れないどころか、俺自身すら当たり前だと思っていたかつての『狂った日常』の痛みを、俺の代わりに背負い、悲しんでくれているのだ。

 

俺の狂った未来を軽蔑せず、ただただ、俺という存在そのものを丸ごと肯定してくれた。

 

俺がずっと恐れていた『拒絶』は、俺自身の勝手な妄想に過ぎなかった。

彼女の純粋な愛と強さは、俺が想像していたよりも遥かに深く、そして温かかったのだ。

 

「……っ」

 

俺の目から、ツゥッ……と。

物心ついてから一度も流したことのない、熱い一筋の涙がこぼれ落ちた。

俺が今まで身に纏っていた、暗殺者としての分厚い装甲。感情を殺し、平穏を演じるための偽りの仮面。

 

それが今、彼女の涙とぬくもりによって、完全に溶かされ、崩れ去っていくのを感じた。

 

「……ごめん。ごめんな、ひより」

 

俺は、震える腕で、胸の中で泣きじゃくるひよりの小さな背中を、強く、強く抱きしめた。

もう、決して離さないと誓うように。

 

「俺は、バカだった。ひよりの強さを、優しさを……信じきれていなかった。……こんな俺を、受け入れてくれて、本当にありがとう」

 

俺の言葉に、ひよりは俺の胸の中で何度も何度も、首を縦に振った。

俺のシャツが、彼女の温かい涙で濡れていく。それがたまらなく愛おしかった。

 

俺は、彼女の体を少しだけ離し、涙で濡れたその美しい瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「ひより」

 

「……はい」

 

俺は、一族の掟も、裏社会の暗黙のルールも、全てを投げ捨てる覚悟で、ただ一人の男として、最愛の少女に言葉を紡いだ。

 

「俺は、君が好きだ。……本を読んで笑う顔も、美味しそうにご飯を食べる姿も、こうして俺のために泣いてくれる強さも、全部。……自分の命より、呉一族の掟より、俺は椎名ひよりを愛してる」

 

俺の全身全霊の告白。

 

ひよりは、大きく目を見開き、そして……涙で濡れた顔に、まるで雨上がりに咲く向日葵のような、最高に美しい笑顔を咲かせた。

 

「私も……私も、刃叉羅くんが、大好きです。……世界中の誰よりも」

 

ひよりは背伸びをして、自分の腕を俺の首に回し、再び強く抱きついてきた。

 

「未来のことは、分かりません。……でも、刃叉羅くんが暗い影に飲み込まれそうになったら、私が何度でも、光の差す方へ手を引きます。……だから、これからは、全部私と半分こにしてください」

 

「ああ……約束する。もう二度と、一人で抱え込んだりしない」

 

涙と告白の時間は、静かに、そしてゆっくりと過ぎていった。

 

俺の胸の中で泣きじゃくっていたひよりの嗚咽が少しずつ落ち着き、微かなしゃっくりへと変わる。

 

俺は彼女の華奢な背中を一定のリズムで優しく撫でながら、自分の心の中にあった重い暗雲が、嘘のように晴れ渡っていくのを感じていた。

 

「……落ち着いたか?」

 

俺が耳元で優しく囁くと、ひよりは俺の胸に顔を埋めたまま、コクンと小さく頷いた。

 

そして、名残惜しそうにゆっくりと体を離し、赤く腫らした目で俺を見上げる。その顔は恥ずかしさで真っ赤に染まっていた。

 

「す、すみません……。私、刃叉羅くんのシャツを、涙でぐしゃぐしゃにしてしまって……」

 

「気にするな。ひよりの涙なら、むしろ勲章みたいなもんだ」

 

俺が冗談めかして笑うと、ひよりは「もうっ」と少しだけ口を尖らせたが、すぐに釣られてふわりと微笑んだ。

 

俺たちは、一度ローテーブルを挟んで元の席へと座り直した。

空気が、先ほどまでの重苦しいものから、どこか気恥ずかしく、それでいて甘く満たされたものへと変わっている。

 

