入学式から、数日が経過した。
高度育成高等学校での生活は、俺――呉刃叉羅にとって、ある意味で驚きの連続だった。
「……っし! そこだ、いけぇっ!」
「あはははは! なにそれウケるんだけどー!」
「ふわぁ……眠っ……」
現在、午前中の授業中。教壇では歴史教師が、黒板に向かってチョークを走らせている。
だが、その背後で繰り広げられている1年Dクラスの惨状は、控えめに言っても『崩壊』していた。
俺の反対側の席の池寛治は、机に突っ伏して見事なよだれの池を作って爆睡している。
その後方の席の須藤健は、堂々とスマートフォンを横持ちにしてゲームに没頭し、時折大きな声で舌打ちや歓声を上げている。
軽井沢恵を中心とする女子グループは、授業など一切聞く素振りも見せず、スマートフォンの画面を見せ合いながら大声で談笑している。
真面目にノートを取っているのは、平田洋介や、俺の後ろの席の綾小路清隆、その隣の堀北鈴音など、クラスの中でもほんの一握りの生徒だけだ。
そして何より異常なのは、教師がこの状況を『一切注意しない』ということだった。
(……こいつら、マジでやべぇな)
俺はノートに綺麗な字で歴史の年表を書き写しながら、内心で深く呆れ果てていた。
呉一族の修練場であれば、気が緩んだ瞬間にどこからともなく暗器が飛んでくるし、指導者の前でこんな態度をとれば、文字通り『死』の制裁が待っている。
いや、暗殺者の基準で考えるのはやめよう。だが、世間一般の普通の高校だとしても、これは異常だ。
この学校は、実力至上主義を謳っている。ポイントという名の現金が毎月支給されるシステム。そして、この異常なまでの放任主義。
どう考えても、この授業態度が来月以降の俺たちの待遇に直結しているとしか思えない。このままだと、来月の支給ポイントはゼロ……いや、最悪の場合は退学というペナルティすらあり得るかもしれない。
(まあ、俺には関係ないか)
シャーペンをクルリと指先で回し、俺は思考を放棄した。
俺の目的は、あくまで『普通の青春』を謳歌することだ。クラスの連中が自業自得で地獄に落ちようが、俺の知ったことではない。ポイントがゼロになろうとも、自給自足で生き抜くサバイバル術など幼い頃にマスターしている。
俺にとって重要なのは、この平和な日常を一日でも長く味わうこと。
特に、ここ数日の放課後は、俺にとってまさに『至福』と呼べる時間だった。
放課後になれば、静寂に包まれた図書室へ向かう。
そこには、俺にとっての『天使』である銀色の髪を持つ儚げな美少女、椎名ひよりが待っているのだ。
二人で静かに本を読み、時折お互いの感想を語り合い、一緒に下校する。そんな、絵に描いたような甘酸っぱい青春の1ページを、俺は毎日着実に積み重ねていた。彼女との仲も日に日に深まっており、今ではお互いに下の名前で呼び合う一歩手前くらいまで距離が縮まっている(と、俺は勝手に思っている)。
「はい、今日の授業はここまでだ」
やがて、終業のチャイムが鳴り響いた。
途端に、教室の空気が一気に活気づく。寝ていた池が跳ね起き、須藤が大きく伸びをする。
俺はいつものように、素早く鞄に教科書を詰め込んだ。
さて、今日も麗しの椎名さんが待つ図書室へ……と、立ち上がりかけたところで、俺はふと思い出した。
(あ、そういえば……)
今朝、椎名さんからメッセージが来ていたのだ。
『今日は茶道部の見学と体験入部に行ってみようと思うので、図書室には行けません。ごめんなさい、また明日お話ししましょうね』と。
俺は鞄を持ったまま、少しだけ途方に暮れた。
図書室に行かない放課後。それはつまり、俺の青春ルーティンにポッカリと穴が空いてしまったことを意味する。
(どうするか……。一旦寮に戻って、夕飯の仕込みでもするか? いや、せっかくの放課後に真っ直ぐ帰るのも味気ないな)
そんな風に俺が一人で立ち尽くしていると、不意に、横から甘い香りが漂ってきた。
「呉くん、ちょっといいかな?」
声をかけてきたのは、ふわりとしたショートボブの髪を揺らす、小柄で可愛らしい女子生徒だった。
大きな瞳と、誰をも安心させるような温かい笑顔。彼女の名前は、櫛田桔梗(くしだ ききょう)。
