九月一日。
長かった夏休みが終わり、高度育成高等学校にいよいよ二学期がやってきた。
朝の通学路は、久しぶりに顔を合わせる生徒たちの賑やかな声で溢れかえっている。
「うわー、今日からまた学校かよー」「夏休み短すぎっしょ!」などという愚痴があちこちから聞こえてくるが、俺――呉 刃叉羅の足取りは、誰よりも軽く、そして弾んでいた。
「……おはようございます、刃叉羅くん」
並んで歩く少女が、少しだけ照れくさそうに、俺の顔を見上げて微笑む。
椎名ひより。
俺の愛しの天使であり、この夏休みを経て、正真正銘の『彼女』になった世界一可愛い女の子だ。
「おはよう、ひより。……今日も可愛いな」
「も、もうっ……朝からそんなこと言わないでください」
ひよりは頬をほんのりと桜色に染め、俺の右腕に自分の左腕を絡ませて、キュッと身を寄せてきた。
俺の右手とひよりの左手は、登校中の生徒たちが行き交う中、これ以上ないほどしっかりと指を絡め合い、手を繋いでいる。
(ああ……最高だ。控えめに言って、幸せすぎる)
「こうして手を繋いで学校に行くの、なんだか少し緊張しますね」
ひよりが、繋いだ手を少しだけ持ち上げて、嬉しそうに目を細めた。
「そうか? 俺はひよりの温もりを感じられて、最高に気分がいいけどな。……周りの連中が羨ましそうに見てるのが分かるぜ」
「ふふっ、刃叉羅くんったら」
通り過ぎる生徒たちが、俺たちの繋がれた手を見て、驚きと羨望の眼差しを向けてくる。
Cクラスの圧倒的美少女と、無難な事なかれ主義を貫いていたはずのDクラスの男子。意外すぎる組み合わせに、ヒソヒソと噂話をする声も聞こえてくるが、俺たちにとっては心地よいBGMでしかなかった。
「お昼休み、また図書室の前のベンチで一緒にお弁当食べましょうね」
「ああ、ひよりの好きな卵焼き、甘めに作ってきたからな」
「わぁっ! 楽しみです!」
平和で甘い会話を交わしながら、俺たちは校舎へと入り、それぞれの教室の前で名残惜しく手を離した。
「じゃあ、また後でな」
「はいっ。後で迎えに来てくれるの、待ってます」
手を振ってCクラスの教室へと入っていくひよりの背中を見送った後、俺は自分の顔の筋肉を軽く引き締め、Dクラスの教室のドアを開けた。
ガラッ。
ドアを開けた瞬間、教室中の視線が一斉に俺へと突き刺さった。
どうやら、俺とひよりが手を繋いで登校してきたという情報は、すでにクラスのネットワーク(主に女子の連絡網)を通じて光の速さで拡散されていたらしい。
「呉くん!!」
真っ先に俺の席へと駆け寄ってきたのは、軽井沢恵を筆頭とする女子グループだった。
「あんたたち、ついに付き合い出したんだ!? おめでとーっ!!」
軽井沢が、バンバンと俺の背中を叩いて祝福してくる。
「おう。まあ、夏休みの最後にな」
俺が照れ隠しに頭を掻きながら答えると、佐藤麻耶や松下千秋たちも、ニヤニヤしながら群がってきた。
「えーっ、いいなぁ! Cクラスの椎名さんだよね? すっごい可愛い子じゃん!」
佐藤が興奮気味に言うと、松下がわざとらしく大きなため息をついた。
「はぁ〜あ。ただでさえDクラスにはまともな男子が少ないのに……呉くんっていう数少ない『優良物件』が、他クラスの女の子に取られちゃったわね」
「本当だよー! 料理もできて優しい男子なんて、Dクラスじゃ天然記念物レベルなのに! 私ももっと早くアタックしとけばよかったー!」
佐藤と松下が冗談めかして笑い合う。
俺は彼女たちに赤点回避の勉強を教えたり、平田たちと一緒に遊んだりして、良好な友人関係を築けていた。だからこそ、こうして気兼ねなく冗談を言い合い、純粋に祝福してくれているのが伝わってきて、素直に嬉しかった。
「高円寺がいるじゃないか。大金持ちで文武両道、おまけにイケメンだ。あいつこそこれ以上ない優良物件だろ」
俺が肩をすくめてそう言うと、女子たちの顔がわずかに引きつった。
「こ、高円寺くん……かぁ」
「うーん……スペックは、まあ、最高なんだけどね……」
あからさまに微妙な反応を示す佐藤と松下に、俺は苦笑した。
「なんだよその反応。あいつ、我が道を行きすぎてるきらいはあるが、女子に対してはめちゃくちゃ紳士だし、意外といい奴だぞ?」
俺がフォローを入れるが、女子たちは「アハハ……ちょっと個性が強すぎるっていうか……」と目を逸らしてしまった。
すると、教室の後方から。
「フッハッハッハッハ! その通りだよ、呉ボーイ!」