だが、恋人同士になったからといって、現実的な問題が全て消え去ったわけではない。俺には、ひよりに伝えておかなければならない『覚悟』と『未来の話』があった。

 

「……ひより」

 

俺は居住まいを正し、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。

 

「俺は、この高度育成高等学校を卒業したあと……一族に戻るつもりだったんだ。そう約束してここに来た。呉一族に戻るということは、即ち、再び裏社会の仕事に身を投じることを意味する」

 

ひよりが、静かに息を呑むのが分かった。

 

「でも、さっき君が俺の過去ごと受け入れてくれて、一緒に背負うと言ってくれた。……だから、俺も運命に抗う覚悟が決まったよ」

 

俺は言葉を切り、テーブルの上にあった彼女の両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。

 

「俺はもう二度と、暗殺の仕事には戻らない。……これからの人生は、君の隣を歩くためだけに使いたい」

 

それは、紛れもない俺の決意だった。

 

だが、単に「一族を抜けて逃亡する」などという愚かな選択をする気は毛頭ない。

 

世界中を裏から支配し、圧倒的な武力を持つ呉一族。彼らを敵に回すということは、一生涯、世界中から命を狙われ続けることを意味する。何より、そんな真似をすれば、真っ先にひよりが標的にされてしまうだろう。

 

俺の命より重い彼女を危険に晒すような真似は、絶対に避けるべき最悪の手だ。だからこそ、俺は極めて現実的な『落とし所』を考えていた。

 

「俺がいきなり一族と縁を切って敵対すれば、間違いなく君を危険に巻き込むことになる。……それだけは絶対に嫌だ。君の平穏を守ることが、今の俺の全てだからな」

 

俺が正直な懸念を告げると、ひよりは少しだけ目を丸くし、そして……ホッとしたように、どこまでも優しく微笑んだ。

 

「……安心しました。私も、刃叉羅くんがご家族と争うのは……嫌でしたから」

 

ひよりの親指が、俺の手の甲を優しく撫でる。

 

「え……?」

 

「刃叉羅くんが以前、お爺様や、迦楼羅さんという方のお話をしてくれた時。刃叉羅くんの目は、とっても優しかったです。……少し乱暴な人たちみたいですけれど、刃叉羅くんがご家族を大切に思っていること、私には分かります」

 

ひよりの言葉に、俺はハッとした。

そうだ。一族の掟は狂っているし、殺しはもうしたくないが……俺は決して、両親や爺様、騒がしい親族たちを憎んでいるわけではないのだ。

彼女は俺のそんな矛盾した感情まで見抜き、俺が家族と殺し合う悲しい結末を拒絶してくれた。

 

(……本当に、ひよりには救われるな)

 

俺の心の奥底から、深い深い安堵の息が漏れ出した。

 

「……ありがとう、ひより。ひよりがそう言ってくれて、本当に嬉しいよ」

 

俺は、彼女の手を包む力を少しだけ強めた。

 

「実はな、呉一族の中で『暗殺』を本業にしているのは、ほんの一握りの人間だけなんだ。ほとんどの奴らは、表向きの別の仕事と兼業しながら生きている」

 

「そうなんですか……?」

 

「ああ。俺は一族の中でも、特に暗殺の分野で最高の才能を持って生まれたからな。将来は殺しを本業として専任し、一族の暗部を背負って立つことを期待されていたし、俺自身もそれが当たり前だと思ってた」

 

俺は言葉を切り、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「……だけど、俺はもう二度と、殺しの依頼は受けない。これからは要人警護や潜入といった、殺しが必要のない任務だけを選ぶつもりだ」

 

そして、俺は少しだけ照れくささを誤魔化すように、ふっと笑みをこぼした。

 

「それで……表向きは、ひよりと一緒に小さなカフェでも営みながら、静かに生きていきたい。……それが、今の俺の夢だ」

 

俺の言葉に、ひよりはパッと花が咲いたように顔を輝かせた。

 

「カフェ……! 刃叉羅くんと、二人で……!」

 