入学初日から持ち前の異常なまでのコミュニケーション能力を発揮し、すでに男女問わずクラスのほぼ全員と仲良くなっているという、まさに『クラスのアイドル』的存在だ。
「ん? 櫛田か。どうした?」
「あのね、今日の放課後、もし時間があったらなんだけど……みんなでケヤキモールのカフェに行かない? って思って」
櫛田は、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。
その無防備な笑顔に、俺は少しだけ驚いた。俺のこの異質な『目』――呉一族特有の黒い強膜を見て、初対面の人間は多かれ少なかれ警戒心を抱くものだ。自己紹介で「体質だ」と説明したとはいえ、自分から積極的に話しかけてくる女子は、今のところ椎名さんくらいのものだったからだ。
「カフェ……俺も行っていいのか?」
「もー、当たり前じゃない! クラスメイトなんだから。それに、呉くんっていつも放課後すぐに帰っちゃうから、もっとお話ししてみたいなって思ってたんだ」
恐るべきコミュ力である。
暗殺の世界で血みどろの駆け引きばかりを見てきた俺の目から見ても、櫛田の壁を作らない態度は素直に感心する。俺にとっての天使はあくまで図書室にいるあの美少女だが、櫛田がクラスの潤滑油として機能しているのは間違いないだろう。
「……わかった。喜んで参加させてもらうよ」
俺が頷くと、櫛田は「やった!」と小さくガッツポーズをした。
そして、彼女の視線は、俺の後ろの席に座ったまま、静かに帰り支度をしていた綾小路清隆へと向けられた。
「あ、綾小路くんもどうかな? 一緒にカフェ、行かない?」
不意に話を振られた綾小路は、少し驚いたように動きを止めた。
「俺……か?」
「うん! 綾小路くんも、いつもすぐに帰っちゃうでしょ? まだあんまりお話しできてないし、一緒に行きたいな」
綾小路は、いつものように感情の読めない無表情のまま、少しだけ躊躇うような素振りを見せた。彼もまた、俺と同じで自分から積極的に輪に入っていくタイプではない。
ここでアシストするのが、良き友人の役目というやつだろう。
「行こうぜ、綾小路」
俺は振り返り、綾小路の机を軽く叩いた。
「俺も行くし、男が一人より二人の方が心強い。たまには寄り道して帰るのも悪くないぞ」
俺の言葉に、綾小路はゆっくりと視線を俺に向け、それから櫛田の方を見た。
「……わかった。邪魔にならないなら、お邪魔させてもらう」
「ほんと!? よかったー! すっごく嬉しい!」
無邪気に喜ぶ櫛田。
そして、俺の暗殺者としての鋭敏な視覚は、またしても見逃さなかった。
「邪魔にならないなら」と淡々と答えた綾小路の瞳の奥が、ほんのわずかに、だが確実に『歓喜』に揺れていたことを。
こいつもこいつで、誘ってもらえたことが心底嬉しいらしい。分かりにくい奴だが、そういう人間臭いところは嫌いじゃなかった。
「それじゃ、行こっか! 待ち合わせしてる子がいるから、一緒に行こう」
櫛田に連れられて教室を出ると、廊下にはすでに二人の女子生徒が待っていた。
「あ、桔梗ちゃん。お疲れ様」
「お待たせー! ごめんね、二人も誘ってきたよ」
待っていたのは、真面目でおとなしそうな雰囲気の王美雨(ワン メイユイ)――通称『みーちゃん』と、少し小柄で気弱そうな、井の頭心(いのかしら こころ)だった。
二人は、俺と綾小路の姿を見て、ビクッと肩を震わせた。
特に俺の長身と、その異質な目を見た井の頭は、怯えた子犬のようにみーちゃんの背中に隠れてしまった。
「あ……えっと、呉くんと、綾小路くん……だよね?」
「ああ。急にお邪魔して悪いな。俺は呉刃叉羅だ。よろしく」
俺は極力、声音を優しく、穏やかなものにして微笑んだ。
自己紹介の時にも使った『少し見た目は怖いけど、実は家庭的でいい奴』のオーラを全力で放出する。
「俺の目は生まれつきの体質なんだ。驚かせちゃったならごめん。でも、中身は普通の高校生だから、怖がらないでくれると嬉しい」
俺が丁寧にそう言うと、櫛田がすかさずフォローを入れてくれた。
「そうそう! 呉くん、自己紹介の時も言ってたけど、お料理が趣味なんだって! すごいよねー!」
「えっ、お料理……?」
「そ、そうなんだ……」
