八月三十一日。
高度育成高等学校での初めての夏休みが、いよいよ終わろうとしていた。
無人島での泥臭いサバイバル、豪華客船での優待者試験、そして……ケヤキモールでの占いから始まった、俺とひよりの『本当の恋』の幕開け。
暗殺者として血塗られた運命を背負っていた俺――呉 刃叉羅の人生は、このたった一ヶ月の間で、劇的すぎるほどの変化を遂げていた。
(……身体のキレは、だいぶ戻ってきたか)
ベッドから起き上がり、軽く拳を握り締める。
ひよりと結ばれ、自らの我儘を貫くと決めたあの日から、俺は夜な夜な修練を再開していた。
「殺し」はもうしない。だが、愛する彼女との平穏な未来を守るためには、一族の猛者たちをも黙らせる圧倒的な『力』が不可欠だ。
この数日間、監視カメラの死角になる深夜の林間エリアで人知れず己を追い込み続けた。その結果、平和ボケしかけていた五感は研ぎ澄まされ、暗殺者としての鋭い肉体の躍動が再び戻ってきていた。
小さく息を吐き出し、纏っていた鋭い気配を体の奥底へと沈める。
窓際に歩み寄り、勢いよくカーテンを開けると、けたたましい蝉の声と共に、夏の終わりを惜しむような眩しい朝陽が部屋の中に差し込んできた。
夏休みの最終日である今日。
俺は、八月二十九日から期間限定でオープンしているという、学校の敷地内にある巨大なレジャー施設――特設プールへと向かおうとしていた。
実は昨日の夜、平田洋介から端末に一通のメールが届いていた。
『明日、Dクラスの空いているみんなでプールに行こうって話になっているんだけど、呉くんも一緒にどうかな?』
という、相変わらずの気配りに満ちたお誘いだった。
だが、俺はそれに一秒で返信した。
『すまない。明日は別の人と行く予定があるんだ。楽しんできてくれ』と。
当然だ。平田たちと遊ぶのも楽しいが、俺には今日、何よりも優先すべき『至高の予定』が控えているのだから。
待ち合わせ場所である、寮からケヤキモールへと続く並木道。
約束の十分前には到着して待っていた俺の視界に、涼しげなサマードレスに身を包み、水着の入ったトートバッグを抱えた純白の天使――ひよりの姿が映った。
「あ、刃叉羅くん! おはようございます。お待たせしてしまいましたか?」
小走りで駆け寄ってくる彼女の眩しい笑顔に、俺の心拍数が跳ね上がる。
「おはよう。いや、俺も今来たところだ。……そのワンピース、すごく似合ってて綺麗だ」
「ふぇ……? あ、ありがとうございます……」
ストレートな賞賛に顔を赤くして俯く彼女へ、俺はごく自然な動作で右手を差し出した。ひよりも嬉しそうにはにかみながら、その手を取り返してくれる。
そうして目的地である特設プールへと向かって、二人でゆっくりと歩き出した。
「……ふふっ」
隣を歩く少女が、嬉しそうに小さな笑い声を漏らす。
俺の右手の中には、ひよりの柔らかく、少しだけひんやりとした白い左手が、しっかりと握られていた。
「どうした、ひより?」
「いえ……なんだか、こうしてずっと手を繋いで歩けるのが、夢みたいだなって思いまして」
ひよりが、少しだけ照れくさそうに上目遣いで俺を見上げてくる。
「夢じゃないさ。俺たちはもう、正真正銘の恋人同士なんだからな」
俺は彼女の手を軽く握り返し、ニヤリと笑ってみせた。
(ああ、クソッ……。堂々と手を繋いで歩けるなんて、最高に幸せすぎるだろ!)