自分の名前を出された高円寺六助が、手鏡で前髪をかき上げながら高らかに笑い声を上げた。
「私というパーフェクトな存在の魅力と紳士的な振る舞いを正しく評価するとは、君もなかなか見る目があるじゃないか! フッハッハッハ!」
我が物顔で教室に響き渡るその高笑いを聞いて、女子たちは「ね? ああいうところだよ……」と小声で囁き合い、俺もただ苦笑いを返すしかなかった。
「あはは。でも、本当に良かったね、呉くん。おめでとう」
そんな少し呆れ気味だった空気を優しく和ませるように、平田洋介がいつも通りの爽やかな笑顔で祝福の言葉をかけてくれた。
「ああ、サンキュな」
俺が軽く手を上げて応えると、周囲の女子たちも改めてパチパチと拍手をしてくれる。
(ああ……なんて平和で温かい空間なんだ)
クラスメイトたちからの祝福に包まれ、俺が普通の高校生としての幸せを心の中で噛み締めていた、その時だった。
だが。
この平和で温かい祝福の空気を、全力でぶち壊しにくる不穏分子が存在した。
「ふ、ふざけんなあああああああっ!!」
教室の後ろから、血走った目をした池寛治と山内春樹が、ドンッと机を叩いて立ち上がった。
「おい呉!! お前、Cクラスの女と付き合うなんて、どういう神経してんだよ!!」
「そうだそうだ! お前、クラスを裏切るつもりなんだろ!? あの女にDクラスの秘密を流すスパイなんじゃねえのか!!」
嫉妬を極限まで煮詰めたような、見苦しい八つ当たりの叫び。
昨日、プールで遭遇した時もそうだったが、自分たちに彼女ができない鬱憤を、「他クラスとの交際=スパイ行為」という無理矢理な理屈に変換して攻撃してきているのだ。
「……」
俺は、そんな池と山内を一瞥し。
「はぁ……」と、これ以上ないほど深い、心底呆れたようなため息を一つ吐き出した。
暗殺者としての殺気すら放つ気にならない。俺の視界の中で、彼らはもはや道端の石ころ以下のノイズでしかなかった。
俺は完全に二人を『無視』し、自分の席に座って鞄から教科書を取り出した。
「お、おい! 無視すんなよ!! 図星だから何も言えねえんだろ!!」
池が調子に乗ってキャンキャンと吠え立てる。
だが、俺が手を下すまでもなく、強力な援護射撃が彼らを言葉で粉砕した。
「あんたたち、ちょっと黙りなさいよ!!」
軽井沢が、般若のような形相で池と山内を睨みつけた。
「はぁ!? スパイ!? バッカじゃないの!? 呉くんがそんなセコいことするわけないでしょ!」
「そうだよ! 大体、Dクラスの秘密って何よ? あんたたちがバカで点数低いこと? そんなの他のクラスも全員知ってるわよ!」
篠原さつきも容赦なく追撃を放つ。
「大体、あんたたちがモテないからって、呉くんの幸せに嫉妬して八つ当たりしてんじゃないわよ! みっともない!」
「呉くんは無人島の時だって、文句一つ言わずに私たちのためにご飯作ってくれたじゃん!」
軽井沢たち女子グループによる、容赦のない一斉射撃。
女子という絶対的権力者からの正論の嵐(ボロカスな罵倒)を浴びた池と山内は、「う、うぅ……」と涙目になりながら、すごすごと自分の席へと逃げ帰っていった。
「ごめんね、呉くん。あんなバカたちの言うこと、気にしないでね」
軽井沢が申し訳なさそうに振り返る。
「いや、助かったよ。サンキューな」
俺が礼を言うと、軽井沢たちは「また美味しいご飯作ってね!」と笑って自分の席へと戻っていった。
後ろの席に座る綾小路清隆と目が合った。あいつは無表情のまま、小さく「やれやれ」といった感じで肩をすくめてみせた。
(……本当に、心臓に悪い連中だ)
表面上はいつもの無表情を取り繕いながらも、綾小路は内心で密かに冷や汗を拭っていた。
池や山内は全く理解していないのだ。自分たちが今、どれほど巨大で理不尽な『死』の淵に立たされていたのかを。
もしあの嫉妬の怒声の中に、椎名ひより自身を直接侮辱するような言葉がたった一つでも混ざっていれば……
プールの時といい今日といい、こいつらは、無自覚に怪物の『逆鱗』の上でタップダンスを踊りたがる。
(呉の『逆鱗』に触れないように、今後もこいつらの動向には細心の注意を払う必要がありそうだ)
そんな綾小路の胃の痛くなるようなハラハラとした苦労など露知らず、俺はただ「お互い、このクラスの騒がしさには苦労させられるな」という暗黙の了解として、その視線を呑気に受け取っていた。
そして、放課後。
ホームルームが終わるや否や、俺はカバンを掴み、真っ直ぐに一年Cクラスの教室へと向かった。