みーちゃんと井の頭の表情から、明らかな警戒心が薄れていくのが分かった。
櫛田のサポート能力の高さには本当に助けられる。俺の偽装工作をこうも完璧に補強してくれるとは、さすがはクラスのアイドルだ。
「あ、俺は綾小路清隆だ。……よろしく」
綾小路もボソッと挨拶を済ませ、俺たち五人は連れ立ってケヤキモールへと向かうことになった。
放課後のケヤキモールは、多くの生徒たちでごった返していた。
俺たちが向かったのは、モール内でも特に人気の高いカフェ『パレット』。ショーケースには色鮮やかなケーキやパフェが並び、店内には甘い香りとコーヒーの香ばしい匂いが漂っている。
奥の広めのテーブル席を確保し、それぞれが飲み物やスイーツを注文する。
俺はブラックコーヒー、綾小路はアイスティー。女子三人はそれぞれ、可愛らしいケーキのセットや季節のフルーツパフェを頼んでいた。
「わぁ、美味しそう!」
目の前に運ばれてきたパフェを見て、みーちゃんと井の頭が目を輝かせる。
そんな彼女たちの様子を眺めながら、俺はブラックコーヒーを一口飲んだ。
(……素晴らしい)
俺は内心で深く感動していた。
これぞ。これこそが、俺が思い描いていた『放課後のカフェでの談笑』そのものではないか!
男女グループで一つのテーブルを囲み、甘いものを食べながら、他愛のない話をする。血も、暴力も、殺意も存在しない、純度100%の平和な空間。
「そういえばさ、呉くん」
ケーキを美味しそうに頬張っていた櫛田が、ふと俺の方を見て首を傾げた。
「呉くんって、いつも放課後すぐに教室を出ちゃうじゃない? どこに行ってるの?」
その質問に、みーちゃんと井の頭、そして隣の綾小路も、わずかに興味を惹かれたように視線を向けてきた。
「ああ、俺か? 俺はだいたい、図書室に行ってるんだ」
「図書室? え、呉くんって読書するの?」
櫛田が目を丸くして驚く。無理もない。俺の180センチの筋肉質な体躯と、この鋭い目つきからは、とても『図書室で静かに本を読む』という姿は想像できないだろう。
「ああ。自己紹介でも言ったけど、読書は趣味なんだ。小説から実用書までなんでも読むぞ。この学校の図書室は蔵書がすごいからな、入り浸ってるんだよ」
「へえー! なんか意外! 呉くんって、バリバリの体育会系で、運動部に入りそうなイメージだったから」
「運動も嫌いじゃないけどな。でも、今は本を読んでる方が楽しいんだ」
俺がそう答えると、みーちゃんが少しだけ身を乗り出してきた。
「あ、あの……どんな本を読むんですか?」
「最近はミステリーが多いかな。あとは歴史モノとか。……あ、もしかしてみーちゃんも本が好きなのか?」
「は、はい……少しだけですけど。私も、たまに図書室に行きます」
「そうなのか。じゃあ、今度おすすめの本を教えてくれないか?」
「えっ……わ、私なんかのおすすめでよければ……!」
みーちゃんが照れたように笑う。最初に見せていた警戒心は、もうすっかり消え去っていた。
「呉くんって、本当に見かけによらないっていうか、すごく話しやすいね」
「うん……私も、最初はちょっと怖い人かなって思ってたけど……全然そんなことなかったです」
井の頭も、ホッとしたような表情でそう言ってくれた。
「ははっ、よく言われるよ。でも、そう言ってもらえると助かる」
「それに、お料理もできるんですよね? どんなものを作るんですか?」
櫛田が興味津々といった様子で聞いてくる。
「和食が得意だな。出汁からちゃんと取るのが好きなんだ。肉じゃがとか、魚の煮付けとか。最近は寮のキッチンで、冷凍うどんを使ったアレンジレシピなんかも研究してる」
「えーっ! すごい本格的! 私なんて、お湯沸かしてカップラーメン作るくらいしかできないよー」
「私、私もです……」
「今度、呉くんの手料理食べてみたいなー! ねえ、綾小路くんもそう思わない?」
不意に話を振られた綾小路は、ストローを咥えたまま、コクリと頷いた。
「ああ。男の俺から見ても、料理ができるというのは素直に尊敬する。……毎日コンビニ弁当だと、さすがに飽きそうだしな」
「もし材料費を少し負担してくれるなら、たまには多めに作ってお裾分けしてもいいぞ。席も近いよしみだしな」