俺の内心は、暗殺者としてのクールな仮面の下で、完全に浮かれポンチな男子高校生と化してウキウキと踊り狂っていた。
俺とひよりはこれまでも、休日にケヤキモールのカフェでお茶をしたり、本屋を巡ったりと、何度も二人で遊びに出かけることはあった。
だが、それはあくまで「本好きの友人同士」としての穏やかな時間だった。
こうして互いの熱を感じるほど深く指を絡め合い、『恋人』として堂々と隣を歩くのは、今までと同じ道を歩いていても全く意味合いが違う。
(クラスに交際を利用される心配も、全くないしな)
俺は海風を感じながら、心の中で一人頷いた。
Cクラスの独裁者である龍園とは、あの屋上での一件以来、完全な『不干渉』の協定を結んでいる。あいつがひよりを人質に取ったり、俺を利用しようとしたりすることは絶対にあり得ない。
そしてDクラスの影の支配者・綾小路とも、お互いの実力を知りつつ「詮索しない」という暗黙の了解が成立している。
つまり、俺とひよりの平和な交際は、各クラスのトップの思惑から完全に切り離された、絶対的安全圏に守られているのだ。
俺たちはそのまま、夏休みの終わりを惜しむ蝉時雨の中を、甘い空気を漂わせながらプール施設へと向かった。
巨大なドーム型のレジャープール施設に到着すると、すでに多くの生徒たちでごった返していた。
俺はひよりと「後でプールサイドで待ち合わせよう」と約束して別れ、男子更衣室へと足を踏み入れた。
ロッカーに荷物を押し込み、指定のスイムショーツに着替えようとした、その時。
「――お前も来ていたのか」
背後から、ひどく平坦で、感情の起伏を感じさせない声が聞こえた。
振り返ると、そこには無地のラッシュガードを着た、俺の悪友にしてDクラスの影の支配者――綾小路清隆が立っていた。
「よっ。なんだ、綾小路も来てたのか」
俺が片手を挙げて挨拶すると、綾小路は淡々と頷いた。
「みんなと来たのか?」
「ああ。堀北、櫛田、佐倉、それに池と山内、須藤と一緒だ。……と言っても、俺は半ば強引に巻き込まれただけだがな」
「ははっ、相変わらず苦労してんな。そういや、今日は平田たちのグループもプールに来るらしいぜ」
俺が情報を共有すると、綾小路は「そうか。人が多くなりそうだな」と無表情のまま返してきた。
そして、綾小路は少しだけ視線を俺の顔に向け、どこか確信めいた響きを含ませて尋ねてきた。
「……お前は。椎名と来たのか?」
その問いに、俺は一秒の躊躇いもなく、胸を張って、この上ないほどの『ドヤ顔』を作ってみせた。
「ああ。世界一可愛い『彼女』と来たぜ」
「――――」
俺の堂々たる交際宣言に、綾小路はほんの数秒だけ目を瞬かせ、やがて、わずかに口角を上げて小さく息を吐いた。
「……そうか。ようやく告白したんだな。おめでとう」
「おう、サンキュー。お前にも散々世話になった……というか、惚気を聞かせたからな」
俺が笑って肩を叩くと、綾小路は「俺は話を聞いていただけだ」といつものように躱したが、その瞳の奥には、確かな友人としての祝福の色が浮かんでいるように見えた。俺たちの間にある『互いに詮索しない』というルールのおかげで、彼も余計な裏を読むことなく、ただの友人として祝福してくれているのだろう。
だが。
その直後、綾小路の脳裏に、ある『致命的な事態』がフラッシュバックし、彼の内なるスーパーコンピューターが一気に危険信号を鳴り響かせた。
(――――待て。それは、非常にまずいことになったな)
綾小路は、表面上は無表情を保ちながらも、内心で凄まじい焦りを感じていた。
今日、池と山内たち一部の男子は、ある凶悪な犯罪計画を企てていた。
それは、女子更衣室への『隠しカメラの設置』と『盗撮』である。
綾小路はすでにその計画の全貌を把握しており、彼らが退学になるのを防ぐため(クラスポイントを守るため)、水面下で軽井沢恵と接触し、計画を阻止するための布石を打っていた。
だが、状況は一変した。
今、このプールの女子更衣室には、Dクラスの女子だけでなく、Cクラスの椎名ひより――呉刃叉羅の『最愛の彼女』がいるのだ。
(もし……池たちの隠しカメラ計画が、万が一にも呉にバレたら?)