廊下を歩いていると、他クラスの生徒たちが俺を見て道を譲る。
俺は事なかれ主義を貫いているが、やはり異質な目のせいか、絡まれることは少ない。
Cクラスの教室の前に到着し、後部ドアから中を覗き込む。
「あ、刃叉羅くん!」
窓際の席で帰り支度をしていたひよりが、パァッと花が咲いたような笑顔を見せ、小走りでこちらに向かってきた。
「待たせたな。帰ろうか」
「はいっ」
俺がひよりのカバンを自然に受け取ろうとした、その時だった。
「……ククク。随分と余裕じゃねえか、呉」
教室の奥、王座のように机の上に腰掛けていたCクラスの独裁者――龍園翔が、薄ら笑いを浮かべながらこちらへと歩み寄ってきた。
その後ろには、アルベルトや石崎、そして腕を組んで不機嫌そうに俺を睨む伊吹澪の姿がある。
「なんだ、龍園。俺たちに何か用か?」
俺が面倒くさそうに返すと、龍園は俺とひよりを交互に見比べ、ニヤリと口角を吊り上げた。
「いや? 別に喧嘩を売るつもりはねえよ。……ただな、てっきりお前らはとっくの昔に付き合ってるもんだと思ってたからな。この夏休みまで付き合ってなかったって聞いて、驚いたぜ」
龍園の言葉に、ひよりが「うぅ……」と顔を赤くして俺の背中に顔を押し付けた。
「俺は、お前みたいな野蛮な奴とは違うんだよ。段階ってものを大切にしてるんでね」
俺は肩をすくめてみせた。
「クククッ。あのバケモノみたいな力を持ってるくせに、随分とピュアなことで。笑わせてくれるぜ」
龍園が鼻で笑う。
その煽りに対して、俺は怒るどころか、逆にフッと柔らかく笑みを返した。
「恋って素晴らしいぞ、龍園」
「……あ?」
俺は、龍園の凶悪な蛇のような瞳を真っ直ぐに見据え、極めて真面目なトーンで言い放った。
「誰かを本気で好きになって、その笑顔を守りたいと思うこと。……お前も、誰かに恋でもしてみたらどうだ? そうすれば、お前のその薄汚い独裁者の心も、少しは綺麗に浄化されるんじゃないか?」
「――――あぁ?」
俺のあまりにも予想外すぎる斜め上のアドバイスに、龍園の顔から薄ら笑いが消え、ピキッとこめかみに青筋が浮かんだ。
石崎たちが「りゅ、龍園さんをからかうな!」と慌てて凄もうとするが、龍園は片手でそれを制した。
「……てめえ、俺をからかってんのか?」
「本心からの忠告だよ。まあ、お前みたいに性格のひん曲がった奴を好きになってくれる物好きな女がいればの話だがな」
俺がニヤリと笑うと、龍園はチッと舌打ちをして、それ以上何も言わずに教室の奥へと戻っていった。あいつも、俺と物理的にぶつかれば自分が一方的にすり潰されることを理解しているから、これ以上は踏み込んでこない。
背後から、「もうっ!」という可愛らしい抗議の声が聞こえた。
「刃叉羅くん、龍園くんをからかっちゃダメですよ。……それに、こ、恋って素晴らしいとか……恥ずかしいです」
ひよりが、両手で真っ赤になった顔をパタパタと扇ぎながら、恥じらっている。
「本当のことだろ? 俺はひよりに恋をして、心が浄化されたからな」
「もうっ! 刃叉羅くんのバカ!」
照れ隠しに俺の腕をポカポカと軽く叩いてくるひより。その力は、子猫のパンチよりも弱く、ただただ愛おしいだけだった。
「……あいつら、本当に何なの。教室の前でイチャイチャして、バカみたい」
少し離れた場所から、伊吹が呆れ果てたような、しかしどこか毒気を抜かれたような顔で呟いているのが聞こえたが、俺たちは気にせず教室を後にした。
「今日は、新しく入ったミステリーの棚を見てみませんか?」
「ああ、いいぞ。ひよりのオススメを教えてくれ」
俺たちは再びしっかりと手を繋ぎ、夕日に照らされる廊下を歩いて図書室へと向かった。
図書室の重厚な扉を開けると、そこにはいつもと変わらない、静寂とインクの匂いが漂う、俺たちだけの特別な空間が広がっていた。
窓際の、一番お気に入りの席。
俺たちは並んで腰を下ろし、借りてきた本を机の上に広げた。
「ふふっ、本当に幸せですね」
ひよりが、太陽のような、世界で一番大好きな笑顔を向けてくれる。
俺は、彼女の柔らかな髪にそっと触れながら、心の中で静かに誓った。
この温かく、平和な日常。
暗殺者という忌まわしい過去を持つ俺が、この学校で見つけた、ただ一つの宝物。
(この手を、もう絶対に離さない。……俺の全てを懸けて、ひよりの笑顔を守り抜く)
夕焼けが図書室の窓から差し込み、二人の影を優しく重ね合わせる。
穏やかで、甘く、そしてかけがえのない時間が、ゆっくりと流れていった。