「……本当か? それは、かなり助かる提案だ」
綾小路の瞳が、今日二度目の微かな光を放った。どうやらこいつ、かなり食生活に困っているらしい。
そこからは、本当に『普通の高校生らしい』会話が続いた。
中学校時代の話(俺は一族の郷で修行していたため、適当に「田舎の学校で、部員も少ないから帰宅部みたいなもんだった」と誤魔化した)。
好きなテレビ番組の話。休日の過ごし方。
そして、毎月支給される10万ポイントの使い道について。
「10万ポイントって、本当にすごいよね。私、服とかコスメとか、ついたくさん買っちゃった」
「私は、貯金……じゃないですけど、あまり使わずに残してます。なんだか、怖くて……」
「井の頭さんの言うことも分かります。毎月10万ももらえるなんて、普通じゃないですよね。……呉くんや綾小路くんは、どうしてるんですか?」
みーちゃんの問いに、俺は肩をすくめた。
「俺は本を買うくらいで、あとは食費だな。無駄遣いはしないようにしてる。この学校のシステム、まだよく分からないところも多いしな」
「俺も同じだ。生活に必要な最低限のものしか買っていない」
綾小路も同意する。俺たちは顔を見合わせ、初めてまともな共通点を見つけたような気がして、少しだけ親近感が湧いた。
「そっかー。男子って意外と堅実なんだね! まあ、でもこの学校にいればお金には困らなそうだし、三年間思いっきり楽しまなきゃ損だよね!」
櫛田が明るく笑い、その場をパッと華やかにする。
彼女の笑顔を見ていると、Dクラスの狂ったような現状や、学校の不気味なシステムなど、すべてがどうでもいいことのように思えてくる。
(……本当にコミュ力が高いな、櫛田は)
俺は温かいコーヒーを飲みながら、深く息をついた。
誰にでも優しく、分け隔てなく接し、こうしてクラスの空気を和ませてくれる。俺のような見た目に難のある人間にも、偏見なく話しかけてくれる。
まさにクラスのアイドルだ。彼女のような存在がいる限り、このDクラスも捨てたもんじゃないのかもしれない。
暗殺稼業という裏の世界に生きてきた俺は、人間の汚い部分や、裏切り、悪意というものを嫌というほど見てきた。だからこそ、櫛田の放つ『純粋な善意』が、酷く眩しく、尊いものに感じられたのだ。
――この時の俺は、まだ知る由もなかった。
この学校が、そんな生ぬるい善意だけで生き残れるような場所ではないということを。
そして、目の前で完璧な笑顔を浮かべているアイドルが、誰よりも深い『闇』をその内側に抱え込んでいるということを。
「あー、楽しかった! もうこんな時間だね」
窓の外がすっかり暗くなった頃、櫛田が腕時計を見て言った。
「本当だね。そろそろ寮に戻らないと」
「うん。今日は誘ってくれてありがとう、櫛田さん」
「ううん、私の方こそ! 呉くんも綾小路くんも、来てくれてありがとうね!」
会計を済ませ、店を出る。
夜のケヤキモールはライトアップされ、昼間とはまた違った幻想的な雰囲気を醸し出していた。
「それじゃあ、また明日、学校でね!」
女子三人組に手を振り、俺と綾小路は二人で男子寮への道を歩き始めた。
「……悪くなかったな」
不意に、隣を歩く綾小路がポツリと呟いた。
「ああ。ケーキも美味かったし、話も楽しかった」
「……俺は、ああいう場に慣れていなくてな。呉がいてくれて助かった」
「なんだよ、改まって。席も近いんだし、友達だろ。これくらい普通だ」
俺が笑って綾小路の背中を軽く叩くと、彼も微かに口角を上げたような気がした。
「そうだな。……普通の高校生、か」
綾小路の呟きは、夜風に溶けて消えた。
俺もまた、夜空を見上げながら、今日の出来事を反芻していた。
崩壊しつつあるクラス。
椎名さんとは会えなかったが、櫛田たちとの楽しいカフェでの語らい。
いろいろなことが入り混じった数日間だったが、俺の心は確かな満足感で満たされていた。
普通の高校生としての青春。それは俺が想像していたよりも遥かに甘く、そして心地よいものだった。
(爺様、姉ちゃん。俺は今、猛烈に青春してるぞ)
一族の郷にいる家族に向けて心の中でそう叫び、俺は軽い足取りで寮への帰路についた。
明日もまた、平穏で楽しい一日が待っていると、一片の疑いもなく信じながら。