綾小路は、目の前で嬉しそうに笑っているこの男の『真の姿』を知っている。
裏社会の人間であり、人智を超えた暴力の化身。
普段は温厚で事なかれ主義を貫いているが、椎名ひよりに危害が及ぶと判断した瞬間、この男は本物の怪物へと変貌する。
(比喩でも何でもなく、池と山内は『物理的』に首の骨を折られて殺される……)
退学どころの騒ぎではない。殺人事件に発展する。
池や山内という手駒を失うことは、今後のクラスポイントにおいて致命的な損失となる。あの計画は、何が何でも、絶対に、完璧に阻止しなければならない。
「……どうした、綾小路? 急に黙り込んで」
俺が不思議そうに顔を覗き込むと、綾小路はすぐにいつもの無表情を取り繕った。
「いや、何でもない。……彼女を待たせているんだろう? 早く行ってやれ」
「お、そうだな。じゃあな、また後で!」
俺は足早に更衣室を後にした。
残された綾小路は、深く、重いため息を一つ吐き出し、己の計画の成功率を100パーセントの『絶対』へと引き上げるための最終確認へと向かった。
「お待たせしました、刃叉羅くん」
プールサイドで待っていた俺の前に、パステルブルーのフリル付きビキニに身を包んだひよりが現れた。
何度見ても、破壊力が高すぎる。周囲の男子たちが露骨にこちらを凝視しているのが、暗殺者の気配察知能力を使わずとも手に取るように分かる。
「全然待ってないよ。……今日も最高に可愛いな」
「も、もうっ……。刃叉羅くん、最近ストレートすぎます……」
ひよりが頬を真っ赤にして、照れ隠しのように俺の腕にギュッと抱きついてきた。
腕に当たる柔らかい感触に、俺の理性が爆発しそうになるが、必死に深呼吸をして耐え忍ぶ。
「さあ、行こうか」
俺たちはしっかりと手を繋ぎ、流れるプールへと足を踏み入れた。
水の中を、二人で並んで歩く。
時には浮き輪に二人で掴まってプカプカと浮かび、時には少しだけ深い場所で、俺が彼女の腰を支えて泳ぎを教えたりする。
「刃叉羅くん、あそこのウォータースライダー、乗ってみたいです!」
「よし、行こうぜ」
周囲の目など完全に気にならない。
俺とひよりの周囲には、絶対的な『二人の世界』の結界が張られており、他の有象無象のノイズは一切入り込んでこなかった。
だが、そんな絶対領域に、無謀にも突撃を仕掛けてくる愚か者がいた。
「……お、おい! アレ見ろよ!!」
「はぁ!? 嘘だろ!? なんで呉があの超絶美少女とイチャついてんだよ!!」
流れるプールの対岸から、浮き輪に乗った池寛治と山内春樹が、俺たちを指差して目玉を飛び出させていた。
「おい呉!! お前、いつの間に付き合ってんだよ!! 抜け駆けしやがって!!」
「俺たちを差し置いて、しかもCクラスの椎名ちゃんと!? この裏切り者ぉぉぉっ!!」
以前から俺とひよりが一緒にいるのを見たことはあるだろうが、こうして完全に恋人同士として密着している姿を見るのは初めてなのだろう。嫉妬に完全に狂った池と山内が、水をバシャバシャと跳ね上げながら、こちらに向かって突進してこようとした。
(……チッ。空気を読まないハエ共め)
俺はバカ二人の突撃など完全に無視し、ひよりの肩を抱き寄せて二人の世界を継続しようとした、その時だった。
「おらっ! 騒ぐなバカ共!」
ガシィッ! と。
横から泳いできた須藤健が、池と山内の首根っこを左右の腕でガッチリとホールドし、その前進を無理やり止めた。
「ぐえっ!?」
「け、健! 離せ! 俺は呉を尋問しなきゃ……!」
「いいから向こう行くぞ! 邪魔すんじゃねえ! デートの邪魔をするのは男の恥だ!」
さらに、須藤の後ろからは、綾小路がスゥーッと音もなく近づいてきて、池と山内の乗っていた浮き輪のロープを掴み、逆方向へと容赦なく牽引し始めた。
「ちょっ、綾小路!? お前も何で止めるんだよーっ!!」
「……お前たちの命を守るためだ。これ以上、呉の視界に入るな」
綾小路の、妙に切実な声と共に、二人のバカはズンズンと遠ざかっていった。
「……騒がしい連中だな。まあ、無視しようぜ」
俺が呆れたように言うと、ひよりはクスクスと笑った。
「ふふっ。でも、お友達に守ってもらえたみたいですね。……私たちは、あっちへ行きましょうか」
「そうだな」
俺たちは再び手を繋ぎ直し、完全に二人の世界へと没入していった。
その一部始終を、少し離れたプールサイドから冷ややかな目で見つめている少女がいた。
堀北鈴音だ。
彼女は、池たちを無事に遠ざけて戻ってきた綾小路に向かって、呆れたようにため息をついた。