「ああ。俺の料理と、ひよりの淹れるお茶があれば、結構繁盛するんじゃないか?」

 

俺が冗談めかして言うと、ひよりは嬉しそうに何度も、何度も頷いた。

 

だが、その夢を叶えるためには越えなければならない壁がある。

 

「もちろん、最高傑作である俺が暗殺部門を外れると言えば、一族の人間は間違いなく猛反発するだろう。……でも、なんだかんだ言って、一族の長である爺様は、俺と姉ちゃんには昔から激甘だからな。俺が本気で頭を下げて頼み込めば、案外すんなりと通るかもしれない」

 

少し楽観的すぎる予測かもしれないが、爺様なら「曾孫の青春のためじゃ!」と血涙を流しながら許可を出しかねない。

 

間違いなく、一族の中でも特にイカれた戦闘狂の親戚――雷庵は『腑抜けやがって』と嬉々として殺し合いを吹っ掛けてくるだろうが。

 

(正面からの純粋な殴り合いなら、俺はあのバケモノには勝てない)

 

この高校の平和な環境に浸り、暗殺者として腑抜けているのは紛れもない事実だ。日々血生臭い闘争に身を置く雷庵との力の差は、ここに来る前よりさらに開いているかもしれない。

 

(……だが、武器も罠も毒も使う、ルール無用の『なんでもあり』の殺し合いなら。俺はあいつにも負ける気は一切ない)

 

持てる全ての暗殺技術を駆使してでも、必ずねじ伏せる。

一族と全面戦争をしてひよりを外からの危険に晒すより、一族の内部で不満分子を物理的に沈黙させて交渉する方が、遥かに現実的で俺たちにとって平和な解決策だった。

 

(俺の我儘を貫き通す為には、圧倒的な力が必要だ。明日の夜から、平和ボケした感覚を叩き直すか)

 

そして。

俺は、自分の手のひらを見つめ、静かに、だが確固たる意志を持って言葉を紡いだ。

 

「もう既に、俺の手は血で染まっていて……手遅れかもしれない。俺の過去が消えるわけじゃない。……だけど、これ以上、血に染まった手で、ひよりに触れるわけにはいかないからな」

 

暗殺者としての、絶対的な『不殺の誓い』。

俺がこれからの人生を、ただ一人、椎名ひよりという少女を愛し、守り抜くためだけに使うという誓約。

 

ひよりは、俺の言葉を聞くと、両手で俺の右手を包み込み、そのまま自分の頬へと優しく押し当てた。

 

「……手遅れなんかじゃありません。刃叉羅くんの手は、こんなにも温かくて、私をいつも安心させてくれます」

 

ひよりの白い頬に、俺のごつごつとした手が触れる。

彼女の体温と、柔らかな感触が、俺の手のひらから全身へと伝わってくる。

 

「刃叉羅くんが誰かを守るお仕事をするなら……私は、私たちのカフェで、美味しいお茶を淹れて待っていますね」

 

「ああ……頼むよ。最高の居場所だ」

 

俺たちは、お互いの温もりを確かめ合うように、静かに微笑み合った。

過去の罪も、未来への不安も、今はもう怖くない。彼女が隣にいてくれるなら、俺はどんな困難でも乗り越えてみせる。

 

 

「さて……」

 

重い話は、これで完全に終わりだ。

俺は立ち上がり、ふうっと小さく息を吐いた。

 

「少し泣きすぎたせいか、喉が渇いたな。食後の紅茶、淹れるよ」

 

「あっ、はい! お願いします」

 

俺がキッチンに向かい、やかんでお湯を沸かし始める。

お気に入りのアールグレイの茶葉をポットに入れ、お湯を注ぐと、ベルガモットの華やかで甘い香りが部屋いっぱいに広がった。

 

先ほどまでの血生臭い話が嘘のように、部屋の空気はふんわりとした、平和で甘いものへと変わっている。

 

「お待たせ。今日は少し甘めにしておいたぞ」

 

「ありがとうございます。……ふふっ、いい香りです」

 

テーブルに戻り、向かい合ってティーカップを傾ける。

 

……なんだろう。

さっきまで、あんなにドラマチックに泣いて、抱きしめ合って、命を懸けた告白までしたのに。

 

いざこうして日常の動作に戻ってみると、急激に『俺たち、恋人同士になったんだ』という事実がのしかかってきて、猛烈に気恥ずかしくなってきた。

 

(……ってか、よく考えたら俺、さっき『一生君を守り抜く』だの『将来は一緒にカフェをやろう』だの言ってたよな……?)