「……信じられないわね」
「何がだ?」
「呉くんのことよ。この高度育成高等学校で、わざわざ他クラスの生徒……しかも、あの龍園くんのいるCクラスの生徒と交際するなんて。いくら普段から仲良くしていたからって、恋人となれば話は別よ。クラスの情報が漏れるリスクを全く考えていないのかしら」
常にクラスの勝利とAクラスへの昇格を第一に考える堀北にとって、呉の行動は『隙だらけの愚行』にしか見えないのだろう。
だが、綾小路は濡れた前髪をかき上げながら、淡々とフォローを入れた。
「別にいいんじゃないか。誰と交際するかは個人の自由だ。それに、彼らは今までもオープンに会っていたが、何か問題が起きたか?」
「それは……そうだけど。でも……」
綾小路は、遠くで幸せそうに笑う呉の姿を見つめながら、静かに評価を下した。
「それに、お前も知っているだろ。呉は今までも、決してクラスの足を引っ張るようなことはしていない。むしろ、勉強会に協力して赤点退学者を出さないように貢献しているし、無人島でも貴重な食料を調達してきた。……呉が椎名と付き合おうとDクラスにとってマイナスになることはないさ」
「……随分と、彼を高く評価しているのね。あなたが他人の肩を持つなんて珍しいわ」
堀北が怪訝そうに眉をひそめる。
「評価しているというよりは……『敵に回したくない』というだけだ」
綾小路は、女子更衣室の盗撮計画を無事に『処理』し終えた安堵と共に、そう呟いた。
もしあの時、彼が池たちを止めず、呉の逆鱗に触れていれば……今頃、このプールは文字通り血の海と化していただろう。影の支配者である彼は、クラスの愚者たち(池と山内)を、本物のバケモノから守り切るという、誰にも知られない大仕事を終えたばかりだったのだ。
午後五時。
夏の日差しが少しずつ傾き始め、プールの営業終了を知らせるアナウンスが流れ始めた頃。
「あー、楽しかったな」
「はいっ! 本当に、最高の夏休みの最終日になりました」
俺たちは水着から私服に着替え、プールの外へと出てきた。
心地よい疲労感と、それ以上に満ち足りた幸福感が、俺の全身を包み込んでいる。
「この後、どうする? 映画館に行ってもいいし、カフェで休んでもいいぞ」
俺が尋ねると、ひよりは少しだけ上目遣いになり、もじもじと指先を絡ませた。
「あの……もし、よろしければなんですけれど」
「ん?」
「刃叉羅くんのお部屋で……その、また、ご飯を作っていただきたいな、なんて……」
ひよりの顔が、夕日とは違う色で真っ赤に染まっている。
夏休みの最終日の夜に、彼氏の部屋でおうちデートをしたいという、最高に健気で破壊力抜群のおねだり。
「――――ッ!!」
俺の心臓は、本日何度目かの機能停止を起こしそうになったが、なんとか気力で持ち堪えた。
「……喜んで。ひよりの頼みなら、極上のフルコースを作ってやるよ」
「本当ですか!? わぁ、嬉しいです!」
俺たちは、再びしっかりと手を繋ぎ、男子寮へと向かって歩き出した。
「今日は、和風ハンバーグなんてどうだ? きのこをたっぷり使った和風ソースでな」
「素敵です! あ、私、サラダの盛り付けくらいならお手伝いできますよ」
「バカ言え、俺の部屋に来た時くらい、ひよりは座って本でも読んで待っててくれ。俺が全部完璧にやってやるから」
他愛のない、けれど何よりも愛おしい会話が続く。
(……幸せだな)
俺は、繋いだ手の温もりを感じながら、夕日に染まる空を見上げた。
明日からは、いよいよ二学期が始まる。
体育祭や文化祭、そして、新たな特別試験。
この高度育成高等学校には、まだまだ数多くの謀略と試練が待ち受けているだろう。綾小路の暗躍も、龍園の謀略も、これからさらに激化していくはずだ。
だが、今の俺には、それら全てが遠い世界の出来事のように感じられた。
俺が守るべきものは、ただ一つ。
この腕の中にいる、一人の天使の笑顔だけだ。
「刃叉羅くん? どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。……ただ、明日から一緒に登校できるのが、楽しみだなって思ってな」
「ふふっ。はい、私もです」
暗殺者として生み出された俺が、この学校で見つけた、本当の『青春』。
血と硝煙の匂いはもうない。あるのは、夕飯の美味しい匂いと、彼女から漂う甘い紅茶の香りだけ。
俺は、この得難い日常を一生かけて守り抜くことを心に誓いながら。
愛しい天使と共に、最高の夏休みの終わりを、そしてこれから始まる新しい日々を、眩しいほどの笑顔で迎え入れるのだった。