 

お茶を一口飲んで冷静になった瞬間、凄まじい破壊力の事実が脳天を直撃した。

 

あれはただの告白というより、完全に『プロポーズ』のテンションだったのではないだろうか。高校一年生が付き合う直前にかます台詞としては、あまりにも重すぎる。いくらなんでも重すぎるだろ、俺!

 

(うわああああっ! 思い出したら急に死ぬほど恥ずかしくなってきた……!)

 

顔から火が出そうになりながら内心で一人悶絶しつつ、チラリとひよりの方を見ると。

 

彼女も紅茶のカップを持ったまま、どこか落ち着かない様子でもじもじとしており、俺と目が合うとビクッとしてすぐに目を逸らしてしまった。

 

(か、可愛い……。なんだこの初々しい空気感)

 

俺が別の意味でも身悶えしていると、ひよりがコトリとカップを置き、少しだけ上目遣いで、純真無垢な瞳を俺に向けてきた。

 

「あの……刃叉羅くん」

 

「お、おう。なんだ?」

 

「その……ずっと、気になっていたんですけれど」

 

ひよりは、人差し指同士をツンツンと合わせながら、頬を真っ赤にして、とんでもない質問を投げかけてきた。

 

「刃叉羅くんは……いつから、私のことが、好きだったんですか?」

 

――――――――ッッッ!!!!!!!

 

(ぐはぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!)

 

俺の心臓が、今日何度目か分からない大爆発を起こした。

なんだその質問!? なんだその小首を傾げた破壊力抜群のポーズは!?

 

「いつから私のこと好きだったの?」なんて、カップルになった直後の定番中の定番の質問だが、それをひよりのあの純度100パーセントの瞳でやられると、俺の精神的耐久値は一瞬でゼロに振り切れてしまう。

 

俺は顔面から火が出るほどの熱を感じながら、必死に理性を総動員して声を絞り出した。

 

「い、いつからって……」

 

ごまかすこともできた。図書室で一緒に本を読んでいるうちに、とか、無人島で一緒に遊んだ時から、とか。

 

だが、あそこまで重いプロポーズまがいの告白をして、全てを曝け出したのだ。今更変な見栄を張る必要はない。

 

「……今、思い返せば」

 

俺は恥ずかしさから少しだけ視線を逸らし、ポリポリと頬を掻きながら正直に白状した。

 

「入学式の日に、初めて会ったあのバスの中。……俺が席に座って本を読んでたら、隣に座ってきたひよりが『何を読んでいるのですか?』って、いきなり話しかけてきてくれただろ。あの瞬間に、一目惚れしたんだろうな。俺は」

 

「えっ……!?」

 

ひよりが、ピタッと固まった。

そして、数秒の遅延の後に、みるみると顔を沸騰したように赤く染め上げた。

 

「バ、バスの時からですか!? あ、あの時から、ずっと……!?」

 

「ああ。……お前があんまりにも無防備で、純粋な目で聞いてくるからさ。俺みたいな血生臭い世界で生きてきた人間には、その真っ白さが眩しすぎたんだよ」

 

俺がヤケクソ気味にぶっちゃけると、ひよりは「あわわわ……」とパニックになり、両手で顔を覆ってしまった。

 

「そ、そんなに前から……。私、ただ刃叉羅くんが読んでいる本が気になって、つい声をかけてしまって……ああっ、恥ずかしいです……っ」

 

「おいおい、そんなに隠れるなよ。こっちまで恥ずかしくなるだろ。……それに、とどめを刺されたのはその直後だ」

 

「とどめ、ですか……?」

 

ひよりが、指の隙間から潤んだ瞳で俺を見上げてくる。

 

「クラス分けの掲示板の前で、俺たちが違うクラスだって分かった時。ひよりが『せっかくお友達になれたのに、寂しいです』って、本気で悲しそうな顔をしただろ。……あれで完全に俺の心は撃ち抜かれたよ。気がついたら、『入学式が終わったら図書室に行こう』って、自分から誘ってた」

 

「あ……」

 

ひよりは、覆っていた手をゆっくりと下ろした。

その瞳は、恥ずかしさよりも、深く温かい喜びに満たされているように見えた。

 

「私……刃叉羅くんに図書室に誘ってもらえて、本当に、本当に嬉しかったんです。高校でも、本のお話ができるお友達がいなくて、ずっと寂しいんだろうなって思っていたから」

 

ひよりは、カップの縁を指でなぞりながら、ふふっと笑った。

 

「じゃあ……あの図書室での時間も、刃叉羅くんが私のためにご飯を作ってくれた時も。刃叉羅くんは、ずっと私のことを……」

 

「ああ、お前のことで頭がいっぱいだったよ。龍園が絡んできた時なんて、内心で『俺の天使に気安く触るな』ってキレまくってたからな」

 

「ふふっ、天使だなんて……大げさです」

 

ひよりが、悪戯っぽく微笑んで断言する。

 

「でも、刃叉羅くんが私を守ってくれた時、本当に……王子様みたいだなって、思いました」

 

「お、王子様って……やめろ、暗殺者だぞ俺は」

 

「私にとっては、世界で一番かっこいい王子様です」

 

その言葉の殺傷能力が高すぎて、俺は完全にノックアウトされ、ソファの背もたれに深く沈み込んだ。

 

「……降参だ。俺はひよりには一生勝てない気がする」

 

「ふふっ。勝負しているわけではありませんよ」

 

ひよりは楽しそうに笑い、それから、少しだけ恥ずかしそうに俺の隣のスペース……ソファの俺のすぐ横へと、ちょこんと移動してきた。

 

肩と肩が触れ合う距離。

彼女から漂う、シャンプーと紅茶の甘い香りが、俺の理性を激しく揺さぶる。

 

「……あの、刃叉羅くん」

 

「ん?」

 

「私たち、恋人……なんですよね?」

 

「ああ。世界で一番幸せなカップルだと思うぞ」

 

俺が答えると、ひよりは俺の右手をそっと両手で包み込み、自分の膝の上に乗せた。

 

俺もひよりの小さな手をしっかりと握り返した。

 

「二学期からは、朝も一緒に登校しよう。昼休みも一緒にお弁当を食べよう。放課後も、一緒に帰ろう。……誰が何を言おうと、俺が全部論破して、平和的に黙らせてやるから、ひよりは何も心配しなくていい」

 

「ふふふ。はいっ。……明日から、とっても楽しみですね」

 

ひよりは、俺の肩にコトリと頭を預けてきた。

 

窓の外からは、秋の訪れを告げる虫の音が微かに聞こえ始めている。

激動の夏休みが終わり、もうすぐ高度育成高等学校での二学期が始まる。

 

「なぁ、ひより」

 

「はい?」

 

「俺、この学校に入って本当に良かったよ。……君に出会えたからな」

 

俺が心の底からの本音をこぼすと、ひよりは俺の肩に顔を擦り寄せるようにして、甘く、幸せそうに囁き返した。

 

「私もです。……刃叉羅くん、大好きです」

 

俺は、腕の中にいる愛しい天使の温もりを感じながら、そっと目を閉じた。

 

血塗られた過去を持つ暗殺者の少年は、全てを受け入れてくれた少女と共に、本当の意味での『青春』の第二章へと、静かに、そして力強く歩み出していくのだった。

 

甘い紅茶の香りが満ちる部屋で、二人の時間が、ゆっくりと、永遠のように流れていった。

 

 

 

 

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